第二章 第七話 君が生きている理由
その夜、奈々はなかなか眠れなかった。
ベッドに入って、布団を肩まで引き上げて、部屋の照明を落としても、胸の奥に残った温度だけが消えなかった。
温かい。
それは確かに温かかった。
けれど、その温かさを思い出すたびに、同じくらい冷たいものが背筋を伝った。
白い天井。
血の匂い。
誰かの声。
握られた手。
温かいのに、少しずつ冷たくなっていく手。
自分は何を見たのだろう。
あれは本当に記憶なのだろうか。それとも、魔力が見せたただの幻なのだろうか。
考えようとすると、胸の奥がざわつく。
考えないようにすると、今度は紙片の言葉が浮かぶ。
――その力は、君のものではない。
奈々は布団の中で、そっと自分の胸に手を当てた。
鼓動がある。
いつも通りの、自分の心臓の音。
でも、そこにもうひとつ、別のものが重なっているような気がした。
呼吸に合わせて、淡く揺れる光。
自分のものではないかもしれないもの。
誰かが残したかもしれないもの。
誰かが、命を削ってまで渡してくれたかもしれないもの。
「……寝られるわけないじゃん」
小さく呟いても、返事はない。
隣の部屋には神一郎たちがいる。
外側には結界が張られている。
神一郎も椎菜も、優子もいる。
それなのに、ひとりになると、世界は急に広くて暗くなる。
カーテンの隙間から、街の灯りが細く差し込んでいた。
その光が床に落ちている。
奈々はしばらくそれを見つめた。
先ほどの訓練のあと、結界に主の干渉があった。
攻撃ではない。
侵入でもない。
ただ、触れられた。
椎菜はそう言った。
その言い方が、妙に頭から離れない。
壊すでもなく、入るでもなく、ただ存在を確認するように触れる。
まるで、「まだ見ている」と知らせるためだけの行為。
何もしないことが、こんなに怖いなんて知らなかった。
奈々は布団の端を握りしめる。
けれど、すぐに力を緩めた。
怖い。
でも、もう怖いだけではいたくない。
そう思った。
目を閉じる。
胸の奥の温度を、無理に追いかけない。
椎菜が言っていた。
無理に掘り起こすな。
断片を無理に繋ぐと、間違った形になる。
だから奈々は、ただそこにあるものとして感じようとした。
自分の中にある。
誰かの温度。
誰かの名残。
それを、いまの自分が抱えている。
「……私が、知る」
声に出すと、少しだけ呼吸が落ち着いた。
そのまま奈々は、浅い眠りへ落ちていった。
夢を見た。
白い部屋だった。
病院みたいな匂いがする。
でも、よく知っている病院とは少し違った。機械の音よりも、遠くで何かが崩れる音の方が大きい。誰かの怒鳴り声。泣き声。光。激しい風。
幼い自分が泣いている。
身体が痛い。
手が冷たい。
怖くて、怖くて、声も出ない。
その時、誰かが手を握った。
女の人だった。
顔は見えない。
光が強すぎて、輪郭が溶けている。
けれど、声だけは聞こえた。
――大丈夫。
その声は優しかった。
とても、優しかった。
――あなたは、生きて。
そこで、奈々は目を覚ました。
「……っ」
息が荒い。
額に汗が滲んでいた。
部屋は暗い。
窓の外はまだ夜の色を残している。
奈々はしばらく動けなかった。
夢。
夢だ。
そう言い聞かせようとしても、手の感触だけが残っていた。
誰かに握られていた手。
優しくて、温かくて、けれど最後には冷たくなっていく手。
胸の奥が痛い。
奈々は自分の手を見た。
何もない。
傷もない。
光もない。
でも、さっきの夢の感触だけが、確かにそこに残っていた。
朝が来た。
眠れたのかどうか分からないまま、奈々は制服に着替えた。
鏡の中の自分は、昨日より少し疲れた顔をしている。
けれど、目だけは思ったよりはっきりしていた。
部屋を出ると、廊下で神一郎と鉢合わせた。
「おはよう」
「……おはよ」
神一郎は奈々の顔を見るなり、眉を寄せた。
「寝てないだろ」
「寝たわよ。一応」
「一応って」
「寝たけど、寝た気がしないだけ」
「それ、寝てないって言うんじゃないか」
「細かい」
奈々がそう返すと、神一郎は少しだけ困ったように息を吐いた。
その反応がいつも通りで、少し安心する。
