第23話:新たなる時代
「うわあああああああ!!!」
湯評の悲鳴が、再び森の中に木霊した。
彼は何も考えず、ただ無我夢中で駆け出した。
走り、走り、走り続け……ようやく直径二メートルはあろうかという大木の前で足を止めた。
湯評は大木の幹に背を預け、肩で荒い息をつきながら、滝のような汗を流した。今にも脱力して倒れ込みそうな有様だった。
幸いにも、背後から響いていた地響きと咆哮は消え去っている。どうやら助かったようだ。
その時、彼はふと大事なことを忘れていることに気づいた。……モニカがいない!
「まずい、モニカをあそこに置き去りにしてしまった!」
探しに行かなければ、と足を踏み出した瞬間、頭上から声が降ってきた。
「オリンピックなら金メダルものですね。逃げ足だけは本当に速い。感心しますよ、湯評」
見上げると、一台のドローンが悠々と舞い降りてくるところだった。モニカの端末(分身)の一つだ。
「よかった、無事だったんだな!」
湯評は胸をなでおろし、安堵の表情を浮かべた。
「私は飛行ユニットです。あのような魔獣の攻撃が届くはずもありません」
「ハハ……そりゃそうだよな……」
自分の独り相撲だったことに気づき、湯評は少し頬を赤らめた。
「それはそうと、てっきり魔法で攻撃するのかと思ったよ。君ならあの程度の魔物、簡単に片付けられただろ?」
ドローンが湯評の目の前でホバリングし、スピーカーから冷ややかな女性の声が響く。
「魔法? 私は魔法など使えませんよ。タノシ様から教わった数少ない『神術』を使えるだけです」
湯評は大木に背を預けたまま、地面にへたり込んだ。
激しい運動の反動がじわじわと体を蝕み、肺が焼けるように熱い。
「神術は魔法の一種ですよ。ご存知なかったのですか?」
「……それは初耳だ」
「魔力と神力の違いと同じです。神が使う魔法を神術と呼び、人間や魔族が使うものを魔法と呼ぶ。ただそれだけのことです」
茫然とする湯評に、モニカは解説を続けた。
「タノシ様は、あえてこの辺りの情報をあなたに伏せているようですね。契約をアップグレードし、さらなる段階へ進むのを待っているのでしょう」
「はは、前向きに検討させてもらうよ……」
湯評は適当な返事で茶を濁した。
呼吸が落ち着いてくるのを待ち、彼は改めて問いかけた。
「モニカ……俺にも、魔法は使えるようになると思うか?」
「理論上は可能です」
「じゃあ、君が……」
湯評が控えめに探りを入れると、モニカは即座にその淡い期待を打ち砕いた。
「教えられません」
「……えっ?」
湯評の心に少し傷がついた。目の前で何度も彼女の術(?)を見てきたというのに、はぐらかされたと思ったのだ。
モニカは彼の不満げな様子を察し、理由を付け加えた。
「あなたが学びたいのは、漫画に出てくるような火球や風刃の類でしょう?」
「うん、そうそう!」
湯評が食い気味に頷く。
「ですが、私が使えるのは『データ演算』『物体分解』『機体分裂』といった機械系統の魔法と、わずかな治癒系の神術のみです。つまり……」
「……方向性とジャンルが違いすぎて、教わりたくても教われないってことか?」
「正解です」
「はぁ……」
希望の光が消え、湯評は肩を落とした。
「漫画のキャラクターのような技を身につけたいのであれば、タノシ様に直接頼むのが得策でしょう。彼女は戦闘神ですから、その手の神術には事欠きません」
「分かったよ。機会があれば聞いてみる」
湯評はあまり期待していなかった。契約を上げれば再び「社畜」のような立場に引き戻される気がして、今の気楽な現状を維持したいという思いが強かったからだ。
「実は……もう一つ方法があります。今まで試したことはありませんが、身体への副作用を厭わないのであれば、検討の余地はあります」
モニカはしばし躊躇した後、その手段を明かすことに決めた。
これが成功すれば、今後の建国計画において大きな助けとなる。
ただし、湯評が「最初の被験者」になることは避けられないが。
「どんな方法だ? 早く教えてくれ!」
湯評が身を乗り出す。
