第二章 第五話 残された文字
マンションへ戻るまでの道のりは、いつもより長く感じた。
夕方の住宅街には、何も特別なものはなかった。塾へ向かう小学生たちが駆けていき、スーツ姿の男が片手でスマホを操作しながら駅へ歩いていく。スーパーの袋を提げた女性が、マンションの前で知り合いらしい人と立ち話をしていた。
世界は、あまりにも普通だった。
その普通さが、奈々には少しだけ怖かった。
さっきまで、学校の靴箱に入っていた一枚の紙片。そこに書かれていた、たった一文。
――その力は、君のものではない。
その文字が、ずっと頭の奥に残っている。
何度も何度も、同じ声で繰り返される。
声なんて聞こえていないはずなのに、まるで誰かが耳元で囁いているみたいだった。
奈々は無意識に自分の手を握った。
朝、紙で切れたはずの指先。
傷は、もうない。
痛みも、ほとんどない。
でも、そこにあった一瞬の光を、奈々は忘れられなかった。
自分の身体が、自分の意思とは関係なく傷を治した。
それだけでも十分に怖かった。
なのに、その力を誰かが外から見て、「君のものではない」と言ってくる。
それは、気味が悪いというより、悔しかった。
何も知らないのは自分なのに。
一番知りたいのは自分なのに。
外側にいる誰かが、先に答えだけを握っている。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
「奈々」
少し前を歩いていた神一郎が振り返る。
「歩くの、きつい?」
「大丈夫」
すぐに答えてから、奈々は少しだけ顔をしかめた。
「……いや、大丈夫じゃないけど、歩ける」
「便利だな、その言葉」
「また借りるつもり?」
「考えとく」
短いやり取り。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
神一郎はそれ以上何も言わなかった。けれど、歩く速度をほんの少しだけ落とした。奈々が追いつきやすいように。
そういうさりげなさが、昔からあった気がする。
小学校の頃、トランペットの練習で奈々が息切れしても、神一郎は「休め」とは言わなかった。ただ、自分も水を飲むふりをして、少しだけ時間を作った。
今も、似ている。
だから余計に、奈々は胸が詰まった。
昔から変わらないところと、まるで知らないところが、同じ人の中にある。
神一郎も、自分の知らない時間を生きてきた。
その時間の中に、もしかしたら自分の魔力の答えがあるのかもしれない。
そう思うと、どうしていいか分からなくなる。
「周囲の気配は?」
椎菜が低く聞いた。
神一郎はすぐに答える。
「今のところ、不自然な追跡はありません。ただ、完全にないとは言い切れません」
「同感だ」
椎菜は歩きながら、ほとんど視線を動かしていないように見える。それなのに、奈々には分かった。あの人は周囲のすべてを見ている。
通り過ぎる車の窓。
建物の屋上。
植え込みの影。
反射するガラス。
普通なら気にも留めない場所を、椎菜は何気ない顔で拾っている。
優子は、奈々の隣を歩いていた。
いつもなら何かしら軽口を言いそうなものなのに、今は黙っている。鞄の持ち手を握る指が、時々小さく強張っていた。
「優子」
奈々が呼ぶと、優子は少し遅れて顔を向けた。
「なに?」
「……大丈夫?」
言った瞬間、優子は困ったように笑った。
「それ、奈々に聞かれると複雑」
「私もさっきから聞かれてるから、お返し」
「そっか」
優子は少しだけ肩の力を抜いた。
「大丈夫じゃないけど、歩ける」
「それ、私の台詞」
「便利だから借りた」
「みんなして」
奈々が呆れると、優子はやっと少しだけ笑った。
その笑顔はまだ弱い。
でも、消えてはいなかった。
マンションのエントランスへ入る前に、椎菜が一度足を止めた。
「神一郎」
「はい」
「先に結界確認」
「了解」
神一郎は胸ポケットからボールペン姿のツキカゲを取り出すと、何気なくキャップを外すような動作をした。リンクはしていない。けれど、先端の黒い魔力結晶がほんのわずかに光る。
