第二章 夜が来る前に 第一話 守られるだけじゃない
昼休みの食堂は、月曜日らしい喧騒に包まれていた。
トレイの触れ合う音、誰かの笑い声、席を引く音。昨日あれだけのことがあったのに、世界は何事もなかったみたいに動いている。その当たり前さが、奈々には少しだけ不気味だった。
四人が座っているのは、食堂の端にある四人掛けの席だった。
神一郎の向かいに椎菜。その隣に奈々。神一郎の隣に優子。
配置だけ見れば、以前と何も変わらない。
けれど、その中身はもう別物だった。
「午前中は、特に大きな動きはなかった」
最初に口を開いたのは椎菜だった。
相変わらずまっすぐで、余計な前置きがない。だが今日は、その声がいつもより少しだけ低い。
「少なくとも校内への直接侵入や、遠距離からの魔力反応は確認していない」
「つまり、今日はたまたま来てないだけかもしれないってことですよね」
神一郎が小さく息を吐きながら言う。
「そう考えるべきだな」
椎菜は頷いた。
「昨日の狙撃は、単独でも十分危険だった。しかもあれだけの精度だ。こちらの対応を見た上で、次は別の手を打ってくる可能性もある」
奈々は手元のスプーンを見つめた。
カレーの湯気が、やけに現実感のないものに見える。
昨日までなら、昼休みのカレーなんてどうでもいいものだったはずなのに、今はこういう“普通”が妙に遠い。
「……あのさ」
奈々が顔を上げる。
三人の視線が自分に集まった。
「昨日からずっと思ってたんだけど」
少しだけ喉が詰まる。
でも、ここで引いたらたぶんまた何も言えなくなる。そう思った。
「なんで私なの」
声に出した瞬間、食堂の騒がしさが少しだけ遠のいた気がした。
「神一郎は、私から魔力が出てるって言ってた」
「うん」
「でも、それだけで軍が動くの? 中国が狙うの? そんなの……変じゃない?」
神一郎はすぐには答えなかった。
椎菜も、優子も同じだった。
その沈黙だけで、奈々にはわかった。
――まだ、全部は分かっていないんだ。
「正直に言う」
やがて椎菜が口を開いた。
「私たちも、そこまでは掴み切れていない」
奈々は眉を寄せる。
「じゃあ、わからないまま私を守ってるの?」
「守る理由が不十分だと言いたいのか?」
「そうじゃないけど……」
椎菜の言葉に奈々は詰まる。
そういう意味で言ったつもりじゃない。ただ、昨日からずっと胸に引っかかっていたものを、そのまま口にしただけだった。
「でも、知らないのは怖いよ。自分のことなのに、みんなの方が詳しいみたいで」
その一言に、神一郎の表情が少しだけ揺れた。
「奈々」
「なによ」
「怖いのは当然だと思う」
神一郎は視線をそらさずに言った。
「俺だって、逆の立場なら多分同じことを思う」
「……だったら」
「でも」
言葉を重ねる声は、静かだけど強かった。
「今の時点で無責任なことは言えない。分からないものを分かったふりして話したら、余計にお前を危険に巻き込む」
奈々は口を閉じた。
正しい。たぶん、正しいのだと思う。けれど、正しいことと納得できることは別だ。
その空気を見ていた優子が、そっと口を挟んだ。
「私のところも、似たような感じだった」
奈々が振り向く。
優子はスプーンを置き、少しだけ俯いた。
「“保護しろ”って命令だけが先にあって、その理由はちゃんと教えてもらえてなかった。聞いても、“お前は知らなくていい”って」
昨日の夜にも聞いた言葉だ。けれど、明るい食堂の中でその話を聞くと、同じ内容でも違う重さがあった。
「優子……」
「たぶんね」
優子は奈々を見た。
「奈々のことを欲しがってる人たちがいる。理由は一つじゃないのかもしれない。魔力のこともあるし、もっと別のこともあるのかもしれない」
「別のこと?」
「そこがわからないの」
優子は小さく笑ったが、その笑顔は少し寂しかった。
「だから、今ここで言えるのは一つだけ。奈々が自分で自分を守れるようになるのが、一番確実だってこと」
奈々は目を見開いた。
「……私が?」
「うん」
優子より先に答えたのは神一郎だった。
「俺もそう思ってた」
「は?」
「もちろん、いきなり戦えって意味じゃない」
神一郎は慌てて続ける。
「ただ、奈々から魔力が出てるなら、それを少しでも抑える方法とか、使い方とか、そういうのは知っておいた方がいい」
奈々は何も言えなかった。
自分が、学ぶ。
昨日までの自分なら、そんな話は笑って流していただろう。でも今は、笑う気にもなれなかった。