「慌てないでください。今、運ばせています」
「?」
突如、再び頭上からプロペラの回転音が響いた。
別のドローンが現れ、機体の下に一つの箱を吊り下げていた。
ドローンは湯評の目の前に着陸して箱を切り離すと、再び上昇し、空の彼方へと消えていった。
湯評が段ボールを開けると、そこにはあるデバイスが入っていた。
「これ、君がプレゼントしてくれるって言ってたやつじゃないか。もう完成してたのか」
それは一見すると、銀灰色のシンプルなARスマートグラスだった。流線型のデザインが施され、未来的なテクノロジーの香りが漂っている。
「正式名称は『エーテリス(Aetheris)』。戦術用ARスマートグラスです。視覚情報を拡張し、現実世界をゲームのインターフェース(UI)のように表示させることができます」
「設定は済ませてあります。直感的に操作できるはずですよ」
モニカの補助を受けながら、湯評はその眼鏡を装着した。
「すごい……! 本当にゲーム画面みたいだ!」
視界に映る光景に、湯評は感嘆の声を上げた。
視界の左上には赤と青のバーが表示されている。HPとMPだろうか。
その下には自分の名前『湯評』。隣の欄には『LV 59』の文字。
(これが俺のレベルなのか……?)
湯評は顔を上げ、遠くを見渡した。
ある大木の根元を、青い狐が通り過ぎるのが見えた。よく見ると、尾が二本ある。
「もっと大きく見えればいいのに」と彼が念じた瞬間、視界が切り替わった。
狐の周囲にターゲット枠が出現し、その部分だけが拡大表示されたのだ。
まるで望遠鏡を覗いているかのように、毛並みの一本一本までが鮮明に映し出される。
狐の頭上には黄色いマーカーが現れ、そこには『二尾狐:LV 25』と注釈がついていた。
「す、すげえ……!!!」
これを外の世界で売り出せば、一瞬で世界一の大富豪になれるだろう。
「さて、狩りに戻りましょうか。準備はいいですか?」
モニカが湯評の思考を遮り、彼の目の前まで飛んできた。
「ああ。それで、俺はどうすればいい?」
「画面上に、あなたの体表を流れる魔力が見えるはずです。それを、あーして、こーして……」
湯評は作戦指示を注意深く聞きながら、ふとモニカに問いかけた。
「……ちなみに、もし俺がまた逃げ出したら、俺のこと見損なうか?」
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モニカはしばし沈黙した後、こう告げた。
「少し前まで、あなたは神も魔獣も見たことがないただの人間でした。もし逃げ出したとしても、私は十分に理解できます。ですが……」
「?」
「今回の狩猟任務の様子は、録画データとしてタノシ様に送信されます。あなたが逃げる姿を見れば、彼女は一生あなたを笑いものにするでしょうね」
「……そいつは、最高にやる気が出る励ましだな!」
二人がそんな軽口を叩き合っている間に、イチゴモンスターがこちらへ到達した。
その頭上には赤いマーカーが表示され、注釈にはこうあった:『異変イチゴモンスターの王:LV 57』。
怪物は大きな口を開け、絶え間なく荒い息を吐いている。滝のように溢れ出す涎からして、相当な距離を追いかけてきて疲れ切っているのは明らかだった。
「じゃあ……サポート、頼むぞ!」
魔物が目の前に迫る。湯評は深く息を吸い込み、戦闘態勢を整えると、一気に地を蹴った……。
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長い時間の後、ようやく戦いは終焉を迎えた。
大地は無残に荒れ果て、いたるところに鮮紅色の汁が飛び散り、辺りにはイチゴジャムのような甘い香りが充満している。
「はぁ……はぁ……ついに……勝ったぞ!」
湯評は大の字になって地面に倒れ込み、激しく肩で息をしていた。
元々は整っていた青いトレーニングウェアは今やボロボロだ。
体も悲惨な状態で、頬、手首、腹部、ふくらはぎの内側、足首……いたるところが傷だらけだった。さきほどの戦闘がいかに激烈を極めたかを物語っている。
