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Tanosi牧場共和国  作者: 雪谷惑星
第2巻:白鱗の王姫
36/44

第5話:落城の夜(らくじょうのよる)

──クーパーリック王国、平卒・モーマの視点──



**パチパチッ!**


焚き火が燃えている。

その勢いは凄まじく、壁際の一番遠い場所に陣取っているモーマの元へも、確かな温もりが届くほどだった。

彼は取っ手の付いた小さな木樽のようなカップを手に取り、中身を一口啜った。

甘酸っぱい液体が舌の上を滑り、空っぽの胃袋へと落ちていく。

かつての夏、豊作に沸いた葡萄園と、農民たちの眩しい笑顔が脳裏をよぎった。


(……ふぅ。流石は王室御用達の最高級ワインだ。酒場の安酒とは格が違う)


王都が陥落でもしなければ、自分のような者が一生口にすることなどなかったであろう美酒。

モーマは少しばかり感慨に耽った。

彼は地面に揺れる不気味な影を見ないように努め、ただ腹を満たすことだけに集中した。

木皿の上の温かいローストビーフを、冷えた白パンに挟んで一気に頬張る。

そして再び、豪快にワインを流し込む。


(ああ、生きているって素晴らしいな)


本気でそう思った。

戦場から生還できた自分がどれほど幸運か、今の光景を見れば嫌でも実感せざるを得ない。

この宮殿の元の主であり、この地の王であった御仁ごじんは、彼ほど運が良くなかった。


偉大なる国王陛下は今や、遠くの処刑台の上から、自分が憎んでやまない連中が蔵の肉を食らい、秘蔵のワインを飲み干す様を眺めることしかできない。

見開かれた両眼は、もはやまぶたを閉じることも叶わず、顔の上を這い回る不潔な蝿を追い払うことすらできないのだ。

幸いなことに、傍らには宰相と二人の新任将軍が寄り添っており、寂しい思いはせずに済んでいるようだが。


かつてはこの国の支配者であり、底辺の民にとっては雲の上の存在だった。

だが今、彼らは処刑台に吊るされ、体内で孵化した白いうじに、その高貴な肉体を貪り食われるがままになっている。

その家族たちがどのような末路を辿ったかについては……考えるのを止めた。吐き気が込み上げてくるからだ。


「おい、新人! お前、女を連れてこなかったのか?」


一人の禿頭の巨漢が、モーマの視界を遮った。

濃褐色の革鎧とわずかな金属製の防具。その出で立ちからして、『アラン汗国(アラン・ハン国)』の兵士だろう。

遊牧民族からなるその国は、騎兵戦と弓術においては南大陸で右に出る者はいないと言われているが……悪名においても同様だ。


(まあ、我が祖国『クーパーリック王国』も似たようなものだがな……)


