第一章 第六話 知ってしまったあとで
光が消えても、奈々の目にはまだ白い残像が貼りついていた。
耳鳴りがする。
頭の芯がじんじんと痛む。
けれど、それ以上におかしかったのは、さっき自分が見たものが、まるで現実じゃなかったことだ。
人がいた。
確かにいた。
少し前まで、笑って、歩いて、映画の感想を話していたはずの人たちが、次の瞬間には――いなくなっていた。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
喉が上手く動かない。
怖い、という言葉だけでは足りなかった。足元が崩れて、自分だけ別の世界に落とされたみたいな感覚だった。
「奈々」
低い声がして、肩が小さく跳ねる。
神一郎だった。
いつの間にか、自分は神一郎の部屋の中にいた。見慣れないはずなのに、さっき映画館で感じた死の気配に比べれば、ここはあまりにも静かで、あまりにも普通の部屋に見える。
その普通さが、逆に気味悪かった。
「怪我はない?」
神一郎の声は落ち着いていた。落ち着きすぎているくらいだった。
奈々はすぐに返事ができなかった。手の震えを隠そうとしても、指先が勝手に小さく動いてしまう。
「……うん」
やっとのことで出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「よかった」
神一郎は短くそう言ってから、部屋の中央に立った。右手を軽く上げ、空中に何かを書くみたいに指を動かす。淡い光の線が走り、それが円を描くように部屋の四隅へ散っていく。
「何してるの?」
「結界」
簡潔すぎる答えだった。
「もう一度来られたら困るから。この部屋には、俺たち以外は簡単に入れないようにしておく」
奈々は唇を噛んだ。
結界。
俺たち。
簡単に入れない。
さっきまでなら、そんな言葉を聞いても冗談としか思えなかったはずなのに、今は違う。違ってしまった。
「ねえ」
奈々はソファの端を掴んだまま顔を上げた。
「ちゃんと説明して」
神一郎の手が止まる。
「何が起きてるのか。あんたたちが何なのか。私、もう……何を信じたらいいのか分かんない」
最後の一言は、思ったより弱くなった。
責めるつもりだったのに、声に出した瞬間、怖さの方が先に出てしまった。
神一郎はすぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
静かな部屋の中で、その沈黙だけが重たく広がっていく。
「……信じてもらえないかもしれない」
やっと出てきた神一郎の声は、さっきより少しだけ硬かった。
「でも、本当のことしか言わない」
「だったら最初からそうしてよ」
奈々は思わず言い返した。
「さっき、人が消えたのよ?」
声が掠れる。
「それを見たあとで、“あとで話す”とか、“今は信じて”とか……そんなの、無理に決まってるでしょ……!」
神一郎がわずかに目を伏せる。
その顔を見て、奈々は余計に腹が立った。黙られるのが一番困る。黙られるたびに、自分だけが何も知らないところに置かれている気がするからだ。
「……ごめん」
ようやく絞り出すように神一郎が言った。
「巻き込みたくなかった」
「もう巻き込まれてるわよ!」
奈々の声が強くなる。
「今日だけじゃない。あんたが転校してきたときから、変だった。あの女の人もそう。優子のことだってそう。みんな何か知ってるのに、私だけ知らないふりさせられてるみたいで……っ」
言い切ったところで、息が詰まった。
泣きたくなんてないのに、目の奥が熱くなる。
神一郎はしばらく黙っていたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……俺は、騎士だ」
奈々は眉を寄せる。
「騎士?」
「そういう呼び方をしてる。軍人、って言った方がわかりやすいかもしれない」
神一郎は奈々の前に座った。距離を詰めるでもなく、離しすぎるでもない、妙に神経を使った座り方だった。
「俺がいた“外国”っていうのは、正確には外国じゃない」
「……どういうこと?」
「この世界とは別の世界だ」
奈々は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
別の世界。
それはあまりにも現実離れしすぎていて、逆に笑ってしまいそうな言葉だった。けれど、さっきの光景を見た後では、馬鹿にすることもできない。
