第22話:食肉のイチゴモンスター
「枯葉の舞い散る日には、あなたが夏の陽だまりのように明るく、春風のように優しくあることを願います」
「私の想いは透明な雪の結晶となり、そっとあなたの頬に舞い降りて、温かな口づけへと変わるでしょう」
「あなたの一番近い場所に、私の思慕を埋めておきます。私を忘れないで。時の果てを通り過ぎたその場所で、私はあなたを待っています」
**バシャッ!**
ロング丈の登山ブーツが容赦なく水たまりを踏みつけ、黒褐色の泥水を跳ね上げた。
だが、ブーツが持ち上げられて数秒もすれば、波立った水面は再び静寂を取り戻す。
靴に付いた汚れを除けば、まるで何も起きなかったかのようだ。
しかし、湯評はその光景に無頓着だった。
彼はただスマートフォンの画面から視線を外し、前方を飛ぶドローン……あるいは、モニカをいぶかしげに見つめた。
「見たことのないアプリだな。どこの会社の新製品だ?」
投稿された文章の内容と、アプリ全体のデザインスタイルを観察した限り、湯評はこのプログラムが市販されているものではないと確信した。おそらく、どこかのIT大手の試作品だろう。
ちなみに、今日は湯評とモニカが冷戦に突入して四日目である。
朝食の時間、モニカの方から先に沈黙を破り、「登山に適した装備を整え、ホテルの裏門に集合せよ」というメッセージが届いた。
合流するなり、モニカは湯評に新品のスマートフォンを投げ渡し、一人で先頭を飛んで道案内を始めた。
そして、今に至るというわけだ。
「これは我が国専用のSNS、名は『Linko』です」
「他のソフトと同様、テキスト、写真、動画のアップロード機能を備えています。以前も言ったはずです。情報セキュリティは自国で管理せねばならないと」
モニカは、二人が初めて会った時のような冷ややかなトーンで話した。
感情を排した、極めて簡潔なコミュニケーション。
あえて距離を置こうとするその態度に、湯評は少し居心地の悪さを感じていた。
「へえ、どれどれ……おすすめユーザーは……四人だけ!?」
がらんとした欄を見て、湯評は驚きの声を上げた。
表示されているユーザーは、わずか四名。
『大邪神タノシ』、『凍土魔狼族長ブレノ』、『太陽の隼ヘリオス』、そして……『恋愛日記』。
先ほど目にしたポエムは、この『恋愛日記』というユーザーが綴ったものだった。他の三人はプロフィール画像こそ設定されているものの、テキストや写真は一切投稿していない。
湯評の推測では、これらはすべてモニカが勝手に作成したアカウントだろう。この面々の中で、人間のテクノロジーに多少なりとも興味があるのはタノシだけであり、他はみな「公務」として割り切っているからだ。
「教えられれば、学ぶ。教えられなければ、学ばない」
そんなスタンスの彼らは、人間のように寂しがり屋で虚栄心の強い生き物ではない。
「これ、誰なんだ? 俺の知ってる人か?」
魔狼族の誰かだろうか。
だが、そんな感じもしない。この人物はスマートフォンを自在に操っているだけでなく、かなりの教育を受けているはずだ。そうでなければ、これほど優美な文学的表現は綴れない。
湯評は島内の住人を消去法で絞り込んでみたが、これほど優雅な一節を書ける人物が思い当たらなかった。
「まさか、君が書いたのか?」
現代社会においてAIの活用は一般的であり、小学生ですらAIで宿題をこなす時代だ。
もしこれがモニカが人間の文学作品を学習して生成した文章だというなら、合点がいく。
「彼女は私の新しい友人です。あなたはおそらく面識がないでしょうが……感謝すべきですよ」
「はぁ?」
「彼女が私を諭し、気分を落ち着かせてくれたのです。そうでなければ、これほど早くあなたを許すことはありませんでした」
「……悪かったよ」
湯評は後ろ頭を掻き、決まり悪そうに視線を泳がせた。
「彼女は素晴らしい方です。仕事は優秀で、気風もいい。ですが、最近私生活でトラブルがあったようで。あなたもよくご存知の、欲望のままに振る舞い、責任を取ろうとしない『クズ男』のせいでね」
「…………」
(……それ、遠回しに俺のこと言ってないか?)
