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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第二章 夜が来る前に
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第二章 第五話 残された文字

 マンションへ戻るまでの道のりは、いつもより長く感じた。

 夕方の住宅街には、何も特別なものはなかった。塾へ向かう小学生たちが駆けていき、スーツ姿の男が片手でスマホを操作しながら駅へ歩いていく。スーパーの袋を提げた女性が、マンションの前で知り合いらしい人と立ち話をしていた。

 世界は、あまりにも普通だった。

 その普通さが、奈々には少しだけ怖かった。

 さっきまで、学校の靴箱に入っていた一枚の紙片。そこに書かれていた、たった一文。

 ――その力は、君のものではない。

 その文字が、ずっと頭の奥に残っている。

 何度も何度も、同じ声で繰り返される。

 声なんて聞こえていないはずなのに、まるで誰かが耳元で囁いているみたいだった。

 奈々は無意識に自分の手を握った。

 朝、紙で切れたはずの指先。

 傷は、もうない。

 痛みも、ほとんどない。

 でも、そこにあった一瞬の光を、奈々は忘れられなかった。

 自分の身体が、自分の意思とは関係なく傷を治した。

 それだけでも十分に怖かった。

 なのに、その力を誰かが外から見て、「君のものではない」と言ってくる。

 それは、気味が悪いというより、悔しかった。

 何も知らないのは自分なのに。

 一番知りたいのは自分なのに。

 外側にいる誰かが、先に答えだけを握っている。

 それが、どうしようもなく腹立たしかった。

「奈々」

 少し前を歩いていた神一郎が振り返る。

「歩くの、きつい?」

「大丈夫」

 すぐに答えてから、奈々は少しだけ顔をしかめた。

「……いや、大丈夫じゃないけど、歩ける」

「便利だな、その言葉」

「また借りるつもり?」

「考えとく」

 短いやり取り。

 それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。

 神一郎はそれ以上何も言わなかった。けれど、歩く速度をほんの少しだけ落とした。奈々が追いつきやすいように。

 そういうさりげなさが、昔からあった気がする。

 小学校の頃、トランペットの練習で奈々が息切れしても、神一郎は「休め」とは言わなかった。ただ、自分も水を飲むふりをして、少しだけ時間を作った。

 今も、似ている。

 だから余計に、奈々は胸が詰まった。

 昔から変わらないところと、まるで知らないところが、同じ人の中にある。

 神一郎も、自分の知らない時間を生きてきた。

 その時間の中に、もしかしたら自分の魔力の答えがあるのかもしれない。

 そう思うと、どうしていいか分からなくなる。

「周囲の気配は?」

 椎菜が低く聞いた。

 神一郎はすぐに答える。

「今のところ、不自然な追跡はありません。ただ、完全にないとは言い切れません」

「同感だ」

 椎菜は歩きながら、ほとんど視線を動かしていないように見える。それなのに、奈々には分かった。あの人は周囲のすべてを見ている。

 通り過ぎる車の窓。

 建物の屋上。

 植え込みの影。

 反射するガラス。

 普通なら気にも留めない場所を、椎菜は何気ない顔で拾っている。

 優子は、奈々の隣を歩いていた。

 いつもなら何かしら軽口を言いそうなものなのに、今は黙っている。鞄の持ち手を握る指が、時々小さく強張っていた。

「優子」

 奈々が呼ぶと、優子は少し遅れて顔を向けた。

「なに?」

「……大丈夫?」

 言った瞬間、優子は困ったように笑った。

「それ、奈々に聞かれると複雑」

「私もさっきから聞かれてるから、お返し」

「そっか」

 優子は少しだけ肩の力を抜いた。

「大丈夫じゃないけど、歩ける」

「それ、私の台詞」

「便利だから借りた」

「みんなして」

 奈々が呆れると、優子はやっと少しだけ笑った。

 その笑顔はまだ弱い。

 でも、消えてはいなかった。

 マンションのエントランスへ入る前に、椎菜が一度足を止めた。

「神一郎」

「はい」

「先に結界確認」

「了解」

 神一郎は胸ポケットからボールペン姿のツキカゲを取り出すと、何気なくキャップを外すような動作をした。リンクはしていない。けれど、先端の黒い魔力結晶がほんのわずかに光る。

