第6話:異世界からの来訪者
額が湿っている……。
ほんのりと温かい。
……侍女の誰かが、看病してくれているのだろうか。
女が瞳を開けると、視界に飛び込んできたのは灰黒色の天井と、薄暗い陽光だった。
「ここは……?」
彼女が窓の外に目を向けると、そこにあるはずの石畳や中庭ではなく、広大な山林の緑が広がっていた。一瞬、まだ夢を見ているのかと錯覚する。
「目が覚めたかい?」
男の声を聞いた瞬間、ジェナは弾かれたように飛び起きた。
落ちた毛布を拾う余裕もなく、傍らに立つ男を鋭い眼光で睨みつける。男の手には清潔な白いタオルが握られていた。
先ほどまで看病してくれていたのは、彼なのだろう。
「まだ気分が悪いなら、無理に起きなくていい。もう少し休んでいなさい」
男は少し気まずそうに、照れくさそうに視線を逸らした。
黒髪に茶色の瞳。年齢は二十歳そこそこだろうか。
雪のように白いインナーに、仕立ての良さが一目でわかる黒のセットアップ。
その黒は喪服を連想させたが、生地の質感や洗練されたデザインは、間違いなく一流の職人によるものだ。
(この男……高貴な生まれか、さもなくば名家に雇われた手練れね)
自分の顔を見た瞬間に顔を赤らめて視線を逸らしたその様子から、ジェナは確信を持って判断した。
――彼は後者(雇われの身)だ、と。
「貴方は誰!? 誰が私に触れていいと言ったの!」
ジェナは胸元を両手で隠し、後退りしながら叫んだ。
あえて高慢な態度を取り、襲われることを恐れる弱者のふりをして相手を試す。
もし襲いかかってくるなら即座に返り討ちにするまでだ。幸い、鎖や枷で拘束されているわけではない。
逆に相手が引くようなら、こちらが会話の主導権を握る。
「落ち着いてくれ。悪意はないんだ」
案の定、男はすぐに両手を挙げ、降参のポーズを取った。
「どこの国の人間よ? クーパーリック? それともアラン汗国?」
髪の色からすればそのどちらかだろうが、服装が違いすぎる。あんな貧乏な国にこれほど上質な服を着られる者はいない。
……まさか、ワイルド王国の人間か?
情報が足りず、ジェナは推測を巡らせるしかなかった。
「君が言った国は、どれも知らないな。でも安心していい、ここには君が言うような連中は一人もいない。みんな城の外へ放り出しておいたから」
男は首を振ると、タオルを木桶に入れ、それを持って隣の寝床へと歩いていった。
そこにも一人の女性が横たわっていた。ジェナはその顔を瞬時に見分ける。
金褐色の長い髪、氷のように冷徹で美しい顔立ち。青い紋様の入った神官服。
親族であり、ノーラン公国の元令嬢、そして現ブラウアー帝国近衛軍総隊長――エルース。
「エルース叔母様!」
ジェナは悲鳴のような声を上げ、彼女の元へ駆け寄った。
その時、彼女はようやく気づいた。この広大なホールには、自国の侍女や女騎士たちが至るところで横たわっていることに。
全員が意識を失っているが、丁寧にも毛布が掛けられている。
あの奇妙な男は、エルースの額の汗を拭うと、すぐに次の病人の元へと向かっていった。
男に敵意がないことを悟り、ジェナは恐る恐る口を開いた。
「あの……お名前は?」
男が振り返った。
腰から下は陽光に照らされ、胸から上は影に沈んでいる。
男は微かに微笑んで答えた。
「タン・ピン(湯評)だ」
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午後になり、人々はようやく次々と意識を取り戻した。
九割以上が女性であるため、現場はまるで市場のように騒がしく、収拾がつかない状態だった。
タン・ピンは目覚めた者たちに、赤身肉の粥と野菜ジュースを配るようジェナに手伝いを頼んだ。
正直なところ、タン・ピンが近づくと誰もがパニックになりかけ、毛布を投げつけようとする者さえいた。
だが、傍らにいるジェナが必死に説明したおかげで、彼女たちはようやく警戒を解き、差し出された食事を口にし始めた。
もっとも、例外もいたが……。
「無礼な男ね! 誰がうちのジェナに近づいていいと言ったの! 立ち去りなさい!」
ジェナによく似た面影の婦人が、タン・ピンを指さして激昂していた。ジェナの腕を掴んで引き寄せ、二人を引き離そうと躍起になっている。
周囲の視線が集まる中、タン・ピンは苦笑し、ジェナは顔を真っ赤にして困惑していた。
「お母様、やめてください! タン・ピンさんは悪い人じゃありません!」
「どうしてそんなことが断言できるの!? この安っぽい粥を数杯もらったから? お母様の言うことを聞きなさい、あんな男からは離れるのよ!」
「お母様っ!」
「ルナリア、落ち着きなさい!」
絶妙なタイミングでエルースが現れた。
彼女は背後からルナリアを羽交い締めにし、一歩ずつ引きずっていく。
「タン・ピン殿、申し訳ない! 目覚めたばかりで混乱しているのです。……リアド、突っ立ってないで手伝いなさい!」
エルースはルナリアを抑えながら、傍らの白衣の少年に声をかけた。
呆然としていたその少年――リアドは、慌ててトレイを置くと、ルナリアの右腕をがっしりと掴んだ。
彼が慌てて食べ物を飲み込んだ際、喉仏が動くのを見て、タン・ピンは気づいた。
(……あの子、男だったのか!?)