湯評は冷や汗をかいた。モニカがゴミを見るような目で自分を凝視しているからだ。
「資料を紐解き、人間は芸術作品を通じて気分転換ができるという結論に達しました。そこで彼女にバイロンの『When We Two Parted(別離)』を勧めたところ、深く感銘を受け、この文章を綴ったのです」
モニカは機体から鋭利な刃を突き出し、行く手を阻む蔓を鮮やかに切り裂くと、湯評に先へ進むよう促した。
湯評は、モニカが心の底から自分を許したわけではないと悟った。彼女はただ、その感情を一時的に棚上げしているだけなのだ。
同時に、湯評はこの『恋愛日記さん』に対して、深い感謝の念を抱いた。
「残念ながら、私は機械ですので。彼女の境遇に深く共感することは困難です。ですから人間の意見を伺いたいのですが、あなたはどう……感じますか?」
モニカが不意に振り返り、湯評の目を真っ直ぐに見つめて問うた。
「……すごく、優しい人なんだろうな。その人は、大丈夫なのか?」
湯評は慎重に言葉を選んで答えた。
「元気なようですよ? 食欲もありますし、三日間一睡もせずに働き続けることもできます。バイタルデータも安定していますから、今が全盛期と言えるかもしれませんね」
「いや……それ、最悪な状態だろ!」
モニカの言葉を聞き、湯評は思わず苦笑した。
元社畜である湯評は、『恋愛日記』の内面の苦痛を瞬時に察した。
心が極限まで不安定な人間こそ、仕事に救いを求めるものだ。
それは仕事愛ではなく、異常なまでの活動頻度によって感情を抑え込み、麻痺させようとする防衛本能の表れに他ならない。
(この人は……きっと、ボロボロなんだろうな)
モニカも湯評の言葉の裏にあるニュアンスを察したようだった。
彼女は短く告げた。
「たまには彼女に『いいね』を付けてあげてください。きっと喜びますから」
「ああ、分かった」
湯評が頷くのを確認すると、モニカは再び歩みを早めた。
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モニカの説明によれば、今日の任務は「仕事」ではなく「狩り」だった。
近いうちに、大量の外来者がこの島に到達する。そこにはタノシの眷属だけでなく、ブレノたちのように、この地への移住を望む高位の魔獣たちも含まれている。
彼らはタノシに屈服することはあっても、湯評を敬うことは決してないだろう。
理由はただ一つ。彼が「人間」であり、なおかつ「弱い」からだ。
タノシに泥を塗らぬよう、そして自らの実力を鍛えるため、湯評はモニカに付き添って狩りに出るしかなかった。
強大な敵を打ち倒して初めて、彼はタノシの婚約者として名乗る資格を得る。
本心では、その座に居座るつもりなど毛頭なかったのだが……。
毒を食らわば皿まで。彼は覚悟を決め、険しい森の奥へと足を踏み入れた。
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二十分ほど山道を切り開き、険しい斜面を這い上がった末に、湯評はようやく視界の開けた高台へと辿り着いた。
「着きましたよ」
「!」
眼前に広がっていたのは、生命力に満ち溢れた鮮やかな緑の世界だった。
三メートルほどの高さの喬木が点在し、いたるところに腰の高さまである灌木や、地表を覆い尽くす野草が茂っている。
湯評の足元でガサゴソと音がした。覗き込むと、そこにはスニーカーほどの大きさの野ウサギがいた。
その毛並みは墨のように漆黒で、額には稲妻のような金の紋様が刻まれている。
目が合った瞬間、ウサギはシュンッと風を切る音を立てて草むらへ逃げ込み、姿を消した。
遠くには大きな湖があり、水面が液体の鏡のようにキラキラと陽光を反射している。
牙を生やした三頭の茶色い野猪が連れ立って岸辺に現れ、水を飲んでいた。
遥か上空からは一羽の鳥が急降下してくる。その羽は虹のように絢爛で、速度はさながら一筋の閃電。一瞬で蒼穹を切り裂き、丸々と太った魚を掴み上げると、羽ばたき一つで地平線の彼方へと消えていった。
これほどエデンの園を彷彿とさせる光景を前にして、わずか一ヶ月前までここが焦土だったとは、到底信じがたかった。
「すごいな……」
湯評は呆然と立ち尽くし、その光景を瞳に焼き付けた。
以前、魔狼族が島を視察した際に数百枚の写真や映像を見てはいたが、自分の目で直接見る衝撃は全くの別物だった。
一体どういうことだ? この土地で何が起きたというんだ?
タノシ様の力は、島の大きさや地表の起伏を変えるだけではなかったのか?
この樹木や草地、そして野生動物たちはどこから湧いてきた?
