第二章 第六話 誰かの温度
「始めるぞ」
椎菜の声が、部屋の中に静かに落ちた。
神一郎の部屋のリビングは、さっきまでと同じ場所のはずだった。テーブルがあって、ソファがあって、カーテンの閉じられた窓があって、隅にはコンビニで買った飲み物の空き容器が置かれている。
ただのマンションの一室。
少なくとも見た目だけなら、そうだった。
けれど、床に淡く浮かび上がった円形の光が、その普通さを少しだけ別のものに変えていた。
椎菜が展開した結界陣。
細い線が何重にも重なり、まるで水面に描かれた模様のように静かに揺れている。明るすぎるわけではない。むしろ、部屋の照明に溶け込むくらい淡い光だ。
それなのに、そこだけ空気が違った。
奈々はその円の前に立ったまま、思わず喉を鳴らした。
「……これ、ほんとに危なくないんですよね?」
自分でも、声が少し硬いのがわかった。
怖くないわけがない。
昨日までの自分なら、床に光る謎の円なんて見た瞬間に「何これ、怪しすぎるんだけど」と笑っていたかもしれない。いや、たぶん笑えた。だってその時の自分は、魔力も、騎士も、結界も、主も知らなかったから。
でも今は違う。
この光がただの演出ではないことを知っている。
この部屋にいる三人が、普通の高校生でも、普通の友達でもないことを知っている。
そして、自分の中にも、普通ではない何かがあることを知ってしまっている。
自分でも意外なことに椎菜に対して敬語になってしまっている。
騎士になったわけでもないのに。
「危険を抑えるための結界だ」
椎菜は真顔で答えた。
「だから、危ない可能性はあるってことじゃないですか」
奈々が言うと、神一郎が小さくため息をついた。
「隊長、そこは安心させる言い方してくださいよ」
「嘘をついてどうする」
「嘘じゃなくて、言い方の問題です」
「なら、こう言おう」
椎菜は一拍置いてから、相変わらず真顔のまま言った。
「少なくとも、この部屋が吹き飛ぶ可能性は低い」
「余計怖いんですけど」
奈々が即座に返すと、優子が思わず噴き出した。
「ごめん、奈々。笑うとこじゃないのは分かってるんだけど」
「いや、今のは笑っていいところでしょ。私も笑いたいし」
そう言ってみると、少しだけ肩の力が抜けた。
怖い。
でも、怖いだけではいられない。
この場にある少しの軽さが、今の奈々にはありがたかった。
神一郎は結界陣の外側に立ち、胸ポケットのツキカゲへ指先を触れさせていた。リンクはしていない。けれど、いつでも動ける姿勢だということは、奈々にももう分かる。
優子は奈々の斜め後ろにいる。近すぎず、遠すぎない位置。もし奈々が倒れたらすぐ支えられる場所だ。
椎菜は結界陣の正面に立ち、奈々を見る。
「今回は訓練と言っても、戦闘訓練ではない。君に何かを撃たせたり、誰かを治療させたりするわけでもない」
「じゃあ、何をするんですか?」
「感じる」
「……感じる?」
「そうだ」
椎菜は短く頷いた。
「まず、自分の中にある魔力を認識する。次に、それがどう流れているかを知る。そして最後に、外へ漏れないように抑える」
「それって、難しいの?」
「難しい」
「そこは簡単って言ってくれてもよくないですか?」
「簡単ではないからな」
「ですよね」
奈々は小さく息を吐いた。
椎菜はごまかさない。
それはもう分かっている。分かっているけれど、やっぱり時々容赦がない。
「騎士が使う魔力は、多くの場合、外へ向けて扱う」
椎菜は説明を続けた。
「神一郎ならツキカゲ。私ならアグニ。優子くんなら指輪の魔力結晶。魔力結晶を介して自身の魔力を外部へ伝達し、武器や防御、移動に変換する」
奈々は神一郎の胸ポケットを見る。
ただのボールペンにしか見えないそれが、剣になる。映画館で見たあの光景が、まだ目の奥に焼きついている。
「だが、奈々くんの魔力は少し違う」
「違う?」
「今のところ、外へ放つ力ではない。君の魔力は、まず身体の内側を巡っている。傷に反応し、状態を保ち、壊れたものを戻そうとする。武器というより、体温に近い」