けれど、すぐに神一郎の表情も曇った。
「昨日のこと、まだ引きずってる?」
「引きずらない方が無理でしょ」
「……だよな」
「でも、学校は行く」
「止めても行くって顔してる」
「よく分かってるじゃない」
神一郎は何か言いたそうだったが、結局言わなかった。
代わりに、小さく頷く。
「じゃあ、今日はいつも以上に無理しないこと」
「保護者?」
「昨日からその扱い多くないか」
「似合ってるからじゃない?」
「褒められてる気がしないんだが」
そんなやり取りをしていると、優子が自分の部屋から出てきた。
少し眠そうな顔をしている。
けれど奈々を見ると、すぐに柔らかく笑った。
「おはよ、奈々。神一郎君」
「おはよう、優子」
「おはよう、朝倉さん」
優子は奈々の顔を覗き込む。
「奈々、目の下すごいよ」
「優子も人のこと言えないわよ」
「え、ほんと?」
「ほんと」
「やだなあ。せっかく可愛い顔で登校しようと思ったのに」
「自分で言う?」
「言うよ。自信は大事」
いつもの優子らしい軽口だった。
でも、声の奥にまだ少し影がある。
主の沈黙。
結界への干渉。
自分がまだ切られていないのか、試されているのかも分からない不安。
それを抱えたまま、優子は笑っている。
奈々はそのことに気づいてしまう。
気づいたから、何も言えなかった。
少し遅れて、椎菜も部屋から出てきた。
相変わらず隙のない姿だったが、端末を見ている目だけが少し鋭い。
「おはよう」
「おはようございます。椎菜さん」
奈々が返すと、椎菜は短く頷いた。
「昨夜の結界干渉について、追加で確認した」
その一言で、空気が変わる。
優子の笑顔が消えた。
神一郎もすぐに表情を引き締める。
「何か分かりましたか」
「干渉地点は窓側の外周結界。力はごく弱い。だが、結界の構造を理解している触れ方だった」
「つまり、素人じゃないと」
「そうだ」
椎菜は端末をしまった。
「壊すつもりならもっと力を入れる。結界を抜けるつもりなら術式の継ぎ目を探る。だが、今回は違う。結界の表面だけをなぞって、こちらが気づく程度の反応を残した」
奈々は小さく息を呑む。
「やっぱり、わざと?」
「ああ。あれは合図だ」
椎菜の言葉は冷静だった。
「見ている、というな」
優子が視線を落とした。
「主らしいです」
「そうか」
椎菜はそれ以上聞かなかった。
四人はそのまま登校した。
朝の道は、昨日と同じように普通だった。
出勤する人、登校する生徒、犬の散歩をする老人。
それでも奈々には、昨日より少しだけ景色が違って見えた。
全部を疑っているわけではない。
神一郎に言われたから、見るべきところだけを見るようにしている。
動かないものの中で、不自然に動くもの。
動いているものの中で、不自然に止まっているもの。
最初は難しかった。
でも今朝は、ほんの少しだけ分かる気がした。
見すぎると疲れる。
疑いすぎると日常に戻れなくなる。
けれど、見ないままではいられない。
そのバランスを取ることが、今の奈々に必要なことなのだろう。
校門をくぐる時、奈々は一瞬だけ立ち止まりそうになった。
昨日、放課後に見られていた場所。
誰もいなかったのに、確かに視線を感じた場所。
その場所を、今日も見てしまう。
校門の脇。
植え込みの影。
警備員の詰め所。
何もない。
何もないことが、逆に落ち着かなかった。
「奈々」
神一郎が小さく呼ぶ。
「普通でいこう」
「またそれ?」
「便利だから」
「私の台詞だけじゃなくて、それも借りるの?」
「考えとく」
「返しなさいよ」
奈々は小さく笑った。
その笑いで、少しだけ肩の力が抜ける。
午前の授業は、静かに過ぎていった。
何も起きなかった。
窓の外にも、廊下にも、端末にも、異常はない。
ただし、奈々の内側だけは少し違った。
胸の奥の温度を、前より意識できる。
授業中、ふと怖くなると、その温度はざわついた。
逆に、神一郎が隣でいつものようにノートを取っているのを見ると、少し落ち着く。
優子が後ろから小さく消しゴムを貸してくれた時も、同じだった。
安心に反応する。
椎菜が言っていた通りだった。
