第24話:タノシ牧場共和国
早朝。
湯評一行が滞在するホテルの真下、地表の喧騒から遠く離れた地下深く。ある金属製の重厚な扉の向こう側には、部外者に決して知られてはならない機密――『生命院』が隠されていた。
名は体を表す。そこは生命を研究する科学の殿堂であると同時に、生命を冒涜する背徳の地でもあった。
銀髪の女神は、整然と並ぶ培養槽の一つを前に立ち、静かに中の「検体」を見つめていた。
「選別の結果はどうですか?」
タノシが問いかける。
背後に控えるスーツ姿の麗人、モニカが即座に応じた。
「極めて順調です。280万人のうち20万人には、貴女様の神力に対する拒絶反応が見られませんでした。そのうちの4000人には顕著な先祖返り現象が確認されています」
「血統のランクは低いものが大半ですが、それでも育成に値する優秀な苗木が200名ほど選出されました」
「さらにその200名の中でも精鋭、最も潜在能力の高い7名は、特製の培養槽に別途安置しました。時が満ちれば、いつでも解凍可能です」
モニカは実験の進捗を、理路整然と報告した。
「そう……ならいいわ」
滑らかなガラスの表面に、タノシの絶世の美貌が映り込む。
起伏のない声は、彼女が過程に全く興味がないことを示していた。彼女が求めるのは結果、ただそれだけだ。
タノシがガラスに掌を触れると、培養槽内の照明が一段と明るくなり、中の造形が鮮明に浮かび上がった。
巨大な円柱形の容器。その中には、一人の人間の女性が全裸で横たわり、深い眠りについていた。
淡緑色の液体が上部の管から絶え間なく注入され、容器内をゆっくりと循環しながら、無数の気泡を躍らせていた。
「そろそろ……始まるわね」
タノシは培養槽から視線を外すと、階段を降りて出口へと向かった。
三層構造のピラミッド型建築を背に歩き出す。彼女の周囲には、どこまでも続く緑色の水晶が、地平線の彼方まで林立していた。
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正午。
ホテルの近隣に新設された城の門前に、魔狼族の一行が集結していた。
それはタノシが『水神の印』から取り出した私物であり、彼女専用の神殿だ。
この建物は『タノシ牧場共和国』の最初の公的施設として、本日、全市民に向けて開放される。
今日は神殿で盛大な式典が執り行われる手はずとなっていた。新国家の設立、そして女神の婚約者――湯評が強力な魔獣を仕留めたことを祝うための祝典だ。
現在地球に滞在しているタノシ配下の全眷属が集い、この厳かな瞬間を見守ることになっている。
魔狼族の面々が門をくぐるなり、庭に鎮座する巨大なスタチューに度肝を抜かれた。
「デカいな……!」
ブラックが仰ぎ見ながら感嘆の声を漏らした。
それは高さ三階建てのビルに匹敵する、巨大な「ねんどろいど」風のフィギュアだった。モデルはもちろんタノシだ。
彼女は微笑みを浮かべ、片足で立ち、もう片方の足を後ろに軽く跳ね上げている。右手は高く掲げられ、挨拶をするようなポーズをとっていた。
作りは非常に精巧で、粘土やプラスチック、シリコンを主材料としている。表面には汚れ一つなく、しっとりとしたマットな質感を放っていた。
顔、四肢、そして触手には特製シリコンが使用されており、肌のような温かみと、空気越しに伝わる独特の柔らかさを備えている。
全体として非常に親しみやすい造形であり、子供たちには大いに喜ばれそうなデザインだった。
「夫婿様のお話では、これは『ねんどろいど』という名の彫像で、この世界では人間に大人気なのだとか」
ブロードが説明した。
「そうか? 私は元々の姿の方が格好いいと思うがな。これではちっとも怖くない」
ブレイクスが両手を腰に当て、理解に苦しむといった様子で首を振った。
着工初日、たまたま通りかかった彼は初期の設計図を目にしていた。
モニカが提示した当初の案では、そこにはタノシの本尊――すなわち「クトゥルフ像」が置かれるはずだったのだ。
しかし、「子供が泣く。新国民に偏見と恐怖を植え付ける」という湯評の猛烈な反対により、現在の形に落ち着いた。
「それこそが夫婿様の狙いなのでしょう。より親しみやすく、とね」
ブロードは苦笑した。
族長のブレノが、立ち止まる面々を急かした。
「さあ、行くぞ! 女神様をお待たせするわけにはいかん!」
その声に促され、魔狼族一行はようやく神殿の中へと足を踏み込んだ。
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湯評が神殿の扉を開けると、そこにはなんとも不思議な光景が広がっていた。
一人の銀髪幼女が電子レンジに向かって両手を掲げ、幼い声で高らかに叫んでいる。
「で~ん~じ~は~(電磁波)!」
