第25話:火光と襲撃(かこうとしゅうげき)
「冷戦」――。それは西暦1946年から1991年にかけて、アメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国との間で繰り広げられた、政治、経済、科学技術、軍備における競争のことだ。
その理由は極めて単純。「大洋の向こう側にいるムカつく野郎に、俺のイチモツの方がデカいと思い知らせてやる」という見栄の張り合いである。
双方が一歩も引かず、かといって先に手を出して戦争を始める度胸もない。小学生の喧嘩のようなこの愚行を、歴史家たちは「冷戦」と呼んだ。
そして今、太平洋のどこか。拡張を続ける奇妙な島の上でも、似たような「愚行」が繰り広げられていた……。
カタ、カタカタ……。
タノシ神殿の四階。オフィスへと改造された一室に、微かな音が響いていた。
キーボードを叩く音だ。
北欧から輸入された無垢材のデスクの上には、書類の束がビルのようにそびえ立ち、その中心にいる黒髪の男を包囲していた。
「ふう……これでよし!」
湯評はマウスを操作し、『タノシ牧場共和国―ゲーミフィケーション(Gamification)』と名付けられたパワーポイントのファイルに保存ボタンを押した。
ファイルをモニカに転送すると、湯評は大きく背伸びをして、そのままPCチェアに体を預けた。
静寂が部屋を支配する。広い室内には彼一人。
背中に触手を生やしたあの銀髪幼女は、今どこにいるのかも分からない。
しばしの休息の後、湯評はスマートフォンを手に取り、時刻を確認した。
西暦2040年4月28日、午後9時11分。
「あいつ……まだ怒ってるのか?」
窓の外の夜空を見つめる湯評の瞳が、次第に焦点を失っていく。記憶が溢れ出した。
この島に来てから、いつの間にか一ヶ月以上が過ぎていた。
ただのニートだった自分が、ひょんなことから邪神と消えない契約を交わし、挙句の果てにはその婚約者にまでなった。
初心者市から一万キロ離れた無人島まで、二人は寄り添ってきた。
たった二人きりだったのが、今では三十人を超える大所帯だ。
その間には笑いもあれば、喧嘩もあった。唯一変わらないのは、互いの絆が深まっているということ。
かつてタノシは言った。「私と貴方の電波は合っている」と。
それは嘘ではなかった。
共に過ごす時間の中で、湯評もそれを痛感していた。
種族、性別、年齢、育った環境、価値観……すべてが違う。
だが不思議なことに、湯評はタノシと一緒にいるのが心地よかった。
いわゆる「同類」であり、「一目惚れ」ならぬ「一目旧知」とはこのことだろう。
タノシもきっと、同じように思っているはずだ。
だが、どれほど波長が合っていようとも、相手の心のレッドラインに触れてしまえば、親友だろうと一触即発の事態になる。
五日前。湯評は地下ドックに忘れ物のスマホを取りに行き、偶然見てしまった。
ブロードたちが血の付着した大きな木箱を運び、自分には開けられない金属の扉の向こうへと消えていく姿を。
その瞬間、湯評はすべてを察した。
彼は怒りに任せてモニカを問い詰めた。
モニカはただ彼を一瞥し、淡々と告げた。「これはタノシ様の命令です」と。
理性が飛びそうになった。
モニカの襟首を掴もうとした湯評だったが、逆に首を絞められ、壁に押し付けられた。
「あの夜、初心者市で起きたことは、貴方も疾うに知っているはずでしょう? 今さら逆上するのは遅すぎるわ」
「……っ」
言葉に詰まった湯評は、モニカの金属製の腕を必死に掴み、内側の苛立ちをぶつけることしかできなかった。
「いい方に考えなさい。あの人たちは全員死んだわけじゃない。少なくともタノシ様に食べられたり、なぶり殺されたりはしていないわ」
「実験が成功すれば、彼らは新しい姿でこの世界に戻ってくる。そうすればわざわざ外から国民を募る必要もなくなる」
「貴方がこれを受け入れ、私に協力してくれるなら、すべては好転する。だから……もう怒らないで。いいわね?」
「……」
あの日以来、湯評はホテルを出た。タノシと同居するのをやめ、神殿の書庫で寝泊まりするようになった。
仕事は続けていたし、たまに地下ドックでモニカたちと会議もする。
だが、タノシとは顔を合わせなくなった。
湯評はタノシを憎んでいるわけではなかった。彼女が邪神であり、独自の価値観を持ち、そのルールで千年以上も生きてきたことは理解している。
ただの人間である自分に、彼女を指弾したり変えたりする資格があるのか?