「モニカ、正直に言ってくれ。君たちが何かしたから、この島はこうなったんじゃないのか?」
湯評はモニカを問い詰めた。その瞳には、言い知れぬ不安と焦燥が混じっていた。
もしこれが、タノシたちが裏で仕組んだ傑作なのだとしたら、「ビギナーズ・シティ」の物資運搬事件に続き、二度目の独断専行ということになる。
事態が少しずつ自分のコントロールを離れていく感覚に、湯評の胸にわずかな苛立ちが込み上げた。
「もしタノシ様がなされたことだとしたら、あなたはどうするつもりですか?」
「それは……」
湯評は下唇を噛み、葛藤に表情を歪めた。
……。
よく考えれば、自分にできることなど何もない。
彼がこの事態の危険性を天秤にかけようとしたその時、モニカが真実を告げた。
「これらはタノシ様が直接手を下した結果ではありません。ですが、確かに彼女の影響を受けたものです」
「どういう意味だ?」
「ここは元々荒島(無人島)でした。せいぜいニシキヘビや野ネズミといった小型生物がいる程度です。さらに火山噴火という災害を経験した以上、外から飛来する海鳥を除けば、生存している生物などいるはずがありません。そうでしょう?」
「ああ」
湯評は頷いた。
「ですが、それは『正常な状況』での話です。タノシ様という存在が介入すれば、すべては一変します」
モニカは淡々と語り始めた。
「タノシ様がこの島に降り立って以来、何度か自らの魔力を酷使し、その結果として、ある種の『副作用』が発生しました」
「……チェルノブイリのようなものか?」
タノシが神力を地表に注ぎ込んでいた光景を思い出し、湯評は一つの推測に至った。
「似たようなものです。タノシ様は普通の神ではありません。彼女は海神であると同時に、禁忌の血を引く『邪神』でもあります。彼女の魔力には、一定の汚染能力が備わっているのです……」
「『神力』じゃないのか?」
湯評が不意に遮った。タノシ自身は、自分の力をいつも神力と呼んでいたはずだ。
「魔力も神力も本質は同じです。使い手が誰かによって呼称が変わるだけのこと。平民と貴族のように、どちらも人間ですが、呼び方は異なりますでしょう?」
「神の血脈を持つ高等種族だけが、自らの魔力を『神力』と呼ぶ権利を持つのです。それは地位の象徴でもあります」
モニカは説明を続けた。
「とにかく、タノシ様の神力には汚染能力があります。通常の生物が何の保護もなくタノシ様に接触すれば、結末は二つに一つ……。発狂するか、過度なプレッシャーによる心不全で即死するかです。例外はまずありません」
「……でも、俺はこうして元気に生きてるぞ? 体もどこも悪くない」
「まだ分かりませんか? あなたこそが、その『例外』なのですよ。そして、これから我々が狙う獲物もまた、同じです」
茫然自失の湯評に対し、モニカはさらに追い打ちをかけるように解説した。
「普通の人間が神を肉眼で捉えることなど不可能です。ましてや邪神に触れて、その場で絶命しないなどということがあり得るでしょうか?」
「はっきり言いましょう。湯評、あなたは特別なのです。厳密に言えば、あなたは他の人間とは根本的に異なります。タノシ様も気まぐれに、道端の誰彼構わず婚約者に選んだわけではないのです」
「……これで、理解できましたか?」
その言葉を聞き、湯評はタノシと初めて会った時の光景を思い出した。
俺たちは……キスをしたよな!?
この数日、彼女とは裸で抱き合って寝ることさえ頻繁にある。
つまり……。
普通なら、俺はその瞬間に即死していたはずなのか!?
湯評は全身に鳥肌が立ち、冷や汗が止まらなくなった。
顔から赤みがみるみる引き、死人のような蒼白へと変わる。
「じゃあ、俺は一体……?」
「静かに。伏せて!」
モニカが突如、湯評の言葉を遮った。
彼女は「それ」に見つからないよう、身を低くするよう指示した。
「獲物を見つけました。あいつを倒せば、間違いなく周囲に良い印象を与えられるでしょう」
「頑張ってください、湯評。何かあればサポートしますから」
「???」
現れた怪物の姿に、湯評はその場で硬直した。
虎や熊といったレベルの獣ではない。それは明らかに「魔獣」と呼ぶべきカテゴリーの生物だった。
というか……あんなもの、人間に倒せるのか!?
「島にこのような生物が現れた原因として、三つの推論が成り立ちます」
「第一に、タノシ様の力がこの星の生物を変異させた可能性。あなたが数日前に食べた海鳥や魚の料理がその例です」
「第二に、この島の周囲の空間構造が極めて不安定であること。激しいエネルギーの波動が起きれば空間の裂け目が生じ、そこから異世界の生物が入り込んでくることがあります」
「第三に、これは最も可能性が低いですが、タノシ様の力が暴走し、『水神の印』に封じられていた何かが外へ流出した可能性です」
「目の前の怪物は、おそらく二番目のケースでしょう」
怪物は湯評が隠れている茂みの前を、ゆっくりと通り過ぎていった。大地が絶え間なく震えている。
その巨大な体躯が太陽を遮り、周囲三メートルほどが薄暗い影に包まれた。
湯評は必死で口と鼻を抑え、呼吸音さえ漏らさないように耐えた。
その時……湯評は自分の首筋に、ひんやりとした感触を覚えた。
恐る恐る振り返ると、そこには腕ほどの太さがある白蛇がいた。
それは彼の首に絡まり、ガタガタと震えている。どうやら蛇の方も、相当な恐怖を感じているようだった。
湯評と白蛇の視線がぶつかった瞬間、彼は生まれてから一度も出したことのないような大声を発してしまった。
「うわあああああああ!!!」
湯評は首の白蛇を振り払い、慌てて草むらから飛び出した。
その瞬間、世界が静まり返り、大地の振動が止まった。
湯評も異変に気づき、動きを止めた。
彼はぎこちなく顔を上げ、狂ったように脈打つ鼓動を感じながら、怪物の全貌をその目に捉えた……。
身長は少なくとも二階建てのビルほどもあり、口内には鋭い牙が並んでいる。
イチゴの形をしたその怪物は、好奇心に満ちた目で湯評を見つめ、口端からは大量の涎を垂らしていた……。