叫ぶと同時に、彼女の体は一定のリズムで上下に揺れ、ふんわりとしたレースの裾がひらひらと舞う。その姿は、まるで海中を泳ぐ白い水母のようだった。
次の瞬間、コンセントも差さっていない電子レンジのライトが怪しく点灯し、中のターンテーブルが回転し始めた。
十秒後、「チン!」という軽快な音が響き、レンジの扉が自動で跳ね上がる。
皿に乗った巨大な赤ロブスターがふわりと宙に浮き、湯評の目の前のテーブルへと着地した。
「忠実なる下僕! 来たわね!」
湯評の姿を見るなり、タノシは南極の氷をも溶かしそうなほどの燦然たる笑みを浮かべた。
彼女は撮影中であることも構わず、右手を高く掲げ、片足を後ろに跳ね上げて、庭にあるフィギュアと同じポーズを決めてみせた。
その様子に、湯評は思わず吹き出した。
元気いっぱいの少女といったその姿は、彼女の纏っている衣装と相まって、言いようのないチグハグさを醸し出していた。
今日の式典のために、タノシはいつもの漆黒の長袍を脱ぎ捨て、シンプルな白いドレスを身に纏っていた。
純白のマットサテンを用いたそのドレスは、裾の部分に宮廷風のレースが美しくあしらわれている。
無駄な装飾を削ぎ落とした洗練されたカッティングは、生地そのものが放つ繊細で柔らかな光沢を引き立て、比類なき気品を漂わせていた。
その身は小さくとも、一挙手一投足に宿る神霊としての威圧感と、絶対的な自信。それは大人びたデザインのドレスさえも「君臨する者」の装いへと変えてしまう。……彼女が口を開きさえしなければ。
「神の威圧」と「元気っ娘」。この接点のない二つの要素が同居している様を見て、湯評が笑ってしまうのも無理はなかった。
「おはようございます、湯評様」
傍らでカメラマン役を務めていたモニカがスマートフォンを置き、挨拶をしてきた。
彼女たちが何をしていたのか、湯評には分かっていた。これも企画書の一環だ。
湯評がかつて「ネットアイドルのマネージャー」として培った経験を活かし、タノシを「ギャップ萌えのある触手系美少女」としてネット界にデビューさせる。
今のショート動画は、そのための素材だ。
「……また縮んだのか?」
目の前のタノシは成人女性の姿ではなく、あの日島を改造した後に縮んでしまった幼女の姿だった。
「貴方の熱い愛を浴びすぎて、熱膨張しちゃった後に急冷されたの!」
タノシは両頬に手を当て、しおらしい表情を作ってみせる。
そのわざとらしい演技に、湯評の頬が引きつった。
湯評はタノシの手をどけると、その柔らかい頬をムニムニとつねり始めた。
「だったら大きくなるはずだろ。なんで縮んでるんだよ」
「は……は、はなして……(離して)!」
タノシが回らない口で抵抗する。
「これは『ベニクラゲ・モード』の後遺症です」
モニカが解説を挟んだ。
「タノシ様の神力は、島の改造と召喚術式に注ぎ込まれています。報告は受けているでしょう? 近いうちに大量の眷屬が到着します。そのための準備が必要なのです。召喚中に術式が遮断されたり、空間構造が不安定になれば、彼らは空間通路の中で全滅してしまいますから」
「そんなに大変なのか……大丈夫か? その体になって、負担はないのか?」
湯評の視線がタノシの体を走る。目立った傷は見当たらない。
「後でたっぷり稼がせてもらうから、心配いらないわ!」
タノシは腰に手を当て、自信満々に言い放った。
「タノシ様、そろそろお時間です」
モニカが時計に目をやり、入場を促した。
「ええ。忠実なる下僕よ、私を抱きなさい!」
「御意」
湯評は胸に手を当てて一礼すると、タノシの体をひょいと横抱きにした。お姫様抱っこの体勢で、彼女を玉座まで運ぶ手はずだ。
実を言えば、これは正規のプロトコルではない。
当初の計画では、タノシの強大な神力を示すため、巨大な水柱を黄金の玉座に叩きつけ、その飛沫が舞い散る中から神々しく登場する予定だった。
だが、女神様本人が「そんなの面白くないわ」と一蹴し、この形に変更されたのだ。
重厚な木製の扉が開くと、蝋燭と白檀の香りが鼻をくすぐった。湯評がタノシを腕に抱いて大広間へ足を踏み入れると、そこにはすでに全眷属が居並んでいた。
湯評は背筋を伸ばし、一歩一歩、レッドカーペットの先にある黄金の玉座を目指して進む。
衆人環視の中、湯評はついにカーペットの終端へと辿り着いた。
ふと見ると、玉座へと続く階段の右脇に、一人の女性が立っていた。
漆黒のローブを羽織っているが、その隙間からは雪のように白い宮廷服と、足元の深い緑色のハイヒールが覗いている。
顔には模様一つない純白の仮面をつけ、長い髪は優雅な夜会巻きにまとめられていた。どこか「人妻」のような落ち着いた色香を漂わせている。
湯評は困惑した。これまでに一度も会ったことのない人物だ。
身なりからして魔狼族ではないし、モニカから新しいアンドロイドを作ったという話も聞いていない。一体、何者だろうか?