奈々には何が起きているのか分からない。
ただ、空気が薄い膜を張るように変わったのだけは感じた。
神一郎が目を細める。
「侵入痕跡なし。俺たちの部屋も奈々の部屋も、外側の結界は生きてます」
「内側は戻ってから確認だ」
「はい」
それを聞いて、奈々は少しだけ眉を寄せた。
「ねえ、学校の靴箱に紙が入ってたってことは、学校の中は入られたってことよね?」
「そうなる」
椎菜が答える。
「でも、学校にも結界とか張ってるんじゃないの?」
「最低限はな。ただし、学校全体を軍事施設並みに封鎖するわけにはいかない。一般生徒や教師、来客、業者も出入りする。人の流れが多い場所ほど、完全な遮断は難しい」
「……じゃあ、また入れられる可能性もあるってこと?」
「ある」
椎菜は隠さなかった。
奈々は唇を噛む。
こういうところが、椎菜らしいと思う。
安心させるための嘘は言わない。
必要なら、怖いこともそのまま言う。
それが少し怖くて、少しありがたかった。
「だから調べる」
椎菜は続けた。
「どう入れたのか。誰が入れたのか。何を残したのか。分からないなら、分かるところから潰す」
その言い方は淡々としていたが、奈々には少しだけ頼もしく聞こえた。
部屋へ戻ると、神一郎はすぐに玄関の内側へ手をかざした。淡い光が走り、壁や床をなぞるように広がっていく。
椎菜も同時に、窓際へ向かった。カーテンを少しだけ開け、外を確認し、それからテーブルの上へ紙片を置く。
白い紙。
学校の靴箱で見た時より、小さく見えた。
けれど、そこに込められた重さは変わらない。
奈々はソファに座ることもできず、少し離れた場所に立ったまま紙片を見つめた。
優子はテーブルの反対側に座ったが、背筋がいつもより硬い。
神一郎は結界の確認を終えると、奈々の横へ来た。
「部屋は大丈夫」
「……そっか」
「でも、油断はしない」
「うん」
椎菜はポケットから小さなケースを取り出した。
中には、透明な板のようなものが何枚か入っている。それを一枚テーブルに置き、紙片をその上へ移した。
「何、それ」
奈々が聞くと、椎菜は手を止めずに答える。
「簡易解析板だ。紙や金属、布などに残った魔力痕跡を読む。精度は本部の装置に劣るが、現場では十分使える」
「そんなの持ち歩いてるんですか」
神一郎が言うと、椎菜は平然と頷いた。
「護衛任務だからな」
「用意が良すぎるんですよね」
「褒め言葉として受け取る」
「前にも言ってましたよ、それ」
そのやり取りに、奈々はほんの少しだけ口元を緩めた。
けれど、すぐに視線は紙片へ戻る。
椎菜が指先で解析板に触れると、板の表面に細い光の線が浮かんだ。
青、白、薄い金色。
それらが紙片の周囲をゆっくり巡っていく。
奈々は息を詰めて見守った。
何かが出てくるのだろうか。
主の名前。
設置した人物。
魔力の痕跡。
自分の中の力に関する手がかり。
そういうものが、今ここで分かるのだろうか。
しかし。
椎菜は、しばらくして眉を寄せた。
「……妙だな」
神一郎がすぐ反応する。
「何か出ましたか?」
「逆だ」
「逆?」
「何も出ない」
部屋の空気が少しだけ沈んだ。
奈々は思わず聞き返す。
「何もって……普通の紙ってこと?」
「紙自体は普通だ。人間界で市販されているメモ用紙の類だろう。インクも特殊ではない」
「じゃあ、手がかりなし?」
「そう単純ではない」
椎菜は解析板を見つめたまま言った。
「普通、人が触れたものには微量の痕跡が残る。魔力持ちであれば魔力反応が。そうでない人間でも体温、皮脂、圧力の跡、周囲の環境の影響がある」
「この紙には、それがないんですか」
神一郎の声が少し低くなる。
「ああ。綺麗すぎる」
椎菜は紙片の端を指さした。
「紙としては普通だ。だが、状態が普通ではない。誰かが意図的に“残るべきもの”を消している」
優子の顔色が、さらに悪くなった。
「主だ……」
その声は小さかった。
奈々が振り向くと、優子は紙片を見つめたまま、唇を薄く噛んでいた。
「主は、そういう消し方をする」
