第二章 第二話 来なかった夜と、残されたもの
夜は、妙に静かだった。
静かすぎる、と言った方が正しいのかもしれない。
神一郎の部屋のリビングには、四人分の気配が確かにある。ソファに腰を下ろした奈々、テーブルの端に肘をついた優子、窓際で腕を組んだ椎菜。そして、部屋の中心から窓と玄関の両方を視界に入れるように立っている神一郎。
誰も喋っていないわけではない。時折、短い言葉は交わされる。だが、会話はどれも長続きしなかった。みんな同じものを待っていて、同じものを警戒しているからだ。
時計の針が進む音が、やけに耳につく。
カチ、カチ、と一秒ごとに刻まれるそれが、まるで時間そのものに急かされているみたいだった。
奈々は膝の上で指を組み、そっと息を吐いた。
落ち着いているつもりなのに、身体のどこかがずっと緊張している。肩の辺りが強張っているのも、自分の手が思ったより冷えているのもわかっていた。
今夜、“主”が来る。
優子の端末に入った連絡は、はっきりそう告げていた。
だから四人とも、学校から戻ってからほとんど崩していない。奈々と優子は必要なものだけをそれぞれの部屋から取ってきて、今は神一郎たちの部屋に集まっている。椎菜が結界を張り直し、神一郎が室内の配置を確認し、優子が相手の行動傾向を思い出せる範囲で洗い出した。
やれることはやった。
だからこそ、今は待つしかない。
「……来ないな」
最初に沈黙を破ったのは神一郎だった。
声は小さい。けれど、この部屋の全員にははっきり聞こえた。
「まだ二十三時前だ」
椎菜が即座に返す。
「焦る時間でも、緩む時間でもない」
「わかってますよ」
神一郎はそう言ったが、その視線は窓の向こうから外れていない。
奈々はその横顔を見た。
昼間、学校で見ていた顔とは少し違う。教室にいる時の神一郎は、どこか普通の高校生の顔をしていた。授業を受け、休み時間に少しため息をつき、奈々に軽く返事をする、ごく普通の男子生徒の顔。
けれど今の彼は違う。
部屋着に着替えていても、手元に武器が見えていなくても、明らかに“いつでも戦える人間”の顔をしていた。
奈々は、胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
小学校の頃、一緒にトランペットを吹いていた神一郎は、こんな顔をしなかった。
でもきっと、今の彼を形作っているのは、自分の知らない時間なのだ。
そう思うと、置いていかれたような気持ちと、今さら取り戻せないものへの寂しさが、少しだけ混ざった。
「奈々、大丈夫?」
優子が小さな声で聞いてくる。
「え?」
「顔色。あんまり良くない」
「あ……平気」
平気、と言いながら、奈々は自分の頬に触れた。冷たかった。たぶん自分が思っている以上に、緊張が表に出ているのだろう。
優子はそれ以上追及しなかった。ただ、少しだけ位置をずらして奈々のすぐ近くに座り直す。肩が触れそうなくらいの距離で、それでも何も言わない。
その気遣いが、今はありがたかった。
優子の正体を知ったのは昨日の夜だ。中国側の騎士。奈々を“保護”する任務で近づいてきた存在。
それなのに、こうして隣にいてくれると、やっぱり優子は優子なんだと思ってしまう。
友達、という言葉で片付けていいのかは、まだ奈々にもわからなかった。けれど、信じたい気持ちだけは消えていなかった。
時間は、容赦なく過ぎていく。
二十三時。
二十三時半。
日付が変わっても、何も起きなかった。
外を走る車のライトがカーテンの隙間を薄く照らすたびに、奈々の肩が小さく揺れる。冷蔵庫が低い音を立てるたびに、優子がぴくりと反応する。廊下のどこかで誰かがドアを閉める音がした時は、神一郎が一瞬だけツキカゲの方へ手を伸ばした。
何も起きていないのに、何も起きないからこそ、すべてが気になる。
「……拍子抜け、って言ったら怒られるかな」
優子が苦笑混じりに言う。
「怒りはしない」
椎菜が答えた。
「ただ、その感想は危険だ。来ると予告して来ない相手は、来ないのではなく、来るタイミングをずらしているだけだと考えた方がいい」
「やっぱりそうですよね」
神一郎が小さく息を吐く。
「向こうがこっちを焦らしてるってことですか」
「あるいは、別の準備をしている」
椎菜の視線は鋭い。
