第三章 第一話 帰る部屋
夜の街は、いつもと同じ顔をしていた。
窓の外に見えるマンションの明かりも、遠くを走る車のヘッドライトも、駅前の看板の光も、何ひとつ変わっていない。
けれど、奈々にはもう、それが同じ景色には見えなかった。
神一郎たちの部屋のテーブルには、二枚の紙片が並べられている。
一枚目。
――その力は、君のものではない。
二枚目。
――君が生きている理由を、君はまだ知らない。
たったそれだけの文字。
それなのに、奈々の中にあるものを、見えない指で何度も押してくる。
胸の奥が、まだ少し熱い。
痛いわけではない。
苦しいわけでもない。
ただ、そこに何かがあると分かってしまった。
誰かの温度。
誰かの名残。
自分の中にあるはずなのに、自分だけでは説明できないもの。
奈々はソファに座ったまま、自分の両手を見下ろしていた。
手のひらはいつも通りだ。
昨日、紙で切れた指先も、今は何もなかったようにきれいになっている。そこに傷があったことを証明できるものは、もう奈々の記憶しかない。
でも、その記憶だけは消えない。
血が滲んだ感触。
傷口が淡く光った瞬間。
自分の身体が、自分の意思とは関係なく何かをした感覚。
そして、訓練の中で見た白い天井と、誰かの手。
――あなたは、生きて。
夢の中で聞いた声を思い出しそうになって、奈々はそっと息を吐いた。
「奈々」
声をかけられて、顔を上げる。
神一郎だった。
彼はテーブルの横に立ったまま、紙片から目を離していなかった。けれど、今は奈々の様子を見ている。
「気分、悪くないか?」
「悪くはない」
奈々は少し考えてから、言い直した。
「悪くはないけど、よくもない」
「正直だな」
「嘘ついたら怒るでしょ」
「怒りはしないけど、心配はする」
「それが嫌なのよ」
言ってから、奈々は少しだけ苦笑した。
以前なら、こんなやり取りはもっと軽かった。
今も軽口の形はしている。
けれど、その下には別のものが沈んでいる。
心配。
恐怖。
言えないこと。
思い出せないこと。
そして、知りたいこと。
神一郎はしばらく奈々を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「椎菜さん、本部への追加照会は?」
「送った」
窓際に立っていた椎菜が答える。
「ただし、すぐに返事があるとは思わない方がいい。藤崎沙耶に関する記録は、通常の任務記録とは扱いが違う」
藤崎沙耶。
神一郎の母親の名前。
奈々は、その名前を頭の中で繰り返した。
神一郎の母。
治癒系の高位術者。
任務中に亡くなった人。
そして、自分の中の魔力と関わっているかもしれない人。
まだ、何も確定していない。
そう分かっている。
分かっているのに、心は勝手にそこへ向かってしまう。
「団長には?」
神一郎が聞く。
「明日、直接連絡を取る」
「今日じゃないんですか」
「今かけたところで、向こうも準備する。こちらが欲しいのは曖昧な返事ではなく、記録に近い情報だ」
「……確かに」
神一郎は納得したように頷いたが、その表情は硬かった。
奈々は、その横顔を見る。
昼休みに聞いた神一郎の声が、まだ耳に残っていた。
母の死について、詳しく聞いたことがありません。
その言葉。
神一郎も知らない。
奈々だけが何も知らないわけではない。
神一郎も、神一郎自身の大切なことを知らされていなかった。
それが分かったことで、奈々の中の不安は少し形を変えた。
ただ怖いだけではない。
神一郎が傷つくかもしれないことが、怖い。
自分の中にあるものが、神一郎の傷へ繋がってしまうことが、怖い。
「……ねえ」
奈々は口を開いた。
三人の視線が集まる。
優子はソファの隣で、ペットボトルの蓋を触っていた手を止めた。
「私、今日は部屋に戻る」
言った瞬間、神一郎の表情が変わった。
「一人で?」
「一人っていうか、隣でしょ」
「距離の問題じゃない」
「分かってる」
奈々は小さく頷く。
「でも、今日は帰らなきゃ。お母さん、今日は日勤なの。夜には帰ってくるから」
「あ……」
優子が小さく声を漏らした。
椎菜も少しだけ目を細める。
「これまでは夜勤だったな」
