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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第三章 その力は誰のもの?
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第三章 第一話 帰る部屋

夜の街は、いつもと同じ顔をしていた。

 窓の外に見えるマンションの明かりも、遠くを走る車のヘッドライトも、駅前の看板の光も、何ひとつ変わっていない。

 けれど、奈々にはもう、それが同じ景色には見えなかった。

 神一郎たちの部屋のテーブルには、二枚の紙片が並べられている。

 一枚目。

 ――その力は、君のものではない。

 二枚目。

 ――君が生きている理由を、君はまだ知らない。

 たったそれだけの文字。

 それなのに、奈々の中にあるものを、見えない指で何度も押してくる。

 胸の奥が、まだ少し熱い。

 痛いわけではない。

 苦しいわけでもない。

 ただ、そこに何かがあると分かってしまった。

 誰かの温度。

 誰かの名残。

 自分の中にあるはずなのに、自分だけでは説明できないもの。

 奈々はソファに座ったまま、自分の両手を見下ろしていた。

 手のひらはいつも通りだ。

 昨日、紙で切れた指先も、今は何もなかったようにきれいになっている。そこに傷があったことを証明できるものは、もう奈々の記憶しかない。

 でも、その記憶だけは消えない。

 血が滲んだ感触。

 傷口が淡く光った瞬間。

 自分の身体が、自分の意思とは関係なく何かをした感覚。

 そして、訓練の中で見た白い天井と、誰かの手。

 ――あなたは、生きて。

 夢の中で聞いた声を思い出しそうになって、奈々はそっと息を吐いた。

「奈々」

 声をかけられて、顔を上げる。

 神一郎だった。

 彼はテーブルの横に立ったまま、紙片から目を離していなかった。けれど、今は奈々の様子を見ている。

「気分、悪くないか?」

「悪くはない」

 奈々は少し考えてから、言い直した。

「悪くはないけど、よくもない」

「正直だな」

「嘘ついたら怒るでしょ」

「怒りはしないけど、心配はする」

「それが嫌なのよ」

 言ってから、奈々は少しだけ苦笑した。

 以前なら、こんなやり取りはもっと軽かった。

 今も軽口の形はしている。

 けれど、その下には別のものが沈んでいる。

 心配。

 恐怖。

 言えないこと。

 思い出せないこと。

 そして、知りたいこと。

 神一郎はしばらく奈々を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「椎菜さん、本部への追加照会は?」

