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Tanosi牧場共和国  作者: 雪谷惑星
第2巻:白鱗の王姫
37/44

第6話:異世界からの来訪者

額が湿っている……。

ほんのりと温かい。

……侍女の誰かが、看病してくれているのだろうか。


女が瞳を開けると、視界に飛び込んできたのは灰黒色の天井と、薄暗い陽光だった。

「ここは……?」


彼女が窓の外に目を向けると、そこにあるはずの石畳や中庭ではなく、広大な山林の緑が広がっていた。一瞬、まだ夢を見ているのかと錯覚する。


「目が覚めたかい?」


男の声を聞いた瞬間、ジェナは弾かれたように飛び起きた。

落ちた毛布を拾う余裕もなく、傍らに立つ男を鋭い眼光で睨みつける。男の手には清潔な白いタオルが握られていた。

先ほどまで看病してくれていたのは、彼なのだろう。


「まだ気分が悪いなら、無理に起きなくていい。もう少し休んでいなさい」


男は少し気まずそうに、照れくさそうに視線を逸らした。

黒髪に茶色の瞳。年齢は二十歳そこそこだろうか。

雪のように白いインナーに、仕立ての良さが一目でわかる黒のセットアップ。

その黒は喪服を連想させたが、生地の質感や洗練されたデザインは、間違いなく一流の職人によるものだ。


(この男……高貴な生まれか、さもなくば名家に雇われた手練れね)


自分の顔を見た瞬間に顔を赤らめて視線を逸らしたその様子から、ジェナは確信を持って判断した。

――彼は後者(雇われの身)だ、と。


「貴方は誰!? 誰が私に触れていいと言ったの!」


ジェナは胸元を両手で隠し、後退りしながら叫んだ。

あえて高慢な態度を取り、襲われることを恐れる弱者のふりをして相手を試す。

もし襲いかかってくるなら即座に返り討ちにするまでだ。幸い、鎖や枷で拘束されているわけではない。

逆に相手が引くようなら、こちらが会話の主導権を握る。


「落ち着いてくれ。悪意はないんだ」


案の定、男はすぐに両手を挙げ、降参のポーズを取った。


「どこの国の人間よ? クーパーリック? それともアラン汗国?」


髪の色からすればそのどちらかだろうが、服装が違いすぎる。あんな貧乏な国にこれほど上質な服を着られる者はいない。

……まさか、ワイルド王国の人間か?