 奈々には何が起きているのか分からない。

 ただ、空気が薄い膜を張るように変わったのだけは感じた。

 神一郎が目を細める。

「侵入痕跡なし。俺たちの部屋も奈々の部屋も、外側の結界は生きてます」

「内側は戻ってから確認だ」

「はい」

 それを聞いて、奈々は少しだけ眉を寄せた。

「ねえ、学校の靴箱に紙が入ってたってことは、学校の中は入られたってことよね?」

「そうなる」

 椎菜が答える。

「でも、学校にも結界とか張ってるんじゃないの?」

「最低限はな。ただし、学校全体を軍事施設並みに封鎖するわけにはいかない。一般生徒や教師、来客、業者も出入りする。人の流れが多い場所ほど、完全な遮断は難しい」

「……じゃあ、また入れられる可能性もあるってこと?」

「ある」

 椎菜は隠さなかった。

 奈々は唇を噛む。

 こういうところが、椎菜らしいと思う。

 安心させるための嘘は言わない。

 必要なら、怖いこともそのまま言う。

 それが少し怖くて、少しありがたかった。

「だから調べる」

 椎菜は続けた。

「どう入れたのか。誰が入れたのか。何を残したのか。分からないなら、分かるところから潰す」

 その言い方は淡々としていたが、奈々には少しだけ頼もしく聞こえた。

 部屋へ戻ると、神一郎はすぐに玄関の内側へ手をかざした。淡い光が走り、壁や床をなぞるように広がっていく。

 椎菜も同時に、窓際へ向かった。カーテンを少しだけ開け、外を確認し、それからテーブルの上へ紙片を置く。

 白い紙。

 学校の靴箱で見た時より、小さく見えた。

 けれど、そこに込められた重さは変わらない。

 奈々はソファに座ることもできず、少し離れた場所に立ったまま紙片を見つめた。

 優子はテーブルの反対側に座ったが、背筋がいつもより硬い。

 神一郎は結界の確認を終えると、奈々の横へ来た。

「部屋は大丈夫」

「……そっか」

「でも、油断はしない」

「うん」

 椎菜はポケットから小さなケースを取り出した。

 中には、透明な板のようなものが何枚か入っている。それを一枚テーブルに置き、紙片をその上へ移した。

「何、それ」

 奈々が聞くと、椎菜は手を止めずに答える。

「簡易解析板だ。紙や金属、布などに残った魔力痕跡を読む。精度は本部の装置に劣るが、現場では十分使える」

「そんなの持ち歩いてるんですか」

 神一郎が言うと、椎菜は平然と頷いた。

「護衛任務だからな」

「用意が良すぎるんですよね」

「褒め言葉として受け取る」

「前にも言ってましたよ、それ」

 そのやり取りに、奈々はほんの少しだけ口元を緩めた。

 けれど、すぐに視線は紙片へ戻る。

 椎菜が指先で解析板に触れると、板の表面に細い光の線が浮かんだ。

 青、白、薄い金色。

 それらが紙片の周囲をゆっくり巡っていく。

 奈々は息を詰めて見守った。

 何かが出てくるのだろうか。

 主の名前。

 設置した人物。

 魔力の痕跡。

 自分の中の力に関する手がかり。

 そういうものが、今ここで分かるのだろうか。

 しかし。

 椎菜は、しばらくして眉を寄せた。

「……妙だな」

 神一郎がすぐ反応する。

「何か出ましたか?」

「逆だ」

「逆?」

「何も出ない」

 部屋の空気が少しだけ沈んだ。

 奈々は思わず聞き返す。

「何もって……普通の紙ってこと?」

「紙自体は普通だ。人間界で市販されているメモ用紙の類だろう。インクも特殊ではない」

「じゃあ、手がかりなし?」

「そう単純ではない」

 椎菜は解析板を見つめたまま言った。

「普通、人が触れたものには微量の痕跡が残る。魔力持ちであれば魔力反応が。そうでない人間でも体温、皮脂、圧力の跡、周囲の環境の影響がある」

「この紙には、それがないんですか」

 神一郎の声が少し低くなる。

「ああ。綺麗すぎる」

 椎菜は紙片の端を指さした。