椎菜が視線だけを向ける。
「知っているのか」
「見たことがあるわけじゃないです。でも、聞いたことはあります。主が関わった後の現場は、何も残らないって」
「何も残らないなら、噂にもならないだろう」
神一郎が言うと、優子は弱く笑った。
「だから怖いんだよ。何も残らないのに、“主がやった”ってみんな分かるの。分かるように、何も残さない」
その言葉に、奈々は背筋が冷えた。
何も残さないことが、証拠になる。
それは、ただ隠すだけとは違う。
まるで、自分の力を見せつけているみたいだった。
椎菜が小さく頷く。
「何も残っていない。だが、“何も残さないようにした痕跡”だけがある」
神一郎は顔をしかめた。
「嫌な情報ですね」
「だが情報だ」
椎菜は淡々と言った。
「少なくとも、これを用意した者は、魔力痕跡の消去に慣れている。学校に侵入したのが本人か協力者かは分からないが、素人ではない」
「主本人が入れた可能性は?」
「低いとは言い切れない。だが、あえて本人が動く必要はない。接触だけが目的なら、駒を使えばいい」
駒。
その言葉に、優子の肩がわずかに揺れた。
奈々はその反応を見逃さなかった。
「優子」
「……ごめん。大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
「うん」
優子は苦笑した。
「今日はそれ、通じないよね」
「通じない」
奈々が即答すると、優子は少しだけ目を伏せた。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
エアコンの低い音だけが聞こえた。
外では、夕方の空が少しずつ暗くなり始めている。窓の向こうのビルの輪郭が、薄い青に沈んでいく。
椎菜は解析板をしまうと、紙片を透明なケースへ封入した。
「本部に送ればもう少し詳しい解析はできる。だが、期待はしない方がいい」
「それくらい綺麗に消されてるってことですか」
「ああ」
神一郎は腕を組んだまま、紙片を見ていた。
その表情は硬い。
さっきから、何かが引っかかっているようだった。
「神一郎?」
奈々が呼ぶと、彼は少し遅れてこちらを見る。
「何」
「また、その顔してる」
「……最近、それ言われすぎじゃないか」
「だってしてるから」
神一郎は苦く笑いかけたが、すぐに表情を戻した。
「この言い方」
「言い方?」
「“その力は、君のものではない”っていう断定の仕方。どこかで聞いた気がする」
奈々の胸が、少しだけ締めつけられた。
まただ。
神一郎の中の、思い出せそうで思い出せない何か。
奈々の魔力に触れるたび、神一郎は遠い場所を見ているような顔をする。
それが、奈々には怖かった。
自分の中の力が、神一郎の傷に触れているみたいで。
「誰に?」
椎菜が聞く。
神一郎は首を振った。
「分かりません。ただ……騎士団で聞いたような気もするし、もっと昔のような気もする」
「思想か?」
「たぶん」
神一郎は紙片から目を離さない。
「魔力は個人のものじゃない、とか、力には本来の持ち主がいる、とか。そういう言い回しに近い気がする」
椎菜の目が少しだけ細くなった。
「古い派閥の考え方だな」
「古い派閥?」
奈々が聞くと、椎菜は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「アトランティスにも、いろいろな考え方がある。魔力は個人の資質であり、本人の意思で扱うべきだと考える者もいれば、魔力は国家や血統、組織の財産だと考える者もいる」
「……財産」
奈々はその言葉を繰り返した。
嫌な響きだった。
自分の身体の中にあるものを、誰かが“財産”として見ているかもしれない。
それは、紙片の一文とよく似た不快感があった。
「昔は今より強かった思想だ」
椎菜は続ける。
「特に高位の治癒系魔力は、国や軍にとって極めて重要だった。戦闘能力とは別の意味でな」
神一郎は何も言わなかった。
けれど、顔色がわずかに変わった。
奈々はそれに気づいてしまう。
高位の治癒系魔力。
