546.ただの器が手を伸ばし
「……っ、う…」
二階の片隅にあるソファに座り、一人。
ディアナ・クロスリーは顔を俯け、口元をハンカチで軽く押さえていた。
徐々に吐き気は収まってきたものの、血の気が引いた頭はまだ重く冷たく感じられる。さらりと垂れた己の長い銀髪が、周囲から顔を隠してくれていた。
一階にあれだけ人がいては、誰にもぶつからないのは無理だとわかっていた。
自分なりに注意していたつもりで、それでも誰かの手か何か、あたってしまったらしい。
目の前を覆うような影が脳裏に過ぎって、今までより鮮明になっている気がして、それが何かわかってしまいそうで、目を閉じた。
見たくない。知りたくない。
ふらつきながら逃げて、逃げて、二階へ上がった。
それから、どれだけ経っただろうか。
養父から届いたドレスの一式に、手袋は入っていなかった。
本当は欲しかった。誰にも触れないようにしたかったけれど、ディアナにそんな自由はない。
わかっているのに。
この手で人に触れてはならないと。
それはディアナ・クロスリーが、ここ一ヶ月ほどで辿り着いた結論だった。
他人の皮膚に手を触れると、瞼の裏に何か悍ましい影が映るのだ。
人型のような、そうでないような、複数いるような、その時々で形態は異なる。
一瞬腕が見えたような、足が見えたような、はっきりとは見えないが気味が悪く恐ろしく、嫌なそれ。動く事もある、動かない事もある、それ。
知りたくなかった、それが何なのかを。
――なのに。
先程遠くから見た姿が頭に浮かび、ハンカチでそっと額の汗を拭う。
たった一人だけ、ディアナ自身もわけがわからないまま、手を伸ばしたくなる人物がいた。
第二王子アベル・クラーク・レヴァイン。
彼を見る度にディアナは、「触れなければならない」と思ってしまう。
なぜなら、怖いから。恐ろしいから。
知らなくてはならない、それを知るために。
この手を、伸ばさなければ。
『房事の際は、わたくしをお使いください。』
かつて幼い身でそう言ったのは、己が命じられた役割を知っていたからだ。
いつか彼ではない彼がそれを望む時には、自分の身体が使われる事になっていたからだ。
アベルは何も知らなかったらしく、その目に浮かんだのは軽蔑だった。
しかし彼に嫌われたところで、何の支障もない。
どうせその時が来る頃には彼はアベルではなく、自分もディアナではないのだから。
彼が嫌がろうとディアナが何を知ろうと、養父達が定めた未来は変わらない。
どうせアベルなど、ディアナなど、いなくなる。
――それでも、触れなくては。知らなくては、あの方を。その恐怖を…ああ、でも……嫌だ。
見たくない。
あの影を見たくない。
その正体を知りたくない。
思考がぐるぐると渦巻いて、眉を顰めたディアナは強く目を閉じる。
このまま隅でじっとしているうちに消えてしまえたら、どんなに楽だろうか。
そんな事を考える自分に驚いた。
何を感じたって考えたって仕方がない、そうする意味もない存在のはずなのに。
「美しいお嬢さん。こんな夜に俯いてどうしたのです?」
おどけたようでいて、優しい声がした。
揺らぐ瞳をそちらへ向けると、肩の上で切りそろえた柿色の髪と、大きな茶色の瞳が見える。ロビン・オルコット、生徒会役員の二年生だ。
彼はディアナを見下ろすのではなく、傍らに屈んで目線を合わせている。
「具合が悪そうだ。医務室にお連れしましょうか」
「……いい。構わないで」
「あれ、もしかして違う部屋に連れていくと思われてます?」
ロビンに話しかけられるのは幾度目なのか、ディアナはもう覚えていない。
差し出された手を見つめていると、以前触れた時に温かかった事を思い出した。
この手ももう、触れたら何かが見えてしまうのだろうか。
眉根に少し、力が入る。ロビンの労わるような眼差しは変わらない。
「…もし俺に頼りたくなければ、誰ならいいですか?呼んできますよ。」
「いりません」
どうしたらいいのか、ディアナには何もわからなかった。
仮に第二王子に触れたところで、見たくもない影を見たところで、何を知れるというのだろう。