「体温……」
奈々は自分の手を見た。
ただの手。
そう思いたかった。
けれど、もうそう思いきることはできない。
今朝、紙で切れたはずの指先は、何事もなかったように治っていた。血が滲んだ。傷が光った。自分の意思とは関係なく、身体が勝手に反応した。
あの瞬間の気味悪さと、少し遅れてきた怖さを、奈々はまだ覚えている。
「体温って言われると、なんか余計に変な感じ」
「なぜだ?」
「だって、体温って自分のものでしょ。普段は意識しないけど、ちゃんと自分の中にあるものじゃない」
奈々は言葉を探しながら続けた。
「でも私のこれって、自分のものじゃないかもしれないんでしょ?」
その力は、君のものではない。
紙片に書かれていた言葉が、また胸の奥に沈んだ。
口にしたわけではないのに、部屋の空気がわずかに重くなる。
優子が心配そうに奈々を見る。神一郎も表情を硬くした。椎菜だけが、静かに奈々の言葉を受け止めている。
「その答えを知るためにも、まずは触れる必要がある」
椎菜は言った。
「触れる……」
「無理に掘り起こすな。思い出そうとするな。答えを急ぐな。ただ、そこにあるものを認める。それが今日の目標だ」
奈々はゆっくり頷いた。
少し調子が戻ってきたのがわかる。
「分かった」
「では結界陣の中央へ」
言われて、奈々は一歩踏み出した。
足先が光の線に触れる。
熱くはなかった。
冷たくもない。
ただ、ほんの少しだけ空気が変わった気がした。肌に薄い膜が触れるような、耳の奥で水音が遠く響くような、不思議な感覚。
奈々は円の中央に立つ。
神一郎の視線を感じた。
「奈々」
「なに?」
「少しでもきつかったら止める。遠慮しなくていい」
「分かってる」
「本当に?」
「しつこい」
奈々が少しだけ睨むと、神一郎は困ったように目を逸らした。
「悪い」
「謝られるほどじゃないけど」
いつものやり取り。
それだけで、足元の不安が少しだけ薄くなる。
優子がそっと声をかけた。
「奈々、私もここにいるから」
「うん」
「倒れそうになったら受け止める」
「それは頼もしいけど、倒れる前提で言わないで」
「大丈夫。奈々軽そうだし」
「そういう問題?」
優子が笑う。
奈々も少しだけ笑った。
その瞬間、椎菜が言った。
「その呼吸だ」
「え?」
「今、少し力が抜けた。覚えておけ。魔力は感情に反応する。恐怖や怒りだけではない。安心にも、信頼にも反応する」
奈々は笑いかけていた口元を、ゆっくり引き結んだ。
「……なんか、全部見られてるみたいで嫌ですね」
「訓練だからな」
「そういうとこですよ」
神一郎が小さく笑う。
その笑いを聞いて、奈々は少しだけ悔しくなった。
「神一郎、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「嘘」
「ちょっとだけ」
「素直でよろしい」
そう言ったあとで、奈々は目を閉じた。
椎菜の声が静かに響く。
「呼吸を整えろ。深く吸う必要はない。普段より少しだけ遅く、少しだけ丁寧に。自分の胸が上下する感覚を追え」
奈々は言われた通りに息を吸った。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
最初は、ただそれだけだった。
胸が動く。
肩に力が入っていることに気づく。
指先が冷えている。
足の裏が床に触れている。
制服の生地が肌に当たる。
自分の身体の感覚が、少しずつ輪郭を持っていく。
「次に、身体の内側を意識しろ」
椎菜の声。
「血の流れを追う必要はない。臓器を意識する必要もない。ただ、胸の奥から手足へ、何かが巡っていると仮定する」
「仮定って」
目を閉じたまま、奈々は思わず呟いた。
「分かんないものを分かるふりしろってこと?」
「違う。分からないものを、分からないまま観察するための足場を作る」
「難しい言い方するわね……」
「難しいことをしているからな」
「はいはい」
奈々はもう一度息を吐いた。
胸の奥。
そこに何かがある。