グラント元帥が就任し、七年をかけて改革を断行しなければ、この国はいまだに忌み嫌われる強盗国家のままだっただろう。

とにかく、関わらないのが一番だ。

利害を天秤にかけた結果、モーマは彼を無視し、黙々と酒を飲み続けることにした。聞こえないふりだ。


だが、相手はモーマの忍耐に気づかないのか、さらに挑発を重ねてくる。


「お前の戦功表を見たぜ。大したもんだな! 兵士三十四人に高等将校を一人。連軍の規程に従えば、公爵か大臣の娘の一人くらい選べたはずだろう?」

「どうした? 女の扱いも知らないガキか?」


男の頬は豚のレバーのように赤らみ、全身から刺すような酒臭さを放っていた。

現場にいる多くの兵士たちと同様、その腕には衣服を剥ぎ取られた一人の女が抱えられていた。

彼女の空虚で、光を失った瞳を見る限り、王と同じように吊るされる方が幸福だったかもしれない。


「…………」


モーマは応じない。冷静に酒を啜り、一度も視線を合わせようとはしなかった。


「おい、クソガキ! この俺様が話しかけてやってんだぞ。無視かよ、死にたいのか!」


男が激昂して怒鳴り散らしたことで、周囲に人だかりができ始めた。その中にはモーマの同僚である二人のクーパーリック兵も混じっていた。


「まあまあ! 彼は攻城部隊ですからね、きっと疲れ果てているんですよ!」


背の高い男が二人の間に割って入り、アランの巨漢をなだめようとする。


「そうですよ! 今日は祝うべき大勝利の日だ。喧嘩で謹慎きんしんにでもなったら、連軍の他国に笑われてしまいますよ!」


モーマの相棒である太った男も、さりげなく言葉を添えた。

事を荒立てれば双方にとって不利益になるぞ、と暗に釘を刺したのだ。

そこへ、遠くから一人の人物が近づいてきた。


「おい、そこの者たち。何をしている?」


筋骨隆々とした体躯は、さながら歩く彫像のようだ。

何枚もの魔法水晶が埋め込まれた『龍鱗りゅうりんの鎧』が、彼の正体を雄弁に物語っていた。


「元帥閣下!」


モーマを含む黒甲冑の兵士たちは、一斉に酒を置き、軍礼を捧げた。

その男の接近を察し、先ほどまで息巻いていた巨漢も、不自然に一歩後ずさった。


「英雄殿。我が軍の若造が、何か無礼を働いたかな? もしそうなら、私が代わって謝罪しよう」


そう言うと、元帥は腰を曲げ、一兵卒に過ぎない巨漢に対して深く頭を下げた。

あまりにも唐突な光景に、巨漢は戸惑いを隠せない。


「グラント・クルップ……クーパーリックの現元帥か。噂通りの実力、あの『鮮血大公せんけつたいこう』キャサリンに匹敵する南大陸最強の剣士と聞いていたが、流石だな」


巨漢の額に汗が滲む。

グラントは深々と頭を下げ、異国の兵士に謝罪している。しかし、彼から発せられる圧倒的な「気」は、一瞬たりとも衰えていない。

いや、むしろその威圧感は増大していた。


「……小僧、運が良かったな。今日はこれまでにしてやる!」


これ以上騒ぎを大きくしても得はないと判断し、巨漢は不機嫌そうに女を連れて去っていった。

周囲の人々が、ようやくまともに息を吐き出す。


「ふぅ……一時はどうなることかと」

背の高い男が安堵の汗を拭った。


「本当に。元帥閣下が来てくださらなければ、モーマはボコボコにされていましたよ」

太った相棒も、モーマの肩を叩いて元帥に礼を言うよう促した。


「……お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」


「構わんさ。私はリーダーだ。最前線で戦う基層の兵を守れんで、何が元帥か! はっはっは!」


グラントは大らかに笑い飛ばし、高位の者が抱きがちな傲慢さを微塵も感じさせなかった。

モーマとクーパーリックの兵たちの胸に、温かなものが広がる。

(これほどの実力を持ち、これほど部下思いの方が長官だなんて。俺たちはなんて幸せなんだ)


「ところで……君はモーマだったね? 少しいいかな。少しばかり話をしたいんだ」


グラントは人影の少ない壁際を指した。語らうには適した場所だ。


「は、はい!」

モーマは緊張に身を固くした。

(まさか、処罰されるのか……!?)


「今日は、史書に刻まれる大きな一日になるぞ」


グラントは歩きながら、モーマと他愛のない雑談を交わした。


「建国以来、ブラウアー王国は常に南大陸最強の国家だった。属国であったノーラン公国と合併してからは、中央諸国にも匹敵する超大国へと成長した」

「奴らの誇る『寇布拉コブラ騎士団』は、敵国兵を三歩退かせると言われるほどの強者揃いだったが……」

「その神話も、今日で完全についえたな」


二人は人通りのない壁際へと辿り着いた。グラントは壁に背を預け、話を続ける。


「アラン汗国、ワイルド王国、アンダーソン王国、神聖ベルグマン教国、ボートン冥府教団……そして我がクーパーリック王国。この六カ国がブラウアーの領土と、そのすべてを分かち合うことになる」