――私は器。あの方もまた、器。それ以外の在り方など求められていない。知る必要も考える必要もない。
ディアナ自身の意思も考えも感情も、養父達が願う未来にはいらないのに。
触れるべきだと何かが言う。
第二王子の行く末を、定められた未来を、正しいと言われた結末を、ディアナが「本当にそれでいいのか」と――たった一度でも思ってしまった、そのせいで。
幼い頃からずっと静かだった心は掻き乱され、恐れていて、不安で、焦りがつのっている。
――ああ……あの方に、触れなければ。
「……ディアナ嬢。本当に顔色が悪い。無理はしない事です」
「貴方に決められるいわれは、ありません。」
「立てないんでしょう。」
「立てます」
話しかけてくるロビンが煩わしかった。考え事の邪魔だった。けれど考えたくなかった。
早くどこかへ行ってほしかった。そのままここで話して、気を紛らわせていてほしかった。
触れたくもない。もう一度、あの温度に触れてみたい。
どうしたらいいのと言いたい。何も言いたくない。
思うようにいかない。自分がどうしたいのかわからない。
助けてほしい。かかわらないで。
ディアナの頭の中は乱雑に散らかっていて、見た目は静かでも、心の中では途方にくれていた。
無理に立ち上がってふらつくと、ロビンが腕を支えてくれた。長袖のドレスでよかったと頭の片隅で思いながら、ディアナは「離してください」と呟いている。
本当なら、礼を言った方がいいのではないかと思いながら。
今にも倒れそうな自分を、放っておくような男ではないと知りながら。
「わかりました。離すから、ご自分で俺を掴んで支えにしてください。それならどうです?」
「……少しであれば。」
考える事に疲れていた。悩む事に疲れていた。
ディアナ・クロスリーにはただ、「もう解放されたい」という思いがあった。
――なら、もう、いっそのこと。
恐ろしくてもいい。知ってそこで、終わりになるのなら。
そう思うのは自分がきちんと考えたからなのか、それとも、ヤケになっているのか。
どうにも判断がつかないまま、ディアナは隣にいるロビンを見もせずに言った。
「……一階へ。…第二王子殿下に……」
――触れなければ。
「え、第二王子殿下?空くかな……まぁとりあえず、行ってみましょうか。」
この時ディアナは、自分が味わうかもしれない恐怖を覚悟したつもりだった。
見たくないものを見てしまうだろうとは思っていた。
甘い考えだったと悟るのは、すぐ後の事だ。
「ロズリーヌ殿下、無事に第一王子殿下と踊り終えたみたいね…」
「よかったわ、本当に……まったく、楽器と歌はプロ級ですのに、心配させるお方。」
「あの方らしいですけれどね。ふふふ…また後で、声をかけにいきましょう」
「そうね…」
背後から聞こえてくる密やかな会話に、オリアーナ・ペイスは一切興味がなかった。
時間に追われる職員が事務的に、手早く着付けてくれたドレスを纏って。ウェーブした淡い緑髪を結うのも、化粧も、同じように簡潔に施された状態で。
誰か一人でもダンスに誘ってくれれば、まだ、救いがあったかもしれない。
誰か一人でも心から微笑んでくれたら、少し、慰めになったかもしれない。
きっとそんな人はいないだろうと、誰より彼女が思っていた。関わるメリットがない。
だからこそ余計にその表情は晴れず、視線は誰とも合わず、纏う雰囲気の暗さがさらに周囲と彼女を分けている。
「見て、ホーキンズ様がいらっしゃるわ!今日も素敵…」
「でもどうしたのかしら、あんなに急いで。」
ぱちり、瞬いたオリアーナの瞳に光が宿った。
彷徨わせた視線が定まった先、シミオン・ホーキンズがこちらへ真っすぐやってくる。オリアーナを見て。
「…ぁ……」
掠れた声が漏れる。
剣闘大会でもそうだった。彼は、彼だけは、オリアーナを助けてくれた。
――シミオン様……
伸ばされる手を取ろう。たとえ彼に胸を張れないような事をしていても。
後で償おう、伝えよう、告解しよう。彼が助けになってくれるはずだから。
一筋の涙を流し、オリアーナは一歩そちらへ踏み出した。
「シミオ…」
