第二章 第三話 普通のふりをする朝
朝は、何事もなかったみたいな顔でやって来た。
カーテンの隙間から差し込む光は薄く、白い。夜の名残をまだどこかに残したまま、それでも確かに朝だと告げている。
奈々は布団の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。
眠った、という感覚はほとんどない。目を閉じていた時間はあった。けれど意識はずっと浅いところに留まっていて、少し物音がするたびに浮かび上がってきた。廊下の気配、遠くを走る車の音、隣の部屋から聞こえたかもしれない小さな足音。そのどれもが、敵の気配に思えて仕方がなかった。
主は来なかった。
その事実だけを見れば、安心していいはずだった。
だが、奈々の胸の奥に残っているのは安堵ではなかった。
来なかった。
それが、どうしてこんなに怖いのだろう。
来るとわかっていれば、怖くても身構えることはできる。けれど、来るかもしれないものが来ないまま、ただ夜だけが過ぎていく時間は、思っていた以上に神経を削った。何かが終わったのではなく、始まる前に引き延ばされているだけ。その感覚が、まだ身体の中にこびりついていた。
「……学校、行かなきゃ」
声に出してみても、部屋の空気は変わらなかった。
奈々はゆっくり上体を起こす。
掛け布団が肩から落ち、朝の冷えた空気が肌に触れた。
身体が少し重い。
頭の奥もぼんやりしている。
けれど、熱があるわけではない。
鏡の前に立つと、そこにはいつも通りの制服姿に着替える前の自分が映っていた。
少し寝不足の顔。目元に薄い影。唇の色も、昨日より悪い気がする。
でも、それ以外は普通だった。
昨日、映画館で人が消えた光景を見た少女にも。夜中に魔力測定を受けた少女にも。自分の中に誰かの力が残されているかもしれないと言われた少女にも、見えない。
ただの高校生。
そう見える。
そのことが、妙に気持ち悪かった。
「……普通って、便利ね」
ぽつりと呟いて、奈々は制服のブラウスに袖を通した。
髪を整え、鞄の中身を確認する。教科書。ノート。筆箱。昨日と同じもの。昨日までなら当たり前だったもの。
けれど、筆箱を持ち上げた時、ふと自分の指先に目が留まった。
昨夜、何度も見つめた手。
そこには何もない。
何も見えない。
でも、この中にあるのだという。
自分のものではないかもしれない力が。
誰かが、奈々を助けるために残したかもしれない魔力が。
――私は、何を受け取ったんだろう。
昨夜の問いが、また胸の奥で響く。
答えはまだない。
けれど、答えがないままでも学校には行かなければならない。授業はある。クラスメイトはいる。先生は出席を取る。昨日までと同じように一日が始まる。
奈々は小さく息を吸い、部屋の扉を開けた。
廊下に出ると、ちょうど隣の部屋の扉も開いた。
「あ」
神一郎だった。
制服姿。鞄を肩にかけ、いつも通りの顔をしている。けれど目の下には、奈々と同じようにわずかな疲れがあった。
「おはよう」
「……おはよ」
短い挨拶。
それだけなのに、昨日までとは少し違って聞こえた。
神一郎は奈々の顔を見て、ほんの少し眉を寄せた。
「寝られた?」
「寝られると思う?」
「……だよな」
あまりにも素直に返されたので、奈々は少しだけ笑ってしまった。
「神一郎は?」
「俺は交代で見張りしてたから、あんまり」
「じゃあ私より寝てないじゃない」
「慣れてる」
「そういう問題?」
「たぶん」
いつもの調子に近いやり取りだった。
でも、完全に同じではない。
奈々は、それを感じていた。神一郎の視線が、昨日より少しだけ慎重になっている。自分を気遣っているのに、それを露骨に出しすぎないようにしている。そんな視線だった。
「……あんまりそういう顔しないでよ」
「そういう顔?」
「大丈夫かって顔」
神一郎は一瞬だけ言葉に詰まった。
「してた?」
「してた」
「悪い」
「謝られるほどじゃないけど」
奈々は視線をそらして、エレベーターの方へ歩き出した。
「大丈夫じゃないけど、学校くらい行ける」
「昨日と同じ言い方だな」
「今の私の状態、だいたいそれで説明できるから」
「……そっか」
玄関の前には、すでに優子がいた。
制服姿で、鞄を両手で持っている。いつものように明るく手を振ってくるかと思ったが、今日は少しだけ動きが遅れた。
「おはよ、二人とも」
「おはよう、優子」
「おはよう、朝倉さん」
優子は二人を見て、笑った。
けれどその笑顔は、昨日までの軽さとは違っていた。