「この六つの国の中には、百年越しの宿敵もいれば、その場しのぎの同盟もいる。互いの言葉すら通じない連中だっているさ。だが、利害が我々を固く結びつけ、この偉業を成し遂げさせた。……もっとも」


グラントは処刑台の影を見つめた。その瞳には、言い表せぬ複雑な感情が宿っている。平民であるモーマにとって、それは「鮮血の重み」という、あまりにも生々しく震撼すべき光景だった。


「この壮挙を成し遂げるため、六カ国は全力を尽くした。家財を投げ打ち、最高級の武器を揃え、全軍が三年間食べていけるだけの糧食を蓄えたのだ」

「戦功への恩賞も、当然ながら抜かりはない。兵を十人以上討ち取れば、平民の家一軒と、平民の女一人が与えられる」

「君が討ち取ったのは兵士三十四人と、城を守っていた伯爵が一人だったね。規定通りなら、貴族の邸宅と、高官の妻娘が君に分配されるはずだ」


「……興味はないかな? 物資の分配係が私に泣きついてきたぞ。君が先に恩賞を受け取らないと、すべて配り終えた後に君がやってきても、渡せるものが残っていない。君は攻城戦の最大の功労者だ。後で『受け取っていない物資を返せ』と暴れられでもしたら、上層部は分配係にすべての責任を押し付けるだろう。だから、彼らは私に君の意志を確かめてこいと言ったんだ。……どうする、受け取るか?」


グラントはようやく本題を切り出した。モーマはうつむいたまま、元帥の瞳を見ることができなかった。

故郷に婚約者がいる、などと嘘を並べることも考えたが、最終的に彼は本心を語ることに決めた。この人なら、きっと理解してくれると信じたからだ。


「……それが、私の軍に入った目的ではありませんから」


深く息を吸い込み、モーマは真っ直ぐにグラントの目を見つめた。

「元帥閣下。私が徴兵に応じたのは、ブラウアーが我が祖国クーパーリックに侵攻するという噂を聞いたからです」

「三名以上の男性がいる家庭への徴兵令は強制的でした。父は農作業で足を痛め、弟は修道院の学校に入ったばかり。……家族の中で、資格があるのは私だけでした」

「逃げるわけにはいかなかった。私が戦場へ行かなければ、弟が行くことになっていた。彼はまだ十四歳なんです! 教室で教科書を読んでいるべき年なのだ。人を斬る地獄へ送るわけにはいかない……彼は死んでしまう!!!」


モーマの眼差しに、一切の退却はなかった。グラントは胸を突かれる思いだった。

(この子はまだ二十歳だというのに、これほど重い荷を背負ってきたのか……)


「祖国が壊されないこと、家族が戦火に巻き込まれないことだけを願っていました。ですが……!」

モーマは拳を握りしめ、爪が肉に食い込むほど力を込めた。

「今起きていることは、あまりにも滑稽です! 勝ったのでしょう? 領土も財宝も家も、すべて分け合ったはずだ。なのに、なぜ罪のない女子供にまで手をかける必要があるんですか!?」