「紙としては普通だ。だが、状態が普通ではない。誰かが意図的に“残るべきもの”を消している」

 優子の顔色が、さらに悪くなった。

「主だ……」

 その声は小さかった。

 奈々が振り向くと、優子は紙片を見つめたまま、唇を薄く噛んでいた。

「主は、そういう消し方をする」

 椎菜が視線だけを向ける。

「知っているのか」

「見たことがあるわけじゃないです。でも、聞いたことはあります。主が関わった後の現場は、何も残らないって」

「何も残らないなら、噂にもならないだろう」

 神一郎が言うと、優子は弱く笑った。

「だから怖いんだよ。何も残らないのに、“主がやった”ってみんな分かるの。分かるように、何も残さない」

 その言葉に、奈々は背筋が冷えた。

 何も残さないことが、証拠になる。

 それは、ただ隠すだけとは違う。

 まるで、自分の力を見せつけているみたいだった。

 椎菜が小さく頷く。

「何も残っていない。だが、“何も残さないようにした痕跡”だけがある」

 神一郎は顔をしかめた。

「嫌な情報ですね」

「だが情報だ」

 椎菜は淡々と言った。

「少なくとも、これを用意した者は、魔力痕跡の消去に慣れている。学校に侵入したのが本人か協力者かは分からないが、素人ではない」

「主本人が入れた可能性は?」

「低いとは言い切れない。だが、あえて本人が動く必要はない。接触だけが目的なら、駒を使えばいい」

 駒。

 その言葉に、優子の肩がわずかに揺れた。

 奈々はその反応を見逃さなかった。

「優子」

「……ごめん。大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょ」

「うん」

 優子は苦笑した。

「今日はそれ、通じないよね」

「通じない」

 奈々が即答すると、優子は少しだけ目を伏せた。

 部屋の中に、短い沈黙が落ちる。

 エアコンの低い音だけが聞こえた。

 外では、夕方の空が少しずつ暗くなり始めている。窓の向こうのビルの輪郭が、薄い青に沈んでいく。

 椎菜は解析板をしまうと、紙片を透明なケースへ封入した。

「本部に送ればもう少し詳しい解析はできる。だが、期待はしない方がいい」

「それくらい綺麗に消されてるってことですか」

「ああ」

 神一郎は腕を組んだまま、紙片を見ていた。

 その表情は硬い。

 さっきから、何かが引っかかっているようだった。

「神一郎?」

 奈々が呼ぶと、彼は少し遅れてこちらを見る。

「何」

「また、その顔してる」

「……最近、それ言われすぎじゃないか」

「だってしてるから」

 神一郎は苦く笑いかけたが、すぐに表情を戻した。

「この言い方」

「言い方?」

「“その力は、君のものではない”っていう断定の仕方。どこかで聞いた気がする」

 奈々の胸が、少しだけ締めつけられた。

 まただ。

 神一郎の中の、思い出せそうで思い出せない何か。

 奈々の魔力に触れるたび、神一郎は遠い場所を見ているような顔をする。

 それが、奈々には怖かった。

 自分の中の力が、神一郎の傷に触れているみたいで。

「誰に?」

 椎菜が聞く。

 神一郎は首を振った。

「分かりません。ただ……騎士団で聞いたような気もするし、もっと昔のような気もする」

「思想か?」

「たぶん」

 神一郎は紙片から目を離さない。

「魔力は個人のものじゃない、とか、力には本来の持ち主がいる、とか。そういう言い回しに近い気がする」

 椎菜の目が少しだけ細くなった。

「古い派閥の考え方だな」

「古い派閥?」

 奈々が聞くと、椎菜は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「アトランティスにも、いろいろな考え方がある。魔力は個人の資質であり、本人の意思で扱うべきだと考える者もいれば、魔力は国家や血統、組織の財産だと考える者もいる」