「その世界は、リバースワールドって呼ばれたりするかな」
神一郎は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「そこでは、魔力を持ってる人間がいる。俺たちはその力を使って戦う。治安維持もするし、もっと大きな事件にも関わる」
「……あんたが?」
「うん」
「そんなの……」
奈々は言いかけて止まった。
そんなの信じられない、と言おうとした。でも、自分はもう、さっき神一郎が人間じゃありえない速さで走り、自分たちを抱えて空を飛ぶのを見ている。
信じるしかない。そう思うほどには、現実の方がもう壊れていた。
「小学校を卒業した後、俺は向こうに戻った」
神一郎は視線を落としたまま言う。
「父親の仕事の関係で、こっちに来てただけだったから。向こうに戻ってから訓練を受けて、試験を受けて、それで今の仕事に就いた」
「……じゃあ、中学から外国だったっていうのは」
「半分本当で、半分嘘だな」
神一郎は苦く笑った。
「完全に嘘にすると説明が面倒だったから」
その苦笑いが、かえって奈々の胸に刺さった。
自分の知らないところで、神一郎には神一郎の人生がずっと続いていたのだと、ようやく実感してしまったからだ。
「それで」
奈々は唇を湿らせる。
「なんで、私なの」
部屋の空気が少しだけ変わる。
神一郎はすぐには答えなかった。
「……それが一番大事なとこでしょ」
「わかってる」
「なら言って」
奈々が見つめると、神一郎は逃げなかった。
「奈々、お前から微量の魔力反応が出てる」
「……は?」
「本来、人間界の人間からそんな反応は出ない。少なくとも、俺たちの側ではそう考えられてる」
奈々はぽかんとしたまま神一郎を見る。
「魔力って……私が?」
「俺も、最初に聞いたときはそう思った」
神一郎の声が少しだけ柔らかくなる。
「でも、それを理由にお前を狙ってる連中がいる。少なくとも一つは中国側。今日の襲撃でそれは確定した」
奈々は自分の両手を見た。
見慣れた手だった。特別な何かが宿っているようには見えない。けれど、そう見えないからといって、さっきまでの出来事が消えるわけでもない。
「だから……あんたは私のとこに来たの?」
「護衛任務として、な」
「任務」
その言葉を反芻すると、妙に胸が痛んだ。
再会は偶然じゃなかった。隣の席も、同じマンションも、全部“任務”の一言で説明がついてしまう。
それがどうしようもなく寂しくて、奈々は思わず顔をそむけた。
「でも」
神一郎が言う。
「それだけじゃない」
奈々が顔を戻す。
「覚えてたんだなって、正直びっくりした」
神一郎は少しだけ笑った。
「俺の方は、最初ちょっと曖昧だったのに」
その一言で、奈々の胸の奥の固さが少しだけほどけた。
腹は立つ。まだ全然整理もできていない。でも、その言い方がずるいと思った。
「……忘れるわけないでしょ」
奈々は小さく呟いた。
「トランペットのソロ、毎回取り合ってたんだから」
「そうだったな」
「そうよ」
そこまで言ったところで、大きな音がした。
空間が揺れる。
光が一瞬だけ広がり、部屋の中央に二つの人影が現れた。
奈々は思わず立ち上がる。
「優子……!」
そこにいたのは椎菜と、優子だった。
優子の顔を見た瞬間、安心しかけた気持ちが、次の瞬間にはまた揺らぐ。さっきの戦闘で、優子も自分たちと同じ“普通じゃない側”にいると知ってしまったからだ。
優子はそんな奈々の視線を受け止めて、少しだけ困ったように笑った。
「……無事でよかった」
「優子、あんた……」
奈々の言葉が詰まる。
何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。
その代わりに、優子の方が先に口を開いた。
「私から話すよ」
その声は、いつもの軽さが半分くらい消えていた。
「神一郎君、さっきの続き、私が言ってもいい?」
神一郎は短く頷いた。
優子は小さく息を吸う。
「私、中国の騎士なの」
奈々は瞬きを忘れた。
「正式には、中国軍特務隊fox所属。朝倉優子三等空士」
淡々と言っているようでいて、その実、優子の指先はわずかに震えていた。
「奈々を保護する任務を受けて、この学校に来た」
「保護……?」
奈々がかすれた声で聞き返すと、椎菜が冷たく割り込んだ。
「対象にあれだけの砲撃を撃ち込んでおいて、“保護”か」