魔力は、恐怖だけでなく、安心にも反応する。
それが分かると、少しだけ怖さが減った。
自分の中にあるものは、ただ暴れるだけの危険物ではない。
少なくとも、今はそう思える。
昼休み。
四人はいつものように食堂へ向かった。
だが、今日は席に着くなり、椎菜が端末を取り出した。
「本部に照会をかけた件で、返答が来た」
神一郎の表情が変わる。
「母の件ですか」
その言葉に、奈々の心臓が小さく跳ねた。
母。
神一郎の母。
治癒系の高位術者だったと聞いている。
昨晩、神一郎はそう言った。
奈々は何も聞けなかった。
聞きたくないわけではない。
むしろ、知りたい。
けれど、簡単に踏み込んでいい場所ではない気がした。
だから、息を潜めるように二人の会話を聞いた。
「一部だけだ」
椎菜は低い声で言った。
「藤崎神一郎の母、藤崎沙耶。元アトランティス軍騎士団所属。治癒系魔力の高位術者。ここまでは通常記録に残っている」
「……はい」
神一郎の声は硬かった。
「だが、死亡時の任務記録、搬送記録、魔力消費量の詳細、同行者の記録。このあたりが閲覧制限対象になっている」
「閲覧制限?」
奈々が思わず聞き返した。
椎菜は頷く。
「通常の事故死や任務中の死亡なら、少なくとも上級士官には概要が開示される。だが、今回の記録は違う。閲覧権限がかなり高い」
「それって、変なんですか」
「変だ」
椎菜ははっきり言った。
「少なくとも、私の権限で概要すら見られないのは不自然だ」
神一郎は黙っていた。
カレーの湯気が、目の前でゆらゆら揺れている。
食堂はいつも通り賑やかだった。
周りの生徒たちは何も知らない。
誰かが笑い、誰かが席を探し、誰かが購買のパンを抱えて走っている。
そんな普通の昼休みの中で、神一郎だけが、まるで遠い場所に置かれたような顔をしていた。
「……俺」
神一郎がぽつりと言った。
「母の死について、詳しく聞いたことがありません」
奈々は息を呑む。
優子も黙った。
神一郎は手元を見つめたまま続ける。
「任務中に亡くなった。そう聞いてます。高位の治癒魔法を使った後、何かが起きたと……それで」
そこで言葉が止まった。
神一郎の指が、わずかに震えている。
本人は気づいていないかもしれない。
奈々はその震えを見て、胸が痛くなった。
「神一郎」
呼んだだけだった。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫、とは言えない。
知りたいね、とも言えない。
だってそれは、神一郎の傷なのだ。
自分の中の力と繋がっているかもしれないからといって、簡単に踏み込んでいいわけじゃない。
けれど神一郎は、奈々の声に気づいたように顔を上げた。
「悪い。ちょっと、考えてた」
「謝ることじゃないでしょ」
「……そうだな」
小さく笑う。
でも、その笑顔は少し痛かった。
椎菜が端末を閉じる。
「本部の記録は、もう少し別ルートで確認する。だが、すぐに答えは出ないと思え」
「別ルート?」
神一郎が聞くと、椎菜はわずかに視線を逸らした。
「団長に直接聞く」
「それ、最初から一番確実じゃないですか」
「確実だが、面倒でもある」
「団長相手にそれ言うんですか」
「言う、みんな言うだろう?」
その返答がいつも通りすぎて、奈々は少しだけ笑いそうになった。
けれど、その直後。
優子の端末が震えた。
短く、一度だけ。
全員の視線が集まる。
優子の顔から血の気が引いた。
「……通知?」
奈々が聞く。
優子はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくり端末を取り出す。
画面を見る。
何も表示されていない。
着信も、メッセージも、通知もない。
ただ、画面が一瞬だけ明るくなり、すぐに暗くなった。
「何もない」
神一郎が低く言う。
優子は首を横に振った。
「違う。これ、何もないんじゃない」
「どういうこと?」
奈々が聞くと、優子は唇を噛んだ。
「主が使う任務の時の合図のひとつ。メッセージを送らないで、端末だけを鳴らすの。読めってことじゃない。思い出せってこと」
「何を?」
「今は多分、自分がまだ見られてるってこと」