そう思おうとする。
けれど、分からない。
何もない気がする。
ただ心臓が鳴っているだけだ。鼓動が少し速い。緊張している。息を整えようとしている。
それだけ。
自分の中に魔力なんてものがあると言われても、やっぱり実感は薄い。
今朝の傷は治った。
昨夜の測定では反応があった。
でも、今こうして目を閉じているだけでは、自分はただの赤坂奈々でしかなかった。
何も分からない。
分からないことに、少し苛立つ。
その時だった。
――その力は、君のものではない。
紙片の文字が、ふいに頭の奥へ浮かんだ。
「……っ」
胸が、ざわついた。
呼吸が一瞬止まる。
足元の結界陣が、淡く揺れた。
「奈々?」
神一郎の声。
優子が動きかける気配。
「触るな」
椎菜が短く制した。
「今はまだ大丈夫だ」
「でも」
「優子くん。信じろ」
その言葉が聞こえた。
信じろ。
自分が言われたわけじゃない。
じゃあ誰を。
自分を。
椎菜を。
優子を。
神一郎を。
奈々はゆっくり息を吸い直した。
怖い。
でも、逃げない。
目を閉じたまま、胸の奥へ意識を向ける。
そこに何かがあると、仮定する。
分からないものを、分からないまま観察する。
椎菜が言った言葉を、頭の中で繰り返す。
胸の奥。
心臓より少し深い場所。
そこに、かすかな光があるような気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、確かにある気がする。
細い糸のような光。
水の底で揺れる月明かりみたいな、淡くて頼りない光。
「……ある」
奈々は小さく呟いた。
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
「何が見える?」
椎菜の声が聞こえる。
「見えるっていうか……分かんない。でも、あるのは分かる」
「どこに」
「胸の奥。すごく小さい。光みたいな……でも、光っていうより、温度に近いかも」
「温度?」
神一郎の声が微かに揺れた。
奈々はそれに気づいたが、今は目を開けなかった。
開けたら、この感覚が逃げてしまう気がした。
「冷たくはない」
奈々はゆっくり言葉を続ける。
「怖い感じでもない。むしろ……」
そこで、言葉が詰まった。
むしろ。
懐かしい。
そう言いそうになって、止めた。
懐かしいなんて、変だ。
だって奈々は、この力のことを何も知らない。
誰から受け取ったのかも、いつからあるのかも、どうして自分の中にあるのかも分からない。
それなのに。
「……誰かに、手を握られてるみたい」
ぽつりと、言葉が落ちた。
その瞬間、胸の奥の光が少しだけ広がった。
淡い温度が、身体の内側をゆっくり巡る。
指先へ。
腕へ。
喉へ。
目の奥へ。
熱ではない。
痛みでもない。
ただ、温かい。
小さい頃、熱を出して寝込んだ時に、額に置かれた手みたいな温かさ。
泣きすぎて疲れた時に、誰かが背中を撫でてくれたような温かさ。
奈々は息を止めた。
白い天井。
眩しい光。
誰かの声。
遠くで、何かが壊れる音。
血の匂い。
冷たい床。
それから、手。
誰かの手が、自分の手を握っている。
優しい手。
震えている手。
温かいのに、どんどん冷たくなっていく手。
「――っ!」
奈々は大きく息を吸った。
足元の結界陣が強く光る。
「奈々!」
神一郎が踏み出した。
椎菜が手を上げる。
「神一郎、止まれ」
「でも!」
「まだだ」
呼吸が乱れる。
胸の奥の光が、急に大きくなった気がした。
温かい。
でも、苦しい。
知らないはずの記憶が、指の隙間から流れ込んでくるみたいだった。
誰かが泣いている。
誰かが叫んでいる。
誰かが、「大丈夫」と言っている。
その声は優しかった。
でも、とても悲しかった。
「……だれ」
奈々の唇から、かすかな声が漏れた。
「誰なの……?」
答えはない。
ただ、胸の奥の温度だけが揺れる。
その時、別の声が聞こえた。
「奈々」
神一郎だった。
低くて、必死に抑えている声。
「戻ってこい」
戻る?