「送った」

 窓際に立っていた椎菜が答える。

「ただし、すぐに返事があるとは思わない方がいい。藤崎沙耶に関する記録は、通常の任務記録とは扱いが違う」

 藤崎沙耶。

 神一郎の母親の名前。

 奈々は、その名前を頭の中で繰り返した。

 神一郎の母。

 治癒系の高位術者。

 任務中に亡くなった人。

 そして、自分の中の魔力と関わっているかもしれない人。

 まだ、何も確定していない。

 そう分かっている。

 分かっているのに、心は勝手にそこへ向かってしまう。

「団長には?」

 神一郎が聞く。

「明日、直接連絡を取る」

「今日じゃないんですか」

「今かけたところで、向こうも準備する。こちらが欲しいのは曖昧な返事ではなく、記録に近い情報だ」

「……確かに」

 神一郎は納得したように頷いたが、その表情は硬かった。

 奈々は、その横顔を見る。

 昼休みに聞いた神一郎の声が、まだ耳に残っていた。

 母の死について、詳しく聞いたことがありません。

 その言葉。

 神一郎も知らない。

 奈々だけが何も知らないわけではない。

 神一郎も、神一郎自身の大切なことを知らされていなかった。

 それが分かったことで、奈々の中の不安は少し形を変えた。

 ただ怖いだけではない。

 神一郎が傷つくかもしれないことが、怖い。

 自分の中にあるものが、神一郎の傷へ繋がってしまうことが、怖い。

「……ねえ」

 奈々は口を開いた。

 三人の視線が集まる。

 優子はソファの隣で、ペットボトルの蓋を触っていた手を止めた。

「私、今日は部屋に戻る」

 言った瞬間、神一郎の表情が変わった。

「一人で?」

「一人っていうか、隣でしょ」

「距離の問題じゃない」

「分かってる」

 奈々は小さく頷く。

「でも、今日は帰らなきゃ。お母さん、今日は日勤なの。夜には帰ってくるから」

「あ……」

 優子が小さく声を漏らした。

 椎菜も少しだけ目を細める。

「これまでは夜勤だったな」

「うん。父さんは出張中で、母さんも夜勤続きだったから、なんとかごまかせてた。でも今日は無理。帰ってきた時に私がいなかったら、さすがに変に思う」

 言葉にすると、急に現実感が戻ってきた。

 父親は地方へ出張中。

 母親はここ数日、夜勤が続いていた。

 だから奈々が夜に神一郎たちの部屋で待機していても、訓練を受けていても、誰かに気づかれることはなかった。

 それは、たまたま家庭の事情が重なっただけだ。

 けれど、そんな偶然がずっと続くわけではない。

 奈々には、奈々の家がある。

 母が帰ってくる部屋がある。

 いつもの生活がある。

 その生活に戻らなければならない。

 たとえ、戻ったところで、もう前と同じ気持ちではいられないとしても。

「でも、奈々」

 優子が心配そうに身を乗り出す。

「今日の紙、部屋の前にあったんだよ? 戻るの、怖くない?」

「怖いよ」

 奈々は正直に答えた。

「怖いけど、ずっとここにいるわけにもいかないでしょ。お母さんに心配かけるし」

「それは……そうだけど」

「それに」

 奈々は少しだけ言葉を切った。

「私、聞きたいことがある」

 神一郎が反応する。

「お母さんに?」

「うん」

 口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 幼い頃の大怪我。

 白い天井。

 誰かの手。

 あなたは、生きて。

 それを、奈々の母は知っているのだろうか。

 どこまで知っているのだろうか。

 それとも、何も知らないのだろうか。

「小さい頃、大怪我したことがあるのか。聞いてみる」

 言うと、神一郎が一瞬だけ視線を落とした。

「無理に聞かなくてもいい」

「無理はする」

「奈々」

「でも、逃げたくない」

 奈々は神一郎を見る。

「私が生きている理由を、君はまだ知らない。そう言われた。だったら、まず私の家族に聞くのは自然でしょ」

 神一郎は何も言えなくなった。