食堂の喧騒が、一瞬遠ざかった気がした。
優子の端末は、もう暗い。
何の証拠もない。
誰かから連絡が来たわけでもない。
でも、優子には分かる。
主の合図。
何も残さないまま、存在だけを残すやり方。
「……嫌なやつ」
奈々が呟く。
優子は小さく笑った。
「うん。ほんと、嫌な人」
その笑いは苦しかった。
昼休みが終わる頃、椎菜は短く告げた。
「今日は放課後、すぐに帰る。校内での追加訓練はしない」
「訓練、しないんですか?」
奈々が聞くと、椎菜は頷いた。
「今日は情報が動きすぎている。君の魔力も精神状態に左右される。無理に動かすべきではない」
「……分かった」
奈々は素直に頷いた。
本当は、少しだけ訓練したかった。
胸の奥の温度を、もう一度確かめたかった。
でも、椎菜の判断が正しいことも分かる。
今は焦る時ではない。
焦らされているのは、たぶん主の思う壺だ。
午後の授業は、ひどく長かった。
奈々は何度も窓の外を見た。
何もない。
校門にも、校庭にも、人影はない。
それでも、完全には安心できない。
胸の奥の光は、昼休みから少しだけ落ち着かないままだった。
神一郎の母。
藤崎沙耶。
治癒系の高位術者。
閲覧制限された死亡記録。
それらの言葉が、奈々の中でぐるぐる回る。
自分が見た夢。
誰かの手。
大丈夫、という声。
あなたは、生きて。
それが、神一郎の母と関係しているのか。
考えてはいけない気がする。
でも、考えずにはいられない。
放課後。
四人はほとんど会話をせずに校舎を出た。
昇降口では、奈々の靴箱をもう一度確認した。
–何もない。
今度は何も入っていなかった。
それでも、扉を開ける瞬間、奈々の指は少し震えた。
前に進んでいるつもりでも、怖さは身体に残っている。
それを実感する、奴らの思う壺だ。
校門を出て、マンションへ向かう。
夕方の空は、薄い赤から紫へ変わり始めていた。
昨日と同じ道。
けれど、今日はやけに静かに感じた。
「今日は、何もなかったね」
優子がぽつりと言った。
「何もなかったって言うには、昼休みが重すぎたけど」
奈々が返すと、優子は苦笑する。
「それもそうか」
神一郎は少し前を歩いている。
椎菜はそのさらに少し後ろで、周囲を見ていた。
いつもの配置。
守られている配置。
でも奈々は、昨日ほどそのことに悔しさを感じなかった。
自分にはまだできないことが多い。
それは事実だ。
でも、何もできないわけではない。
自分の中にある光を感じることはできた。
その温度を、完全に失わずにいられるようになってきた。
それだけでも、前よりは少しだけ進んでいる。
マンションに着いた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
表示される階数が上がっていく。
誰も喋らなかった。
部屋に戻る直前、椎菜がふと足を止めた。
「待て」
神一郎がすぐに反応する。
「結界ですか」
「いや」
椎菜は廊下の先を見ていた。
奈々もそちらを見る。
自分の部屋の前。
ドアの下。
そこに、小さな白いものが挟まっていた。
紙片。
息が止まった。
昨日の靴箱と同じ。
いや、まったく同じではない。
今回は、奈々の部屋のドアだった。
学校ではない。
結界に守られているはずのマンションの内側。
奈々の日常の、一番近い場所。
「下がれ」
神一郎の声が低く響く。
奈々は反射的に一歩下がった。
椎菜が透明なシート越しに紙片を拾う。
優子は顔を真っ青にしていた。
神一郎はツキカゲへ手を伸ばしている。
廊下の空気が冷たい。
紙片は小さかった。
白い紙。
黒い文字。
そこには、一文だけが書かれていた。
――君が生きている理由を、君はまだ知らない。
奈々は声を失った。
言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
その力は、君のものではない。
昨日の言葉が蘇る。
そして今日の言葉が、その続きを告げていた。
君が生きている理由を、君はまだ知らない。
生きている理由。
知らない理由。
自分が生きていることに、理由があるのか。