「あんたこそ混乱してるのよ、エルース! 離して! ジェナ、お母様の言ったことを忘れないで! 男は慎重に選ぶのよ、簡単に騙されちゃダメ!」
そうして、三人の姿は大ホールから消えていった。
タン・ピンがジェナを見ると、彼女は床を見つめたまま、完全に固まっていた。
「……お母様には、少しばかり誤解されているようだね」
その言葉に、ジェナの顔はさらに赤く染まった。
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三十分後。
エルースとリアドが血相を変えて戻ってきた。ルナリアの姿はない。
「ジェナ、大変よ! 外が、外が……!」
エルースは窓の外を指さし、呂律の回らない声で叫んだ。
「あ、皆さんに説明するのを忘れていました! 全員聞いてください!」
ジェナは立ち上がり、ホール中の女性たちに向かって高らかに宣言した。
「六国連軍の敵どもは、タン・ピンさんの手によって城の外へ追い出されました! ここを守り抜けば、奴らの一歩たりとも侵入を許しません!」
その言葉に、ホールは歓喜に包まれた。
だが、エルースの顔色は蒼白なままだった。
彼女は激しく首を振り、震える声で告げた。
「違うの! そんな話じゃないわ! ……外の景色が、完全に変わってしまったのよ! ここは首都じゃない……見渡す限りの森なの!」
「なんですって……!?」
全員が凍りついた。
次の瞬間――。
人々は窓やバルコニーへと雪崩れ込んだ。
そこにあるはずの王都の街並みは消え去り、城の周囲には鬱蒼とした未知の原始林が広がっていた。
彼女たちの顔から、血の気が引いていく。
「私たち……飛ばされたの……!?」
---
**パチパチパチ!**
突如として響いた拍手の音に、誰もが振り返った。拍手をしていたのは、タン・ピンだった。
「皆さん、まずは落ち着いてください」
彼は玉座の前にある階段に立ち、声を努めて穏やかに、かつ重厚に響かせた。
「状況が飲み込めないのは分かります。ですが、一つだけ確かなことがあります――皆さんはもう、安全です」
『安全』。
その二文字が、騒然としていた大ホールをわずかに静めさせた。
「鎧を纏った兵士たちは、すべて私が城の外へ放り出しました。この城は現在、私が管理しています。状況が確認できるまで、皆さんに危害を加える者は誰もいません」
「貴方がこの城を管理しているというの……?」
一人の女性が、たまらず声を上げた。
「その通りです」
タン・ピンは力強く頷いた。
「ここは皆さんが元いた世界ではありません。『地球』と呼ばれる場所です」
その言葉が落ちるや否や、現場は再び騒動に包まれた。
「異世界……!?」
「そんな馬鹿な……神に見捨てられたというの……」
パニックが再燃しそうになるのを制するように、タン・ピンは声を張り上げた。
「だから、慌てないでと言っているんです!」
彼は深呼吸をして続けた。
「この島は現在、海神**タノシ様**が統治しており、私はここを任された執政官であり、神に仕える神官でもあります」
「神……?」
数人の女性が不安げに顔を見合わせた。タン・ピンは畳みかける。ここで躊躇すれば、彼女たちは完全に絶望に飲み込まれてしまうからだ。
「今夜はまず城内を点検し、残党がいないか確認することをお勧めします。食料や生活用品については、明日、私が数名を連れて近くの町まで買い出しに行きます」
そこで、彼の視線がジェナに止まった。
「ジェナさん、明日、貴女も一緒に来ていただけますか?」
「私が……?」
ジェナが呆然とした、その次の瞬間だった。
タン・ピンは何事か決意したように、彼女の両手をぎゅっと握りしめた。
「私は、心から貴女たちを助けたいと思っているんです」
彼の顔は沸騰したヤカンかと思うほど真っ赤に染まっていた。それでも彼は逃げずに、ジェナの蔚藍い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから……貴女が来てくれるのを、待っています」
「あ……はい……」
ジェナもまた、顔を朱に染めて俯いた。
その光景は、誰の目から見ても「愛の告白」そのものだった。