神一郎の既視感。
自分の中に残されたかもしれない力。
それらが、また見えない線で繋がりかける。
でも、まだ答えには届かない。
届きそうになるたびに、霧が濃くなる。
「主は」
優子がぽつりと言った。
「たぶん、そういうのを知ってる」
三人の視線が優子へ向いた。
優子は少しだけ背筋を伸ばした。けれど、その指先はまだ震えている。
「私が知ってること、話すね。多分、全部じゃないし、間違ってることもあるかもしれないけど」
「無理はしなくていいよ」
奈々が言うと、優子は首を振った。
「ううん。話さない方が怖い」
その言葉は、奈々にも少し分かった。
知らないまま怯えるより、怖くても知る方がいい。
今の自分たちは、そういう場所にいる。
優子はテーブルの上で両手を組んだ。
「主は、中国軍の中でもかなり特殊な扱いを受けてる。正式な階級はあるはずなんだけど、私たち訓練生や下の隊員はほとんど聞かされてない。みんな“主”って呼ぶ」
「本名は?」
神一郎が聞く。
「知らない」
優子は即答した。
「顔は?」
「何度か見たはずなんだけど……思い出そうとすると、ぼやける」
奈々は眉を寄せる。
「ぼやけるって?」
「記憶に残りにくいの。顔立ちは分かるはずなのに、後から思い出せない。背が高かったとか、声が低かったとか、そういう断片だけ残る」
「認識阻害か」
椎菜が呟いた。
「それも相当高度な」
「やっぱりそうなんですか」
神一郎の声がさらに硬くなる。
「おそらくな。自身の印象を薄める術式か、接触した相手の記憶へ干渉する術式。どちらにせよ、一般的な騎士の技術ではない」
優子は小さく頷いた。
「主は、命令をあまりしない。細かく指示を出さないの。結果だけを求める。失敗しても、その場では怒らない」
「優しいってこと?」
奈々が聞くと、優子はすぐに首を振った。
「違う」
その否定は、思ったより強かった。
「怒られた方が、まだいい。主は怒らないの。怒鳴らない。罰をすぐに与えたりもしない。ただ、黙って見る」
優子の声が少しだけ低くなる。
「そうすると、見られた方が勝手に壊れていく。何が悪かったのか、いつ処分されるのか、次は何をさせられるのか、ずっと考え続けるから」
奈々は、教室で感じた視線を思い出した。
何もしない。
ただ見ている。
それだけで、相手を追い詰める。
優子が言っていた主のやり方が、少しだけ分かった気がした。
「昔、訓練で同期の子が失敗したことがあった」
優子はゆっくり話し始めた。
「任務形式の訓練で、指定された目標を時間内に確保できなかった。普通なら教官が怒る。罰走とか、再訓練とか。でもその日は主が見に来てて」
優子は一度、言葉を切った。
「主は何も言わなかった。ただ、その子の肩に手を置いて、“次はできる”って言ったの」
「それだけ?」
奈々が聞く。
「それだけ」
優子は頷いた。
「でも、その子は次の日から眠れなくなった。次はできるって言われたのに、次も失敗したらどうなるんだろうって。主は怒らなかった。でも、怒られなかったことが怖かった」
部屋が静かになる。
奈々は、優子の横顔を見た。
優子も、きっと同じようなものを見てきたのだ。
中国軍特務隊fox。
孤児として育てられ、訓練を受け、任務と感情の間で揺れている少女。
奈々が知らなかった優子の時間。
その時間が、少しずつ形を持ち始めていた。
「優子は」
奈々は小さく聞いた。
「主に、何かされたことあるの?」
優子は少しだけ黙った。
その沈黙で、奈々は聞いたことを後悔しかける。
でも優子は逃げなかった。
「直接、何かされたことは少ないよ」
「少ない?」
「うん」
優子は笑おうとして、やめた。
「一度だけ、言われたことがある」
「何を?」
「“君は人を好きになりすぎる”って」
奈々は息を止めた。
それは、叱責のようにも聞こえない。
ただの指摘。
けれど優子の声からは、その一言がどれだけ深く刺さったのかが伝わってきた。
「主は私に言ったの。“任務に必要なのは共感ではなく理解だ。相手を理解しろ。だが、寄り添うな”って」