無理に作っているわけではない。けれど、少しだけ距離を測っている。奈々はそう感じた。
自分が中国側の騎士だと知られた後で、優子はどこまでいつも通りにしていいのか、まだ迷っているのだろう。
その迷いが、奈々には分かった。
だから、奈々の方から言った。
「昨日、寝られた?」
優子は目を丸くしたあと、少しだけ苦笑した。
「寝られると思う?」
「だよね」
「奈々に先に言われた」
「私も同じこと聞かれたばっかり」
神一郎が気まずそうに視線を逸らす。
その様子がおかしくて、優子が小さく笑った。
少しだけ、空気が軽くなる。
そこへ、もう一つの扉が開いた。
「三人とも揃っているな」
椎菜だった。
彼女だけは、昨日の夜をほとんど引きずっていないように見えた。少なくとも表面上は。髪も制服も乱れがなく、目つきもいつも通り冷静だ。
「椎菜さん、寝ました?」
神一郎が聞くと、椎菜は平然と答えた。
「三十分ほど」
「それ寝たって言わないですよ」
「目を閉じて意識を落とした。なら睡眠だ」
「騎士団の基準、怖すぎるんですけど」
「慣れろ」
「嫌ですよ」
奈々はその会話を聞きながら、少しだけ救われる気がした。
日常は壊れた。
でも、全部がなくなったわけじゃない。
神一郎は神一郎のままだし、優子は優子のままだし、椎菜は椎菜のままだ。
ただ、その上に新しい現実が重なっただけ。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
エレベーターが到着し、四人は乗り込む。
狭い箱の中で、誰も余計なことは言わなかった。表示される階数が一つずつ下がっていく。機械的な音。淡い照明。鏡に映った四人の姿。
普通の登校風景に見える。
けれど、椎菜の視線は常に扉の隙間と天井の監視カメラを拾っていた。神一郎の手は、いつでも胸ポケットに伸ばせる位置にある。優子は端末を持っていない方の手を、軽く握ったり開いたりしていた。
奈々だけが、守られる側。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
守られるだけじゃ嫌だ。
昨日、自分でそう言った。
言った以上、見ているだけではいられない。
エレベーターが一階に着く。
外に出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。
駅へ向かう人の流れ。自転車で通り過ぎる学生。ゴミ出しをしている近所の人。どこにでもある朝の風景。
その中を、四人は並んで歩いた。
学校までの道は、昨日と同じだった。
けれど、奈々の目には、何もかもが少し違って見えた。
電柱の影。建物の屋上。止まっている車。道端でスマホを見ている男。どれもただの日常の一部に見えるのに、どこかに敵が潜んでいるかもしれないと思ってしまう。
「見すぎ」
隣で神一郎が小さく言った。
「え?」
「警戒するのはいいけど、見すぎると逆に疲れる」
「……そんなの、急に言われても」
「だよな」
神一郎は苦笑した。
「でも、全部を疑い始めると、ほんとに何もできなくなる。見るべきところだけ見るんだ」
「見るべきところって?」
「動かないものの中で、不自然に動くもの。動いてるものの中で、不自然に止まってるもの」
「……難しい」
「最初はそんなもんだよ」
その会話を聞いていた椎菜が、少し前を歩きながら言った。
「神一郎にしてはまともな助言だ」
「俺にしてはって何ですか」
「褒めている」
「絶対違うでしょ」
優子がくすっと笑う。
奈々もつられて笑いかけた、その時だった。
優子の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
奈々は気づいた。
「優子?」
「……ううん。なんでもない」
優子はすぐに笑い直した。
けれど、今のは“なんでもない”顔ではなかった。
奈々は何か聞こうとしたが、学校の校門が見えてきて、結局その言葉は飲み込んだ。
博文館学園の校門前は、いつも通り生徒で混んでいた。
女子の笑い声。男子の大きな話し声。朝練帰りの運動部。眠そうに歩く生徒。全部、昨日までの世界と同じだ。
けれど、奈々はそこに入っていくのに、少しだけ勇気が必要だった。
「奈々」
神一郎が呼ぶ。
「なに?」
「普通でいこう」
「簡単に言うわね」
「簡単じゃないから、言った」
奈々は少しだけ神一郎を睨んだ。
でも、不思議と腹は立たなかった。
「……分かった」