情報が足りず、ジェナは推測を巡らせるしかなかった。


「君が言った国は、どれも知らないな。でも安心していい、ここには君が言うような連中は一人もいない。みんな城の外へ放り出しておいたから」


男は首を振ると、タオルを木桶に入れ、それを持って隣の寝床へと歩いていった。

そこにも一人の女性が横たわっていた。ジェナはその顔を瞬時に見分ける。

金褐色の長い髪、氷のように冷徹で美しい顔立ち。青い紋様の入った神官服。

親族であり、ノーラン公国の元令嬢、そして現ブラウアー帝国近衛軍総隊長――エルース。


「エルース叔母様!」


ジェナは悲鳴のような声を上げ、彼女の元へ駆け寄った。

その時、彼女はようやく気づいた。この広大なホールには、自国の侍女や女騎士たちが至るところで横たわっていることに。

全員が意識を失っているが、丁寧にも毛布が掛けられている。

あの奇妙な男は、エルースの額の汗を拭うと、すぐに次の病人の元へと向かっていった。


男に敵意がないことを悟り、ジェナは恐る恐る口を開いた。

「あの……お名前は?」


男が振り返った。

腰から下は陽光に照らされ、胸から上は影に沈んでいる。

男は微かに微笑んで答えた。


「タン・ピン(湯評)だ」


---


午後になり、人々はようやく次々と意識を取り戻した。

九割以上が女性であるため、現場はまるで市場のように騒がしく、収拾がつかない状態だった。

タン・ピンは目覚めた者たちに、赤身肉の粥と野菜ジュースを配るようジェナに手伝いを頼んだ。


正直なところ、タン・ピンが近づくと誰もがパニックになりかけ、毛布を投げつけようとする者さえいた。

だが、傍らにいるジェナが必死に説明したおかげで、彼女たちはようやく警戒を解き、差し出された食事を口にし始めた。

もっとも、例外もいたが……。


「無礼な男ね! 誰がうちのジェナに近づいていいと言ったの! 立ち去りなさい!」


ジェナによく似た面影の婦人が、タン・ピンを指さして激昂していた。ジェナの腕を掴んで引き寄せ、二人を引き離そうと躍起になっている。

周囲の視線が集まる中、タン・ピンは苦笑し、ジェナは顔を真っ赤にして困惑していた。


「お母様、やめてください! タン・ピンさんは悪い人じゃありません!」


「どうしてそんなことが断言できるの!? この安っぽい粥を数杯もらったから? お母様の言うことを聞きなさい、あんな男からは離れるのよ!」


「お母様っ!」


「ルナリア、落ち着きなさい!」


絶妙なタイミングでエルースが現れた。

彼女は背後からルナリアを羽交い締めにし、一歩ずつ引きずっていく。


「タン・ピン殿、申し訳ない! 目覚めたばかりで混乱しているのです。……リアド、突っ立ってないで手伝いなさい!」


エルースはルナリアを抑えながら、傍らの白衣の少年に声をかけた。

呆然としていたその少年――リアドは、慌ててトレイを置くと、ルナリアの右腕をがっしりと掴んだ。

彼が慌てて食べ物を飲み込んだ際、喉仏が動くのを見て、タン・ピンは気づいた。

(……あの子、男だったのか!?)