「昨日の狙撃精度、今日の無接触。どちらも、感情だけで動くタイプの相手ではない。自分が有利になる盤面を待てる人間だ」
奈々はその言葉を聞いて、余計に落ち着かなくなった。
派手に襲ってくる敵より、見えないまま様子をうかがっている敵の方が怖い。昨日は昨日で恐ろしかったが、今夜は今夜で別の種類の圧迫感がある。
それが顔に出ていたのだろう。神一郎が窓から視線を外し、奈々の方を見る。
「少し休む?」
「眠れるわけないでしょ」
反射的にそう返してから、奈々は小さく咳払いした。
「……ごめん。別に怒ってるわけじゃない」
「わかってる」
神一郎は、責めるでも宥めるでもない声で言った。
「でも、張り詰めすぎると逆に危ない。俺たちが起きてる以上、少し肩の力抜いてもいいよ」
「神一郎君、それ保護者っぽい」
優子が言うと、神一郎は少しだけ眉を寄せた。
「そういうつもりじゃないけど」
「でも、そう聞こえる」
「……うるさいな」
そのやり取りに、奈々は思わず少しだけ笑ってしまった。
たぶん、みんなわざとだ。わざとこういう話をしている。そうしないと、部屋の中の空気が重くなりすぎてしまうから。
「お腹、空かないか」
椎菜が急に言った。
「え?」
奈々が間の抜けた声を出すと、椎菜は真顔のまま続けた。
「待機中に空腹で集中力が落ちるのは良くない。軽く何か入れよう」
「隊長、こんな時でもそこですか」
「こんな時だからだ」
神一郎はため息をついたが、反対はしなかった。
結局、テーブルの上に並んだのは、帰りにコンビニで買っておいたおにぎりやサンドイッチ、スープ、それから奈々が何となく手に取ったプリンだった。
ごく普通の夜食だ。
普通の、という言葉が今夜は妙に遠い。
優子がスープの蓋を開けながら笑う。
「なんか、変な感じだね」
「何が?」
奈々が聞く。
「こういうの。四人で夜中に集まってるのに、修学旅行の前日みたいな空気じゃないとこ」
「それはだいぶ違うわね」
「だよね」
優子は笑うが、その笑顔の奥には緊張が残っている。
「でも、少しだけ安心する。誰かがいるって」
その一言に、奈々は返事ができなかった。
自分も同じことを思っていたからだ。
一人だったら、きっともっと怖かった。
「奈々は?」
優子が聞く。
「その……怖いの、少しはマシ?」
奈々はプリンの蓋をはがしながら考える。
「マシっていうか、慣れてないだけ」
「それ同じじゃない?」
「違うわよ」
言ってから、奈々は小さく笑った。
「怖いのは怖い。でも、昨日みたいに何もわからないままじゃないから」
昨日の夜、神一郎たちのことを知った。優子の正体も、椎菜の立場も、自分が狙われていることも。
何も知らないまま守られていた時よりは、ずっとマシだと思えた。
その時、椎菜が神一郎に視線を向けた。
「今ならできるかもしれないな」
「何がですか」
「赤坂奈々くんの魔力確認だ」
テーブルの空気が、また少しだけ引き締まる。
奈々はプリンのスプーンを止めた。
「……今?」
「今だ」
椎菜の口調に迷いはなかった。
「相手が動かないなら、その隙にこちらが把握を進める。今日やれることを明日に回す理由はない」
神一郎は一瞬だけ考え込んだようだったが、やがてゆっくり頷いた。
「……わかりました」
「ちょっと待って」
奈々が言う。
三人の視線が自分に集まるのを感じながら、奈々は改めて言い直した。
「別に嫌って言いたいわけじゃないの。でも、その……何するの?」
「測るだけだ」
椎菜は短く答えた。
「痛みはない。君の身体に流れている魔力の量と、質と、揺れ方を確認する」
「なんか病院みたい」
「やることは似たようなものかもしれないな」
椎菜は珍しく少しだけ柔らかい声で言った。
「ただし、見つかるものはレントゲンより厄介だが」
神一郎がテーブルを片付け、少しだけ場所を空ける。
「奈々、ここ座って」
言われた通り、奈々は部屋の中央寄りの椅子に座った。
優子は奈々の斜め後ろに移動する。何かあった時にすぐ支えられる位置だ。椎菜は正面に立ち、神一郎はその少し横に回る。
四人の立ち位置が変わるだけで、空気も変わる。
「深呼吸して」
神一郎が言った。
奈々は一度、ゆっくり息を吸って吐いた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫」