「うん。父さんは出張中で、母さんも夜勤続きだったから、なんとかごまかせてた。でも今日は無理。帰ってきた時に私がいなかったら、さすがに変に思う」
言葉にすると、急に現実感が戻ってきた。
父親は地方へ出張中。
母親はここ数日、夜勤が続いていた。
だから奈々が夜に神一郎たちの部屋で待機していても、訓練を受けていても、誰かに気づかれることはなかった。
それは、たまたま家庭の事情が重なっただけだ。
けれど、そんな偶然がずっと続くわけではない。
奈々には、奈々の家がある。
母が帰ってくる部屋がある。
いつもの生活がある。
その生活に戻らなければならない。
たとえ、戻ったところで、もう前と同じ気持ちではいられないとしても。
「でも、奈々」
優子が心配そうに身を乗り出す。
「今日の紙、部屋の前にあったんだよ? 戻るの、怖くない?」
「怖いよ」
奈々は正直に答えた。
「怖いけど、ずっとここにいるわけにもいかないでしょ。お母さんに心配かけるし」
「それは……そうだけど」
「それに」
奈々は少しだけ言葉を切った。
「私、聞きたいことがある」
神一郎が反応する。
「お母さんに?」
「うん」
口にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
幼い頃の大怪我。
白い天井。
誰かの手。
あなたは、生きて。
それを、奈々の母は知っているのだろうか。
どこまで知っているのだろうか。
それとも、何も知らないのだろうか。
「小さい頃、大怪我したことがあるのか。聞いてみる」
言うと、神一郎が一瞬だけ視線を落とした。
「無理に聞かなくてもいい」
「無理はする」
「奈々」
「でも、逃げたくない」
奈々は神一郎を見る。
「私が生きている理由を、君はまだ知らない。そう言われた。だったら、まず私の家族に聞くのは自然でしょ」
神一郎は何も言えなくなった。
正しいことを言ったつもりはない。
ただ、そうするしかないと思っただけだった。
椎菜が腕を組む。
「方針としては悪くない。ただし、聞き方には気をつけろ」
「どうして?」
「母親が何をどこまで知っているか分からない。逆に、何かを隠している可能性もある。強く問い詰めれば、余計に口を閉ざすかもしれない」
「……分かった」
椎菜の言葉は冷静だった。
けれど、それは母を疑えという意味ではない。
きっと、誰かの傷に触れる時は慎重にしろということだ。
奈々にも、それくらいは分かった。
「それで、護衛はどうするんですか」
神一郎が椎菜を見る。
「隣室なら問題はない」
椎菜はすぐに答えた。
「奈々くんの部屋とこちらの部屋を、結界で重ねる。外周は私が管理する。廊下側は神一郎、ベランダ側は私。優子くんは奈々くんが部屋に戻るまで同行」
「私も?」
優子が顔を上げる。
「ああ。ただし、奈々くんの母親が帰宅した後は長居しない方がいい。女子の友人が遊びに来ていた、程度で済む時間までだ」
「了解です」
優子は頷いた。
「奈々、部屋まで一緒に行くね」
「うん。ありがとう」
「泊まれないのは残念だけど」
「さすがに今日は無理ね」
「だよね」
優子は笑った。
でも、その笑いは少し寂しそうだった。
優子には、帰る家がない。
少なくとも、この街に安心して帰れる場所はない。
今は神一郎たちの部屋にいる。
奈々は、それを改めて思い出した。
「優子」
「ん?」
「明日、また一緒に学校行こ」
優子は少し驚いたように目を開いたあと、ゆっくり笑った。
「うん。もちろん」
それだけの会話だった。
けれど、奈々には必要だった。
優子にも、たぶん必要だった。
椎菜はテーブルの紙片をケースにしまった。
「では動くぞ。長く廊下に紙片を置かれた以上、こちらの内側も安全とは言い切れない。奈々くんの部屋も確認する」
「私の部屋、散らかってても何も言わないでくださいね」
「任務に支障がなければ言わない」
「それ、支障があったら言うってことですか」
「当然だ」
「片付けとけばよかった……」
奈々が小さく呟くと、優子が笑った。
「奈々の部屋、ちょっと楽しみ」
「見学気分で来ないでよ」
「だって友達の部屋だよ? 普通に楽しみでしょ」