見守る群衆の間に、「なるほど」という空気が広がる。視線は二人の顔と、握り合わされた手を行き来し、淡いピンク色の空気がホールを包み込んでいった。
だが、その空気を切り裂く者が現れた。
「執政官殿。貴方は私たちを元の世界へ帰す方法をお持ちなのですか?」
白髪の老婦人が手を挙げ、問いかけた。
彼女は高い地位にあるようで、多くの女性たちが食事を差し置いて彼女を囲み、守るように立っている。その逞しい四肢と古銅色の肌からして、女騎士団の精鋭だろう。
「保証はできません! ですが、尽力することをお約束します。私が生きている限り、ジェナさん……そして皆さんを、指一本触れさせはしない!」
タン・ピンは少女の手を放し、堂々と宣言した。
老婦人の、まるで猛虎のような鋭い眼光を真っ向から受け止め、彼は一歩も退かなかった。
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夕暮れ時、バルコニーに立つジェナは、去りゆくタン・ピンの背中を複雑な思いで見つめていた。
(……敵に捕らえられ、異世界に飛ばされ、挙句の果てに命の恩人に大衆の面前で愛を囁かれるなんて……)
あまりの急展開に、彼女の頭の中はこんがらがった毛糸玉のようになっていた。
そこへ、背後から母親の声が響く。
「ジェナ。あの男に取り入るためだとしても、やりすぎないことね。自分の身分を忘れなさい!」
「お母様……」
叱責する母ルナリアに対し、ジェナは苦笑いするしかなかった。
「ですが……私たちはここではよそ者です。城の食料も敵軍に奪い尽くされています。タン・ピン殿の助けがなければ、元の世界へ戻るどころか、三日と持ちませんわ」
背後から歩み寄ったエルースも、冷静に分析を加える。
「……ええ。そしてこれは、千載一遇の好機でもあるわ」
護衛に守られ、あの老婦人が歩み寄ってきた。一同は反射的に背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「キャサリン様!」
ジェナ、ルナリア、エルース――ブラウアー帝国の権力の頂点に立つ三人が、この老婦人、**『鮮血大公』キャサリン**に臣下の礼を取った。彼女こそが帝国の真の支配者であり、ジェナを背後から操る黒幕であった。
キャサリンは満足げに頷く。
「ジェナよ。貴女は両国合併後、新生ブラウアー帝国の最初の皇后であり、同時にこの国一番の美女だ。今日からは皇后であることを忘れ、当面は『独身の王女』を名乗りなさい。その若さと美貌で、あの男を色誘にかけるのです」
それを聞き、母ルナリアが声を荒らげた。
「いけません! ジェナはこの国の未来を背負っているのです! 些細な利益のために、皇族の誇りを汚すなど……!」
地下の支配者に対し、ルナリアは顔を真っ赤にして反論した。それは不敬罪、すなわち死を意味しかねない行為だ。周囲に緊張が走り、キャサリンの瞳も細められた。
自らが選んだ傀儡が、男女の情愛ごときで反抗するとは。
だが、ジェナがその間に割って入り、場を収めた。
「お母様、キャサリン様。お言葉は肝に銘じております。私も皇族の端くれ、一線を越えるような真似はいたしません。……あの男を利用するだけです。ご安心ください」
当人の誓いを聞き、キャサリンも矛を収めた。
「よろしい。実を言えば私もルナリアの意見には同意だ。貴女は国の象徴。先王が亡くなってすぐに新しい男を作るなど、本来なら許されぬこと。……だが、今は非常時だ。ルールは状況に応じて変えねばならぬ」
キャサリンは低く笑い、冷徹な忠告を付け加えた。
「適当に媚を売り、多少の無礼を許すのは構わぬ。だが、**『狂言(嘘)』を真にしてはならんぞ**」
「利益のために敵陣営に潜り込み、情に絆されて寝返る……そんな愚かな話は、歴史上枚挙にいとまがないのだからな」
キャサリンは、吐き捨てるように溜息をついた。
「……仰せのままに、キャサリン様」
ジェナは深く頭を垂れた。
だが、誰の目にも触れない場所で、彼女の瞳から従順な光は消え失せ、代わりに「憎悪」という名の炎が宿っていた。
(私は……決して、誰も愛しはしない!)