 正しいことを言ったつもりはない。

 ただ、そうするしかないと思っただけだった。

 椎菜が腕を組む。

「方針としては悪くない。ただし、聞き方には気をつけろ」

「どうして?」

「母親が何をどこまで知っているか分からない。逆に、何かを隠している可能性もある。強く問い詰めれば、余計に口を閉ざすかもしれない」

「……分かった」

 椎菜の言葉は冷静だった。

 けれど、それは母を疑えという意味ではない。

 きっと、誰かの傷に触れる時は慎重にしろということだ。

 奈々にも、それくらいは分かった。

「それで、護衛はどうするんですか」

 神一郎が椎菜を見る。

「隣室なら問題はない」

 椎菜はすぐに答えた。

「奈々くんの部屋とこちらの部屋を、結界で重ねる。外周は私が管理する。廊下側は神一郎、ベランダ側は私。優子くんは奈々くんが部屋に戻るまで同行」

「私も?」

 優子が顔を上げる。

「ああ。ただし、奈々くんの母親が帰宅した後は長居しない方がいい。女子の友人が遊びに来ていた、程度で済む時間までだ」

「了解です」

 優子は頷いた。

「奈々、部屋まで一緒に行くね」

「うん。ありがとう」

「泊まれないのは残念だけど」

「さすがに今日は無理ね」

「だよね」

 優子は笑った。

 でも、その笑いは少し寂しそうだった。

 優子には、帰る家がない。

 少なくとも、この街に安心して帰れる場所はない。

 今は神一郎たちの部屋にいる。

 奈々は、それを改めて思い出した。

「優子」

「ん?」

「明日、また一緒に学校行こ」

 優子は少し驚いたように目を開いたあと、ゆっくり笑った。

「うん。もちろん」

 それだけの会話だった。

 けれど、奈々には必要だった。

 優子にも、たぶん必要だった。

 椎菜はテーブルの紙片をケースにしまった。

「では動くぞ。長く廊下に紙片を置かれた以上、こちらの内側も安全とは言い切れない。奈々くんの部屋も確認する」

「私の部屋、散らかってても何も言わないでくださいね」

「任務に支障がなければ言わない」

「それ、支障があったら言うってことですか」

「当然だ」

「片付けとけばよかった……」

 奈々が小さく呟くと、優子が笑った。

「奈々の部屋、ちょっと楽しみ」

「見学気分で来ないでよ」

「だって友達の部屋だよ? 普通に楽しみでしょ」

「今その普通の感覚、逆にすごいわね」

 軽口を叩きながら、奈々は立ち上がった。

 けれど、胸の奥は緊張していた。

 自分の部屋へ戻るだけ。

 たったそれだけなのに、こんなにも勇気がいる。

 数日前までなら考えられなかった。

 奈々の部屋は、神一郎たちの部屋の隣にある。

 本当に、壁一枚分の距離だ。

 神一郎たちと一緒に廊下へ出ると、空気が少しだけ冷たく感じた。

 さっき紙片が挟まっていたドアの下を見る。

 もう何もない。

 椎菜が回収したからだ。

 それでも、そこにはまだ何かが残っているように見えた。

 見えない指先が、ドアの隙間をなぞったような痕跡。

 主の気配。

 奈々は小さく息を吸った。

 鍵を取り出す。

 手がわずかに震えた。

 それに気づいたのか、神一郎が隣で声をかけた。

「代わる?」

「代わらない」

 即答した。

 奈々自身が少し驚くくらい、強い声だった。

「私の部屋だから」

「……そっか」

 神一郎はそれ以上言わなかった。

 奈々は鍵を差し込み、ゆっくり回した。

 カチリ、と音がした。

 ドアを開ける。

 いつもの部屋の匂いがした。

 柔軟剤と、少しだけ紅茶の匂い。

 昨日までの自分がいた場所。

 靴を脱ぐ。

 玄関に一歩入る。

 それだけで、胸が少し締めつけられた。

 ここは安全な場所だったはずだ。

 疲れて帰ってきて、制服を脱いで、母に適当に返事をして、宿題をして、スマホを見て、眠る。

 ただそれだけの場所。

 でも、今は違う。

 この部屋の前に、主の紙片があった。

 この日常のすぐ外側に、誰かが手を伸ばしていた。