「今その普通の感覚、逆にすごいわね」
軽口を叩きながら、奈々は立ち上がった。
けれど、胸の奥は緊張していた。
自分の部屋へ戻るだけ。
たったそれだけなのに、こんなにも勇気がいる。
数日前までなら考えられなかった。
奈々の部屋は、神一郎たちの部屋の隣にある。
本当に、壁一枚分の距離だ。
神一郎たちと一緒に廊下へ出ると、空気が少しだけ冷たく感じた。
さっき紙片が挟まっていたドアの下を見る。
もう何もない。
椎菜が回収したからだ。
それでも、そこにはまだ何かが残っているように見えた。
見えない指先が、ドアの隙間をなぞったような痕跡。
主の気配。
奈々は小さく息を吸った。
鍵を取り出す。
手がわずかに震えた。
それに気づいたのか、神一郎が隣で声をかけた。
「代わる?」
「代わらない」
即答した。
奈々自身が少し驚くくらい、強い声だった。
「私の部屋だから」
「……そっか」
神一郎はそれ以上言わなかった。
奈々は鍵を差し込み、ゆっくり回した。
カチリ、と音がした。
ドアを開ける。
いつもの部屋の匂いがした。
柔軟剤と、少しだけ紅茶の匂い。
昨日までの自分がいた場所。
靴を脱ぐ。
玄関に一歩入る。
それだけで、胸が少し締めつけられた。
ここは安全な場所だったはずだ。
疲れて帰ってきて、制服を脱いで、母に適当に返事をして、宿題をして、スマホを見て、眠る。
ただそれだけの場所。
でも、今は違う。
この部屋の前に、主の紙片があった。
この日常のすぐ外側に、誰かが手を伸ばしていた。
「確認する」
椎菜が奈々の後ろから入ってくる。
神一郎は玄関の外に残った。
「俺は廊下側を見ます」
「分かった」
椎菜が頷く。
優子は奈々の隣に立ち、部屋の中をきょろきょろ見回した。
「奈々の部屋、かわいいね」
「だから見学気分やめてってば」
「でも、ほんとにかわいい。ちゃんと女の子の部屋って感じ」
「優子の部屋は?」
聞いた瞬間、優子の表情がほんの少しだけ変わった。
しまった、と奈々は思った。
優子には、普通の意味での自分の部屋があったのだろうか。
中国の施設。
訓練生。
任務。
その言葉が脳裏をよぎる。
だが優子はすぐに笑った。
「私の部屋は、機能性重視かな」
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「なんとなく」
「じゃあ許してあげる」
「軽い」
「重くしたら泣いちゃうかもしれないし」
優子の冗談に、奈々は少しだけ笑った。
でも、その笑いの奥にある寂しさを、見なかったことにはできなかった。
椎菜はリビング、窓、ベランダ、寝室側のドアを順に確認していった。
手元の端末と、指先の小さな光。
それらを使って、壁や窓枠、床の隅まで丁寧に見ている。
しばらくして、椎菜は言った。
「侵入痕跡はない。紙片は外側から差し込まれたと見ていい」
「外側からって、廊下側?」
「そうだ。ただし、人間が普通に歩いてきて差し込んだ痕跡はない。魔力で転送したか、極めて微細な使い魔の類を使った可能性がある」
「使い魔?」
奈々が聞き返すと、椎菜は少しだけ考えた。
「小型の魔力媒体だと思えばいい。虫のような形を取るものもあれば、ただの光点に見えるものもある。高度な術者なら、紙片一枚を運ばせる程度はできる」
「つまり、主はここに来てないかもしれないけど、ここまで手は出せるってこと?」
「そういうことだ」
奈々は唇を噛んだ。
怖い。
やっぱり怖い。
自分の部屋にまで届く。
それは、学校の靴箱よりもずっと近い。
日常の中へ、もう入り込まれている。
「だが」
椎菜が続ける。
「こちらも結界を張れる。隣室と連動させれば、最低限の防御と監視は可能だ」
そう言って、椎菜は奈々の部屋の壁に手をかざした。
神一郎たちの部屋と接している壁。
その表面に、薄い光の線が浮かび上がる。
壁の向こうから、神一郎の声がした。
「こっちも合わせます」
声が壁越しに聞こえたわけではない。
通信か、魔力の伝達か。
奈々には分からない。
ただ、壁の向こうに神一郎がいると分かっただけで、少し安心した。
薄い光が部屋の四隅へ広がっていく。
