537.いずれ必ず理解する ◆
キャンバスに描かれた笑顔を見た時、「空想の人物だから」美しいのだろうと思った。
この世のどんな穢れも醜さも知らないような純粋な瞳で、少女の微笑みは見ているだけで心が洗われるようだった。
まるで絵本に出てくる妖精のような、小説に登場する姫君のような、現実離れした麗しさの少女。
女性恐怖症になったはずの俺が、嫌悪や恐怖どころか……好ましいと。見ていたいと思える事が衝撃だった。
『この絵を買わせてほしいのだが、モチーフは何の物語の姫君だろうか?』
『嫌だな、お姫様じゃないよ。シャロンはボクの友達さ』
実在する令嬢、それもツイーディア王国で代々特務大臣を務めている、アーチャー公爵家の娘。
それほどの家格なら正体を明かした上で会える。
……一度でもいい、本物の彼女に会ってみたい。そう思った。
絵では平気でも本物は駄目かもしれない、あるいは、彼女なら俺の体調不良なしに会話ができるかもしれない。
彼女の為人に興味があったのも勿論だが、少しでも改善の糸口があるなら知りたかった。
『王立学園の視察、ですか。』
『ええ。もちろん仰々しいものにする必要はありません。もしよろしければ、貴国で女神祭が行われる時期など…』
俺が王子である以上、黙って潜り込むのは無礼であり迷惑だ。
そして交渉にも向こうの準備にも時間がかかる。行きたいと思ったなら、早い内から話を持ち掛ける必要があった。
ただ待つだけでは四年間、あの少女は学園都市のある孤島から出てこないのだ。
ギルバート王とアーチャー公爵は、あまり良い顔はしなかった。
俺が行く事を嫌がっているというよりも、問題が起きるだろう事を見越しての事だ。
『しかし…ご存じの通り、学園には今ヘデラ王国のロズリーヌ王女がいらっしゃいます。』
公爵がはっきり口にすると、ギルバート王も鷹揚に頷いた。
そう、元々はロベリアに留学するはずだった、あの横暴な王女だ。
ロズリーヌ・ゾエ・バルニエ。
口も態度も悪く、品格も、王族としての自覚もなく。留学のための視察だったというのに、彼女には学ぶ意欲すら見受けられなかった。
思い出すだけで気分が悪い。胃の中のものがせり上がってくる感覚があり、恐らく顔色も悪く見えただろうが、ぐっと堪えて微笑んだ。
『無論、あちらに接触は致しません。目立たぬようこの髪も隠し、護衛も最低限の人数で考えております。』
『……陛下。いかがなさいますか』
『向こうには我が息子達も、公爵家の子息子女も揃っている。問題なく滞在頂けるように、指示しておくとしよう。』
恐らく、ギルバート王は俺の目的を察していただろう。
あの画家には騎士がついていたからだ。とうに報告が上がっていたに違いない。それでも、許可は得た。
憂鬱だった。
ロズリーヌ王女を遠目にでも見かけるかもしれない、あの声が聞こえてくるかもしれない。
視察の名目で、かつ内密にとなれば人の出入りが多い時期が望ましい。人が多ければ道行く女性との距離も狭まり、俺には息苦しい場所になる。それでも。
期待があった。
シャロン・アーチャー、俺とは四つ歳が離れている彼女は、どんな声をしているのか。本当にあの絵のように微笑んでくれる人なのだろうか。
本当にそうなら、もし本当にそうなら。
彼女とであれば俺は、愛し合い支え合う夫婦になれる可能性があるのではないか――…もちろん、彼女が俺を見てくれればの話だが。
父上のような、無理矢理自分のもとに縛り付ける真似はしない。
『ルークに会うのも久し振りだな……きっと、相変わらずなんだろうけど。』
彼はいつだって冷静沈着で、周囲の動揺など気にも留めない。
薬師としての豊富な知識と確かな技術、剣の腕も相当なものだ。ギード兄上が作った拳銃型の絡繰りで、俺も魔法の早撃ちには自信があるけれど。それでもきっと、ルークには到底敵わない。