「戦闘時間、計35分。単純なレベル差から言えば、10分以内に仕留められなかったのは不合格です」
「ですが、初の実戦、初の長時間の魔力行使、初の魔獣への対応……といった要因を考慮すれば、あなたは十分に優れたパフォーマンスを見せました」
「自慢してもいいですよ、湯評」
モニカは傷口に治癒術を施しながら、今の戦闘を総括した。
「そりゃどうも……お褒めに預かり……光栄だよ!」
モニカの飴と鞭が混ざった評価に、湯評はジト目で応えるのが精一杯だった。
彼は目を閉じ、モニカの治療に身を委ねた。
だが、彼が知る由もないことだが、モニカは今収集したデータを本体のサーバーへ転送し、より詳細な分析を行っていた……。
(……仮に人間の実力レベルを1から100に分けるなら、一般的な成人はLV 30前後。オリンピック選手や特殊部隊の兵士でLV 50に達する。
神の血を引く人間は、通常時でLV 60前後、全盛期にはLV 80以上に達することもある。伝説のゼウスの息子ヘラクレスや、英雄王ギルガメッシュはこの部類だ。
そして神血を持つ者がさらに成長すれば、伝説の分水嶺であるLV 100に到達する。この障壁を突破すれば、人の身を脱ぎ捨て、青嵐のような神へと昇格するのだ。
対して湯評は、元々ニートで栄養失調気味な生活を送っていたため、肉体レベルはLV 24程度と推測される。
しかしタノシ様に出会って以来、『水神の印』の加護により、彼の血管は一分一秒絶え間なく神力に浸されている。
さらに青嵐と交流する中で、彼は大量の『龍の涎』を摂取させられ、体内部はかつてないほどの強化を遂げた。
わずか一ヶ月、それもたった一度の実戦で、LV 24からLV 70へと成長したのだ。これはもはや『神速の進歩』や『天才』という言葉では片付けられない。
湯評の体内には、本人すら知らないさらなる秘密が隠されているに違いない。
あるいは、タノシ様と青嵐の選択は正しかったのかもしれない……)
モニカは密かにそう評価を下し、湯評への治療を終えた。
「お兄ちゃん!」
突如、空から声が降ってきた。
湯評が見上げると、そこにはヘリオスがいた。
少年は両腕を広げ、真っ直ぐに湯評の胸へと飛び込んできた。
幸いにも傷は完治していたが、そうでなければ湯評は激痛で悶絶していただろう。
「どうしてここに?」
湯評は少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「お休み! 友達と遊ぶの!」
ヘリオスはニコニコと笑いながら答えた。
「休み?」
湯評は、まだ幼い子供の口からその言葉が出たことに少し違和感を覚えた。
「青……モニカお姉ちゃん、こんにちは!」
ヘリオスはモニカに挨拶しようとして、危うく別人の名を呼びそうになった。
幸い、湯評はその言い間違いを気に留めることはなかった。
「今までどこに行ってたんだ? 数日間、姿を見なかったけど」
本来、チーム唯一の子供であるヘリオスがいれば、拠点には賑やかな声が響くはずだ。だがこの数日、湯評は彼の姿を見ることも声を聞くこともなく、迷子にでもなったのかと心配していたのだ。
「領地! 見回り! 悪い奴らがいっぱいいたの! ここに近づこうとするから、僕が全部やっつけちゃった!」
ヘリオスは誇らしげに言った。
湯評の背後で、モニカは内心で呆れていた。
(この馬鹿正直な子は……機密任務を全部喋ってしまうなんて……)
かつて「ビギナーズ・シティ」に派遣された眷属の中で、ヘリオスは最強の戦力を誇っていた。しかし、彼は捕らえた兵士をうっかり焼き尽くしてしまうことが多く、捕虜の確保に支障が出たため、モニカはやむなく彼を呼び戻し、拠点の周囲に近づく魔獣の掃討を任せていたのだ。
幸い、湯評は少年の言葉を深くは考えなかった。
近所の森で遊びながら、ついでに見張り番をしてくれていたのだろう、程度に受け取ったのだ。
そう思うと、湯評は不意に感動を覚えた。
(……この子はなんて健気なんだ。拠点の周りの安全を守りつつ、大人の仕事の邪魔もしないなんて、本当に立派じゃないか!)