誰かが、命をかけてくれたからなのか。
夢の中の手。
温かくて、冷たくなっていく手。
大丈夫、と言った声。
あなたは、生きて、と言った声。
奈々の胸の奥で、魔力が揺れた。
「奈々!」
神一郎の声が飛ぶ。
その声で、奈々は自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。
「……っ、は……」
息を吸う。
胸が痛い。
でも、倒れなかった。
優子が奈々の肩に手を伸ばす。
「奈々、大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない」
奈々は正直に言った。
声は震えていた。
でも、視線は紙片から逸らさなかった。
「後でも、読める」
神一郎が、苦しそうな顔をした。
「無理しなくていい」
「無理はしてる」
「奈々」
「でも、逃げたくない」
自分でも驚くくらい、言葉ははっきりしていた。
怖い。
泣きそうだ。
今すぐ部屋に入って、布団をかぶって、全部なかったことにしたい。
でも、この言葉から目を逸らしたら、きっとずっと逃げ続けることになる。
そんな気がした。
椎菜は紙片をケースへ入れた。
「二枚目か」
「どうやってここまで」
神一郎の声が低い。
「結界は?」
「確認する」
椎菜は端末を操作した。
数秒。
その間が、やけに長かった。
「外周結界に破損なし。侵入痕跡なし。だが……」
「だが?」
「昨日の干渉痕と同じ揺らぎが、廊下側にもある」
優子が小さく息を呑んだ。
「主……」
「本人とは限らない」
椎菜はそう言ったが、その声にはわずかな硬さがあった。
「だが、少なくともこちらの結界構造を読んだ上で、内側に接触している。やはり、かなり高度だ」
神一郎は紙片を見つめていた。
顔色が悪い。
奈々だけではない。
この言葉は、神一郎にも刺さっている。
君が生きている理由を、君はまだ知らない。
それは奈々への言葉だ。
でも同時に、神一郎への言葉でもあるように思えた。
神一郎は母の死を知らない。
詳しい記録も見られない。
そして奈々の中には、治癒系の高位魔力がある。
繋がりかけた線が、少しずつ太くなっていく。
でも、まだ答えにはならない。
答えにしてはいけない。
それでも、奈々はもう感じていた。
主は、知っている。
少なくとも、奈々たちが知らない何かを知っている。
自分が生きている理由。
自分の中に残された温度。
神一郎の母の記録。
それらのどこかに、主は触れている。
「……一日の終わりとしては、最悪ね」
奈々が小さく呟いた。
優子が、こんな時なのに少しだけ目を丸くする。
「奈々、何その言い方」
「なんか、変態っぽいじゃない。こんなの」
「どうして?」
「知らないわよ。でも変態じゃなかったらこんなジリジリ攻めるみたいなことしないでしょ」
奈々の言葉に優子が、ほんの少しだけ笑った。
神一郎も一瞬だけ目を伏せる。
椎菜は表情を変えなかったが、少しだけ息を吐いた。
「中に入るぞ。廊下で話す内容ではない」
四人は神一郎たちの部屋へ入った。
結界を再確認し、扉を閉める。
部屋の中は、昨日と同じだった。
テーブル。
ソファ。
カーテン。
床。
昨晩奈々が初めて魔力に触れた場所。
けれど今は、そのすべてが違って見えた。
奈々はソファに座る。
手が震えていた。
でも、拳を握って、それを止めようとはしなかった。
震えているなら、それも今の自分だ。
怖いなら、怖いままでいい。
そのまま目を逸らさなければいい。
「椎菜さん」
奈々は顔を上げた。
「なんだ」
「私、もっと知りたい」
神一郎が奈々を見る。
優子も、驚いたように顔を上げる。
奈々は続けた。
「怖い。正直、今すぐやめたいくらい怖い。でも、もう分かっちゃった。主は、私のことを知ってる。私より先に、私のことを知ってる」
胸の奥が熱い。
光が揺れている。
でも、乱れてはいない。
「それが嫌。だから、私も知りたい。私が生きている理由って何なのか。私の中にあるものが何なのか。誰が、何を残したのか」
声は震えていた。
けれど、最後まで言えた。
「逃げたくない」
神一郎は何も言わなかった。