シャロン嬢はルークに弟子入りしたらしい。
ロズリーヌ王女がいる学園で、彼女が何か被害を受けていないだろうか。そんな心配もしていたが、ルークが傍にいるなら安心だ。
師匠として彼を選ぶなんて、そして受け入れられるなんて、貴女はどれほど素晴らしい人なのだろう。早く会って話をしてみたい、そんな気持ちは日に日に膨らんでいった。
期待し過ぎないように気を付けないと、勝手に失望する事になれば相手にも失礼だ。そんな風に自分に言い聞かせる必要があったほどで、
『お初にお目にかかります。アーチャー公爵が長女、シャロンと申します。』
自分の喉から、ひゅっと音がした。
あまりの衝撃に、どうしていいのか何もわからない。どんな笑みを浮かべてなんと喋ろうか考えてあった気もするが、頭の中は完全に真っ白になっていた。
俺が何も返事できず、ウィルフレッド殿下もアベル殿下も黙っていたものだから、着席の許可はルークが出した。この場にルークがいてくれて、本当に良かった。
まともに顔も見れないとは何事だ?どうしたらいいんだ、見るだけで動悸がする。可愛いし所作も美しく、心根が良い事もひしひしと伝わってくる。
数年後、成人する時までにこの娘の婚約者が決まっていないわけがない。
むしろこの王子達はなぜ婚約していないんだ?アーチャー公爵令嬢だろう、その話が一切出てないはずもないだろうに。
『……ヴァルター殿下。体調が優れないのであれば、ご無理なさらずに。』
そう言ったのはアベル殿下だった。俺を気遣うようでいて、その視線は冷ややかだ。
彼女に見惚れた俺に対して、「女性恐怖症という話は嘘だと判断して構わないか」と聞いている。より悪く捉えるなら、「下心があるなら今すぐ出て行け」といったところか。
失敗したな。
冷水をかぶせられたような気になって、シャロン嬢を視界に入れないようにして「大丈夫です」と笑みを作る。
ウィルフレッド殿下が非礼を咎めるようにアベル殿下を見やった。兄弟仲はあまり良くないようだが、双子の王子ともなれば継承争いの面もあるだろう。そう珍しい事ではない。
確かにアベル殿下は挑発的だが、今の俺にはむしろありがたかったかもしれない。
シャロン嬢があまりに予想以上で、冷静さを失うところだっ……ああ、まだ見ない方がいいな。これは本当に駄目だ。
基本的には殿下達と話しながら、それでもどうにか、俺は一歩前進した。
弱点である女性恐怖症の克服を名目に、シャロン嬢と交流する許可を本人から得たのだ。
穏やかに支え合っていくどころか心臓が破裂しそうだが、「共に生きるなら彼女がいい」という思いがあった。
どんな事を考える人なのか、何が好きな人なのか、知りたいと思った。
ルークの話題で意気投合した時などは本当に楽しく…
『ちょっと貴方がたッ!わたくしが通るのに邪魔ですわ!!』
中庭の反対側から聞こえた声に怖気が走り、目が勝手にそちらを見てしまう。
あの時から何も変わっていない。出店に行きたいのだろうロズリーヌ王女が金切声を上げ、取り巻きらしい令嬢達が宥め、巡回係の腕章を付けた生徒が駆けていく。
苦しんだ記憶が一気に脳内を覆い尽くした。あの王女に無理矢理手を触れられた、おぞましい感触さえも蘇って。
『――うっ!』
『殿下…!』
咄嗟に口元を押さえ、せめてと思いシャロン嬢から顔を背けた。
堪えきれない吐き気が、飲み込んだ食事が、喉の奥からせり上がる。血の気が引いて頭がぐらぐら揺れるような心地で、俺は護衛が広げた緊急用の処理袋に吐き戻した。
好きな女性の前で吐いた。
仮にも王子という立場の、俺が。
最悪だ。格好悪いどころの話ではない。
見ないでくれと、そればかり考えていた。
『…ぐっ、うぇ……』