その女性は背後にいる魔狼族の女性と談笑していた。周囲の者たちがタノシの接近に気づいて口を慎む中、彼女だけは気づかないふりをして話を続けている。
「そういえばね、ブリトニー。最近、やけに酸っぱいものが食べたくて。梅干しとかね。どうしてかしら?」
「え、ええと……」
ブリトニーの表情が引きつる。
今ここで返事をしていいものか、どんなアドバイスを返すべきか。もし彼女の言葉が「真実」なのだとしたら、不用意な回答は重大な連鎖を引き起こし、下手をすれば死罪にすらなりかねない。
何より、タノシがすでに鋭い眼光をこちらへ向けているのがその証拠だ。
「でもね、後で気づいたの。勘違いだったわ! 私は元々梅干しが好きなの。特に、誰かさんから贈られたものなら、酸っぱければ酸っぱいほど好物なのよ」
「なんなら相手に言ってやりたいわ。『そんなに自信があるなら、毎日私の部屋に梅干しを届けてみなさいよ。いつか本当に食べて(デキて)見せてあげるから』ってね」
「……」
タノシはその独り言を耳にし、露骨に白目を剥いた。
相手の意図は明白だ。
タノシが自分への示威行為として、二日に一度、湯評と自分の体臭が染み付いたシーツを自分のベッドに放り込んでくることへの不満。
(もしこれ以上そんな幼稚な真似を続けるなら、こっちだって手段を選ばず子供を作ってやるわよ)という、タノシへの痛烈な皮肉だ。
(ふん、いい度胸ね!)
タノシはこれ以上の譲歩を拒み、その場で湯評の唇を奪った。
「!!!」
場内が騒然となる。まさかこの状況で接吻が交わされるとは、誰も予想していなかった。
だが、タノシが予期していた龍姫の暴走は起きなかった。
反対に、青嵐は静かにその場に留まり、熱を帯びた眼差しで愛する男の姿を見つめていた。
状況に置いてけぼりの当事者を除けば、その場の誰もが確信した。氷山は完全に溶けたのだ、と。
(……彼は、元気そうね)
(頬も痩せていないし、目の下の隈も消えている……。ええ、よかったわ)
(腕に抱えている『汚れ物』さえ放り投げられれば、完璧なのに!)
青嵐はそう念じながら、愛する人が一歩一歩玉座へと歩む姿を見守った。
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「今日は大事な日よ。つまらない雑音に惑わされて式典を台無しにしないでね」
「……はいはい」
湯評は溜め息をつき、反論するのをやめた。
今はただ、早くこの儀式を終わらせたい。タノシを抱き続けるのも、意外と体力を消耗するのだ。
その疲れを察したのか、タノシが低く脅してきた。
「一言でも『重い』なんて言ってみなさい。殺すわよ」
「まさか、そんなわけないだろ……」
湯評は視線を泳がせた。
黄金の玉座はもう目の前だ。
「色々なことがあったわね」
「ああ」
(確かに、大勢の人が死んだな……)
「ここまで来られて、本当によかったわ!」
「……そうだな」
(これ以上、誰も死なずに済むのなら……)
「永遠に私のそばにいてくれるわよね?」
「もちろんだよ」
(状況次第だけどな……)
「私のこと、好き?」
「嫌いじゃないよ」
(これに関しては本心だ)
「プリンと同じくらい好き?」
「まあ、そんな感じかな」
「じゃあ、大好きってことね!」
「ハハ……」
湯評は苦笑した。
「特別に許してあげるわ。私のことを『プリンちゃん』か『カ○ピスゼリー』って呼んでもいいわよ!」
「はいはい、プリンちゃん最高」
自分の言葉にどこか投げやりな響きが混じっていることは、湯評自身も分かっていた。だが、彼自身の内側に生じた小さな感情の揺らぎを、彼女が鋭敏に察知したこともまた、確かな事実だった。
わずかに見開かれた瞳、頬にじわりと広がった紅潮。そして、両端が裂けるように吊り上がった口角。それが何よりの証拠だ。彼女は、最高に美味しいケーキを口にした時のように、心から喜んでいる。