「失礼。」
とん、と。
彼はオリアーナとぶつからぬよう手の甲で防ぎ、その一瞬の間に横をすり抜ける。
た、た、と小さく無意味なたたらを踏んで、オリアーナは愕然として振り返った。何が起きたかわからなかった。
すれ違う瞬間、シミオンの目はオリアーナを見てもいなかった。
「コールリッジ男爵令嬢。」
「むぐっ!?シ……ごくん。これは、ホーキンズ様。」
ノーラ・コールリッジ。
豪商の父が買ったのだろう、素材だけ良くてチープなデザインのドレスを纏った芋娘。彼女が食べ終えたばかりの皿とフォークを、シミオンがさらりと奪って通りすがりのウェイターに渡した。
オリアーナより爵位も低ければ礼儀もなっていないし、存在そのものがださくて不細工な、ノーラ。
「俺と踊ってほしい。六人目だ」
「ろく……っふ、ふふふ。」
――なんで
「ええ、わかりました!あたしでよければ、喜んで。」
「ありがとう。とても嬉しい」
――何で、あんたが。
シミオンがノーラの手を取る。
オリアーナの心は「触るな」と悲鳴を上げた。後ろを通った誰かがオリアーナにぶつかり、「邪魔だな」と呟いた。誰かがくすくす笑っている。
自分だと思い込んで踏み出したのを、声をかけようとしたのを、見た誰かが嘲笑しているのか。
ノーラ如きに負けた無様な女だと、失笑されているのか。
無意識に握ったドレスの下で、かさりと紙の感触がした。
依頼された「繋ぎ」だ。
本当に渡していいのか、オリアーナは少しだけ迷っていた。けれどそれも、先程までのこと。
――今更、もう、なんだというの。……どうだっていい、こんなもの。
自分は頼まれた事をしただけだ。
この国が自分を大事にしないなら、自分だって国がどうなろうが構わない。
「……ふ。ふふ…」
小さく肩を揺らして笑いながら、オリアーナはふらりと踵を返した。
ダンスに向かうシミオン達に背を向けて。
「第二王子殿下、すみません。」
声の主が生徒会のロビン・オルコットだと察し、アベルは内心意外に思った。
彼がこのタイミングで自分に話しかけてくる理由など、あまり予想がつかなかったためだ。近付いてきた足音は二人分、誰かを紹介したいのか。
「何かな…」
言いながら振り返った途端、アベルは露骨に眉を顰めた。
彼がディアナ・クロスリーを連れていたからだ。ロビンは即座に「これは断られるな」と思った。フォローしようと口を開きかけた彼の腕に、他の令嬢が絡みつく。
「ちょっとロビン。世話役めいた事させられてるくらいなら、私とも踊ってよ。」
「やぁ。ごめんね、もうちょっとだけ待」
「とにかくこっち来て!」
「や!ちょっ、それは…!」
強引に連れて行かれたロビンを気にかける事もなく、アベルとディアナは互いを見ていた。
金色の瞳に見据えられ、ディアナはもはや息苦しささえ感じている。
自分はこの王子に嫌われているのだとよくわかった。怖いと思った――それでも、ずっと「わからない」ままよりは、マシなのだ。
「…わたくしと…踊って、頂けませんか。」
アベルを囲っていた令嬢達から、「なんて非常識なの」と囁く声がした。
わかっていた、どうでもよかった、早く終わらせてしまいたかった。
信頼関係も何もないとわかっていて、勝手に突き出した手が震えている。
その事にも気付いているらしいアベルは訝しげにディアナを一瞥した後、挑戦を受けるかのように手を差し伸べた。
「…いいだろう。その度胸は――」
そこからなんと言われたのか、一切覚えていない。
アベルの手が触れた瞬間、ディアナの脳内に数多の光景が同時に流れ込んできた。
ひどく、鮮明に。
ほんの一瞬の出来事だったのにどうしてか、一つ一つに何が映っていたか判別できている。理解できている。
恐ろしいものだった。
悍ましいものだった。
どうしてそんな事ができるのだと思った。
それは正義とは呼べないものだと思った。
ディアナは知ってしまった。
彼女は見てしまったのだ。
そうして今度こそ決定的に、養父達が間違っていると気付いた。
――…殿、下。貴方は……
その身に何が起きたのか一切悟られぬまま、ディアナは意識を手放した。