「そう言われると余計に緊張するんだけど」
「悪い」
少しだけ笑いが起きる。
その短い笑いが消えたところで、椎菜が右手をかざした。
「始める」
淡い光が、椎菜の掌から細く広がる。
それは攻撃の魔法とも、神一郎が見せる結界とも違っていた。もっと静かで、もっと繊細で、相手を包み込むような光だった。
光が奈々の周囲でゆっくり輪を描き、身体をなぞるように巡っていく。
痛みはない。
熱くもない。
でも、不思議な感覚があった。身体の中を、目には見えない何かが覗き込んでいるみたいな感覚。
奈々は無意識に肩へ力を入れた。
「力を抜いて」
神一郎の声がすぐ近くで聞こえる。
「う、うん」
言われて意識すると、たしかに肩が強張っていた。
もう一度、ゆっくり息を吐く。
するとその瞬間だった。
椎菜の表情がわずかに変わった。
「……これは」
神一郎が反応する。
「何かわかったんですか」
「おかしい」
椎菜は目を細めたまま答える。
「予想以上だ。量も質も、想定から外れている」
「どういう意味ですか?」
「人間界の人間の反応じゃない」
その言葉に、優子が息を呑んだのがわかった。
奈々自身も、心臓が一拍遅れて強く跳ねるのを感じた。
「ちょっと待ってよ。それ、どういう……」
「説明する」
椎菜は奈々から手を離さず、神一郎の方を見る。
「まず量が多い。単に“微量の魔力持ち”で済ませられるレベルじゃない。しかも性質が偏っている」
「偏ってる?」
今度は神一郎が問い返す。
椎菜はわずかに眉を寄せた。
「治癒系に近い」
神一郎の目が見開かれる。
「回復属性……?」
「完全な断定はまだできないが、少なくとも破壊や攻撃寄りではない。再生、補助、維持……そういう系統の流れ方だ」
奈々には言われていることの半分もわからなかった。
でも、わからないなりに、その反応が普通ではないことだけは伝わる。
「じゃあ私、回復魔法が使えるってこと?」
「まだそこまで単純じゃない」
椎菜はすぐに首を振った。
「使えるかどうかと、持っているかどうかは別問題だ。だが、少なくとも君の中には“そういう質の力”がある」
神一郎は奈々を見つめたまま、何かを考え込んでいた。
その表情を見て、奈々は胸の奥がざわつく。
「……何」
「え?」
「今、なんか引っかかった顔した」
神一郎は一瞬だけ言葉に詰まった。
「いや……」
「あるなら言って」
奈々が言うと、神一郎は視線をそらさなかった。
「引っかかったっていうより、既視感に近いかも」
「既視感?」
「うん。でも、はっきり思い出せるわけじゃない」
神一郎の声は低かった。
「こういう魔力の感じを、どこかで知ってる気がする」
奈々は黙る。
優子も、椎菜も何も挟まない。
その沈黙の中で、奈々の頭の奥に、ひどく曖昧な映像がちらついた。
「……ねえ」
奈々がぽつりと呟く。
「私、昔……大ケガしたこと、ある気がする」
神一郎がはっと顔を上げた。
「大ケガ?」
「うん。でも、ちゃんと覚えてない」
奈々は眉を寄せる。
「なんか、白い天井が見えた気がするとか、誰かが泣いてた気がするとか、そういう断片だけ。夢みたいで、ほんとに記憶なのかもわかんない」
胸の奥が少しだけざわついた。
言葉にしてしまったことで、曖昧だったものに輪郭ができる。けれど、その輪郭はまだ霧の中で、掴もうとするとすぐにぼやけた。
「小さい頃か?」
神一郎が静かに聞く。
「たぶん」
「病院?」
「かもしれない」
奈々は目を閉じた。
思い出そうとすると、逆に遠ざかっていく感じがする。痛み。光。誰かの声。優しい手。
そこまで浮かんで、また途切れた。
「……ごめん、これ以上は無理」
「いや、十分だ」
椎菜が先に答えた。
「むしろ、それで仮説の幅が絞れる」
「仮説?」
「君の魔力は、生まれつきではなく、後天的に体内へ残されたものかもしれない」
その一言で、部屋の空気が一変した。
「残された?」
優子が聞き返す。
「移植に近い。あるいは、流し込まれたと言うべきか」
「そんなこと、できるんですか」
神一郎の声はわずかに硬い。
「高度な治癒系の術者なら、理論上はあり得る」
椎菜は短く答える。
「本来なら、受け手の身体に定着するほどの魔力を残すのは異常だ。だが、何らかの極限状態なら話は別だ」