「確認する」

 椎菜が奈々の後ろから入ってくる。

 神一郎は玄関の外に残った。

「俺は廊下側を見ます」

「分かった」

 椎菜が頷く。

 優子は奈々の隣に立ち、部屋の中をきょろきょろ見回した。

「奈々の部屋、かわいいね」

「だから見学気分やめてってば」

「でも、ほんとにかわいい。ちゃんと女の子の部屋って感じ」

「優子の部屋は?」

 聞いた瞬間、優子の表情がほんの少しだけ変わった。

 しまった、と奈々は思った。

 優子には、普通の意味での自分の部屋があったのだろうか。

 中国の施設。

 訓練生。

 任務。

 その言葉が脳裏をよぎる。

 だが優子はすぐに笑った。

「私の部屋は、機能性重視かな」

「……ごめん」

「なんで謝るの」

「なんとなく」

「じゃあ許してあげる」

「軽い」

「重くしたら泣いちゃうかもしれないし」

 優子の冗談に、奈々は少しだけ笑った。

 でも、その笑いの奥にある寂しさを、見なかったことにはできなかった。

 椎菜はリビング、窓、ベランダ、寝室側のドアを順に確認していった。

 手元の端末と、指先の小さな光。

 それらを使って、壁や窓枠、床の隅まで丁寧に見ている。

 しばらくして、椎菜は言った。

「侵入痕跡はない。紙片は外側から差し込まれたと見ていい」

「外側からって、廊下側?」

「そうだ。ただし、人間が普通に歩いてきて差し込んだ痕跡はない。魔力で転送したか、極めて微細な使い魔の類を使った可能性がある」

「使い魔?」

 奈々が聞き返すと、椎菜は少しだけ考えた。

「小型の魔力媒体だと思えばいい。虫のような形を取るものもあれば、ただの光点に見えるものもある。高度な術者なら、紙片一枚を運ばせる程度はできる」

「つまり、主はここに来てないかもしれないけど、ここまで手は出せるってこと?」

「そういうことだ」

 奈々は唇を噛んだ。

 怖い。

 やっぱり怖い。

 自分の部屋にまで届く。

 それは、学校の靴箱よりもずっと近い。

 日常の中へ、もう入り込まれている。

「だが」

 椎菜が続ける。

「こちらも結界を張れる。隣室と連動させれば、最低限の防御と監視は可能だ」

 そう言って、椎菜は奈々の部屋の壁に手をかざした。

 神一郎たちの部屋と接している壁。

 その表面に、薄い光の線が浮かび上がる。

 壁の向こうから、神一郎の声がした。

「こっちも合わせます」

 声が壁越しに聞こえたわけではない。

 通信か、魔力の伝達か。

 奈々には分からない。

 ただ、壁の向こうに神一郎がいると分かっただけで、少し安心した。

 薄い光が部屋の四隅へ広がっていく。

 カーテンの端。

 窓枠。

 玄関。

 ベランダの鍵。

 それぞれに見えない糸がかかるように、結界が張られていく。

 奈々はその様子を見ながら、思った。

 自分の部屋が、自分の部屋ではなくなっていく。

 守られている。

 でも同時に、戦場の一部になっていく。

 そのことが少し寂しかった。

「これで、夜の間は大丈夫ですか?」

 優子が聞く。

「絶対とは言わない」

 椎菜は答えた。

「だが、昨日よりは守りやすい。奈々くんが自室にいても、こちら側で異常は拾える。何かあればすぐ動く」

「そっか」

 優子は少し安心したように頷いた。

 その時、玄関の外で物音がした。

 全員が一瞬で反応する。

 奈々の心臓が跳ねた。

 だが次の瞬間、聞き慣れた声が廊下に響いた。

「奈々? 帰ってるの?」

 母の声だった。

 奈々は固まった。

 優子も、椎菜も、少しだけ動きを止める。

 神一郎は廊下側にいるはずだ。

 まずい。

 何がまずいのか分からないが、とにかくまずい。

 奈々は慌てて玄関へ向かった。

「お、おかえり!」

 ドアを開けると、母が立っていた。

 仕事帰りのバッグを肩にかけ、少し疲れた顔をしている。

 でも、奈々を見ると、ほっとしたように笑った。

「ただいま。今日はちゃんと帰ってたのね」