どこへ。
そう思った瞬間、奈々は自分が深い水の中に沈みかけているような感覚に気づいた。
光を見ていた。
温度を追っていた。
その奥にある誰かへ、手を伸ばしかけていた。
でも、それ以上進んだら、戻れなくなる。
そんな気がした。
「奈々」
今度は優子の声。
「大丈夫。ここにいるよ」
その声に、奈々はゆっくり息を吐いた。
ここ。
神一郎の部屋。
結界陣の中央。
目の前には椎菜がいて、隣に神一郎がいて、後ろに優子がいる。
自分はここにいる。
奈々は胸の奥の光から、ほんの少しだけ意識を離した。
完全に目を逸らすのではなく、手を離す。
すると、強くなりかけていた温度が少しずつ落ち着いていく。
足元の光も、静かに薄くなった。
奈々はゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、椎菜の顔だった。
いつも通り冷静だ。けれど、その目は少しだけ鋭くなっている。
次に神一郎が見えた。
彼は今にも結界陣の中へ踏み込もうとしていたらしく、片足がわずかに前に出ていた。胸ポケットに添えた指が、白くなるほど力んでいる。
優子は奈々のすぐ後ろで、両手を握りしめていた。
「……私」
声がかすれた。
「今、何か変だった?」
「変だった」
椎菜は即答した。
「そこは少し濁してくれても」
「濁す意味がない」
「ですよね」
奈々は力なく笑おうとして、うまくいかなかった。
膝が少し震えている。
立っているのが、思ったよりきつい。
「座れ」
椎菜が言うより先に、神一郎が動いた。
結界陣の光が弱まったのを確認してから、奈々の腕を支える。
「平気」
と言おうとしたところで神一郎に遮られる。
「平気じゃない」
「まだ何も言ってないでしょ」
「顔見れば分かる」
言い返す気力がなくて、奈々はそのままソファへ移動した。
優子が慌てて水を持ってくる。
「飲める?」
「うん……ありがと」
ペットボトルを受け取る手が、少しだけ震えていた。
水を一口飲む。
冷たさが喉を通って、ようやく身体が現実に戻ってくる。
「今のは」
神一郎が椎菜を見た。
「暴走ですか?」
「違う。暴走まではいっていない」
椎菜は床の結界陣を見下ろしながら答えた。
「ただし、魔力が記憶に反応した。あるいは、記憶が魔力に引かれた」
「記憶……」
奈々は呟いた。
白い天井。
誰かの手。
大丈夫、という声。
思い出そうとすると、また胸がざわついた。
奈々は慌てて水をもう一口飲む。
「無理に追うな」
椎菜が言った。
「今見えたものは、断片だ。断片を無理に繋ぐと、間違った形になる」
「……でも、誰かがいた」
奈々は自分の手を見つめた。
「誰かが、私の手を握ってた気がする」
神一郎の表情が、わずかに変わった。
奈々はそれに気づく。
「神一郎」
「……何」
「また、その顔」
「最近ほんとにそればっかりだな」
「だってしてるから」
神一郎は目を伏せた。
少しだけ、呼吸が浅い。
「俺にも、少しだけ分かった」
「何が?」
「今、奈々の魔力が大きく揺れた時」
神一郎は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「やっぱり知ってる感じがした。懐かしいっていうか……いや、懐かしいだけじゃない。苦しい」
その声は、普段の神一郎よりずっと小さかった。
「胸の奥が冷える。なのに、魔力自体は温かい。すごく、矛盾してる」
奈々は何も言えなかった。
自分の中にある光が、神一郎を苦しめている。
そう思うと、胸が痛くなる。
「ごめん」
気づくと、奈々はそう言っていた。
神一郎が顔を上げる。
「なんで奈々が謝るんだよ」
「だって、私のせいで」
「違う」
神一郎はすぐに否定した。
「それは違う。奈々のせいじゃない」
「でも」
「違う」
