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Tanosi牧場共和国  作者: 雪谷惑星
第2巻:白鱗の王姫
28/35

第1話:神に祈りを(かみにいのりを)

ヒュオォォォォ――!

耳を裂くような風切り音が鳴り響く。

潮の香り、そして何かが燃える不快な臭いが鼻腔を突き刺した。

寒い。骨まで凍てつくような寒さだ。


「ガハッ……!」

湯評タン・ピンは強烈な風圧に窒息しかけ、ボロ布のように宙を運ばれていた。瓦礫で裂けた傷口が再び開き、激痛が脳を焼く。

動けない。手足の感覚が完全に消失している。

(……死ぬ)

その思考がよぎった、その時だった。


「私の下僕しもべを返しなさい!!」


少女の怒号が夜空を切り裂いた。

湯評の体がびくりと跳ねる。

彼女だ。

「タノシ……!」


次の瞬間――。

**ドォォォォン!!!**

空気が爆ぜた。

上空から突き刺さるように現れた小柄な人影が、その両拳を隕石のごとく叩きつける。

金属がねじ切れる耳障りな音が響き、湯評を拘束していた機械の腕が弾け飛んだ。


「助かっ――」

言い終える間もなかった。

制御を失った巨大な「球体」が、そのまま湯評の上へと圧しかかってくる。


「あああああ――ッ!」


一人と一機が落下を開始する。

湯評の視界は激しく回転し、死が刻一刻と迫る。

(間に合わない……!)


**シュッ!**


一本の白い触手が猛然と湯評の腰に巻き付き、粉身砕骨の運命から彼を救い出した。

一方、円球の怪物はそのまま地面へと叩きつけられ、大地を陥没させた。


「はぁ……はぁ……っ!」

宙吊りにされた湯評は、月光の下でようやく「それ」の正体を捉えた。

巨大な銀色の球体。直径は約二メートル。継ぎ目のない滑らかな表面は光を反射せず、まるですべての光を吸い込んでいるかのようだ。

そこから伸びる二本の細長いマニピュレーター。これこそが、先ほどの誘拐犯の正体だった。


「一体、何なんだよ、この化け物は……」

「無事でよかったわ。でも……」


タノシが言葉を言い切る前に、暗闇からもう一つの球体が高速で突っ込んできた。


**ゴンッ!!!**


「ぐふっ……!」

タノシの体が吹き飛ばされ、湯評を掴んでいた触手が切断される。

二人の連結パスが断たれた。


「タノシ!!」


湯評は再び、重力に身を任せることとなった。

今度こそ、救いの手はない。

(まずい! 墜落死する!)


「慌てるんじゃないわよ、忠実なる下僕!」

「どこだ!? 姿が見えないぞ!」


耳元でタノシの声がした。だが周囲を見渡しても、彼女の姿はどこにもない。

「あいつが私を別の場所へ連れて行ったのよ。貴方とはかなり離れているわ。今は水神のすいじんのしるしを通じて直接語りかけているの」

「テレパシーか……。っ、まずい! あの怪物がまだ生きてる!」


ガシャン、ガシャン!

階下の深淵から、不快な電子ノイズが響き渡る。巻き上がる煙の中に、粉砕された岩石が混じり始めた。

奴はもう目覚めた。地上に戻るまで時間はかからない。湯評に残された猶予は、わずかだ。


湯評は両掌を合わせ、全身のエネルギーを練り始めた。

「ああああああッ!」

叫びと共に、体内から蔚藍あおい気炎が噴き出す。その姿はまるで青い火の玉だ。


(落ち着け……)

(あのイチゴの怪物ストロベリー・アビスを倒した時と同じだ。モニカに教わった方法を思い出せ……!)

(最優先事項は敵を倒すことじゃない、安全に『着陸』することだ!)