「……財産」

 奈々はその言葉を繰り返した。

 嫌な響きだった。

 自分の身体の中にあるものを、誰かが“財産”として見ているかもしれない。

 それは、紙片の一文とよく似た不快感があった。

「昔は今より強かった思想だ」

 椎菜は続ける。

「特に高位の治癒系魔力は、国や軍にとって極めて重要だった。戦闘能力とは別の意味でな」

 神一郎は何も言わなかった。

 けれど、顔色がわずかに変わった。

 奈々はそれに気づいてしまう。

 高位の治癒系魔力。

 神一郎の既視感。

 自分の中に残されたかもしれない力。

 それらが、また見えない線で繋がりかける。

 でも、まだ答えには届かない。

 届きそうになるたびに、霧が濃くなる。

「主は」

 優子がぽつりと言った。

「たぶん、そういうのを知ってる」

 三人の視線が優子へ向いた。

 優子は少しだけ背筋を伸ばした。けれど、その指先はまだ震えている。

「私が知ってること、話すね。多分、全部じゃないし、間違ってることもあるかもしれないけど」

「無理はしなくていいよ」

 奈々が言うと、優子は首を振った。

「ううん。話さない方が怖い」

 その言葉は、奈々にも少し分かった。

 知らないまま怯えるより、怖くても知る方がいい。

 今の自分たちは、そういう場所にいる。

 優子はテーブルの上で両手を組んだ。

「主は、中国軍の中でもかなり特殊な扱いを受けてる。正式な階級はあるはずなんだけど、私たち訓練生や下の隊員はほとんど聞かされてない。みんな“主”って呼ぶ」

「本名は?」

 神一郎が聞く。

「知らない」

 優子は即答した。

「顔は?」

「何度か見たはずなんだけど……思い出そうとすると、ぼやける」

 奈々は眉を寄せる。

「ぼやけるって?」

「記憶に残りにくいの。顔立ちは分かるはずなのに、後から思い出せない。背が高かったとか、声が低かったとか、そういう断片だけ残る」

「認識阻害か」

 椎菜が呟いた。

「それも相当高度な」

「やっぱりそうなんですか」

 神一郎の声がさらに硬くなる。

「おそらくな。自身の印象を薄める術式か、接触した相手の記憶へ干渉する術式。どちらにせよ、一般的な騎士の技術ではない」

 優子は小さく頷いた。

「主は、命令をあまりしない。細かく指示を出さないの。結果だけを求める。失敗しても、その場では怒らない」

「優しいってこと?」

 奈々が聞くと、優子はすぐに首を振った。

「違う」

 その否定は、思ったより強かった。

「怒られた方が、まだいい。主は怒らないの。怒鳴らない。罰をすぐに与えたりもしない。ただ、黙って見る」

 優子の声が少しだけ低くなる。

「そうすると、見られた方が勝手に壊れていく。何が悪かったのか、いつ処分されるのか、次は何をさせられるのか、ずっと考え続けるから」

 奈々は、教室で感じた視線を思い出した。

 何もしない。

 ただ見ている。

 それだけで、相手を追い詰める。

 優子が言っていた主のやり方が、少しだけ分かった気がした。

「昔、訓練で同期の子が失敗したことがあった」

 優子はゆっくり話し始めた。

「任務形式の訓練で、指定された目標を時間内に確保できなかった。普通なら教官が怒る。罰走とか、再訓練とか。でもその日は主が見に来てて」

 優子は一度、言葉を切った。

「主は何も言わなかった。ただ、その子の肩に手を置いて、“次はできる”って言ったの」

「それだけ?」

 奈々が聞く。

「それだけ」

 優子は頷いた。

「でも、その子は次の日から眠れなくなった。次はできるって言われたのに、次も失敗したらどうなるんだろうって。主は怒らなかった。でも、怒られなかったことが怖かった」

 部屋が静かになる。

 奈々は、優子の横顔を見た。

 優子も、きっと同じようなものを見てきたのだ。

 中国軍特務隊fox。

 孤児として育てられ、訓練を受け、任務と感情の間で揺れている少女。

 奈々が知らなかった優子の時間。

 その時間が、少しずつ形を持ち始めていた。

「優子は」

 奈々は小さく聞いた。

「主に、何かされたことあるの?」

 優子は少しだけ黙った。

 その沈黙で、奈々は聞いたことを後悔しかける。

 でも優子は逃げなかった。

「直接、何かされたことは少ないよ」

「少ない?」

「うん」

 優子は笑おうとして、やめた。

「一度だけ、言われたことがある」

「何を?」

「“君は人を好きになりすぎる”って」

 奈々は息を止めた。