今度は少し強かった。
奈々は言葉を止める。
神一郎は自分でも驚いたように一瞬黙り、それから息を吐いた。
「悪い。でも、それだけは違う」
「……うん」
椎菜が静かに二人を見ていた。
優子は水のペットボトルを握ったまま、どこか切なそうな顔をしている。
「奈々」
優子がそっと口を開いた。
「今の、怖かった?」
「怖かった」
奈々は正直に答えた。
「でも……全部が怖かったわけじゃない」
「どういうこと?」
「温かかったの」
奈々は自分の胸に手を当てた。
「怖い記憶みたいなのもあった。血の匂いとか、誰かの声とか、変な音とか。でも、その中心にあったものは、怖くなかった。すごく温かかった」
優子は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、やっぱり奈々の中のそれ、悪いものじゃないと思う」
「分かるの?」
「うん。うまく言えないけど」
優子は奈々の隣に腰を下ろした。
「私、風の魔力なんだ。盾を張ったり、流れを変えたり、逃げ道を作ったりするのが得意。軍では、それを任務に使えって言われてきた。対象を囲え、逃げ道を塞げ、必要なら足を止めろって」
奈々は黙って聞いた。
「でも、本当はさ」
優子は少しだけ笑った。
「映画館で奈々を守った時の方が、自分の魔力をちゃんと使えた気がしたんだ」
奈々は優子を見た。
あの時、優子は前に出た。
砲撃の前に立って、シールドを張って、神一郎に奈々を逃がせと言った。
その背中を、奈々は覚えている。
ただのクラスメイトではなかった。
ただの敵でもなかった。
あの時の優子は、確かに奈々を守ろうとしていた。
「優子の魔法は、人を守るためのものでしょ」
奈々は言った。
優子が目を丸くする。
「……そう言ってくれるの、奈々くらいだよ」
「じゃあ何度でも言うわよ」
「急にかっこいいこと言うじゃん」
「今のは自分でもちょっと思った」
「そこ言っちゃうんだ」
優子が笑う。
少しだけ、空気が柔らかくなった。
奈々はその笑顔を見て、胸の奥の温度が穏やかになるのを感じた。
不思議だった。
さっきまで怖くてたまらなかった自分の中の光が、今は少しだけ静かにそこにある気がする。
「……今」
奈々は小さく呟いた。
「ちょっと分かったかも」
「何が?」
神一郎が聞く。
「分かんないけど」
「どっちだよ」
「分かるようで、分かんないの」
奈々は苦笑した。
「でも、さっきみたいに怖がって追いかけると、たぶん飲まれる。逆に、優子と話してた今みたいに少し落ち着くと、そこにあるのが分かる」
椎菜がわずかに頷いた。
「いい感覚だ」
「そうなの?」
「ああ。今の感覚を覚えておけ。魔力制御の初歩は、押さえつけることではない。力があることを認めた上で、自分の呼吸の中に置いておくことだ」
「呼吸の中に置く……」
「分からなくてもいい。最初はそれでいい」
椎菜はそう言ってから、床の結界陣を消した。
光の線が静かにほどけ、部屋はまた普通のリビングに戻っていく。
けれど奈々には、もう完全に普通には見えなかった。
この部屋で、自分は初めて自分の中の光に触れた。
それは、自分のものではないかもしれない。
でも確かに、今はここにある。
「今日はここまでだ」
椎菜が告げた。
「え、もう?」
奈々が思わず言うと、神一郎が呆れたようにこちらを見た。
「今、ふらついたばっかりだろ」
「そうだけど」
「そうだけど、じゃない」
「保護者っぽい」
「朝倉さんの真似しなくていい」
優子が笑う。
「でも実際、神一郎君、保護者っぽいよ?」
「やめてくれ」
「奈々のお父さん?」
「もっとやめてくれ」
奈々は少しだけ笑った。
笑ってから、ふと胸が締めつけられる。
父親。
母親。
家族。
そして、誰かの手。
自分を助けたかもしれない誰か。