だって現実に、自分は狙われたのだから。
「……教えて」
奈々が言うと、神一郎が一瞬だけ固まった。
「今、なんて」
「だから、教えてって言ったの」
自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。
「守られるだけじゃ、もう嫌なの。昨日みたいなことがまたあったら、私、今度こそ何もできないまま終わるかもしれない」
手のひらがじんわり汗ばんでいる。
怖くないわけじゃない。むしろ、今だって怖い。
でもそれ以上に、何も知らないまま隣に立っている方が嫌だった。
「私に何ができるのか知らない。でも、何もできないって決めつけられるのも嫌」
神一郎は黙った。
その横で、椎菜がふっと目を細める。
「……その言葉を待っていた」
「え?」
奈々が振り向くと、椎菜は腕を組んだまま頷いた。
「本来、護衛対象を無理に戦力化するつもりはない。だが、自分から関わる覚悟を示したなら話は別だ」
「隊長」
神一郎が少しだけ咎めるような声を出す。
椎菜はそれを気にも留めずに続けた。
「今夜から、奈々くんの魔力反応の確認を始める。まずは本当にどの程度出ているのか、どういう条件で揺れるのか、その把握からだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
神一郎が割って入った。
「急すぎません? 奈々だって昨日あんなことがあったばっかりで――」
「だからこそだ」
椎菜の返しは早かった。
「次の襲撃がいつ来るか分からない以上、時間は無駄にできない」
言い切られて、神一郎は言葉を失う。
椎菜の正しさは、時々容赦がない。
奈々はそんな二人を交互に見て、それから静かに言った。
「私は大丈夫」
「奈々」
「大丈夫じゃないけど、やる」
自分でも少し変な言い方だと思った。でも、今の気持ちにはそれが一番近かった。
大丈夫なわけがない。けれど、やらない理由にはならない。
その時だった。
優子の携帯端末が、制服のポケットの中で小さく震えた。
全員の目がそちらに向く。
優子は顔色を変えた。
「……誰から?」
神一郎が低く聞く。
優子はすぐには取り出さなかった。数秒だけ迷ってから、ゆっくり端末を見下ろす。
「非通知……じゃない。暗号回線」
その一言で、空気が変わる。
「出るな」
椎菜が即座に言った。
「でも、ここで無視したら怪しまれる」
「既に怪しまれている可能性の方が高い」
優子は唇を噛む。
昨日、自分が奈々を守る側に回った時点で、向こうにとっては裏切りに近い行動だった。それを理解していないほど甘くはない。
「……出てみるよ」
「優子」
奈々が思わず声をかける。
優子は一瞬だけこちらを見て、無理に笑った。
「大丈夫。たぶん、まだ」
“たぶん”という言葉が、やけに重たかった。
通話を取る。
「……はい」
食堂の喧騒の中に、優子の声だけが妙に浮いて聞こえた。
「はい。今は学校です」
少し間が空く。
優子の表情が固くなる。
「……了解しました」
通話はそれだけで終わったらしい。
端末を下ろした優子は、少しの間何も言わなかった。
「何て?」
神一郎の問いに、優子は乾いた唇を舐めてから答える。
「“今夜、主が来る”って」
奈々の背筋に冷たいものが走る。
「主って……」
「私の上官」
優子の声はかすかに震えていた。
「昨日の狙撃、たぶんあの人」
神一郎と椎菜の目つきが一気に変わる。
さっきまでの作戦会議が、次の瞬間には現実の危機として目の前に立ち上がる。
「時間がないな」
椎菜が立ち上がった。
「午後は予定を変更する。神一郎、放課後までに必要物資を揃えろ。優子くんは相手の行動傾向を洗い出せ。奈々くん」
「……はい」
「今日から本当に始まる。覚悟しておけ」
奈々は椎菜を見上げた。
怖い。
でも、不思議ともう、昨日みたいに足はすくまなかった。
「……うん」
自分の声は、思っていたよりちゃんと前を向いていた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
周りの生徒たちはいつも通りに席を立ち、トレイを返し、教室へ戻っていく。
その流れの中で、自分たちだけが別の戦場にいるようだった。
でも、奈々はもう知っている。
昨日までの自分には戻れない。
だったらせめて、自分の足で前に進むしかないのだと。