結局、湯評はかつての得意技を選んだ――「逃避」だ。
嫌なことから目を逸らして、時間の流れがすべてを洗い流してくれるのを待つ。
だから、ここ数日、湯評はタノシからのメッセージを見ないだけでなく、彼女が現れそうな場所を徹底的に避けた。
タノシもまた湯評の意図に気づいたのか、突然の「冷戦」の理由を問うてくることはなかった。
彼女は朝霧のように気配を消し、まるで最初からいなかったかのように静かになった。
双方が、先に口を開くことを拒んだ。
二日前。湯評がトイレから戻ると、机の上にプリンが一つ置かれていた。
湯評は呆然とし、すぐにタノシにメッセージを送ろうとした。
正直、この期間は彼にとっても苦痛だった。二十歳を過ぎて「冷戦」なんて、自分でも幼稚だと思っていたのだ。
幸い、修復のチャンスは向こうからやってきた。
湯評はメッセージアプリ「Linko」を開き、タノシのアイコンをタップした。
そして入力欄に打ち込む。『仲直りしよう』。
送信ボタンを押そうとしたその時、画面に赤いビックリマークが表示された。
【警告:貴方は相手の友達リストから削除されています】
「……」
その瞬間、湯評はすべてを理解した。
ああ、あのプリンは、この瞬間の絶望を味わわせるために置かれたのか!
……時間は現在に戻る。
午後十時。ショッピングモール「TOSTTO」一階のフードコート。
湯評は落ち着いた足取りでファストフード店に入り、壁際の席を陣取った。
(あいつは前もここに来ていた。夜中のこの時間なら、会える可能性が高い……)
湯評は心の中で考えながら、水神の印から一箱の粘土を取り出した。
それは海外の有名アニメ系MeTuberとTOSTTOがコラボした、「ねんどろいどDIYセット」だ。
子供たちに自作フィギュアの楽しさを伝えるという名目で、TOSTTO限定で発売されている。
中には基礎となる骨架と、マウスサイズのグレーの粘土、ヘラ、絵の具セットなどが入っている。
対象年齢は子供だが、メーカーの宣伝攻勢により、人気配信者たちがこぞって開封動画をアップした。
結果として商品は爆発的にヒットし、今や大人も子供も夢中になる超人気アイテムとなっていた。
失業中だった湯評も、かつて二セット購入していた。理由は単純――節約のためだ。
正規品のねんどろいどは高すぎる。彼のような貧乏人は、輸入品ではなく「国産(自作)」で代替するしかなかった。
もっとも、最初の一つを作った時点で、彼は自分の芸術センスの無さに絶望したのだが。
心霊人形のような出来損ないの半完成品はゴミ箱行きとなり、残ったもう一箱は戸棚の奥深くに放り込まれた。
今、彼はかつての遺恨を晴らし、偉大なる邪神に最高にして完璧な「供物」を捧げようとしていた。
湯評の指先が器用に動くたび、わずか15秒足らずで基礎となる人型が形作られていく。まるで熟練のパン職人が生地に命を吹き込むように、その柔軟な塊に新たな生命が宿っていく。
一時間が経過した。タノシの「ねんどろいど」は、身体、衣服、ポージング、表情、そして彩色に至るまで、すべてが完成した。
「……何かが足りないな」
湯評は顎に手を当てて考え込むと、余った粘土を手に取り、標準的な球体へと丸めた。そこからさらに彫り込み、削り出し、起伏に富んだ地貌を作り上げていく。
最後に色を乗せれば、そこには実物と見紛うばかりの「地球」が完成していた。
そして、ねんどろいどと地球を組み合わせて並べると……。
「ふむ。予想以上の出来栄えだ」
湯評は満足げに頷き、台座を回して自らの傑作を全方位から眺めた。
直径15センチの白い円盤の上。タノシは黒地に金の紋様が躍る、しなやかな長袍を纏っている。
彼女は裸足のつま先で立ち、両手を高く掲げ、その掌の上には太陽のごとき緑色の光球を凝縮させていた。
顔に浮かぶのは、末期のヤンデレを思わせるニチャアとした痴笑。その表情には、狂気そのものが満ち溢れている。
そして彼女の前に佇んでいるのは、我らが不運なる「地球君」だ。
邪神お嬢様の前でポツンと転がっているその姿は、今にもあの『緑色の厄災』によって撃ち抜かれ、粉砕される寸前のように見えた。
湯評は満足げに微笑んだ。