円球の怪物が穴から這い出そうとしたその瞬間、そのわずか十メートル上空で、湯評は掌のエネルギー砲を解き放った。


**ドォォォォン!**


強力な一撃が円球の怪物を再び穴の底へと押し戻す。湯評はその反動を利用して、近隣の草地へと無様に転がり落ちた。


---


地面の上でしばし喘いでいた湯評は、タノシの気配がする方角へと駆け出した。

漆黒の闇の中、方角すら定かではない。だが、最も激しい爆発音が響く場所に、彼が探しているあるじがいるはずだ。


湯評は走りながら叫んだ。

「一旦逃げよう! 拠点は破壊されたし、敵が他にどれだけいるかも分からない。今の戦いは不利だ! 近くの小島まで退いて、それから……」


「逃げる? 私が、なぜ逃げなきゃいけないのよ! 自分の国で、自分の土地で攻撃されて、逃げろなんて正気なの!?」

「……っ」


タノシは咆哮に近い怒声で答えた。湯評は絶句する。

前方の爆発音は、ますますその激しさを増していた。


「いい? 私は何も間違ったことはしていないし、退く理由もないわ! 奴らには必ず報いを受けさせてやる! 逃げたければ、貴方一人で勝手に逃げなさい!」


少女の剥き出しの言葉が、湯評の胸を貫いた。彼はその場に立ち尽くした。

そうだ。ここは自分たちの国だ。攻撃を受けたのは自分たちだ。

なのになぜ、被害者である自分たちが逃げ出さなければならない?

間違っているのは、あいつらの方じゃないか!


湯評は瞳を閉じ、深く呼吸した。

再び目を開いた時、乱れていた感情は凪のように静まっていた。


「……分かった。俺も逃げない。一緒に、俺たちの家を守ろう!」


湯評は戦闘態勢をとり、体内のエネルギーを再点火させた。


「そうでなくっちゃ!」


螺旋槳プロペラの音と共に、女性の声が響いた。

湯評が顔を上げると、そこには一台のドローンが浮遊していた。


「モニカ!」

湯評の顔に喜びが走る。


「動かないで」


ドローンは黒いハヤブサのごとき速度で急降下し、湯評の頭部に触れた瞬間、その形状を劇的に変貌させた。

衝撃すら感じぬ間に、湯評の頭部には黒いタクティカルヘルメットが装着されていた。

スポンジの内装は心地よく、流線型のフォルムには消光処理が施された黒い金属の光沢。

バイザーのディスプレイが起動し、スピーカーからモニカの声が流れ込む。


「これは『エーテリスⅡ(セカンド)』、タクティカルヘルメット仕様よ。機能は初代と同じだけど、防護性能が向上して、より壊れにくくなっているわ」

「助かったよ、モニカ。君が来なかったら本当にどうなっていたか……」

湯評タン・ピンは心の底から感謝した。


「勘違いしないでちょうだい。貴方が死んだら私の仕事量が増えるから助けただけ。別に心配なんてしてないわ」

「……」

あまりにもテンプレ通りのツンデレ台詞がモニカの口から飛び出し、湯評の頭には数本の黒線が浮かんだ。


「何よ? 貴方、こういうノリが好きなんでしょう?」

スピーカー越しに聞こえる声はからかうような調子だったが、湯評はその奥に微かな動揺を敏感に察知した。

もしモニカに人間の体があったなら、今頃間違いなく顔を真っ赤にしているはずだ。

「……まあ、そうかもな。それじゃ、サポートを頼むよ!」

湯評はニヤリと笑い、穴から這い出してきた円球の怪物へと突進した。


**ゴンッ!**

湯評の拳が怪物の表面を叩く。だが、指先が痺れるような硬い感触が走り、激痛が腕を伝って駆け上がった。

かたっ……!」

湯評は手を振り、地面を蹴って後方へと跳んだ。すんでのところで機械腕の拘束を逃れる。

バイザーのディスプレイには、【円球の怪物:Lv.?】と表示されていた。


「どういうことだ? レベルが表示されないぞ!」

襲撃をかわしながら叫ぶ。情報の欠如が湯評に焦りをもたらす。

「解析中……数値を検知不能! 敵機に遮蔽術式クローク・スペルが施されていると推測。戦いながら弱点を探ることを推奨するわ」

「……言うのは簡単だよな!」

湯評は機械腕の執拗な追跡を紙一重で回避し、体内の魔力を一点に集中させる。


「はぁっ!」

蔚藍あおいエネルギーが掌に収束し、円球の怪物に叩きつけられた。

しかし、その一撃をもってしても、堅牢な金属の外殻を砕くことはできない。

「硬すぎる……ダメージが通らないぞ! あのイチゴの怪物より遥かに格上だ!」

確信した。こいつの真のレベルは、間違いなく70を超えている。


真っ向勝負は不利と判断した湯評は、即座に進路を変え、森の中へと飛び込んだ。

ここなら敵の視界は遮られ、地形による制限も受ける。

比較的、小柄な湯評にとって、ここは絶好の戦場だ。

背後で樹木がなぎ倒される音が響く。だが、円球の速度は確実に落ちていた。

(……いける!)