校門をくぐる。
その瞬間、奈々は“普通の赤坂奈々”の顔を作った。
教室に入ると、クラスメイトの声が一斉に耳に入ってきた。
「おはよー、奈々」
「昨日のドラマ見た?」
「今日小テストあるってマジ?」
「優子、昨日どこ行ってたの?」
世界は本当に何も知らない。
昨日、映画館で人が消えたことも。夜中、神一郎の部屋で魔力の話をしていたことも。奈々の中に誰かの力があるかもしれないことも。
誰も知らない。
知る必要もない。
それが正しいのだと分かっているのに、奈々は一瞬だけ取り残されたような気持ちになった。
「奈々?」
友人の一人が、不思議そうに顔を覗き込む。
「どうしたの、眠そう」
「あー、ちょっと寝不足」
「テスト勉強?」
「まあ、そんな感じ」
嘘が自然に出た。
そのことに、自分で少し驚く。
これから、自分はこうやって嘘をついていくのだろうか。普通の会話の中で、普通の顔をして、昨日見たものも、自分の中にあるものも隠していくのだろうか。
席に着くと、隣の神一郎が小さく声をかけてきた。
「大丈夫?」
「その質問、今日だけで三回目」
「悪い」
「別に」
奈々は鞄から教科書を取り出した。
「大丈夫じゃないけど、やる」
「便利な言葉になってきたな」
「しばらく使う予定」
神一郎が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、奈々の胸の奥が少し温かくなる。
昔の神一郎の笑い方と、今の神一郎の笑い方。
全部が同じではない。
でも、どこかに同じものもある。
それが、今の奈々には少しだけ嬉しかった。
午前の授業が始まった。
教師の声が黒板の前から響く。チョークが走る音。ページをめくる音。机の下で誰かがこっそりスマホを触る気配。
普通の授業。
そのはずなのに、奈々の意識は何度も自分の手元へ向いた。
昨夜、椎菜が言った。
治癒系に近い。
後天的に体内へ残されたものかもしれない。
誰かに助けられた可能性。
考えないようにしようと思っても、どうしても考えてしまう。
自分の中にある力が、もし誰かから受け取ったものなのだとしたら。
その誰かは、今どこにいるのだろう。
なぜ、自分を助けたのだろう。
その人は、今も生きているのだろうか。
その瞬間。
カリッ、と小さな音がした。
「……っ」
シャーペンの芯を替えようとして、奈々は指先を紙の端で切っていた。
ほんの小さな傷だった。
痛みも大したことはない。少し赤い線が浮かび、じわりと血が滲む。
普通なら、それで終わりだった。
絆創膏を貼るほどでもない。指で軽く押さえていればすぐ止まる。
だが。
「え……?」
血が、消えた。
いや、正確には違う。
滲んだ血が止まり、傷口が淡く光ったように見えた次の瞬間、赤い線が薄くなっていった。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
奈々は息を呑んだ。
指先を見る。
傷はない。
確かに切ったはずなのに。
小さな痛みだけが、遅れて残っている。
「奈々」
隣から低い声。
神一郎だった。
彼は黒板を向いたまま、目だけをこちらに向けている。
「今の」
「……見た?」
「見た」
奈々は指先を握り込んだ。
心臓が速くなる。
怖い。
昨日の魔力測定の時より、ずっと怖い。
だって今のは、誰かが測った結果ではない。
自分の身体が勝手に起こしたことだ。
神一郎の表情が少しだけ硬くなる。
「昼休み、椎菜さんに話そう」
「うん……」
奈々は小さく頷いた。
その後の授業の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
何度も指先を見てしまう。
そこには傷ひとつない。
なのに、何かが変わってしまったような気がした。
昨日までは“魔力があるかもしれない”だった。
でも今は違う。
ある。
確かに、自分の中に何かがある。
その事実が、奈々の胸に重く落ちた。
昼休みになると、四人は食堂には向かわなかった。
椎菜の判断で、人の少ない旧校舎側の空き教室を使うことになった。
そこは普段ほとんど使われていない教室で、机と椅子が端に寄せられ、窓際に薄く埃が積もっている。廊下を通る生徒も少ない。話をするにはちょうどよかった。
「見せて」
椎菜が言う。
奈々は少し迷ってから、指先を差し出した。
「もう傷はないけど」
「ああ。だが、痕跡は残る」
椎菜は奈々の指先に手をかざした。
淡い光が一瞬だけ走る。