優子の肩が揺れる。
「少なくとも、私はそう聞いてたんです」
「だが、最初の一撃は奈々くんだけじゃない。君ごと消すつもりの威力だった」
椎菜の言葉には容赦がなかった。
奈々は優子を見る。
優子は目を伏せ、唇を噛んでいた。
「……私も、おかしいと思った」
やがて優子が言う。
「本当に保護だけが目的なら、あんな撃ち方しない。私だってそう思ってる」
「じゃあ、なんで」
奈々の問いに、優子はすぐには答えなかった。
「……私、孤児なんだ」
奈々が目を見開く。
そんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。
「中国の機関で育てられて、そのまま訓練生にされて……気づいたら、こっち側にいた。任務だからって言われたら、そうするしかなかった」
優子は笑おうとして、失敗した。
「でも、奈々と仲良くなって、神一郎君とも話して……だんだんわかんなくなっちゃって」
視線が揺れる。
「任務って何なんだろう、とか。誰のためにやってるんだろう、とか」
奈々は何も言えなかった。
優子の中に、知らなかった時間がある。知らなかった痛みがある。そのことはわかる。けれど同時に、優子が最初から何かを隠して近づいていたのも事実だった。
それをどう受け止めればいいのか、まだ分からない。
「……でも」
優子は奈々を見た。
泣きそうなのに、目だけは真っ直ぐだった。
「今日、私は奈々を守りたかった。それだけは嘘じゃない」
奈々の喉が詰まる。
「優子……」
「奈々は、私の大事な友達だから」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、奈々はそれ以上疑うことができなかった。
「わ、私は……」
うまく言えない。
でも、これだけは言いたかった。
「優子を、全部信じきれるかは、まだわかんない」
優子が小さく俯く。
「でも……さっき、守ってくれたのは見た。あれは、ちゃんと見たから」
奈々の目に涙がにじんだ。
「だから、今すぐ敵だなんて言えないよ……」
優子の目元も揺れた。
「……うん」
そのやり取りを見ていた椎菜が、静かに息を吐く。
「神一郎」
「はい」
「君は甘いな」
いつものように言われて、神一郎は苦笑した。
「わかってます」
「私と一緒なら、優子くんも通れるようにしているなんてな、甘すぎる」
「それは今言います?」
「今だから言うんだ」
だが、その口調はさっきまでより少しだけ柔らかかった。
神一郎はそれに気づきながらも、あえて触れなかった。
部屋の空気は重かった。けれど、完全に壊れてはいない。むしろ、全部が壊れたあとで、やっと本当の位置関係が見え始めた気さえした。
奈々はソファに座り直し、ゆっくり息をつく。
もう、何も知らなかった頃には戻れない。
けれど、知らなかったことを知ったからこそ、見えてきたものもある。
神一郎の迷い。優子の揺れ。椎菜の厳しさ。
そして、自分が今、確かに危険の中心にいるという事実。
「……ねえ」
奈々が静かに口を開く。
三人の視線が集まる。
「まだ、全部は分かってない。でも……もう隠さないで」
言いながら、自分の声が少しだけ強くなっているのがわかった。
「怖いのは怖い。でも、何も知らないまま守られるだけの方が、もっと怖い」
神一郎がゆっくり頷く。
「わかった」
優子も、椎菜も黙っていた。
その沈黙が、拒絶ではないと奈々にはもう分かる。
そして、その時だった。
部屋の外側で、何かが小さく軋んだ。
椎菜の表情が変わる。
「……まだ終わっていないな」
「え?」
奈々が身を固くする。
椎菜は窓の方へ顔を向けたまま、低く言った。
「敵は一人じゃない可能性が高い。少なくとも、今日の襲撃だけで諦める相手ではない」
優子も息を呑む。
「主主が来るかもしれない……」
「主?」
奈々が聞き返したが、その問いに今すぐ答える者はいなかった。
神一郎だけが、静かにツキカゲへ手を伸ばす。
結界の内側の静けさが、逆に不穏だった。
少し前まで、自分たちは映画の感想を話していたはずなのに。
今は同じ部屋の中で、次の襲撃に備えて息を潜めている。
奈々は自分の手を握りしめた。
震えは、まだ止まらない。
でも、目は逸らさなかった。
逃げられないのなら、せめて見ていたいと思った。何が起きているのかを。誰が何を背負っているのかを。
知らないままでは、もういられないのだから。