奈々は唇をきつく結んだ。
話の内容は難しい。難しいけれど、なぜか他人事ではなかった。
大ケガ。
治癒系の魔力。
後天的に宿った力。
それらが、頭の中でまだ形にならないまま繋がろうとしている。
「……じゃあ」
奈々がゆっくり聞く。
「私は、誰かに助けられたってこと?」
その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。
神一郎の表情が、初めてはっきりと揺れた。
それを見た優子が、静かに口を開く。
「少なくとも、自然にそうなった感じじゃない」
言いながら、優子は奈々の肩にそっと手を置いた。
「この反応、私でもわかる。普通じゃない。でも“壊れてる”感じでもないんだよ。むしろ、すごく大事に残されてるみたいな……そんな感じ」
「大事に?」
奈々が聞き返すと、優子は小さく頷いた。
「うまく言えないけど。無理やり押し込まれた力っていうより、守るために残されたもの、みたいな」
その言葉に、神一郎がぴくりと反応した。
奈々は見逃さなかった。
「神一郎」
「……何」
「やっぱり、何か知ってる?」
「知らない。……でも」
そこで神一郎は言葉を切る。
珍しく、迷いがはっきり顔に出ていた。
「でも、もし本当に誰かの治癒魔力が奈々の中に残ってるんだとしたら、それは多分、相当高位の術者だ」
「高位の、って?」
「騎士団の中でも限られた人間しかできないレベルってこと」
神一郎の説明は簡潔だったが、その声は少しだけ遠かった。
奈々は直感する。
この人は今、何かの入り口に立っている。
でもその扉の向こうにあるものを、まだ自分でも見切れていないのだと。
沈黙が落ちた。
時計は二時を回っていた。
夜はまだ明けない。
それでも、来るはずだった襲撃は来ない。
代わりに、自分たちの内側から新しい謎が浮かび上がってくる。
「……なんか」
奈々がふっと笑った。
「敵が来るかもって待ってたのに、先に自分の方がわけわかんなくなってきた」
優子が苦笑する。
「それは、うん。ちょっとわかる」
「笑い事じゃないがな」
椎菜はそう言いながらも、声はさっきより僅かに柔らかかった。
「だが、進展ではある。君の中の魔力は偶発的な雑音ではない。何か理由があって宿り、今になって表に出始めている可能性が高い」
「思春期で増幅、って線は?」
神一郎が聞く。
「十分あり得る」
椎菜は頷いた。
「身体の成長、感情の起伏、外部刺激。そういうものに反応して眠っていた力が起きることはある」
「じゃあ、最近になって急に狙われ始めたのも」
「辻褄は合う」
奈々は両手を見つめた。
見た目は何も変わらない。いつもの自分の手だ。
なのに、その内側に、自分のものではないかもしれない力が眠っている。
それは怖かった。
でも同時に、少しだけ救いでもあった。
完全に“わけのわからないもの”ではなくなったからだ。
理由があるなら、追える。
謎に形があるなら、辿っていける。
「今日はもう休もう」
神一郎が言った。
「来ないなら、それに越したことはない。朝まで交代で見るから、奈々と朝倉さんは少しでも寝て」
「でも――」
「寝不足の方が危ない」
奈々の言葉を、神一郎は珍しく強めの口調で切った。
「明日も動くなら、今無理する意味はない」
優子は少し迷ったあと、奈々を見る。
「奈々、行こ?」
奈々は神一郎と椎菜を順に見た。
まだ不安はある。窓の外を見れば、今にも何かが来そうな気がする。でも、ここで突っ張っても仕方ないこともわかっていた。
「……わかった」
立ち上がる。
寝室へ向かう前に、奈々は一度だけ振り返った。
神一郎は窓際へ戻り、椎菜は端末に何かを記録している。優子は一瞬だけ足を止め、二人を見てから奈々の後を追う。
誰も、完全には安心していない。
それでも夜は進み、朝に向かう。
敵は来なかった。
でも何も終わっていないことを、四人とも知っていた。
そして奈々は、布団に入りながらもう一度だけ、自分の手を握った。
温かい。
ただの体温のはずなのに、その奥に、誰かの名残みたいなものがある気がした。
(私は、何を受け取ったんだろう)
答えは、まだ見えない。
けれど確かに、昨日までより一歩だけ、核心に近づいていた。