「あんたこそ混乱してるのよ、エルース! 離して! ジェナ、お母様の言ったことを忘れないで! 男は慎重に選ぶのよ、簡単に騙されちゃダメ!」


そうして、三人の姿は大ホールから消えていった。

タン・ピンがジェナを見ると、彼女は床を見つめたまま、完全に固まっていた。


「……お母様には、少しばかり誤解されているようだね」


その言葉に、ジェナの顔はさらに赤く染まった。


---


三十分後。

エルースとリアドが血相を変えて戻ってきた。ルナリアの姿はない。


「ジェナ、大変よ! 外が、外が……!」


エルースは窓の外を指さし、呂律の回らない声で叫んだ。


「あ、皆さんに説明するのを忘れていました! 全員聞いてください!」


ジェナは立ち上がり、ホール中の女性たちに向かって高らかに宣言した。

「六国連軍の敵どもは、タン・ピンさんの手によって城の外へ追い出されました! ここを守り抜けば、奴らの一歩たりとも侵入を許しません!」


その言葉に、ホールは歓喜に包まれた。

だが、エルースの顔色は蒼白なままだった。

彼女は激しく首を振り、震える声で告げた。


「違うの! そんな話じゃないわ! ……外の景色が、完全に変わってしまったのよ! ここは首都プスベルじゃない……見渡す限りの森なの!」


「なんですって……!?」


全員が凍りついた。

次の瞬間――。

人々は窓やバルコニーへと雪崩れ込んだ。


そこにあるはずの王都の街並みは消え去り、城の周囲には鬱蒼とした未知の原始林が広がっていた。

彼女たちの顔から、血の気が引いていく。


「私たち……飛ばされたの……!?」


---


**パチパチパチ!**


突如として響いた拍手の音に、誰もが振り返った。拍手をしていたのは、タン・ピンだった。


「皆さん、まずは落ち着いてください」

彼は玉座の前にある階段に立ち、声を努めて穏やかに、かつ重厚に響かせた。

「状況が飲み込めないのは分かります。ですが、一つだけ確かなことがあります――皆さんはもう、安全です」


『安全』。

その二文字が、騒然としていた大ホールをわずかに静めさせた。


「鎧を纏った兵士たちは、すべて私が城の外へ放り出しました。この城は現在、私が管理しています。状況が確認できるまで、皆さんに危害を加える者は誰もいません」


「貴方がこの城を管理しているというの……?」

一人の女性が、たまらず声を上げた。


「その通りです」

タン・ピンは力強く頷いた。

「ここは皆さんが元いた世界ではありません。『地球』と呼ばれる場所です」


その言葉が落ちるや否や、現場は再び騒動に包まれた。


「異世界……!?」

「そんな馬鹿な……神に見捨てられたというの……」


パニックが再燃しそうになるのを制するように、タン・ピンは声を張り上げた。

「だから、慌てないでと言っているんです!」

彼は深呼吸をして続けた。

「この島は現在、海神**タノシ様**が統治しており、私はここを任された執政官であり、神に仕える神官でもあります」


「神……?」

数人の女性が不安げに顔を見合わせた。タン・ピンは畳みかける。ここで躊躇ちゅうちょすれば、彼女たちは完全に絶望に飲み込まれてしまうからだ。


「今夜はまず城内を点検し、残党がいないか確認することをお勧めします。食料や生活用品については、明日、私が数名を連れて近くの町まで買い出しに行きます」


そこで、彼の視線がジェナに止まった。

「ジェナさん、明日、貴女も一緒に来ていただけますか?」


「私が……?」

ジェナが呆然とした、その次の瞬間だった。


タン・ピンは何事か決意したように、彼女の両手をぎゅっと握りしめた。

「私は、心から貴女たちを助けたいと思っているんです」


彼の顔は沸騰したヤカンかと思うほど真っ赤に染まっていた。それでも彼は逃げずに、ジェナの蔚藍あおい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「だから……貴女が来てくれるのを、待っています」


「あ……はい……」

ジェナもまた、顔を朱に染めて俯いた。

その光景は、誰の目から見ても「愛の告白」そのものだった。

見守る群衆の間に、「なるほど」という空気が広がる。視線は二人の顔と、握り合わされた手を行き来し、淡いピンク色の空気がホールを包み込んでいった。


だが、その空気を切り裂く者が現れた。

「執政官殿。貴方は私たちを元の世界へ帰す方法をお持ちなのですか?」


白髪の老婦人が手を挙げ、問いかけた。

彼女は高い地位にあるようで、多くの女性たちが食事を差し置いて彼女を囲み、守るように立っている。その逞しい四肢と古銅色の肌からして、女騎士団の精鋭だろう。


「保証はできません! ですが、尽力することをお約束します。私が生きている限り、ジェナさん……そして皆さんを、指一本触れさせはしない!」


タン・ピンは少女の手を放し、堂々と宣言した。

老婦人の、まるで猛虎のような鋭い眼光を真っ向から受け止め、彼は一歩も退かなかった。


---


夕暮れ時、バルコニーに立つジェナは、去りゆくタン・ピンの背中を複雑な思いで見つめていた。

(……敵に捕らえられ、異世界に飛ばされ、挙句の果てに命の恩人に大衆の面前で愛を囁かれるなんて……)

あまりの急展開に、彼女の頭の中はこんがらがった毛糸玉のようになっていた。


そこへ、背後から母親の声が響く。

「ジェナ。あの男に取り入るためだとしても、やりすぎないことね。自分の身分を忘れなさい!」


「お母様……」

叱責する母ルナリアに対し、ジェナは苦笑いするしかなかった。

「ですが……私たちはここではよそ者です。城の食料も敵軍に奪い尽くされています。タン・ピン殿の助けがなければ、元の世界へ戻るどころか、三日と持ちませんわ」


背後から歩み寄ったエルースも、冷静に分析を加える。

「……ええ。そしてこれは、千載一遇の好機でもあるわ」


護衛に守られ、あの老婦人が歩み寄ってきた。一同は反射的に背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

「キャサリン様!」


ジェナ、ルナリア、エルース――ブラウアー帝国の権力の頂点に立つ三人が、この老婦人、**『鮮血大公』キャサリン**に臣下の礼を取った。彼女こそが帝国の真の支配者であり、ジェナを背後から操る黒幕であった。


キャサリンは満足げに頷く。

「ジェナよ。貴女は両国合併後、新生ブラウアー帝国の最初の皇后であり、同時にこの国一番の美女だ。今日からは皇后であることを忘れ、当面は『独身の王女』を名乗りなさい。その若さと美貌で、あの男を色誘ハニートラップにかけるのです」


それを聞き、母ルナリアが声を荒らげた。

「いけません! ジェナはこの国の未来を背負っているのです! 些細な利益のために、皇族の誇りを汚すなど……!」


地下の支配者に対し、ルナリアは顔を真っ赤にして反論した。それは不敬罪、すなわち死を意味しかねない行為だ。周囲に緊張が走り、キャサリンの瞳も細められた。


自らが選んだ傀儡かいらいが、男女の情愛ごときで反抗するとは。

だが、ジェナがその間に割って入り、場を収めた。


「お母様、キャサリン様。お言葉は肝に銘じております。私も皇族の端くれ、一線を越えるような真似はいたしません。……あの男を利用するだけです。ご安心ください」


当人の誓いを聞き、キャサリンも矛を収めた。

「よろしい。実を言えば私もルナリアの意見には同意だ。貴女は国の象徴。先王が亡くなってすぐに新しい男を作るなど、本来なら許されぬこと。……だが、今は非常時だ。ルールは状況に応じて変えねばならぬ」