優子は自分の手を見つめる。
「私はそれが苦手だった。任務対象と話すと、その人のことを考えちゃう。敵でも、守る相手でも、友達でも。そういうの、騎士としては弱点なんだって」
「弱点じゃないよ」
奈々は即座に言った。
優子が驚いたように顔を上げる。
奈々も、自分の声が思ったより強かったことに少し驚いた。
「それは、優子のいいところでしょ」
「……奈々」
「任務としては知らない。でも私は、優子がそういう子だから、今ここにいてくれるんだと思う」
優子の目が揺れた。
泣きそうだった。
けれど彼女は、こぼれそうなものを笑顔で押し戻すみたいに、少しだけ口元を上げた。
「ほんと、奈々は急にそういうこと言う」
「また?」
「また」
「じゃあ慣れて」
「無理かも」
優子は小さく笑った。
その笑顔は弱いけれど、今度は本物だった。
神一郎は二人のやり取りを黙って聞いていた。
椎菜も、何も言わない。
しばらくして、神一郎が口を開いた。
「朝倉さん。主がアトランティス側と関係あるって話は?」
優子の表情が少しだけ引き締まる。
「噂だけど、あった」
「どんな?」
「主は元々、中国軍の人間じゃないって。外から来た人だって。しかも、ただの亡命者じゃなくて……アトランティス側の騎士だったんじゃないかって」
その瞬間、神一郎と椎菜の空気が変わった。
奈々にも分かるくらい、はっきりと。
椎菜の目が鋭くなり、神一郎の口元から表情が消える。
「根拠は」
椎菜が聞く。
「分かりません。ただ、主はアトランティスの術式に詳しすぎるって、教官たちが話してたのを聞いたことがあります。私たちの武器やリンク構造だけじゃなくて、騎士団の戦術とか、結界の癖とか、そういうのも」
「……だから映画館で、こちらの反応を読めたのか」
神一郎が呟く。
椎菜は頷いた。
「あり得る。こちらの戦術思想を知っているなら、護衛時の動きも予測しやすい」
「でも、それって」
奈々は二人を見る。
「主が、神一郎たちの側にいたかもしれないってこと?」
「可能性はある」
椎菜は短く答えた。
「ただし、まだ断定はできない」
「アトランティス側の騎士だった人が、なんで中国軍に?」
「理由はいくつも考えられる。亡命、離反、潜入、取引、あるいは復讐」
復讐。
その言葉だけが、妙に重たく響いた。
奈々は自分の手を見た。
その力は、君のものではない。
もし主がアトランティス側の騎士だったなら。
もし奈々の中にある魔力のことを、最初から知っていたなら。
その人は、何を見ているのだろう。
奈々自身を見ているのか。
それとも、奈々の中にある“誰かの力”を見ているのか。
「……私」
気づくと、奈々は声を出していた。
三人の視線が集まる。
奈々は少しだけ怯みかけたが、息を吸って続けた。
「怖い。正直、めちゃくちゃ怖い」
声は震えなかった。
震えなかったことに、自分で少し驚いた。
「でも、あの紙に書いてあったことを、ずっと頭の中で考えてた」
その力は、君のものではない。
その言葉が、また胸の奥で響く。
「私のものじゃないのかもしれない。誰かから受け取ったものなのかもしれない。もしかしたら、その誰かはもういないのかもしれない」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
なぜか泣きそうになった。
まだ顔も名前も知らない誰か。
それなのに、その誰かが自分のために何かを残したのだと思うと、知らないままではいられなかった。
「でも、だからって、知らない誰かに勝手に決められたくない」
奈々は紙片の入ったケースを見る。
「私のものじゃないなら、なおさら知りたい。誰が、何を、私に残したのか」
部屋の中が静かになった。
神一郎は奈々を見ていた。
優子は、少しだけ泣きそうな顔で笑っている。
椎菜は腕を組み、まっすぐ奈々を見ていた。
「そのためには」
奈々は続ける。
「この力を抑えられるようになりたい。勝手に漏れたり、勝手に反応したりしないようにしたい。敵に見つかるからとか、危ないからとか、それもあるけど……それだけじゃなくて」
