第二章 第四話 視線の主
放課後の教室には、まだ日常の音が残っていた。
机を引く音。椅子の脚が床を擦る音。部活へ向かう生徒たちの声。誰かが明日の小テストの範囲を聞き返し、別の誰かがそれに適当な返事をする。
いつもと同じ、放課後のざわめき。
そのはずなのに、奈々の耳には、それらが少し遠く聞こえていた。
窓の外。
校庭の向こう。
校門の近く。
そこには誰もいない。
少なくとも、目に見える範囲には誰もいない。
けれど、見られている。
その感覚だけが、背筋に冷たい指を這わせるみたいに残っていた。
「……見られてる」
優子の声は、本当に小さかった。
すぐ近くにいた奈々と神一郎にしか聞こえなかっただろう。けれど、その一言だけで、教室の空気が一変した気がした。
神一郎の手が、胸ポケットへ伸びる。
ツキカゲ。
ボールペンの形をしたその武器を、奈々はもうただの筆記具として見ることができない。
「主か」
神一郎が低く言う。
優子は答えなかった。
ただ、窓の外を見つめたまま、唇を噛んでいる。
その顔を見て、奈々は余計に怖くなった。
優子は怖がりな子ではない。むしろ、昨日までの奈々の目には、いつもどこか余裕があって、どんな場面でも笑って誤魔化せる器用な子に見えていた。
その優子が、いまは笑えないでいる。
それだけで、“主”という存在がどれほど異質なのかが伝わってきた。
「藤崎」
少し離れた席から、クラスメイトの男子が声をかけた。
「掃除当番、今日そっちじゃね?」
神一郎の動きが止まる。
ほんの一瞬だけ、彼の目に苛立ちとも焦りともつかない色が浮かんだ。けれど次の瞬間には、いつもの少し気だるげな表情に戻っている。
「ああ、そうだったな」
神一郎は何事もなかったように答えた。
「すぐやる」
普通だ。
あまりにも普通に振る舞っている。
奈々はその姿を見て、胸がざわついた。
いま、この教室で“異常”に気づいているのは自分たちだけだ。周りは何も知らない。知らないまま、笑って、鞄を持って、部活や帰宅のことを考えている。
神一郎はツキカゲから手を離した。
「動くな」
彼は前を向いたまま、小さく言った。
「え?」
「今ここで俺たちが変な動きをしたら、こっちが目立つ」
言われて、奈々は教室を見回した。
確かにそうだ。
ここには一般生徒がいる。教師も来るかもしれない。そんな場所で神一郎が急に武器を構えたり、椎菜がリンクしたりしたら、その時点で“普通”は壊れる。
そしてたぶん、相手はそれを分かっている。
見られているのに、攻撃されない。
それは、攻撃できないのではなく、こちらが動けない場所を選ばれているのだ。
「……嫌なやつ」
奈々は思わず呟いた。」
「うん」
優子が、珍しく即座に同意した。
「主は、そういう人」
その声は、暗かった。
神一郎は視線だけを優子に向ける。
「朝倉さん、主は近くにいるのか?」
「わからない。たぶん、本人じゃないと思う。でも……」
「でも?」
「主の気配がした」
それは、説明になっているようで、なっていなかった。
けれど奈々には、なぜか少しだけ分かった。
本人がそこにいなくても、誰かの視線には温度がある。声を出していなくても、その人が近くにいるように感じることがある。
いま優子が感じたのは、きっとそういうものなのだろう。
神一郎は短く息を吐いた。
「とにかく、ここでは動けない。椎菜さんと合流する」
「うん」
優子は頷く。
奈々も小さく頷いた。
それからの数分は、妙に長かった。
神一郎は掃除当番を最低限だけ済ませた。奈々は鞄をまとめ、優子はいつもより静かに机の中を確認する。周りの生徒たちは、そんな三人の変化に気づいていない。
いや、気づいている子もいるのかもしれない。
「奈々、今日元気なくない?」
近くの女子が声をかけてきた。
奈々は一瞬だけ返事に詰まり、それから笑顔を作った。
「寝不足なだけ」
「最近そればっかじゃん」
「ちょっとね」
嘘が、少しずつ上手くなっていく。
そのことが、少し嫌だった。
けれど、いまは仕方がない。
普通のふりをする。
それが今日の奈々にできる、一番現実的な戦いだった。
教室を出ると、廊下には生徒たちの声が反響していた。
ロッカーの扉が閉まる音。階段を駆け下りる足音。部活へ向かう運動部の掛け声。どれもいつもなら聞き流していたはずの音なのに、いまは一つひとつが妙に大きく感じる。
その中を、三人は並んで歩いた。