その人にも、家族がいたのだろうか。
その人は今、生きているのだろうか。
もしもういないなら。
自分は、その人から何を奪ってしまったのだろう。
「奈々?」
神一郎が呼ぶ。
奈々は慌てて首を振った。
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃない」
「それ、私がいつも言ってるやつ」
「便利だから借りた」
「返して」
「考えとく」
そのやり取りに、優子がまた笑った。
椎菜は端末を取り出し、何かを記録している。表情は読めない。
けれど、さっきから一度も奈々を急かさなかった。
そのことが、少しだけありがたかった。
「椎菜さん」
「なんだ」
「今の訓練で、何か分かりました?」
椎菜は端末から顔を上げる。
「いくつか分かった」
「例えば?」
「まず、君の魔力は感情に強く反応する。特に不安と恐怖、そして安心だ」
「安心にも?」
「ああ。むしろ重要なのはそこだ。君の魔力は攻撃性よりも保護性が強い。怒りや恐怖で乱れるが、安心や信頼によって安定する」
「……それ、なんか私っぽくない?」
「そうか?」
「だって、私そんな出来た人間じゃないし」
「魔力の性質と性格は完全には一致しない。ただ、無関係でもない」
椎菜は少しだけ間を置いた。
「少なくとも、誰かを傷つけるために残された力ではない。今のところは、そう見える」
その言葉に、奈々は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
誰かを傷つけるためではない。
それだけで、少し救われた。
「それと」
椎菜は神一郎へ視線を向けた。
「神一郎」
「はい」
「君の反応も記録しておく必要がある」
「俺ですか」
「ああ。奈々くんの魔力が揺れた時、君の魔力にもわずかな乱れが出た」
神一郎の表情が固まる。
「俺の魔力に?」
「そうだ。共鳴と呼ぶには弱い。だが無関係ではない」
奈々は神一郎を見る。
神一郎は明らかに動揺していた。
「何か心当たりは」
椎菜が聞く。
神一郎は答えない。
いや、答えられないのだろう。
彼は少しの間黙ったあと、低く言った。
「……母が」
その一言で、奈々の胸が小さく跳ねた。
「母が、治癒系の高位術者だったと聞いてます」
部屋が静かになった。
優子も、椎菜も、奈々も、誰もすぐには言葉を返さなかった。
神一郎の母。
それは、これまでほとんど出てこなかった言葉だった。
神一郎自身も、自分から家族の話をほとんどしない。小学校の頃だって、奈々は神一郎の家のことを詳しく知っていたわけではない。
ただ、今の一言だけで分かった。
触れていい話ではないのだと。
少なくとも、何も考えずに踏み込んでいい場所ではない。
「……そうか」
椎菜は静かに答えた。
「なら、なおさら慎重に扱うべきだな」
「でも、母の魔力と奈々の魔力が関係あるなんて、そんな」
神一郎はそこで言葉を止めた。
自分で言って、何かに気づきかけたような顔だった。
奈々は息を呑む。
けれど、神一郎はすぐに首を振った。
「いや、今のは飛躍しすぎです。母は……」
その先は続かなかった。
椎菜も、それ以上は聞かなかった。
「今日は結論を出さない」
椎菜は言った。
「奈々くんの状態確認が第一だ。神一郎、君の記憶と家系については、別で整理する。本部の記録照会も必要になる」
「……了解しました」
神一郎の声は、いつもより少しだけ重かった。
奈々は何かを言いたかった。
大丈夫、と言うのは違う気がした。
無理しなくていい、と言うのも、さっき言ったばかりだ。
だから、結局何も言えなかった。
代わりに、奈々は自分の胸に手を当てた。
温かい。
まだ、そこにある。
誰かの名残のような温度。
それが神一郎の母と関係しているのかどうかは、分からない。