「すごいぞ、偉いな! よーし、高い高いして回してやろう!」
湯評はヘリオスを抱き上げ、その場でぐるぐると回った。
ヘリオスは声を上げて笑い、大喜びだ。やはり、子供というのは笑わせやすい。
「お兄ちゃん、もっと回して~!」
ヘリオスは湯評の腕にしがみつき、甘えるようにねだった。
湯評もその願いに応え、しばらく一緒に遊んでやった。
その時、湖の方角から凄まじい水音が響いた。
巨大な物体が水面を割り、空高くへと飛び出したのだ。
「な、なんだ、ありゃ……!?」
湯評は呆然とその光景を見つめた。彼の脳裏に、ある古の伝説が浮かぶ。
――北の果ての海に、鯤という魚がいた。その大きさは数千里にも及び、化して鳥となれば、名を鵬という。
「あいつ、今日できた僕の友達なんだ!」
ヘリオスは胸を張り、自慢げに言った。
一同が見守る中、バスほどの大きさがある深藍色の巨大な魚が、悠然と水面から跳ね上がった。
その胸鰭が左右に広がり、次第に力強い翼へと変化していく。尾鰭もまた長く伸び、鳥の尾羽のような形へと変わっていった。
それは一声高く鳴くと、翼を羽ばたかせ、自由自在に大空を駆け抜けていった。
「僕も行くー!」
ヘリオスは背中の小さな翼を何度も羽ばたかせ、そのまま空へと舞い上がった。
湯評の瞳に宿る憧れを察したのか、モニカが続いて声をかける。
「では、我々も行きましょうか」
モニカは湯評の背中に這い上がると、自らの機体構造を組み替え、一対の鋼鉄の翼を形成した。
彼女が力強く羽ばたいた瞬間、二人は重力の束縛を振り切り、紺碧の空へと飛び出した。ヘリオスたちに混じり、空を舞う。
一方、それほど遠くない海面下。古のピラミッドの頂で、緑の髪をした龍姫が祈りの儀式を終え、今日の務めが完了したことを告げた。
ふと、彼女は何かの気配を感じ取った。
龍姫は顔を上げ、陽光に煌めく海水を透かし、広大な天空へと視線を走らせる。
彼女には見えていた。
そして、彼女もまた、柔らかな笑みを浮かべた。
「ハハハハハハ!」
湯評は声を放って笑った。
なぜだか分からないが、そうせずにはいられなかった。
何が起きているのか完全には理解できていない。だが、内側から突き上げてくる高揚感を、どうしても抑えることができなかったのだ。
「オオオォォォーーン!」
湯評の叫びに呼応するかのように、鯤鵬もまた高らかな鳴き声を上げた。
「あいつ、なんて言ったんだ!?」
湯評は口元に両手を添え、ヘリオスに向かって大声で尋ねた。
「『偉大なる水の神が降臨された! 我が愛しき友よ!』って言ってるよー!」
ヘリオスは空中でくるりと一回転し、大声で返した。
湯評はまた豪快に笑った。脳裏には、あの小悪魔のようなタノシの笑顔が浮かんでいた。
これが現実だ。これまで起きたことはすべて、夢などではない。
クトゥルフの女神の降臨、大地を駆ける魔狼族、そして今、空を翔ける鯤鵬。それらすべてが、音もなく一つの事実を物語っていた。
――かつてない、新しい時代の到来を。
神話や伝説はもはや書物の中の物語ではない。あなたや私の生活の中に満ち溢れる、生きた奇蹟なのだ。
2040年の地球。次なる「神代」が幕を開けようとしている。
すべての始まりは、この場所から。