ただ、苦しそうに目を伏せた。
「俺も」
やがて、彼は言った。
「知る必要があるんだと思う」
奈々は神一郎を見る。
神一郎は紙片のケースを見つめていた。
「母のことも。奈々の魔力のことも。たぶん、これは関係してる」
その言葉に、部屋の空気がさらに重くなる。
優子が静かに言った。
「主は、そこを狙ってるんだと思う」
「どういう意味?」
奈々が聞くと、優子は少しだけ俯いた。
「奈々を精神的に追い詰めるだけじゃなくて、神一郎君も責めてる。たぶん、二人の間にあるものを壊したいんだと思う」
神一郎の表情が硬くなる。
椎菜が頷いた。
「その可能性は高い。主は奈々くんの魔力の由来を知っている。さらに、神一郎の母に関する情報にも通じている可能性がある」
「なら」
神一郎が顔を上げる。
「次はこちらから調べます。母の記録と、主の経歴。アトランティス側から中国へ渡った騎士の記録も」
「簡単ではないぞ」
「分かってます」
「記録が制限されている以上、正規ルートだけでは足りない」
「なら、団長に聞きます」
神一郎の声は、静かだった。
でも、強かった。
椎菜は少しだけ目を細める。
「いいだろう。私も動く」
優子が、そっと手を挙げた。
「私も、知ってる範囲で主の情報を整理する。直接は知らなくても、噂とか、任務記録の癖とか、何かあるかもしれない」
奈々は優子を見た。
「優子、大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、やる」
優子は少しだけ笑った。
「便利でしょ、この言葉」
「私のだから」
「貸して」
「高いわよ」
「親友価格で」
「考えとく」
ほんの少しだけ笑いが生まれる。
それは脆くて、小さな笑いだった。
でも、確かにそこにあった。
奈々は胸に手を当てた。
魔力がある。
昨日よりはっきりと。
でも、それはもう自分を沈めるものではなかった。
分からない。
まだ何も分からない。
自分が生きている理由も。
誰が自分に力を残したのかも。
神一郎の母がどう関わっているのかも。
主がなぜここまで自分を揺さぶるのかも。
何も分からない。
だからこそ、知る。
そう決めた。
椎菜がテーブルの上に二枚の紙片を並べた。
一枚目。
その力は、君のものではない。
二枚目。
君が生きている理由を、君はまだ知らない。
二つの言葉が、白い紙の上に黒く浮かんでいる。
まるで、新しい一日への扉みたいだった。
「ここまでだな」
椎菜がぽつりと言った。
奈々は思わず顔を上げる。
「椎菜さんまで何言ってるんですか」
「区切りという意味だ」
「いや、分かるけど」
神一郎が小さく苦笑した。
「隊長、そういうところたまにありますよね」
「何がだ」
「妙に詩的というか」
「私は事実を言っただけだ」
優子が少しだけ笑う。
奈々も、気づけば笑っていた。
けれど、その笑いはすぐに静かな決意へ変わった。
夜はまだ来ていない。
ずっとそう思っていた。
でも、違うのかもしれない。
夜はもう来ている。
ただ、自分たちがそれを認める準備をしていただけなのかもしれない。
奈々は二枚の紙片を見つめた。
そして、胸の奥の温度にそっと触れるように息を吸った。
「知りたい」
もう一度、静かに言った。
「私が生きている理由を」
誰も止めなかった。
神一郎も、優子も、椎菜も。
それぞれが、それぞれの顔で奈々を見ていた。
その視線の中で、奈々は初めて、自分がもうただ守られるだけの場所には戻れないのだと理解した。
怖い。
それでもいい。
震えていてもいい。
目を逸らさなければ、それは前に進んでいるということなのだと、今は少しだけ信じられた。
窓の外で、夜の街が静かに灯り始めていた。
その向こうに、主がいる。
奈々たちの知らない真実を握ったまま、ただこちらを見ている。
けれど、今度は奈々も見返していた。
夜が来る前に。
いや、夜の中へ踏み込む前に。
奈々は、自分の中の光をもう一度だけ確かめた。
それはまだ、誰かのものだったのかもしれない。
けれど今、この胸の奥で揺れている。
ならば。
その意味を知るのは、奈々自身でなければならなかった。