神一郎が前。奈々が中央。優子が後ろ。
まるで、自然にそう決まっていたみたいな位置取りだった。
旧校舎へ続く渡り廊下の手前で、椎菜が待っていた。
制服姿のまま、壁にもたれている。何気ない立ち方に見えるのに、奈々はもう知っている。あの人は、ただ立っているだけで周囲を見ている。
「遅かったな」
「掃除当番でした」
神一郎が答えると、椎菜は少しだけ眉を上げた。
「この状況で掃除か」
「この状況だからこそ、普通にしてました」
「悪くない判断だ」
椎菜はそう言って、奈々と優子を見る。
「何があった」
神一郎より先に答えたのは、優子だった。
「見られてました」
「誰に」
「たぶん、主に」
椎菜の表情が変わる。
ほんのわずかだが、目つきが鋭くなった。
「本人か?」
「分かりません。でも、主の気配でした」
「気配だけか」
椎菜は短く考え込む。
そして、低い声で言った。
「仕掛けてはこない、か」
「どういうことですか?」
奈々が聞くと、椎菜は渡り廊下の窓の外を一度見た。
「攻撃する気があるなら、昨日のように撃てばいい。だが今日はそれをしなかった。つまり目的は、殺傷ではない」
「じゃあ、何のために……」
「こちらの反応を見るため」
神一郎が答えた。
椎菜は頷く。
「それと、恐怖を植えつけるためだな」
奈々は息を呑んだ。
怖がらされている。
その言い方は少し悔しかったが、否定できなかった。
実際、怖い。
姿の見えない相手に、こちらだけが一方的に見られている。いつでも壊せるぞと言われているみたいな感覚がある。
「主は」
優子がぽつりと言った。
「相手が動けない場所で、何もしないことがある」
「何もしない?」
奈々が聞き返す。
「うん。攻撃しない。命令もしない。ただ見てる。それだけで相手が勝手に焦って、勝手に間違えるから」
優子の声は震えていなかった。
けれど、震えていないことが逆に痛々しかった。
「昔、訓練で言われたことがあるの。撃つより、待つ方が効く相手もいるって」
神一郎は眉を寄せた。
「嫌な教え方だな」
「うん」
優子は苦笑した。
「だから、嫌いだった」
その一言は小さかったが、本音だった。
椎菜が腕を組む。
「いずれにせよ、今日の下校は予定変更だ。全員で固まる。ルートも変える」
「マンションに直行ですか?」
「そのつもりだったが、少し気になる」
「何がですか」
椎菜は、奈々を見た。
「奈々くん。今日、君の机や持ち物に異物が入っていないか確認したか?」
「え?」
突然の問いに、奈々は瞬きをした。
「いや、してないけど……」
「念のため確認しておけ。主が攻撃ではなく接触を望んでいるなら、何かを残している可能性がある」
その言葉に、奈々の胸が冷えた。
何かを残している。
それは、言われるまで考えていなかった。
「教室に戻るんですか?」
神一郎が聞く。
「いや、まずは靴箱だ」
椎菜は即答した。
「放課後、生徒が流れる場所。人目が多く、逆に細工しやすい」
「……そんなことまで考えるんですね」
奈々が呟くと、椎菜は淡々と答えた。
「そういう相手だと考えた方がいい」
四人は昇降口へ向かった。
校舎の中は、放課後の騒がしさで満ちている。誰かが傘を忘れたと騒ぎ、誰かが部室の鍵を探し、先生が廊下を走るなと注意していた。
こんな場所に、本当に何かがあるのだろうか。
そう思いたかった。
何もない。
見られている気がしたのも、怖くなってそう感じただけ。
そうであってほしい。
けれど、奈々自身も分かっていた。
もう、そういう世界ではない。
昇降口に着くと、椎菜が先に周囲を見た。
「神一郎」
「はい」
「右奥」
「了解」
神一郎が自然な動きで奈々の靴箱の近くへ立つ。優子は少し離れた位置で通路を見る。椎菜は奈々の斜め後ろに立った。
守られている。
奈々はその配置を感じて、胸が詰まった。
ありがたい。
でも、悔しい。
その二つが同時にあった。
「開けていい?」
奈々が聞くと、椎菜が頷いた。
「ゆっくり」
奈々は靴箱の扉に手をかけた。
いつもなら何も考えずに開ける場所だ。
朝、上履きに履き替えて、放課後、靴に戻す。それだけの場所。
そんな日常の一部に、いまは指先が震えるほどの緊張がまとわりついている。
扉を開けた。
中にはローファーがある。
それだけ。
奈々は小さく息を吐きかけた。
だが。
「待て」
神一郎の声が低く響いた。
奈々の動きが止まる。
「靴の下」