昨夜の魔力測定ほど大がかりではない。ただ、表面をなぞるような短い確認だった。
「……間違いないな」
「何がですか」
神一郎が聞く。
「微弱だが、治癒反応が出ている。外傷に対して、本人の意思とは無関係に魔力が働いた」
奈々の肩が小さく震えた。
「意思とは無関係って……つまり、勝手に?」
「そうだ」
椎菜は隠さなかった。
「今の段階では、君が魔力を使ったのではない。君の身体が、傷に反応して魔力を流した」
「それって、いいことなの? 悪いことなの?」
奈々が聞くと、椎菜は少しだけ考えた。
「どちらとも言えない」
「一番困る答えね」
「事実だからな」
椎菜は続ける。
「治癒反応そのものは危険ではない。むしろ、身体を守る方向に働いている。問題は、君がそれを制御できていないことだ」
「制御できてないと、どうなるの?」
「過剰に反応すれば、魔力を消費しすぎる。逆に感情の起伏で暴走すれば、周囲に反応が漏れる」
神一郎が静かに言った。
「つまり、敵に見つかりやすくなる」
奈々は唇を噛んだ。
自分の身体が、自分を守るために働いた。
でもそのせいで、敵に見つかるかもしれない。
どちらに転んでも、安心できる話ではない。
「……便利な力じゃないんだね」
奈々が呟く。
「そうだな」
椎菜は頷いた。
「力は、持っているだけでは便利でも安全でもない。扱えなければ、ただの危険要素だ」
「言い方、容赦ないですね」
神一郎がぼそっと言う。
「甘く言って状況が良くなるならそうする」
「ですよね」
優子は黙って奈々の指先を見ていた。
その顔が少しだけ複雑だった。
「優子?」
奈々が呼ぶと、優子ははっとしたように顔を上げた。
「あ、ごめん」
「どうしたの?」
「ううん。ただ……」
優子は少し迷ってから言った。
「奈々の魔力、やっぱり変だなって思って」
「変って、昨日も言ってたやつ?」
「うん。でも、悪い意味だけじゃなくて」
優子は奈々の隣にしゃがみ、視線を合わせた。
「私は訓練で、魔力を外から入れられた子を何人か見たことがある。強制的に騎士を作るためだったり、魔力結晶との同調率を上げるためだったり。そういうのって、だいたい身体が拒絶するの。痛そうで、苦しそうで、見てて分かる」
奈々は何も言えなかった。
優子の声は静かだったが、その内容は重かった。
「でも奈々のは違う。拒絶してない。身体の中にちゃんと馴染んでる。すごく長い時間をかけて、そこにあるのが当たり前になったみたいに」
「長い時間……」
奈々は自分の指を見る。
傷はない。
でも、そこにあった一瞬の光を、もう忘れられない。
「じゃあ、やっぱり小さい頃から?」
「可能性は高い」
椎菜が答える。
「昨夜話した大ケガの記憶。その時に何かがあったと考えるのが自然だ」
神一郎は黙っていた。
さっきから、ほとんど口を挟まない。
奈々はそちらを見る。
「神一郎」
「……何」
「また、その顔してる」
「どんな顔だよ」
「思い出しそうで、思い出したくなさそうな顔」
神一郎は一瞬だけ息を止めた。
図星だったのだろう。
それを見て、優子も椎菜も黙る。
空き教室の中に、昼休みの校舎の音が遠く響いていた。どこかの教室で笑い声がする。廊下を走る足音が聞こえる。
そんな普通の音の中で、神一郎だけが、少し遠い場所を見ているようだった。
「……その魔力」
神一郎はゆっくり言った。
「懐かしい感じがする」
「懐かしい?」
「うん。でも、楽しい懐かしさじゃない」
彼の声は低かった。
「胸の奥が冷えるみたいな……思い出したらまずいものに触ってる感じがする」
奈々は息を呑んだ。
神一郎は自分でも戸惑っているようだった。言葉を探しながら、それでも逃げずに続ける。
「どこかで知ってる。似た魔力を、俺はたぶん知ってる。でも、誰のものだったかまでは出てこない」
「無理に思い出さなくていいよ」
奈々は反射的に言った。
神一郎がこちらを見る。
「なんで」
「今の顔、辛そうだから」
言ってから、奈々は少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、取り消す気にはならなかった。
神一郎は小さく目を伏せる。
「……悪い」
「謝ることじゃないでしょ」
椎菜が静かに口を開いた。
「記憶と魔力感知は結びつくことがある。特に強い術者の魔力は、匂いや音に近い形で記憶に残る。神一郎が何かを感じているなら、それは無視しない方がいい」
「でも、今ここで無理に掘る必要もないですよね」
優子が言った。