少しだけ言葉に詰まる。
けれど、ここは言わなければならない気がした。
「私が、ちゃんと向き合うために」
神一郎がすぐに口を開きかける。
たぶん、反対しようとしたのだと思う。
まだ早い。
危ない。
無理をするな。
そんな言葉が出てきそうだった。
でも、それより先に椎菜が言った。
「いいだろう」
「隊長」
神一郎の声が少し強くなる。
「まだ奈々は昨日襲われたばかりです。今日だってメッセージが来た。精神的に負担が大きすぎる」
「だからこそ、ただ休ませても恐怖は消えない」
椎菜は静かに返した。
「神一郎。君も分かっているはずだ。何もできない時間が、一番人を追い詰める」
神一郎は言葉を詰まらせた。
たぶん、分かっているのだ。
分かっているからこそ、反論しきれない。
奈々は神一郎を見る。
「神一郎」
「……何」
「私、戦いたいって言ってるわけじゃないよ」
「分かってる」
「でも、知りたいの。自分のことなのに、ずっと知らないままなのは嫌なの」
神一郎は目を伏せた。
その表情には、いろいろな感情が混ざっていた。
心配。
迷い。
それから、たぶん少しの諦め。
「……分かった」
やがて、神一郎は小さく息を吐いた。
「でも、無理はしない。少しでもきつかったら止める。これは絶対」
「うん」
「朝倉さんも、止める側に回って」
「もちろん」
優子はすぐに頷いた。
「奈々が無理したら、私が止める。たぶん神一郎君より先に止める」
「そこは俺に譲ってくれてもいいんだけど」
「無理」
「即答か」
そのやり取りに、奈々は少しだけ笑った。
怖いことは消えていない。
紙片の言葉も、主の視線も、優子の恐怖も、神一郎の違和感も、何ひとつ解決していない。
それでも、笑えた。
ほんの少しだけ。
それはきっと、大事なことなのだと思った。
椎菜はテーブルの上を片付けながら言った。
「今日は本格的な訓練はしない。奈々くんの状態を見ながら、呼吸と魔力の流れを確認するだけだ」
「呼吸?」
「ああ。魔力制御の初歩は、まず自分の中の流れを感じることだ。君の場合は特に、感情に反応して流れが乱れやすい。まずはそれを自覚する」
「難しそう」
「難しい」
「そこは簡単だって言ってくれても」
「嘘をついてどうする」
「ですよね」
奈々が苦笑すると、椎菜は少しだけ口元を緩めた。
「だが、不可能ではない」
その言葉は、不思議と奈々の胸に残った。
不可能ではない。
それだけで、今は十分だった。
神一郎がカーテンを閉め、部屋の明かりを少し落とした。椎菜が床に小さな結界陣を展開する。淡い光が円を描き、部屋の中央に静かな場所を作った。
奈々はその前に立つ。
足元の光は、昨日の測定の時よりずっと弱い。
けれど、そこに立つだけで、胸の奥が少しざわついた。
怖い。
でも、逃げたくない。
「奈々」
優子が声をかける。
振り返ると、優子は少しだけ笑っていた。
「怖くなったら、すぐ言って」
「うん」
「私もいるから」
奈々は頷いた。
そして、神一郎を見る。
神一郎は何も言わなかった。
ただ、真剣な顔でこちらを見ている。
その視線は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
奈々は小さく息を吸う。
紙片の文字が、また頭の奥で響いた。
――その力は、君のものではない。
その言葉は、まだ消えない。
きっと、しばらく消えない。
けれど奈々は、もうそれをただの呪いとして受け取るつもりはなかった。
これは、私が知る。
誰かが残したものなら、その誰かを知りたい。
誰かが命をかけてくれたものなら、その意味を知りたい。
そして。
もし誰かが、この力を奪おうとしているのなら。
勝手に決めるなと、ちゃんと言える自分でいたい。
「始めるぞ」
椎菜の声がした。
奈々は目を閉じる。
胸の奥で、ほんの微かな光が揺れた。
それはまだ、自分のものとは言えないのかもしれない。
けれど確かに、今は奈々の中にある。
奈々はその光から、初めて目を逸らさなかった。