カーテンの端。
窓枠。
玄関。
ベランダの鍵。
それぞれに見えない糸がかかるように、結界が張られていく。
奈々はその様子を見ながら、思った。
自分の部屋が、自分の部屋ではなくなっていく。
守られている。
でも同時に、戦場の一部になっていく。
そのことが少し寂しかった。
「これで、夜の間は大丈夫ですか?」
優子が聞く。
「絶対とは言わない」
椎菜は答えた。
「だが、昨日よりは守りやすい。奈々くんが自室にいても、こちら側で異常は拾える。何かあればすぐ動く」
「そっか」
優子は少し安心したように頷いた。
その時、玄関の外で物音がした。
全員が一瞬で反応する。
奈々の心臓が跳ねた。
だが次の瞬間、聞き慣れた声が廊下に響いた。
「奈々? 帰ってるの?」
母の声だった。
奈々は固まった。
優子も、椎菜も、少しだけ動きを止める。
神一郎は廊下側にいるはずだ。
まずい。
何がまずいのか分からないが、とにかくまずい。
奈々は慌てて玄関へ向かった。
「お、おかえり!」
ドアを開けると、母が立っていた。
仕事帰りのバッグを肩にかけ、少し疲れた顔をしている。
でも、奈々を見ると、ほっとしたように笑った。
「ただいま。今日はちゃんと帰ってたのね」
「ちゃんとって何よ」
「ここ数日、帰ってきても部屋にいないことが多かったから」
「そ、それは……」
奈々は言葉に詰まった。
母の視線が、部屋の中へ向く。
優子が明るく頭を下げた。
「こんばんは。お邪魔してます、朝倉優子です」
「あら、優子ちゃん。いつも奈々がお世話になってます」
「こちらこそ、奈々にはお世話になってます」
「お世話してるのは私の方じゃない?」
奈々が小さく突っ込むと、優子はにこっと笑った。
母は少しだけ笑って、それから椎菜を見た。
椎菜は一瞬だけ間を置き、丁寧に頭を下げた。
「中嶋椎菜です。奈々さんとは学校で少し」
「学校のお友達?」
「はい。藤崎くんと同じく、最近こちらへ」
嘘ではない。
完全な本当でもない。
奈々は内心ひやひやしたが、椎菜の態度はあまりにも自然だった。
母も特に疑う様子はない。
「そうなの。奈々、ちゃんとお茶くらい出した?」
「今出そうとしてたところ」
「絶対嘘ね」
「嘘じゃないし」
母はくすっと笑い、靴を脱いで入ってきた。
その瞬間、奈々は部屋の空気が変わるのを感じた。
母がいる。
普通の家の空気。
仕事帰りの母。
少し疲れていて、それでも奈々のことを見てくれる母。
その存在が、奈々を現実へ引き戻した。
魔力も、主も、紙片も、騎士団も。
全部が急に遠くなる。
でも、消えたわけではない。
ただ、母のいる日常と重なってしまっただけだ。
「奈々、顔色悪いわよ」
母が言った。
奈々は思わず目を逸らす。
「ちょっと寝不足」
「また? 最近そればっかりじゃない」
「みんなに言われる」
「そりゃ言われるわよ」
母はバッグを置き、奈々の額へ手を伸ばした。
奈々は一瞬、動けなくなった。
額に触れる母の手。
温かい。
普通の温かさ。
その感触に、夢の中の手が重なった。
温かくて、少しずつ冷たくなっていく手。
「……奈々?」
母が不思議そうに名前を呼ぶ。
「あ、ごめん」
「熱はなさそうだけど……本当に大丈夫?」
「うん」
大丈夫。
そう言いそうになって、奈々は少しだけ黙った。
大丈夫じゃない。
でも、全部は言えない。
だから、別のことを言うしかなかった。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
声が少し震えた。
みんなが隣室で、あるいは結界越しで聞いているかもしれない。
優子と椎菜は部屋の中にいる。
それでも今、奈々は母に聞かなければならないと思った。
「私、小さい頃……大きな怪我したこと、ある?」
部屋の空気が止まった。
それは、ほんの一瞬だった。
でも奈々には、はっきり分かった。
母が息を止めた。
母の手が、奈々の額から少しだけ離れたまま止まる。
その反応だけで、答えはもう出ていた。
あった。
やっぱり、あったのだ。
「……どうして急に?」
母の声は、いつもより少し低かった。
奈々は唇を噛む。