キャサリンは低く笑い、冷徹な忠告を付け加えた。

「適当に媚を売り、多少の無礼を許すのは構わぬ。だが、**『狂言(嘘)』をまことにしてはならんぞ**」

「利益のために敵陣営に潜り込み、情に絆されて寝返る……そんな愚かな話は、歴史上枚挙にいとまがないのだからな」


キャサリンは、吐き捨てるように溜息をついた。


「……仰せのままに、キャサリン様」

ジェナは深く頭を垂れた。

だが、誰の目にも触れない場所で、彼女の瞳から従順な光は消え失せ、代わりに「憎悪」という名の炎が宿っていた。


(私は……決して、誰も愛しはしない!)


---


城から十分に離れたところで、タン・ピンはようやく安堵の溜息をついた。

彼は慌ててスマートフォンを取り出すと、モニカに通信を繋いだ。


「モニカ、僕の演技はどうだった?」


職場で働くこと自体がある種の演劇のようなものだが、命のやり取りが絡む渾身のパフォーマンスは、精神の消耗が尋常ではない。彼は今にも虚脱してしまいそうだった。


『……吐き気がするわ。女の手も握ったことがない童貞オタク丸出しの演技ね』


モニカは相変わらずの毒舌キャラを維持し、容赦なく言い放った。


「……うるさいなあ! これでも国のために身を粉にしてるんだよ!」


モニカの罵倒が、タン・ピンの心に深く突き刺さる。自分でも今の演技が相当キモかったという自覚があるからだ。


『公金を使って女の子を口説くなんて、流石はエリンデ共和国の出身ね。悪徳政治家の素質があるわ』


「そこまで言わなくても……。まあいいさ、少なくとも今はバレていない。戦略目標を達成するまでは、彼女たちの面倒をしっかり見させてもらうよ」


自らの手を汚すような役回りに、タン・ピンは心の疲れを感じていた。

その時、ふとタノシから聞いた話を思い出し、彼はモニカに尋ねた。


「そういえば、あの話は本当なのか? タノシ様が『天界』**へ出張するっていう話。それから、その**『封神榜ほうしんぼう』って、一体どんな組織なんだ?」


『詳細な状況は私も把握しきれていないわ。ただ、私の分身を交渉に同行させる。具体的な結果については、タノシ様が戻られるのを待つしかないわね』


「大丈夫かな? 罠とかじゃないだろうね」

タン・ピンの懸念に、モニカは冷たく返した。


『他人を心配する前に、自分の心配をなさい。忘れないで、今回は貴方が一人で留守を預かるのよ。もしタノシ様が戻られた時、この島が崩壊していたら……食べられちゃう方がまだ幸運だと思いなさい』


「はぁ……一難去ってまた一難、か……」


神殿の巨大な門をくぐり、タン・ピンの姿は徐々に陰影の中へと消えていった。


---


その夜。地下神殿の深部。


薄暗い大ホール。オレンジ色の水晶の壁灯が数えるほど点っている以外、視界に入るすべてが闇に支配されていた。

黄金の玉座の上で、銀髪の邪神は不敵に足を組み、頬杖をつきながら、興味深げに下方を見下ろしていた。


彼女が待ちわびていた「誰か」が……来た。


「案の定、来たわね。……ずっと待っていたわよ」


「貴女様は……私が来ると、分かっていたのですか?」


その人物はまず片膝をつき、躊躇するように、もう片方の膝を床に下ろした。

冷たい大理石の床が刺すような寒さを伝えるが、彼女の胸の内に燃える火を消すことはできない。


「ええ、もちろん!」


タノシは妖艶な微笑を浮かべた。

無形の威圧感が体内から溢れ出し、静まり返っていた水面に波紋が広がる。

下の人物はついに耐えきれず、前のめりに倒れ込んだ。

だが、衝突の直前で窒息するような神威が消え失せ、彼女はようやく大きく息を吸い込むことができた。


激しい喘ぎと共に、フードの中に隠されていたものが解き放たれ、床へとこぼれ落ちる。

それは、**太陽の光を閉じ込めたような眩い砂金色の長髪**だった。

数多の財宝を所有する大邪神でさえ、その輝きに一瞬目を細める。


邪神は歪んだ笑みを浮かべ、こう告げた。


「さあ……願いを言いなさい、人間!」

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