「ちゃんとって何よ」

「ここ数日、帰ってきても部屋にいないことが多かったから」

「そ、それは……」

 奈々は言葉に詰まった。

 母の視線が、部屋の中へ向く。

 優子が明るく頭を下げた。

「こんばんは。お邪魔してます、朝倉優子です」

「あら、優子ちゃん。いつも奈々がお世話になってます」

「こちらこそ、奈々にはお世話になってます」

「お世話してるのは私の方じゃない?」

 奈々が小さく突っ込むと、優子はにこっと笑った。

 母は少しだけ笑って、それから椎菜を見た。

 椎菜は一瞬だけ間を置き、丁寧に頭を下げた。

「中嶋椎菜です。奈々さんとは学校で少し」

「学校のお友達?」

「はい。藤崎くんと同じく、最近こちらへ」

 嘘ではない。

 完全な本当でもない。

 奈々は内心ひやひやしたが、椎菜の態度はあまりにも自然だった。

 母も特に疑う様子はない。

「そうなの。奈々、ちゃんとお茶くらい出した?」

「今出そうとしてたところ」

「絶対嘘ね」

「嘘じゃないし」

 母はくすっと笑い、靴を脱いで入ってきた。

 その瞬間、奈々は部屋の空気が変わるのを感じた。

 母がいる。

 普通の家の空気。

 仕事帰りの母。

 少し疲れていて、それでも奈々のことを見てくれる母。

 その存在が、奈々を現実へ引き戻した。

 魔力も、主も、紙片も、騎士団も。

 全部が急に遠くなる。

 でも、消えたわけではない。

 ただ、母のいる日常と重なってしまっただけだ。

「奈々、顔色悪いわよ」

 母が言った。

 奈々は思わず目を逸らす。

「ちょっと寝不足」

「また? 最近そればっかりじゃない」

「みんなに言われる」

「そりゃ言われるわよ」

 母はバッグを置き、奈々の額へ手を伸ばした。

 奈々は一瞬、動けなくなった。

 額に触れる母の手。

 温かい。

 普通の温かさ。

 その感触に、夢の中の手が重なった。

 温かくて、少しずつ冷たくなっていく手。

「……奈々?」

 母が不思議そうに名前を呼ぶ。

「あ、ごめん」

「熱はなさそうだけど……本当に大丈夫?」

「うん」

 大丈夫。

 そう言いそうになって、奈々は少しだけ黙った。

 大丈夫じゃない。

 でも、全部は言えない。

 だから、別のことを言うしかなかった。

「ねえ、お母さん」

「なに?」

 声が少し震えた。

 みんなが隣室で、あるいは結界越しで聞いているかもしれない。

 優子と椎菜は部屋の中にいる。

 それでも今、奈々は母に聞かなければならないと思った。

「私、小さい頃……大きな怪我したこと、ある?」

 部屋の空気が止まった。

 それは、ほんの一瞬だった。

 でも奈々には、はっきり分かった。

 母が息を止めた。

 母の手が、奈々の額から少しだけ離れたまま止まる。

 その反応だけで、答えはもう出ていた。

 あった。

 やっぱり、あったのだ。

「……どうして急に?」

 母の声は、いつもより少し低かった。

 奈々は唇を噛む。

 ごまかすか。

 全部話すか。

 もちろん、全部は話せない。

 でも、完全に嘘をつくのも嫌だった。

「夢を見たの」

「夢?」

「白い天井があって、誰かが私の手を握ってた。血の匂いがして、誰かが……大丈夫って言ってた」

 母の顔色が変わった。

 ほんのわずかだが、確かに。

「奈々」

「あるの?」

 奈々は母を見た。

「私、小さい頃、大怪我したことあるの?」

 母はすぐには答えなかった。

 視線が揺れる。

 奈々はその揺れを見て、胸が痛くなった。

 母も、何かを抱えている。

 それが分かった。

「……あるわ」

 やがて、母は静かに言った。

 優子が息を呑む気配がした。

 椎菜は何も言わない。

 奈々は動けなかった。

「あなたが、まだ小さかった頃。事故があったの」

「事故?」

「詳しいことは……ごめんね。私も、全部をちゃんと覚えているわけじゃないの」

「覚えてない?」