開けた場所では最強でも、障害物の多い森の中では思うように加速できない。

「でも、まだ足りない……!」

バキッ、メキメキッ!

それでも怪物は樹木を粉砕しながら突進してくる。距離は、徐々に縮まっていく。


「タノシ様! そっちから加勢に来られませんか!?」

万策尽き、湯評は救援を求めた。だが、脳内に響いたタノシの声は、彼の期待を打ち砕いた。


「いい? 忠実なる下僕。私の方も複数の強敵に囲まれているわ。今すぐ助けには行けない。貴方一人で、目の前の敵を退けなさい」

「嘘だろ……!?」

最悪の展開に、湯評の顔から血の気が引いた。


「慌てないで、忠実なる下僕」

「貴方は邪神の契約者。肉体強度はすでに常人を遥かに超えているし、私の許しがあれば、貴方は私の力を自由に使えるのよ」


遠方から、立て続けに爆発音が響いてくる。

湯評は悟った。もはや選べる道はない。


「どうすればいい……?」

「私の名を呼び、声高らかに私を讃えなさい! さすれば、深淵の化身にして生命を刈り取る者、万物に君臨せし至高の邪神タノシが、最も忠実な信徒に世にも偉大なる奇跡を授けましょう!」


脳内に響き渡る少女の昂然とした叫び。

彼女がどこにいるのかすら分からないのに、湯評の目にはその姿がはっきりと浮かんでいた。

いつものように傲慢に顎を上げ、自信に満ちた紫の瞳で万物を見下ろす姿。

誰も彼女の前には立てず、誰も彼女の歩みを止めることはできない。

世界は彼女の遊び場であり、食卓だ。彼女は望むままに振る舞う。

たとえ全世界を敵に回そうとも、彼女には微塵の恐れもない。


(……俺も、あいつみたいになれるのか?)

ムカつく連中を全部ぶっ飛ばして、やりたいようにやり、わがままに生きる。

子供の頃の自分も、そうだった気がする。あちこちに迷惑をかけながら、自分のやりたいことだけに夢中になっていた。


「湯評、避けなさい!」

モニカの声に弾かれ、湯評は飛び込みながら襲撃を回避した。振り返る余裕もなく、さらに森の深部へと走る。


必死に駆け抜ける中、生死の境に立たされた彼の脳が異常なまでの回転を始めた。世界の流れがゆっくりと、スローモーションのように感じられる。

外の世界の音が消え、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡り、そして「今」へと回帰した。


いつからだろう。

俺がこんなに臆病になり、負け犬の人生に甘んじるようになったのは……。

こんな自分に、目の前の敵を退ける力なんてあるのか?


『当たり前だろ。そんなの決まってるじゃないか!』


脳内に、響き渡る声。

タノシか?

……いや。

これは――俺自身の声だ。


『大丈夫だ! お前ならできる!』


背後の騒音が、ふと静寂に包まれた。

**シュッ!**

次の瞬間、円球の怪物が湯評の目の前に立ち塞がった。

回避不能。湯評は真っ向から激突し、内臓がすべてひっくり返るような衝撃を受けた。


『怖がるな! あんなのただの空っぽの殻だ。泡を潰すみたいに簡単に倒せる。』

遠のきそうになる意識を、内なる声が現実へと繋ぎ止める。

湯評は腹部の劇痛に歯を食いしばり、倒れた巨木を乗り越え、別の方角へと駆け出した。


『思い出せ。卑屈だった過去の人生を。押し潰されそうだったあの苦難を、お前は歯を食いしばって耐え抜き、一歩ずつ……一歩ずつ、ここまで歩いてきたじゃないか!』

『拾い上げろ。失いかけていた勇気を!』


湯評は唇を噛み切った。血の鉄錆味が脳を覚醒させる。

体の震えは止まらない。だが、その瞳には鋼のような意志が宿っていた。

脳裏に浮かぶ言葉が幻覚だろうと自己暗示だろうと、もはやどうでもよかった。

俺は――生き延びる!