『レオ、テーブルの食器を片して。お二方、殿下を支えて頂けますか?医務室に向かいましょう』
頭が回らない中で、遠くからシャロン嬢の声がした。
近くにいた知り合いの生徒と、俺の護衛達に指示したのだろうと考える。吐き終えたところで誰かが口元をハンカチで拭い、水を注いだコップで口をゆすがせてくれた。
貧血に陥ったのだろう、視界がおかしい。
これ以上醜態を晒したくない気持ちで無理に頭を上げず、横から支えて導かれるままに歩いた。医務室にはすぐ着いてベッドやタオル、桶も与えられ、情けなくなってくる。
横になって周囲のカーテンが引かれると、シャロン嬢が医師や護衛と話す声も少し遠ざかった。
あの王女はいつまで俺を苦しめる。
もう二度と会いたくないと思ったのに、いや、いるとわかっていて近くへ来た俺が悪いか。あんなものを未だに野放しにして、ヘデラは何を考えて……。
気絶したのか、眠りについたのか。
俺が目を覚ましたのは数時間後の事だった。「誰かいるか」と声をかければ、護衛だけでなくシャロン嬢も近くで待機していたらしく、すぐ来てくれた。
『少し前まで、ウィルフレッド殿下もいらしていたのですが』
『そうか……情けないところ見せてしまった。迷惑をかけてすまない』
『いいえ、そのような事は。王女殿下の動向には注意を払うよう周知していたのですが、連絡が間に合わず……こちらこそ申し訳ありませんでした。』
『顔を上げてくれ。この学園にいると知っていてそれでもなお訪れたのは、俺の方だ。』
シャロン嬢が、ツイーディア側が、必要以上に気にかける事はない。俺の我儘だ。
卒倒まではいかなかったものの、無様を見せてしまった。
対応してもらった感謝を伝えると、護衛から驚く事を聞かされた。
自分のハンカチで俺の口元を拭ってくれたのも、自らの魔法ですぐ水を用意してくれたのも、シャロン嬢だというのだ。
『そんな真似までさせてしまったのか……』
『女性に対する症状で苦しんでおられたのに、勝手に触れて申し訳ありません。』
『何を言う。気にしなくていい、助けてくれたことを感謝している。』
『ですが…』
『いいんだ、シャロン嬢。俺は……貴女なら、平気だから。』
本当ならこんな時ではなく、落ち着いた状況で目を見て言いたかった。
しかし吐いた姿を見られたのも、吐瀉物で汚れた口を彼女に拭かせてしまったのも、情けなくて恥ずかしくて、逃げ出したいほどで。
なぜ今言ってしまったのか。
『……寛大なお心に感謝致します。殿下』
柔らかな声でそう言った彼女は恐らく、俺が優しさで無礼を許したように捉えたのだろう。
やっとどうにか視線を戻して見えたのは、照れも恥じらいもない笑顔だった。
俺には女性を口説いた経験などなくて、傍にいてほしいと思える女性に出会った事もなくて。
ただ笑い返すことしかできない。
国に戻ったら手紙を書くと約束した。
普段の距離があまりに遠いから、それでも繋がりが切れないように。
シャロン嬢は文通を快く了承してくれたし、楽しみにしていると言ってくれた。
長い歴史を誇るドレーク王立学園をこの目で見る、そんな貴重な機会も色々と楽しんだつもりだ。
あの王女だけは本当に邪魔だったが、つくづく、ここへ来て良かったと感じた。
そして、三日目の夜が来る。
もっと早くに発って、国へ帰っていれば。
あるいは、その瞬間を見る事がなければ。
俺と彼女はもう少し、違う道を辿っていたのだろうか。
……いや。
それでもきっと、いずれは理解したに違いないのだ。
ハピなしは5周年を迎えました!
長い長い物語にお付き合いくださり、シャロン達の成長を見守って頂きありがとうございます。
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まだまだ続く物語、お楽しみ頂けたら幸いです。