 母は目を伏せた。

「混乱していたから。あの時は、本当に何が何だか分からなくて。ただ、あなたはひどい怪我をして……病院で、助からないかもしれないって言われた」

 奈々の胸の奥で、光が揺れた。

 白い天井。

 身体の痛み。

 泣いている自分。

 誰かの手。

「でも、助かった」

 奈々の声はかすれていた。

「うん」

 母は頷く。

「助かったの。奇跡みたいに」

「誰かが助けてくれたの?」

 母の表情が、さらに曇った。

「……そうね」

「誰?」

 母は答えなかった。

 いや、答えられなかったのかもしれない。

 沈黙が落ちる。

 奈々は、それ以上問い詰めてはいけない気がした。

 でも、聞かずにはいられなかった。

「お母さん、その人のこと知ってる?」

 母はゆっくり首を振った。

「名前は、知らない」

「名前は?」

「顔も、はっきりとは……ただ、女の人だったと思う」

 奈々の心臓が大きく跳ねた。

 女の人。

 あの夢の中の手。

 大丈夫、と言った声。

 あなたは、生きて、と言った声。

「とても綺麗な声だった」

 母は、遠い記憶を探るように言った。

「あなたの手を握って、ずっと何かを言っていた。私は、何度もお礼を言おうとしたんだけど……その人は、ただ笑って」

「笑って?」

「この子お願いします、って」

 奈々は息を呑んだ。

 胸の奥が熱くなる。

 痛いくらいに。

「その人は?」

 声が震える。

「その人は、そのあとどうなったの?」

 母は、奈々を見た。

 その目には、長い間しまい込んでいた痛みのようなものがあった。

「分からないの」

「分からない?」

「気づいた時には、もういなかった。病院の人に聞いても、そんな人は知らないって言われた。まるで最初からいなかったみたいに」

 奈々は言葉を失った。

 最初からいなかったみたいに。

 その言い方が、あまりにも今の出来事と似ていた。

 主が残す痕跡。

 何も残らない現場。

 でも、確かにそこにいたと分かる何か。

 同じではない。

 けれど、似ている。

「ごめんね、奈々」

 母が言った。

「あなたには、いつか話さなきゃと思ってた。でも、あの時のことを思い出すのが怖くて」

「お母さんが謝ることじゃないよ」

 奈々はすぐに言った。

 言ってから、自分でも驚いた。

 神一郎に言ったのと同じだ。

 謝ることじゃない。

 誰かが何かを抱えて黙っている時、その沈黙が全部悪意とは限らない。

 隠していたのではなく、痛くて触れられなかっただけかもしれない。

 奈々は、そのことを少しだけ分かり始めていた。

「でも、聞かせてくれてありがとう」

 母は目を細めた。

「奈々、本当にどうしたの?」

「……ちょっと、自分のことを知りたくなっただけ」

 嘘ではない。

 母はまだ心配そうだった。

 けれど、それ以上は聞かなかった。

 優子が空気を変えるように立ち上がった。

「あ、私そろそろ帰ります。遅くまでお邪魔してすみません」

「もう帰るの? お茶くらい飲んでいけばいいのに」

「ありがとうございます。でも、今日はちょっと用事があって」

「そう。気をつけてね」

「はい」

 椎菜も静かに頭を下げる。

「私も失礼します」

「あら、椎菜ちゃんも。また遊びに来てね」

「ありがとうございます」

 椎菜の返事があまりにも自然で、奈々は逆に感心してしまった。

 優子と椎菜が玄関へ向かう。

 その途中で、優子が奈々の横を通る時、小さく囁いた。

「あとで連絡するね」

 奈々は小さく頷いた。

 玄関の扉が閉まる。

 部屋には、奈々と母だけが残った。

 静かだった。

 さっきまでの会話が嘘みたいに、いつもの部屋の空気が戻ってくる。

 母はキッチンへ向かいながら言った。

「奈々、夕飯食べる?」

「あ……うん。少しだけ」

「少しだけって、ちゃんと食べなさい」

「はいはい」

 いつもの会話。

 そのはずなのに、奈々は泣きそうになった。