ごまかすか。
全部話すか。
もちろん、全部は話せない。
でも、完全に嘘をつくのも嫌だった。
「夢を見たの」
「夢?」
「白い天井があって、誰かが私の手を握ってた。血の匂いがして、誰かが……大丈夫って言ってた」
母の顔色が変わった。
ほんのわずかだが、確かに。
「奈々」
「あるの?」
奈々は母を見た。
「私、小さい頃、大怪我したことあるの?」
母はすぐには答えなかった。
視線が揺れる。
奈々はその揺れを見て、胸が痛くなった。
母も、何かを抱えている。
それが分かった。
「……あるわ」
やがて、母は静かに言った。
優子が息を呑む気配がした。
椎菜は何も言わない。
奈々は動けなかった。
「あなたが、まだ小さかった頃。事故があったの」
「事故?」
「詳しいことは……ごめんね。私も、全部をちゃんと覚えているわけじゃないの」
「覚えてない?」
母は目を伏せた。
「混乱していたから。あの時は、本当に何が何だか分からなくて。ただ、あなたはひどい怪我をして……病院で、助からないかもしれないって言われた」
奈々の胸の奥で、光が揺れた。
白い天井。
身体の痛み。
泣いている自分。
誰かの手。
「でも、助かった」
奈々の声はかすれていた。
「うん」
母は頷く。
「助かったの。奇跡みたいに」
「誰かが助けてくれたの?」
母の表情が、さらに曇った。
「……そうね」
「誰?」
母は答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
沈黙が落ちる。
奈々は、それ以上問い詰めてはいけない気がした。
でも、聞かずにはいられなかった。
「お母さん、その人のこと知ってる?」
母はゆっくり首を振った。
「名前は、知らない」
「名前は?」
「顔も、はっきりとは……ただ、女の人だったと思う」
奈々の心臓が大きく跳ねた。
女の人。
あの夢の中の手。
大丈夫、と言った声。
あなたは、生きて、と言った声。
「とても綺麗な声だった」
母は、遠い記憶を探るように言った。
「あなたの手を握って、ずっと何かを言っていた。私は、何度もお礼を言おうとしたんだけど……その人は、ただ笑って」
「笑って?」
「この子お願いします、って」
奈々は息を呑んだ。
胸の奥が熱くなる。
痛いくらいに。
「その人は?」
声が震える。
「その人は、そのあとどうなったの?」
母は、奈々を見た。
その目には、長い間しまい込んでいた痛みのようなものがあった。
「分からないの」
「分からない?」
「気づいた時には、もういなかった。病院の人に聞いても、そんな人は知らないって言われた。まるで最初からいなかったみたいに」
奈々は言葉を失った。
最初からいなかったみたいに。
その言い方が、あまりにも今の出来事と似ていた。
主が残す痕跡。
何も残らない現場。
でも、確かにそこにいたと分かる何か。
同じではない。
けれど、似ている。
「ごめんね、奈々」
母が言った。
「あなたには、いつか話さなきゃと思ってた。でも、あの時のことを思い出すのが怖くて」
「お母さんが謝ることじゃないよ」
奈々はすぐに言った。
言ってから、自分でも驚いた。
神一郎に言ったのと同じだ。
謝ることじゃない。
誰かが何かを抱えて黙っている時、その沈黙が全部悪意とは限らない。
隠していたのではなく、痛くて触れられなかっただけかもしれない。
奈々は、そのことを少しだけ分かり始めていた。
「でも、聞かせてくれてありがとう」
母は目を細めた。
「奈々、本当にどうしたの?」
「……ちょっと、自分のことを知りたくなっただけ」
嘘ではない。
母はまだ心配そうだった。
けれど、それ以上は聞かなかった。
優子が空気を変えるように立ち上がった。
「あ、私そろそろ帰ります。遅くまでお邪魔してすみません」
「もう帰るの? お茶くらい飲んでいけばいいのに」
「ありがとうございます。でも、今日はちょっと用事があって」
「そう。気をつけてね」
「はい」
椎菜も静かに頭を下げる。
「私も失礼します」
「あら、椎菜ちゃんも。また遊びに来てね」
「ありがとうございます」
椎菜の返事があまりにも自然で、奈々は逆に感心してしまった。