物理的な接触を通じて、二人の鼓動が少しずつ重なり合い、そして……。
**チュッ!**
タノシが再び、湯評の唇にキスをした。
今度は示威行為ではなく、純粋な祝福として。
だが、当の湯評は光栄に思うどころか、腕の中の少女をジト目で見下ろした。
「……さっき一体何食ったんだよ。歯は磨いたのか?」
**チュッ!**
返ってきたのは、二度目のキスだった。
なるほど。やはり、この手の御方に道理を説くのは無駄らしい。
ついに湯評は終着点へと辿り着いた。
彼は腕の中の愛らしい(そして厄介な)主を、黄金の玉座へとそっと降ろした。
湯評は右手を胸に当て、深く呼吸を整えた。
玉座の左側に佇むスーツ姿の美女、モニカを一瞥した後、彼は正面を向き、階下に並ぶ全眷属に向かって高らかに叫んだ。
「偉大なる至高の神に忠誠を捧げよ! 跪け!」
その声に呼応し、居並ぶ者たちが一斉に片膝を突いた。
湯評は自らタノシのために書き上げ、暗記してきた演説稿を朗読し始める。
「この神聖かつ厳かなる日、我らは歴史的な瞬間を目撃するためにここに集った」
「神代が終焉し、西暦が始まってから二千有余年。人類は地球の覇者となり、地表を掘り起こし、環境を汚染し、同族を傷つけ合ってきた。今、世界は未曾有の苦境に立たされている」
「だが、案ずることはない! 朝陽は我らに温もりを与え、月光は優しさを教え、群星は我らの栄光を見守っている。そして、邪神の力こそが、我らの心に揺るぎない自信を刻み込んだのだ」
「我らは高貴なる種族であり、清浄なる血には信念と真理が宿っている。我らは生まれながらの勝者なのだ!」
「我らは行きたい場所へ行き、成したいことを成す」
「我らの行く先を制限する者も、我らの行いを指図する権利を持つ者も存在しない。たとえそれが、世界の意志であろうともだ!」
「緑の輝きが照らす場所、波濤が押し寄せる地。そこにはクトゥルフの旗が自在に翻るだろう」
「我らは大邪神タノシの子。虚無より生まれ、泥を材とし、水を注がれて形を成し、偉大なる神の口づけによって目を開いたのだ」
「微力なる我らは、尊くも偉大なる創造主のため、その忠誠を、生命を、そしてすべてを捧げることを誓う!」
「そうだ! タノシ様のために、我らのすべてを差し出すのだ!」
「タノシ様の笑顔こそが、我ら下僕の目標である!」
「タノシ様の夢こそが、我ら下僕の宿願である!」
「タノシ様のまします地こそが、我ら下僕の故郷である!」
「今日、この神聖なる場において、私――タノシ神教代理教皇、兼タノシ神国最高執政官・湯評は、諸使徒、ならびに全世界に向けて厳粛に宣言する……」
「『神聖タノシ牧場共和国』、ここに建国せん!」
言い終えると同時に、湯評はクトゥルフの紋章が刻まれた旗を高く掲げた。
強風に煽られ、滑らかな布地がゆったりとはためく。無機物であったはずの旗に、新たな命が吹き込まれたかのような躍動感。
それは新たなる始まりであり、偉大なる時代の幕開けだった。
神々が支配する時代が、再び降臨したのだ。
「タノシ牧場共和国、万歳!」
「万歳!!!」
「万歳!!!」
「万歳!!!」
「万歳!!!」
「万歳!!!」
信徒たちの狂信的な歓声が響き渡る中、邪神を信奉する罪深き国家が正式に産声を上げた。
神代の終焉、そして人類の台頭以来、初めて誕生した神の国。それは世界の意志による承認を経ず、異邦の手によって打ち立てられた独立国家である。
近い将来、この国がどのような偉業(あるいは恐るべき惨劇)を成し遂げ、地球規模の政治地図にどのような影響を及ぼすのか、今はまだ誰も知らない。
ただ唯一確実なのは、世界の歯車が本来の軌道を外れ、未知なる方向へと回り始めたということだけだ。




