二章 プロローグ
ソウケンは夢を見ていた。
それは遠く懐かしい記憶の夢……。
アサダの内弟子へと入った初めての冬の出来事……。
凍雲が長く居座り、空が灰の色で染め上げられた昼中。
辺りは薄暗く身を刺すような木枯らしが吹いていた。
アサダの門弟の内で一番幼く経験の浅いソウケンは兄弟子たちに混じり稽古を受ける事は許されず、一人寒風吹きすさぶ野外で木刀を一心不乱に振っていた。
その健気な姿を見張るは、庭に咲いた紅き椿の花だけか……。
ソウケンの幼き顔に付いた鼻は寒さから赤くなり、口から洩れる息は白い。
早朝からちらついていた雪が、深々と降り始めても猶、ソウケンは木刀を振り続けた。
「ソウケン。そろそろ終いだ」
アサダ家の長男であるシゲアキから声がかかったのは木刀を振り始めてから一刻半の時間が経っていた頃だった。
門弟を引き連れたシゲアキが一言だけソウケンに告げ、道場から母屋へ向かって去っていく。
「はぁ、はぁ……。あ、ありがとうございました」
声変わりもしていないソウケンの声がシゲアキ達の背に向けられた。
しかし、その言葉にシゲアキから労いの返事は無い。なぜなら、これが当たり前であり、彼も同じように通ってきた道なのだ。
それはソウケンにも重々承知の事であった。文句一つ言わず立ち去る兄弟子たちの背に向けて頭を下げ続ける。
シゲアキの姿が消えたのを見計らい、やっとソウケンは地面に手をついて大きく息を吸い込んだ。
冷たい土に、皮の剥けた掌が沁みて痛むが、疲労から体を起こす事も出来ない。
あれ程熱を持っていた手がみるみる冷えて、痛みが麻痺し始める。
そんな時、地面に這いつくばるソウケンに何者かの影が覆いかぶさると、影の主がソウケンに声を掛けた。
「兄様も、もう少しソウに優しくしてあげてもいいのに……」
その声を聞き、ソウケンは冷えた体が温まる気がした。
「リンさん……ですか?」
顔を上げれば、そこに立つのは冬空に映える萌黄色の着物を着た少女。彼女はソウケンより二つ年上のアサダ・リンである。
リンはソウケンの前にしゃがみ込むと、半ば強引に地面に付くソウケンの手を取った。
「もう、こんなに冷たくなって……」
リンは自分の手でソウケンの傷だらけの手を優しく包み込むと、「はぁー……」と、暖かな息を吹きかけた。
「リンさん、やめてください。手が汚れてしまいます」
「何を言っているの? 血や泥なんて洗えばすぐに落ちるわ」
優しくソウケンに微笑みかけ再び、ソウケンの手に息を吹きかける。
ソウケンは、どうしてこんなにも自分に優しくしてくれるのかと疑問に思い、リンの顔をじっと見つめた。
そこにある彼女の顔もまた、ソウケンと同じように寒さで鼻の頭が赤くなっていた。
そして、どうだ?
リンの手の冷たさもソウケンと同じではないか?
ソウケンは気づいてはいないが、リンはソウケンの稽古が終わるのをひっそりと母屋の庭先から窺っていたのだった。
鈍いソウケンは、そんな事、露と知らず、ただただリンの手の冷たさに驚いた。
「リンさんの手も冷たい……です」
それに気づいたソウケンは、自分の手を優しく包む掌に、御返しとばかりに吐息を吹きかけた。
「ふふふ……あたたかい、ね?」
「そうですね。とても温かいです」
しばし、幼き二人は、お互いの手に息を吹きかけ合い、戯れの時間を過ごしたのだった…………。
◇◇◇
――ソウ……?
意識の外から自分を呼ぶ声がする。
この声はリンか?
――ソウケン!?
いや違う。
わずかに掠れてはいるが、どこか硝子細工を思わせるような繊細な声色。
この声の主を知っている……。リッカ殿か?
――ソウケン。しっかりして!!
どうやら自分は、リッカに肩を借りているらしい。体が大きく右に左にと揺れる。
もつれるソウケンの足取りを物ともせず、リッカはソウケンを支え歩いていた。
ソウケンの意識が徐々にあの冬の日から、現実へと戻ってくる。
ここは、どこぞの墓地か……。
見渡す限り冷たい墓石が立ち並び、朽ちた卒塔婆が乱立している。
しかし、未だ半ば夢心地。
ソウケンはリンに温められていたはずの自分の手を見ようと、目の前にかざそうとする。
しかし、一向に眼前に己の掌は現れてはくれない。
なぜだ?
ソウケンは自分の今の姿を見る。
眼下に映る自分の胴は漆黒の甲冑で身を包み、左腕は白銀のエルフの肩に担がれている。
では、右腕は……?
…………ソウケンの右腕は、失われていた。
そうだ、右腕は昔リンにくれてやったのだった。
しかし、なぜか失われて久しいはずの右腕からは、今切り取ったばかりのように心臓の鼓動と同期して夥しい出血が見られる。
振り返れば自分の流した血が、道を作っているではないか。
「気がついた? 大丈夫?」
何かから逃げるように急ぎ足のリッカが心配げにソウケンに尋ねる。
「あ、あぁ。……リ、リッカ殿。これはどう……っ!!?」
虚ろな目が肩を貸してくれるリッカを捉えようとした時、異変に気付く。
愛刀である散椿国光が消えているではないか。
そこでソウケンは数刻前までの欠けていた記憶を思い出した。
その途端、ソウケンの体の力が抜け、ずるりと地面に膝をついてしまう。
「ソウケン!?」
心配するリッカがソウケンの顔を覗き込んだ。
その顔は表情の乏しいリッカにしては珍しく慌てた様子が見て取れる。
しかし、ソウケンの瞳にはそれが映らない。いや、現実全てを映すことを拒んだかのように、瞳は虚ろであった。
リッカは再びソウケンの肩を担ごうと、彼の脇へと体を潜り込ませようとするが、ソウケンがそれを拒んだ。
「リッカ殿……。もう良い……。拙者を……ここに置いて立ち去るのだ」
その言葉を聞き、リッカは真意を確かめるようにソウケンを見た。
ソウケンの深き穴の様な黒目が、リッカをしかと捕らえた。
そして告げる。
「拙者の役目は終わったのだ。ここで死なせてくれ……」
……と。