言われて、奈々はローファーを少し持ち上げた。
そこに、白い紙片があった。
小さな、四角い紙。
折りたたまれているわけではない。
ただ一枚、靴の下に敷かれるように入っていた。
心臓が跳ねる。
奈々はそれに触れようとして、椎菜に止められた。
「直接触るな」
「あ……」
椎菜はポケットから薄い透明なシートのようなものを取り出し、それ越しに紙片を摘み上げた。
白い紙。
何の変哲もない、メモ用紙のように見える。
けれど、そこに書かれていた一文を見た瞬間、奈々の呼吸が止まった。
――その力は、君のものではない。
文字は黒かった。
ただのインクのようにも見える。
けれど、その一文だけで、奈々の中にあるものが揺れた気がした。
「……なに、これ」
声がかすれた。
神一郎の表情が固まる。
優子は顔色を失った。
椎菜だけが、冷静に紙片を見つめている。
けれど、その目もいつもより鋭かった。
「誰が……」
奈々は言いかけて、言葉を失った。
誰が。
そんなの、聞かなくても分かる。
主だ。
あるいは、主に関わる誰か。
少なくとも、これは偶然ではない。
「どうして」
奈々の声が震えた。
「どうして、こんなこと知ってるの……?」
昨夜の話は、四人しか知らない。
奈々の魔力が後天的に残されたものかもしれないこと。治癒系に近いこと。誰かに助けられた可能性があること。
それは、昨日の深夜、神一郎の部屋で話したことだ。
このメッセージは、その核心をまっすぐ突いている。
その力は、君のものではない。
まるで、奈々よりも奈々の内側を知っている誰かが、外側から囁いているみたいだった。
「盗聴……?」
神一郎が低く呟いた。
「部屋の結界を抜かれたとは考えにくい」
椎菜が即座に答える。
「だが、可能性はゼロではない。あるいは、最初から知っていたか」
「最初から?」
奈々が聞く。
椎菜は紙片から目を離さない。
「奈々くんの魔力の由来を、こちらより先に把握している者がいるということだ」
その言葉は、静かだった。
けれど奈々には、それが砲撃よりも怖く聞こえた。
自分のことなのに、自分より先に誰かが知っている。
自分の中にあるものを、誰かが“君のものではない”と言ってくる。
怖い。
気持ち悪い。
腹立たしい。
いろんな感情が混ざって、奈々は紙片から目を離せなかった。
「朝倉さん」
神一郎が呼ぶ。
「これ、主のやり方か?」
優子はしばらく答えなかった。
彼女は紙片を見つめたまま、まるでそこに書かれた文字の奥を見ているようだった。
「……うん」
やがて、かすれた声で言う。
「たぶん、そう」
「たぶん?」
「主は、こういうことをする」
優子の指先が、わずかに震えていた。
「直接言わない。全部は言わない。でも、その人が一番触れられたくないところだけを、先に置いていく」
「性格悪いですね」
神一郎が吐き捨てるように言った。
優子は小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
「うん。悪いよ」
その一言には、恐怖よりも、苦い記憶が滲んでいた。
奈々は紙片を見つめたまま、ゆっくり拳を握った。
震えている。
自分でも分かる。
怖い。
でも、それだけじゃない。
「……勝手なこと言わないでよ」
小さく、声が漏れた。
三人が奈々を見る。
奈々は紙片から目を逸らさなかった。
「私のものじゃないかもしれない。誰かから受け取ったものかもしれない。それは……まだ分かんない」
言いながら、胸が痛んだ。
もし本当に誰かが自分を助けてくれたのなら。
もしその誰かが、もういないのなら。
それを考えるだけで、息が苦しくなる。
でも。
「でも、それを私に言うのは、あんたじゃないでしょ」
声が少しだけ強くなった。
奈々自身、驚いた。
怖くて、震えて、逃げ出したい気持ちもあるのに。
それでも、この紙片の言葉だけは、受け入れたくなかった。
「私が何を受け取ったのかは、私が知る。誰かに決めつけられることじゃない」
神一郎が、何か言いかけて止まった。
優子は目を見開いていた。
椎菜は、少しだけ目を細める。
「……いい反応だ」
「え?」
奈々が顔を上げると、椎菜は紙片をしまいながら言った。
「怖がるだけでなく、怒れるなら上出来だ」
「褒めてるんですか、それ」
「かなり」
椎菜は真顔だった。
奈々は少しだけ力が抜けそうになった。
けれど、すぐに緊張が戻る。