分からない。
でも、胸の奥のどこかで、細い糸が一本だけ繋がりかけているような気がした。
「……私」
奈々は静かに口を開いた。
三人がこちらを見る。
「まだ全然分かんない。さっきのも、分かったって言えるほどじゃないし、思い出したって言えるほどでもない」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、怖いだけじゃなかった。だから……次もやる」
神一郎が何か言いかける。
奈々はそれより先に言った。
「無理はしない。きつかったら言う。だから、止める前提で見ないで」
神一郎は目を丸くした。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「ならよし」
優子が横で小さく拍手した。
「奈々、強くなってきたね」
「強くはないでしょ」
「強いよ。少なくとも、私はそう思う」
優子の声は優しかった。
奈々は照れくさくなって、視線を逸らす。
「そういうの、急に言わないでよ」
「奈々も私に言うじゃん」
「私はいいの」
「ずるい」
少しだけ笑いが戻る。
その笑いの中で、奈々は思った。
怖いことは、何も終わっていない。
主はまだ見ている。
紙片の言葉も消えない。
自分の中にある力の正体も分からない。
神一郎の母の話も、今はまだ遠い霧の向こうにある。
それでも。
何もできないまま震えていた昨日よりは、少しだけ前に進めた気がした。
その時だった。
窓際で、椎菜の端末が小さく震えた。
全員の視線が向く。
椎菜は画面を見る。
表情は変わらない。
だが、次の瞬間、彼女の目がわずかに鋭くなった。
「どうしました?」
神一郎が聞く。
「外周結界に反応があった」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
奈々の胸が冷える。
優子の顔から笑みが消える。
「侵入ですか?」
「違う」
椎菜は端末を操作しながら答えた。
「侵入ではない。攻撃でもない。盗聴の類でもない」
「じゃあ何ですか」
神一郎の声が低くなる。
椎菜は少しだけ沈黙した。
そして、窓の方を見た。
「触れられた」
「触れられた?」
「結界の表面を、指先でなぞるように。壊すでもなく、抜けるでもなく、ただ存在を確認された」
優子の顔色が変わった。
「主……」
その声は、小さかった。
けれど、全員に聞こえた。
奈々は窓を見る。
カーテンは閉じている。
外は見えない。
それでも、分かった。
見られている。
昨日の放課後と同じ感覚。
靴箱の紙片を見つけた時と同じ、背筋を撫でる冷たい気配。
神一郎がツキカゲに手を伸ばす。
優子が指輪を押さえる。
椎菜は動かない。ただ、窓を見ている。
何も起きない。
音もない。
攻撃もない。
ただ、そこにいた。
あるいは、いたことだけを知らせてきた。
奈々はゆっくり息を吸った。
胸の奥の光が、ほんの少し揺れる。
怖い。
でも、さっきとは違う。
その温度を、奈々は完全には失わなかった。
「……勝手に見てれば」
小さく呟く。
神一郎がこちらを見た。
「奈々?」
「なんでもない」
そう言いながら、奈々は自分の胸に手を当てた。
その力は、君のものではない。
紙片の言葉は、まだ残っている。
でも今の奈々は、その言葉をただの呪いとして受け取るつもりはなかった。
誰かのものだったとしても。
誰かが残したものだったとしても。
今ここにあるなら、向き合うのは自分だ。
窓の外側で、結界がもう一度だけ、音もなく震えた。
そして、それきり何も起きなかった。
攻撃もない。
メッセージもない。
ただ、見られていた。
それだけが、また残った。
夜はまだ、来ていない。
けれど奈々はもう、その夜から完全に目を逸らすことはなかった。