 それは、叱責のようにも聞こえない。

 ただの指摘。

 けれど優子の声からは、その一言がどれだけ深く刺さったのかが伝わってきた。

「主は私に言ったの。“任務に必要なのは共感ではなく理解だ。相手を理解しろ。だが、寄り添うな”って」

 優子は自分の手を見つめる。

「私はそれが苦手だった。任務対象と話すと、その人のことを考えちゃう。敵でも、守る相手でも、友達でも。そういうの、騎士としては弱点なんだって」

「弱点じゃないよ」

 奈々は即座に言った。

 優子が驚いたように顔を上げる。

 奈々も、自分の声が思ったより強かったことに少し驚いた。

「それは、優子のいいところでしょ」

「……奈々」

「任務としては知らない。でも私は、優子がそういう子だから、今ここにいてくれるんだと思う」

 優子の目が揺れた。

 泣きそうだった。

 けれど彼女は、こぼれそうなものを笑顔で押し戻すみたいに、少しだけ口元を上げた。

「ほんと、奈々は急にそういうこと言う」

「また?」

「また」

「じゃあ慣れて」

「無理かも」

 優子は小さく笑った。

 その笑顔は弱いけれど、今度は本物だった。

 神一郎は二人のやり取りを黙って聞いていた。

 椎菜も、何も言わない。

 しばらくして、神一郎が口を開いた。

「朝倉さん。主がアトランティス側と関係あるって話は?」

 優子の表情が少しだけ引き締まる。

「噂だけど、あった」

「どんな?」

「主は元々、中国軍の人間じゃないって。外から来た人だって。しかも、ただの亡命者じゃなくて……アトランティス側の騎士だったんじゃないかって」

 その瞬間、神一郎と椎菜の空気が変わった。

 奈々にも分かるくらい、はっきりと。

 椎菜の目が鋭くなり、神一郎の口元から表情が消える。

「根拠は」

 椎菜が聞く。

「分かりません。ただ、主はアトランティスの術式に詳しすぎるって、教官たちが話してたのを聞いたことがあります。私たちの武器やリンク構造だけじゃなくて、騎士団の戦術とか、結界の癖とか、そういうのも」

「……だから映画館で、こちらの反応を読めたのか」

 神一郎が呟く。

 椎菜は頷いた。

「あり得る。こちらの戦術思想を知っているなら、護衛時の動きも予測しやすい」

「でも、それって」

 奈々は二人を見る。

「主が、神一郎たちの側にいたかもしれないってこと?」

「可能性はある」

 椎菜は短く答えた。

「ただし、まだ断定はできない」

「アトランティス側の騎士だった人が、なんで中国軍に?」

「理由はいくつも考えられる。亡命、離反、潜入、取引、あるいは復讐」

 復讐。

 その言葉だけが、妙に重たく響いた。

 奈々は自分の手を見た。

 その力は、君のものではない。

 もし主がアトランティス側の騎士だったなら。

 もし奈々の中にある魔力のことを、最初から知っていたなら。

 その人は、何を見ているのだろう。

 奈々自身を見ているのか。

 それとも、奈々の中にある“誰かの力”を見ているのか。

「……私」

 気づくと、奈々は声を出していた。

 三人の視線が集まる。

 奈々は少しだけ怯みかけたが、息を吸って続けた。

「怖い。正直、めちゃくちゃ怖い」

 声は震えなかった。

 震えなかったことに、自分で少し驚いた。

「でも、あの紙に書いてあったことを、ずっと頭の中で考えてた」

 その力は、君のものではない。

 その言葉が、また胸の奥で響く。

「私のものじゃないのかもしれない。誰かから受け取ったものなのかもしれない。もしかしたら、その誰かはもういないのかもしれない」

 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

 なぜか泣きそうになった。

 まだ顔も名前も知らない誰か。

 それなのに、その誰かが自分のために何かを残したのだと思うと、知らないままではいられなかった。

「でも、だからって、知らない誰かに勝手に決められたくない」

 奈々は紙片の入ったケースを見る。

「私のものじゃないなら、なおさら知りたい。誰が、何を、私に残したのか」

 部屋の中が静かになった。

 神一郎は奈々を見ていた。

 優子は、少しだけ泣きそうな顔で笑っている。

 椎菜は腕を組み、まっすぐ奈々を見ていた。

「そのためには」

 奈々は続ける。

「この力を抑えられるようになりたい。勝手に漏れたり、勝手に反応したりしないようにしたい。敵に見つかるからとか、危ないからとか、それもあるけど……それだけじゃなくて」