優子と椎菜が玄関へ向かう。
その途中で、優子が奈々の横を通る時、小さく囁いた。
「あとで連絡するね」
奈々は小さく頷いた。
玄関の扉が閉まる。
部屋には、奈々と母だけが残った。
静かだった。
さっきまでの会話が嘘みたいに、いつもの部屋の空気が戻ってくる。
母はキッチンへ向かいながら言った。
「奈々、夕飯食べる?」
「あ……うん。少しだけ」
「少しだけって、ちゃんと食べなさい」
「はいはい」
いつもの会話。
そのはずなのに、奈々は泣きそうになった。
普通の生活が、まだここにある。
でも、その普通の中に、もう知らなかった過去が混ざってしまった。
幼い頃、自分は大怪我をした。
助からないかもしれないと言われた。
女の人が、自分の手を握っていた。
この子をお願いします、と言っていた。
そして、消えた。
奈々は自分の胸に手を当てた。
温かい。
その温度が、さっきより少しだけはっきりしている気がした。
夕食の時間は、穏やかだった。
母は仕事の話を少しして、奈々は学校のことを少しだけ話した。
もちろん、本当のことはほとんど言えなかった。
神一郎が転校してきたこと。
優子と一緒にいること。
椎菜という少し変わった先輩がいること。
話せるのは、そのくらいだった。
魔力のことも、主のことも、神一郎の母のことも、何も話せない。
それでも、母の作った味噌汁を飲むと、少しだけ身体が緩んだ。
自分はここで育った。
この部屋で眠り、この食卓でご飯を食べ、この母に名前を呼ばれてきた。
その全部が、自分が生きている理由の一部なのだと思った。
でも、すべてではない。
まだ知らない理由がある。
夜が深くなり、母が風呂へ入ったあと、奈々のスマホが震えた。
優子からだった。
『大丈夫?』
短いメッセージ。
奈々は少しだけ考えてから返信した。
『大丈夫じゃないけど、大丈夫』
すぐに返事が来る。
『便利すぎるよ、その言葉』
奈々は少し笑った。
続いて、神一郎からも短いメッセージが届いた。
『壁越しの結界、張ってある。何かあったらすぐ呼んで』
奈々は画面を見つめた。
隣室。
壁一枚向こうに神一郎がいる。
椎菜がいる。
優子も、今はそちらに戻っているのだろう。
守られている。
でも、今日はそれが悔しいだけではなかった。
ちゃんと戻る場所があって、ちゃんと守ってくれる人がいる。
それは弱さではなく、前に進むための足場なのだと思いたかった。
奈々は返信した。
『分かった。ありがとう』
少し置いて、神一郎から返事が来た。
『無理するなよ』
奈々は画面に向かって小さく呟いた。
「それが難しいのよ」
返事はしなかった。
ベッドに入る前、奈々はもう一度だけ胸に手を当てた。
温度がある。
誰かのものだったのかもしれない。
でも、今は自分の中にある。
そして今日、母の言葉でひとつ分かった。
あれは、ただの夢ではなかった。
自分は本当に、誰かに助けられた。
誰かが、自分の手を握ってくれた。
誰かが、母に「この子をお願いします」と言った。
その誰かの名前を、まだ奈々は知らない。
でも、知りたいと思った。
心の底から。
その夜、奈々は窓の外を見た。
カーテンの隙間から、隣の部屋の灯りがわずかに漏れている。
神一郎たちは、まだ起きているのかもしれない。
主も、どこかで見ているのかもしれない。
でも、今夜の奈々は、それだけではなかった。
母のいる部屋。
隣室の結界。
優子からのメッセージ。
神一郎の言葉。
椎菜の冷静な判断。
そして胸の奥の温度。
全部が、今の奈々をここに留めていた。
「……生きてる理由、か」
小さく呟く。
まだ分からない。
でも、少しだけ近づいた。
白い天井の向こうにいた誰か。
優しい声の女の人。
自分のことをお願いします、と言った人。
その人が誰なのか。
神一郎の母と関係があるのか。
主はなぜそれを知っているのか。
何もかも、まだ霧の中だ。
けれど、奈々はもう霧の前で立ち止まるつもりはなかった。
怖くてもいい。
震えてもいい。
目を逸らさなければ、前に進める。
そう思いながら、奈々はゆっくり目を閉じた。
胸の奥は、今夜も静かに揺れていた。