椎菜は少しだけ優子を見る。
「そうだな」
その返事は、意外にも穏やかだった。
「今は奈々くんの状態確認が優先だ。神一郎の記憶は、追うにしても準備してからでいい」
奈々は少しだけ安心した。
自分のことなのに、神一郎の方が傷つきそうになる。
そのことが、どうしてか胸に引っかかった。
昼休みの終わりが近づいていた。
椎菜は最後に、奈々へ短く告げた。
「今日から、怪我や体調の変化があれば必ず報告しろ。小さな傷でもだ」
「分かった」
「それと、感情が大きく揺れた時もだ」
「感情?」
「魔力は感情に反応する。特に今の君は、制御できていない。怒り、恐怖、悲しみ、強い不安。そのどれでも反応が漏れる可能性がある」
「……それ、結構難しいんだけど」
「だから訓練する」
「はいはい」
奈々がため息混じりに返すと、神一郎が少しだけ笑った。
「大丈夫じゃないけど、やるんだろ?」
「それ私の台詞」
「便利だから借りた」
「返して」
「考えとく」
ほんの短いやり取りだったが、奈々は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
そして同時に思う。
この空気を、守りたい。
怖いことは増えていく。分からないことも増えていく。けれど、だからこそ、この小さなやり取りを失いたくない。
昼休みが終わり、四人は空き教室を出た。
廊下に出た瞬間、優子がふと足を止めた。
「優子?」
奈々が振り返る。
優子は携帯端末を見ていた。
画面には、何も表示されていない。
着信も、通知もない。
それなのに、彼女の表情は少しだけ硬かった。
「連絡、来てないの?」
奈々が聞くと、優子は頷いた。
「うん」
「なら、よかったんじゃないの?」
「普通ならね」
優子は画面を消した。
「でも、主はそういう人じゃない」
その声が、廊下のざわめきの中で妙に低く聞こえた。
「怒ってるなら、すぐ怒る。命令するなら、すぐ命令する。切り捨てるなら、何も言わない」
「……何も言わないって」
「つまり、もう私は部下じゃないかもしれないってこと」
奈々は言葉を失った。
優子は笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「まあ、まだ分かんないけどね」
「優子」
「大丈夫。……って言いたいところだけど、奈々にそれ言うと怒られそう」
「怒るわよ」
「だよね」
優子は少しだけ肩をすくめた。
その仕草はいつも通りに見えた。
でも、奈々には分かる。
優子も、怖いのだ。
自分の帰る場所がなくなるかもしれないことが。
味方だったはずの場所から、敵として扱われるかもしれないことが。
奈々は何か言おうとして、言葉を探した。
けれど、その前に予鈴が鳴った。
午後の授業が始まる。
四人はそれぞれの教室へ戻った。
午後は、午前よりもさらに長く感じた。
奈々は授業を受けながら、何度も指先を見た。何も起きない。傷もない。光もない。
ただ、そこに自分の手があるだけ。
けれど、もう以前のようには見えなかった。
放課後が近づくにつれ、教室の空気が少しずつ緩んでいく。部活の準備をする生徒、友達と帰る約束をする生徒、掃除当番を嫌がる生徒。
奈々は窓の外を見た。
校庭には西日が差していた。
その向こう、校門の近くに、誰かが立っているような気がした。
「……え?」
目を凝らす。
人影はない。
ただ、光の具合でそう見えただけかもしれない。
それなのに、背筋に冷たいものが走った。
見られている。
そんな感覚。
奈々が息を止めたのとほぼ同時に、後ろの席で優子が小さく音を立てた。
椅子がわずかに軋む。
振り返ると、優子の顔色が変わっていた。
「優子?」
奈々が声をかける。
優子は窓の外を見ていた。
何もない校門の方を。
神一郎もそれに気づき、ゆっくり立ち上がりかける。
だが、教室の中だ。
周囲の生徒たちは何も気づいていない。
優子は唇を噛んだ。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「……見られてる」
奈々の心臓が跳ねた。
神一郎の手が、胸ポケットのツキカゲへ伸びる。
「主か」
その問いに、優子は答えなかった。
ただ、窓の外を見つめたまま、いつもの笑顔を消していた。
校庭には、夕方の光だけが静かに落ちている。
誰もいない。
何も起きていない。
それなのに、奈々には分かった。
夜はまだ来ていない。
でも、夜の方から、こちらを見ている。