「私は……こんなことをするために、命を懸けたわけじゃない!!!」


ついに、モーマの「仮面」が剥がれ落ちた。

絞り出すような絶叫が、周囲の兵士たちの注意を引く。グラントは彼らに手を振り、「何でもない」と合図した。


「こいつは飲みすぎただけだ、気にするな! 宴を続けろ!」


グラントの言葉を聞き、連中は何事もなかったかのように酒と女に視線を戻した。

グラントは沈黙の後、モーマの耳元で静かに囁いた。


「……幼子を含めて、三十人を選んでおいた」


モーマの瞳が大きく見開かれる。

「規定に明文化されてはいないが、功労者が『貴族の女一人を平民の女十人に換えてくれ』と要求すれば、それは許容される」

「正義とは、死に物狂いで固執することだけではない。頭を下げ、ルールに従うことで救える命もある」

「犠牲を減らしたいと思うなら、全力を尽くして権利を勝ち取れ。後で隙を見て、彼女たちを逃がしてやればいい」

「忘れるな、期限は明日の正午までだ」


グラントはモーマの肩を叩くと、颯爽と立ち去った。

モーマは呆然と立ち尽くした。後悔と、安堵。

元帥に声を荒らげてしまったことへの後悔と、誰かを救えるという希望。

(明日……必ず彼女たちを引き取りに行こう)


そう決意した、その時だった。


**ヒヒィィィィンッ!**


壁の向こう側で、馬の鋭い嘶き(いななき)が響いた。

「大変だ、馬たちが怯えているぞ!」

「蛇でも紛れ込んだのか?」


向こう側は混乱に陥っているようだった。だがモーマは違和感を覚えた。軍馬の世話をした経験のある彼には分かった。今の声は単なる驚きではない。……「恐怖」だ。


「見ろ! あれを!」


誰かが叫んだ。

モーマは反射的に空を見上げた。

そして、息を呑んだ。


空が……あまりにも、明るすぎた。

月光とも、火光とも違う。不自然なまでに清浄な「白」。


「まだ夜の十時過ぎだろう?」

「今夜は満月じゃなかったはずだぞ……」


異様な光景に、静寂が伝染していく。空気は重く沈んでいった。

次の瞬間、雲が裂けた。

まるで薄い紙を引き裂くかのように。


そこから、**巨大な「手」**が突き出してきた。

眩いばかりの金光を放ち、その指先はこの城へと向けられている。


「……ありゃあ、一体何なんだ……」


答える者は誰もいなかった。目の前の光景は、もはや人の知恵の及ぶ範疇を超えていた。


「――逃げろぉぉぉっ!!!」


誰かが叫んだ。

一秒の静止。

そして――すべてが同時に動き出した。

女を放り出し、門へと駆ける者。逃げ惑う人波に押され、消えていく者。


地獄の宴は、一瞬にして真の絶望へと塗り替えられた。


中には、空虚な瞳でそのすべてを見つめる者たちもいた。彼女たちは鎖に繋がれ、逃げることすら許されない「戦利品」だったからだ。


「どけ! 道を開けろ!」

「貴族である俺様を先に通せ!」

「押すな! 肋骨が……ぎゃあああッ!」


規律は霧散した。

恩賞も、地位も、もはやどうでもいい。

今はただ……生き残ること、それだけがすべてだった。


モーマもまた、人の波に揉まれていた。

壁をよじ登って逃げようとしたが、周囲の密度があまりに高すぎて、腕を上げることすら困難だった。

略奪品を分配するために、連軍の精鋭二千名がこの城にひしめき合っていたことが仇となった。今の城内は、さながら巨大な「オイルサーディンの缶詰」だ。


モーマがふと振り返ると、心臓が跳ね上がった。


(……終わった。もう、間に合わない……)


金色の光がすべてを覆い尽くし、世界から音が消え去った。


次の瞬間――。


**「カッ……」**


微かな、だが決定的な音が響いた。

まるで、何かが一瞬で凝固したかのような音。


モーマの視界は一面の金色に染まり、そこで意識は途絶えた。


城のすべて、そこにいたすべての人々、そして空気さえもが、一つの巨大な「金色の中子クリスタル」へと変貌を遂げた。


そこへ、漆黒の霧が静かに、だが確実に咲き誇る。

飢えた獣のあぎとのごとく、底部からその巨大な水晶をじわじわと呑み込んでいく。


やがて、そこには底の見えない巨大な「陥没穴クレーター」だけが残された。


あの巨大な「手」も、いつの間にか掻き消えていた。


支配権を取り戻した闇が、再び空を掌握する。

止まっていた秒針が、ようやく再び動き出した。

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