仕上げに木材の端材を細長い三角柱に削り出し、『翡翠水素弾』と文字を刻んで台座に貼り付けた。これで、すべてが完了した。
湯評が手を止めた、その瞬間だった。
「私の姿を作るのに、こんなに時間をかけるなんて。そんなに私のことが好きなの?」
顔を上げると、机の向こう側に小悪魔のような笑みを浮かべた少女が座っていた。
(……魚は掛かったな)
湯評は心の中で確信した。
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神殿への帰り道、湯評とタノシは肩を並べて歩いていた。
タノシは神力が不足しているため、幼女の姿のままだ。手を繋いで歩くその姿は、傍目には仲睦まじい父娘のように見えるだろう。
タノシは手の中のねんどろいどを弄り、そのキラキラと輝く瞳を見る限り、相当お気に召した様子だった。
「仕事は順調?」
「まあな。モニカがいる限り、大きなミスが起きる心配はほとんどないし……痛っ!」
湯評の腰に鋭い痛みが走った。何かに強くつねられたような感覚。
見れば、タノシの背中から伸びた触手の一本が、彼の脇腹を攻撃していた。
「ふん! この国においても、貴方の心においても、女神は私一人だけでいいのよ! しっかりその脳内に刻みなさい、この浮気者のクズ人間!」
タノシはフィギュアを振り回し、フグのように頬を膨らませた。
「はいはい、分かったから……」
湯評は脇腹の青あざを確認することもなく、代わりに、ゆっくりと引っ込んでいく細い触手の一本をムギュッと掴んだ。驚くほど弾力のあるその感触を指先で楽しむ。
これは女神の婚約者だけに許された特権だ。
認めざるを得ない。時として、こうした身体的な触れ合いは、恋人(?)同士の衝突を和らげる特効薬になる。
「エッチ!」
タノシは毒づきながらも、ついに声を立てて笑い出した。
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オフィスに戻ると、湯評は書類の山から一冊の企画書を引き出し、タノシの前に置いた。
彼女は事務椅子に座ったまま、くるりと一回転して上機嫌だ。
「ええ、効率がいいわね!」
タノシは書類を手に取り、いかにも分かっている風を装ってページをめくり始めた。
湯評は呆れて言葉を失い、すぐさま歩み寄って、彼女の手の中の企画書を上下逆さまに直して差し出した。
「おっと、道理で読めないわけね! ありがとう忠実なる下僕、気が利くわね!」
タノシは恥じ入る様子もなく、ケラケラと笑いながら話を逸らした。そして『国民募集マニュアル・上』と書かれた書類に目を落とす。
タノシの意識が集中し始めたのを見計らい、湯評が口を開いた。
「先に言っておくが、この企画書に記されているのはビッグデータ分析。つまり、ターゲットとなるコア層を見つけ出す手法だ」
「ふむふむ」
女神様は頷きながら、パラパラとページをめくっていく。
「その信頼性を検証するには膨大な試験が必要になる。具体的な方法とフローは、こちらの『国民募集マニュアル・下』にまとめてある」
湯評はもう一冊の書類を取り出した。デスクからではなく、水神の印の空間からだ。
これは彼が過去の経験、特に前職である「ネットアイドルのマネージャー」としてのノウハウをすべて注ぎ込んだ究極のレポートだ。
湯評が分析した現代社会の歪み、そしてアイリンドの底辺層が直面している苦境。
どこを切り口にして、自国のみならず世界中の弱者たちを籠絡し、惹きつけるか。彼らが自ら進んで『タノシ牧場共和国』へと身を投じるための緻密な戦略が、そこには詳細に描かれていた。
この企画の実現可能性について、湯評には絶対の自信があった。
何しろ彼は、あの『雨上がりの晴天』を素人の山から掘り出し、トップ配信者へと押し上げた超一流のマネージャーなのだから。
「とにかく、早く見せなさいよ! 待ちきれないわ!」
タノシは下巻の内容を求めて、急かすように両手を伸ばした。
だが、タノシの手が書類に触れる直前、湯評の動きが止まった。
「?」
「……俺のしていることは、正しいのか?」
土壇場に来て、湯評の心に迷いが生じた。
これで本当にいいのか?