 少しだけ言葉に詰まる。

 けれど、ここは言わなければならない気がした。

「私が、ちゃんと向き合うために」

 神一郎がすぐに口を開きかける。

 たぶん、反対しようとしたのだと思う。

 まだ早い。

 危ない。

 無理をするな。

 そんな言葉が出てきそうだった。

 でも、それより先に椎菜が言った。

「いいだろう」

「隊長」

 神一郎の声が少し強くなる。

「まだ奈々は昨日襲われたばかりです。今日だってメッセージが来た。精神的に負担が大きすぎる」

「だからこそ、ただ休ませても恐怖は消えない」

 椎菜は静かに返した。

「神一郎。君も分かっているはずだ。何もできない時間が、一番人を追い詰める」

 神一郎は言葉を詰まらせた。

 たぶん、分かっているのだ。

 分かっているからこそ、反論しきれない。

 奈々は神一郎を見る。

「神一郎」

「……何」

「私、戦いたいって言ってるわけじゃないよ」

「分かってる」

「でも、知りたいの。自分のことなのに、ずっと知らないままなのは嫌なの」

 神一郎は目を伏せた。

 その表情には、いろいろな感情が混ざっていた。

 心配。

 迷い。

 それから、たぶん少しの諦め。

「……分かった」

 やがて、神一郎は小さく息を吐いた。

「でも、無理はしない。少しでもきつかったら止める。これは絶対」

「うん」

「朝倉さんも、止める側に回って」

「もちろん」

 優子はすぐに頷いた。

「奈々が無理したら、私が止める。たぶん神一郎君より先に止める」

「そこは俺に譲ってくれてもいいんだけど」

「無理」

「即答か」

 そのやり取りに、奈々は少しだけ笑った。

 怖いことは消えていない。

 紙片の言葉も、主の視線も、優子の恐怖も、神一郎の違和感も、何ひとつ解決していない。

 それでも、笑えた。

 ほんの少しだけ。

 それはきっと、大事なことなのだと思った。

 椎菜はテーブルの上を片付けながら言った。

「今日は本格的な訓練はしない。奈々くんの状態を見ながら、呼吸と魔力の流れを確認するだけだ」

「呼吸?」

「ああ。魔力制御の初歩は、まず自分の中の流れを感じることだ。君の場合は特に、感情に反応して流れが乱れやすい。まずはそれを自覚する」

「難しそう」

「難しい」

「そこは簡単だって言ってくれても」

「嘘をついてどうする」

「ですよね」

 奈々が苦笑すると、椎菜は少しだけ口元を緩めた。

「だが、不可能ではない」

 その言葉は、不思議と奈々の胸に残った。

 不可能ではない。

 それだけで、今は十分だった。

 神一郎がカーテンを閉め、部屋の明かりを少し落とした。椎菜が床に小さな結界陣を展開する。淡い光が円を描き、部屋の中央に静かな場所を作った。

 奈々はその前に立つ。

 足元の光は、昨日の測定の時よりずっと弱い。

 けれど、そこに立つだけで、胸の奥が少しざわついた。

 怖い。

 でも、逃げたくない。

「奈々」

 優子が声をかける。

 振り返ると、優子は少しだけ笑っていた。

「怖くなったら、すぐ言って」

「うん」

「私もいるから」

 奈々は頷いた。

 そして、神一郎を見る。

 神一郎は何も言わなかった。

 ただ、真剣な顔でこちらを見ている。

 その視線は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。

 奈々は小さく息を吸う。

 紙片の文字が、また頭の奥で響いた。

 ――その力は、君のものではない。

 その言葉は、まだ消えない。

 きっと、しばらく消えない。

 けれど奈々は、もうそれをただの呪いとして受け取るつもりはなかった。

 これは、私が知る。

 誰かが残したものなら、その誰かを知りたい。

 誰かが命をかけてくれたものなら、その意味を知りたい。

 そして。

 もし誰かが、この力を奪おうとしているのなら。

 勝手に決めるなと、ちゃんと言える自分でいたい。

「始めるぞ」

 椎菜の声がした。

 奈々は目を閉じる。

 胸の奥で、ほんの微かな光が揺れた。

 それはまだ、自分のものとは言えないのかもしれない。

 けれど確かに、今は奈々の中にある。

 奈々はその光から、初めて目を逸らさなかった。


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