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城から十分に離れたところで、タン・ピンはようやく安堵の溜息をついた。
彼は慌ててスマートフォンを取り出すと、モニカに通信を繋いだ。
「モニカ、僕の演技はどうだった?」
職場で働くこと自体がある種の演劇のようなものだが、命のやり取りが絡む渾身のパフォーマンスは、精神の消耗が尋常ではない。彼は今にも虚脱してしまいそうだった。
『……吐き気がするわ。女の手も握ったことがない童貞丸出しの演技ね』
モニカは相変わらずの毒舌キャラを維持し、容赦なく言い放った。
「……うるさいなあ! これでも国のために身を粉にしてるんだよ!」
モニカの罵倒が、タン・ピンの心に深く突き刺さる。自分でも今の演技が相当キモかったという自覚があるからだ。
『公金を使って女の子を口説くなんて、流石はエリンデ共和国の出身ね。悪徳政治家の素質があるわ』
「そこまで言わなくても……。まあいいさ、少なくとも今はバレていない。戦略目標を達成するまでは、彼女たちの面倒をしっかり見させてもらうよ」
自らの手を汚すような役回りに、タン・ピンは心の疲れを感じていた。
その時、ふとタノシから聞いた話を思い出し、彼はモニカに尋ねた。
「そういえば、あの話は本当なのか? タノシ様が『天界』**へ出張するっていう話。それから、その**『封神榜』って、一体どんな組織なんだ?」
『詳細な状況は私も把握しきれていないわ。ただ、私の分身を交渉に同行させる。具体的な結果については、タノシ様が戻られるのを待つしかないわね』
「大丈夫かな? 罠とかじゃないだろうね」
タン・ピンの懸念に、モニカは冷たく返した。
『他人を心配する前に、自分の心配をなさい。忘れないで、今回は貴方が一人で留守を預かるのよ。もしタノシ様が戻られた時、この島が崩壊していたら……食べられちゃう方がまだ幸運だと思いなさい』
「はぁ……一難去ってまた一難、か……」
神殿の巨大な門をくぐり、タン・ピンの姿は徐々に陰影の中へと消えていった。
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その夜。地下神殿の深部。
薄暗い大ホール。オレンジ色の水晶の壁灯が数えるほど点っている以外、視界に入るすべてが闇に支配されていた。
黄金の玉座の上で、銀髪の邪神は不敵に足を組み、頬杖をつきながら、興味深げに下方を見下ろしていた。
彼女が待ちわびていた「誰か」が……来た。
「案の定、来たわね。……ずっと待っていたわよ」
「貴女様は……私が来ると、分かっていたのですか?」
その人物はまず片膝をつき、躊躇するように、もう片方の膝を床に下ろした。
冷たい大理石の床が刺すような寒さを伝えるが、彼女の胸の内に燃える火を消すことはできない。
「ええ、もちろん!」
タノシは妖艶な微笑を浮かべた。
無形の威圧感が体内から溢れ出し、静まり返っていた水面に波紋が広がる。
下の人物はついに耐えきれず、前のめりに倒れ込んだ。
だが、衝突の直前で窒息するような神威が消え失せ、彼女はようやく大きく息を吸い込むことができた。
激しい喘ぎと共に、フードの中に隠されていたものが解き放たれ、床へとこぼれ落ちる。
それは、**太陽の光を閉じ込めたような眩い砂金色の長髪**だった。
数多の財宝を所有する大邪神でさえ、その輝きに一瞬目を細める。
邪神は歪んだ笑みを浮かべ、こう告げた。
「さあ……願いを言いなさい、人間!」