これが最善の選択なのか?
もっと他に、マシな方法があるのではないか。
もしこの企画が始動してしまえば、手首に刻まれたこの『水神の印』と同じように、もう二度と引き返せなくなるのではないか――。
手の甲に浮かぶクトゥルフの紋章を見つめ、湯評は葛藤の渦に飲み込まれそうになった。
しかし、女神様は彼に二度目の躊躇を許さなかった。
「私はいつだって正しいわ! 過去も、現在も、未来も。そしてもちろん――貴方を選んだこともね、忠実なる下僕!」
「私が望んだ男、私が信頼した男。その優秀な男が下した選択が、間違っているはずなんてないわ!」
タノシは立ち上がると、微かに震える湯評の両手を握りしめた。その瞳には、一点の曇りもない真実が宿っていた。
「なら……もし、本当に間違っていたらどうするんだ?」
「やだ、そんなの……私の『初めて(の挫折)』を貴方にあげるだけよ」
「…………」
一千歳を超えた「おばあちゃん」が、真っ赤になった頬を両手で包み、乙女のように恥じらう姿を見て、湯評は反論する気力すら失った。
「大丈夫よ! 私が保証するわ、本当に!」
「そうか……そうだな……」
彼女の澄んだ瞳を見つめ、湯評もついに覚悟を決めた。
彼が力を抜くと、企画書はパサリとタノシの手の中に落ちた。
それは降参ではなく、受容だった。
運命に対しても、そして自分自身の内なる声に対しても。
タノシは書類を水神の印に放り込むと、ニマニマと笑って言った。
「貴方を抱っこして寝るのも久しぶりね。さあ、行きましょう! 今夜は少しぐらい、私に乱暴してもいいわよ?」
「お前、俺のことをなんだと思ってるんだよ……」
湯評は呆れて溜め息をついたが、拒絶はしなかった。異性との身体的な接触にも、もうすっかり慣れてしまっていた。
「ヒヒッ!」
タノシは上機嫌で出口へと向かった。だが、しばらくして振り返ると、湯評がまだその場に立ち尽くしていることに気づいた。
「行かないの?」
タノシは怪訝そうに彼を振り返った。
だが、湯評はまるで何かに取り憑かれたように立ち尽くし、呆然と窓の外を凝視していた。
「……見間違いか、それとも何かの見間違いか。あっちに……急に城が現れたんだ。中に光の点が見える。あれ、お前の仕業か?」
湯評が指さす方向へ、タノシも半信半疑で視線を投げた。
次の瞬間、彼女の瞳孔が限界まで見開かれた。
暗闇に包まれた遠方に、確かに見知らぬ城が聳え立っていた。そこには、ポツリポツリと微かな橙色の光が点っている。
「!?」
螢?
いや、違う! あれでは大きすぎる!
しかも、それらは城のあちこちを迅速に移動している。
あれは……松明の火か?
あの城の中に、誰かいるというのか!?
それも、かなりの数で?
「タノシ様、一体あれは……って、なんでお前まで『驚き桃の木』みたいな顔してるんだよ」
タノシがこれほどまでに狼狽する姿を見るのは、湯評にとっても初めてのことだった。否応なしに緊張が走る。
「……分からない! 私の仕業じゃないわ! 一体誰が……私に悟られず、これほどのことをやってのけたというの!?」
「じゃあ、僕たちはこれからどう……えっ? 火が消えた?」
湯評は驚愕した。城の中の火影が、凄まじい速さで次々と掻き消えていく。それどころか、城全体の輪廓までもが、まるで日蝕のように闇に呑み込まれていくではないか。
いや、違う!
火が消えたわけでも、城が消えたわけでもない!
何かが城全体を遮ったのだ。それがとてつもなく巨大なのか、それとも……。
そこまで考えが至った瞬間、湯評は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「逃げろ!!」
**ドォォォォン!!!**
湯評の声が響くと同時に、二人の目の前にある広大な掃き出し窓が、粉塵となって弾け飛んだ。巨大で漆黒の「不明な物体」が、一直線に室内へと突っ込んでくる。
二人が反応する間もなかった。
それは湯評の体を鷲掴みにすると、鮮やかな旋回を見せ、反対側の壁を突き破って夜の闇へと消え去った。
一人残された少女の悲鳴が、天を衝く。
「――忠実なる下僕ぅぅぅーーーー!!!」
**(第一巻・完)**