紙片はもう椎菜の手元にある。だが、そこに書かれていた言葉は、奈々の中から消えなかった。
その力は、君のものではない。
頭の奥で、何度も繰り返される。
「帰るぞ」
椎菜が言った。
「ここに長くいるべきではない」
「紙はどうするんですか」
神一郎が聞く。
「持ち帰って調べる。インク、紙質、魔力痕跡。何か残っている可能性がある」
「残してますかね」
「主が本当にこちらを試しているなら、何かを残しているかもしれない。逆に、完全に消しているなら、それも情報だ」
神一郎は頷いた。
四人は昇降口を出た。
校門までの道は、いつもより長く感じた。
周りにはまだ生徒がいる。部活へ行く生徒、友達と帰る生徒、スマホを見ながら歩く生徒。
その中を歩きながら、奈々は何度も背後を振り返りそうになった。
でも、振り返らなかった。
振り返ったところで、きっと何もいない。
それでも、見られている感覚だけは残る。
校門を出る直前、優子が足を止めた。
「優子?」
奈々が声をかける。
優子は校門の外を見ていた。
視線の先には、誰もいない。
ただ、夕方の光を受けた道路が続いているだけだった。
「……主は」
優子が小さく言った。
「まだ、私を切ってないのかもしれない」
「どういう意味?」
「これ、奈々へのメッセージだけじゃないと思う」
優子は唇を噛む。
「私に見せるためでもある。主は、私が奈々の近くにいることを分かってる。分かってて、これを置いた」
「優子を脅すため?」
「たぶん」
優子は苦笑した。
「戻ってこい、って言わないんだよ。主は。言わなくても分かるようにする」
奈々は胸が苦しくなった。
優子もまた、見えない手で縛られている。
奈々が自分の中の魔力に怯えているのと同じように、優子は主という存在に怯えている。
それなのに、優子は奈々のそばにいる。
「……優子」
「なに?」
「戻らなくていいよ」
優子が目を見開いた。
奈々は少しだけ恥ずかしくなったが、目は逸らさなかった。
「私は、優子にいてほしい」
優子の表情が、ゆっくり揺れた。
泣きそうな顔にも、笑いそうな顔にも見えた。
「奈々ってさ」
「なに」
「そういうこと、急に言うよね」
「悪い?」
「悪くない、好き」
優子は小さく笑った。
「恥ずかしくて困るけど」
神一郎が二人を見て、少しだけ息を吐く。
「朝倉さん」
「うん?」
「帰る場所がないなら、こっちにいればいい」
優子は今度こそ完全に固まった。
奈々も神一郎を見た。
「神一郎、それは簡単に言いすぎじゃない?」
「簡単には言ってない」
神一郎は静かに答えた。
「でも、少なくとも今は、朝倉さんが一人でいる方が危ない。主が何を考えてるか分からない以上、俺たちと一緒にいた方がいい」
「合理的だな」
椎菜が言う。
「ついでに、君らしい甘さもある」
「隊長」
「褒めている」
「絶対違うでしょ」
いつものやり取り。
でも、優子は笑わなかった。
彼女は少し俯いたまま、鞄の持ち手を握りしめていた。
「……ほんと、困るなあ」
小さく呟く。
それから、顔を上げた。
「でも、ありがとう」
その笑顔は、まだ不安定だった。
それでも、昨日よりほんの少しだけ、本物に近かった。
四人は帰路についた。
いつもの道。
夕方の住宅街。
買い物帰りの人、自転車で通る学生、犬の散歩をしている老人。
そのすべてが、相変わらず普通だった。
けれど奈々はもう、普通の景色の裏側に何かが潜んでいることを知っている。
そして、その何かはこちらを見ている。
神一郎の少し前を歩く背中を見る。
優子の横顔を見る。
椎菜の静かな目を見る。
自分はまだ、何もできない。
でも、何も知らないまま守られるだけではいたくない。
紙片の言葉が、また胸の奥で響いた。
その力は、君のものではない。
奈々はそっと、自分の手を握った。
たしかに、自分だけのものではないのかもしれない。
誰かがくれたものかもしれない。
誰かが、命をかけて残したものかもしれない。
けれど。
「……勝手に決めないで」
小さく呟く。
神一郎が振り返った。
「奈々?」
「なんでもない」
奈々は首を振る。
けれど、心の中ではもう一度だけ繰り返した。
これは、私が知る。
私が受け取ったものなら。
私が、ちゃんと向き合う。
夕方の空は、昨日より少しだけ赤かった。
夜はまだ来ていない。
でも、夜の視線は確かにこちらへ向いている。
そして奈々は初めて、その視線から目を逸らさなかった。