 普通の生活が、まだここにある。

 でも、その普通の中に、もう知らなかった過去が混ざってしまった。

 幼い頃、自分は大怪我をした。

 助からないかもしれないと言われた。

 女の人が、自分の手を握っていた。

 この子をお願いします、と言っていた。

 そして、消えた。

 奈々は自分の胸に手を当てた。

 温かい。

 その温度が、さっきより少しだけはっきりしている気がした。

 夕食の時間は、穏やかだった。

 母は仕事の話を少しして、奈々は学校のことを少しだけ話した。

 もちろん、本当のことはほとんど言えなかった。

 神一郎が転校してきたこと。

 優子と一緒にいること。

 椎菜という少し変わった先輩がいること。

 話せるのは、そのくらいだった。

 魔力のことも、主のことも、神一郎の母のことも、何も話せない。

 それでも、母の作った味噌汁を飲むと、少しだけ身体が緩んだ。

 自分はここで育った。

 この部屋で眠り、この食卓でご飯を食べ、この母に名前を呼ばれてきた。

 その全部が、自分が生きている理由の一部なのだと思った。

 でも、すべてではない。

 まだ知らない理由がある。

 夜が深くなり、母が風呂へ入ったあと、奈々のスマホが震えた。

 優子からだった。

『大丈夫?』

 短いメッセージ。

 奈々は少しだけ考えてから返信した。

『大丈夫じゃないけど、大丈夫』

 すぐに返事が来る。

『便利すぎるよ、その言葉』

 奈々は少し笑った。

 続いて、神一郎からも短いメッセージが届いた。

『壁越しの結界、張ってある。何かあったらすぐ呼んで』

 奈々は画面を見つめた。

 隣室。

 壁一枚向こうに神一郎がいる。

 椎菜がいる。

 優子も、今はそちらに戻っているのだろう。

 守られている。

 でも、今日はそれが悔しいだけではなかった。

 ちゃんと戻る場所があって、ちゃんと守ってくれる人がいる。

 それは弱さではなく、前に進むための足場なのだと思いたかった。

 奈々は返信した。

『分かった。ありがとう』

 少し置いて、神一郎から返事が来た。

『無理するなよ』

 奈々は画面に向かって小さく呟いた。

「それが難しいのよ」

 返事はしなかった。

 ベッドに入る前、奈々はもう一度だけ胸に手を当てた。

 温度がある。

 誰かのものだったのかもしれない。

 でも、今は自分の中にある。

 そして今日、母の言葉でひとつ分かった。

 あれは、ただの夢ではなかった。

 自分は本当に、誰かに助けられた。

 誰かが、自分の手を握ってくれた。

 誰かが、母に「この子をお願いします」と言った。

 その誰かの名前を、まだ奈々は知らない。

 でも、知りたいと思った。

 心の底から。

 その夜、奈々は窓の外を見た。

 カーテンの隙間から、隣の部屋の灯りがわずかに漏れている。

 神一郎たちは、まだ起きているのかもしれない。

 主も、どこかで見ているのかもしれない。

 でも、今夜の奈々は、それだけではなかった。

 母のいる部屋。

 隣室の結界。

 優子からのメッセージ。

 神一郎の言葉。

 椎菜の冷静な判断。

 そして胸の奥の温度。

 全部が、今の奈々をここに留めていた。

「……生きてる理由、か」

 小さく呟く。

 まだ分からない。

 でも、少しだけ近づいた。

 白い天井の向こうにいた誰か。

 優しい声の女の人。

 自分のことをお願いします、と言った人。

 その人が誰なのか。

 神一郎の母と関係があるのか。

 主はなぜそれを知っているのか。

 何もかも、まだ霧の中だ。

 けれど、奈々はもう霧の前で立ち止まるつもりはなかった。

 怖くてもいい。

 震えてもいい。

 目を逸らさなければ、前に進める。

 そう思いながら、奈々はゆっくり目を閉じた。

 胸の奥は、今夜も静かに揺れていた。

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