湯評は猛然と方向転換し、巨石を蹴って、蔦の絡まる茂みへと真っ逆さまに突っ込んでいった。


次の瞬間――。

円球の怪物が茂みに突っ込む。


**パキッ!**


つたが瞬時に絡みつく。

拘束成功。

だが、そんなものは長くは持たない。


「オンォォォォン――!」

円球の外殻から灼熱の蒸気が噴き出し、鼓膜を突き刺すような高周波が雲を突き抜けた。

怪物は激しく暴れ、巻き付いた蔦は限界まで引き絞られ、今にも弾け飛ばんとしている。


湯評タン・ピンには、もう逃げる力は残っていなかった。

体内の魔力は底をつきかけている。生き残る道はただ一つ――契約のアップグレード(昇格)だ。

湯評は右手を差し出し、そこに刻まれたクトゥルフの紋章を見つめながら、人生で初めての「祈り」を捧げた。


「銀髪の邪神は天より舞い降りる。その瞳はアメジストのごとく煌めき、面容は天使のごとく、その肉体は悪魔のごとし」


湯評はタノシへの感情を、偽りのない純粋な言葉に乗せて吐き出した。


**バキィィィィンッ!!!**


蔦がすべて断裂した。

円球が自由を取り戻す。

奴は一直線に突っ込んできた。

双方の距離――十メートル。


敵が拘束を振り切り、死が迫っているというのに、不思議と湯評に恐怖はなかった。

体の奥底から暖かな濁流が湧き上がるのを感じる。それは血管を駆け巡り、筋肉の繊維一つひとつに浸透し、傷だらけだった肉体を瞬時に再生させていく。

この力の源は、間違いなく彼の「祈り」だ。

パスが繋がり、神と人との距離がゼロになる。


「彼女は始皇帝よりも残虐で、ゴッホよりも狂っている。美の女神ヴィーナスでさえ、彼女の前では色褪せるだろう。彼女は邪悪の象徴であり、世界の敵。そして俺が決して拒めない――特大の厄介事だ」


『使用者のエネルギー上昇を検知。55%....72%...』


モニカの声も、迫りくる敵の気配も、今の湯評には届かない。

その瞳にあるのは、ただひたすらに純粋な「信仰」のみ。


「彼女が望めば地球は滅び、彼女が願えば世界は新生する」


『86%...』


円球の怪物は目の前だ。

距離は一メートルを切った。

マニピュレーターが湯評を捉えようと伸びる。


その時――。

湯評タン・ピンの左手に嵌められた青木の腕輪が、強烈な光を放った。


一柱の清水しみずで成る龍がそこから飛び出し、円球の怪物に正面から激突。奴を遥か彼方へと吹き飛ばした。

飛散した水流が消えた後、そこには古風な長剣が一本、大地に突き立っていた。

柄には龍の装飾が施され、剣身は月光を浴びて銀色の輝きを放っている。


どこから来たのかなど、考える暇はない。この千載一遇の好機を掴むのみだ。


「全能なるタノシよ! 貴方の卑小なる奴隷がここにねがう。慈悲を垂れ、我に強大なる力を与え給え!」


『99%...』


語り終えた刹那、手甲の「水神の印」が眩いばかりの蒼光を放った。

源々(げんげん)と湧き出る力が天を突き抜け、世界の理を書き換えていく。


遠方の城――。

一人の隠者が、その光に気づいた。

「これは……?」

彼女は独り言を漏らすと、階下へと続く階段を駆け下りていった。


---


『使用者の契約アップグレードを確認。【デスナイト(死の騎士)】への適性を拒絶! 目標変更、検索中……【ダークナイト(暗黒騎士)】が適合! 契約成立!』


『エネルギー充填100%! 警告、警告! 使用者は直ちにエネルギーを放出してください! さもなくば肉体が負荷に耐えきれず崩壊します!』


モニカの警告がスピーカーから鳴り響くが、湯評は応えない。

いや……もはや言葉を発する余裕すらなかった。

神の力は無限の可能性を秘め、凡人を瞬時に超人の領域へと押し上げる。

だが、その覇道なる力は同時に湯評の肉体を侵食していた。

限界まで膨らんだ風船のように、いつ破裂してもおかしくない。

その前に、決着をつける。


湯評は静かに歩み寄り、長剣を抜き放った。

剣身に刻まれた銘が、光の中で浮かび上がる――【七星龍淵しちせいりゅうえん】。


**シュッ!**


円球の怪物が再び姿を消し、湯評の背後に転移フラッシュした。

湯評は振り返らない。


深淵邪法アビス・アーツ……」


水神の印が再び輝く。

湯評の背中から八本の半透明な触手が、花が開くように展開した。それらは一瞬で収束し、純白の盾を形成する。


**ドォォォォン!**


攻撃は完全に防がれた。


「……クラゲ・シールド(海月防護壁)」


時間が凍りつく。

大地が震え、空気が鳴動する。

邪神の代行者は静かに振り返り、長剣を構えた。

その瞳に、慈悲の色はない。


「さあ……反撃の開始だ」

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