第三章 第二話 消えた女の人
朝になっても、胸の奥の温かさは消えていなかった。
目を覚ました奈々は、しばらく天井を見つめたまま動けなかった。 白い天井。
自分の部屋の天井は、夢で見たものとは違う。見慣れた照明があって、端の方には去年貼ったまま剥がし忘れていた小さな蓄光シールが残っている。夜になると淡く光る星の形のシール。子どもっぽいから剥がそうと思って、そのままになっていたものだ。
それなのに、目を開けた瞬間、奈々はほんの一瞬だけ別の天井を見た気がした。
眩しい白。
知らない匂い。
誰かの声。
そして、手。
自分の手を握っていた、女の人の手。
奈々は布団の中で、そっと自分の右手を握った。
何もない。
けれど、感触だけは残っている。
夢だったのかもしれない。 記憶だったのかもしれない。 魔力が見せた断片だったのかもしれない。
どれなのか、まだ分からない。
でも、昨日、母は確かに言った。
あなたは、小さい頃に大怪我をした。 助からないかもしれないと言われた。 女の人が、あなたの手を握っていた。 その人は、母に言った。
――あなた、つまり奈々をお願いします。
その言葉を思い出すと、胸の奥が微かに揺れた。
奈々はゆっくり起き上がる。
部屋は静かだった。
隣の部屋から物音は聞こえない。けれど、壁の向こうには神一郎たちがいる。昨夜、神一郎から届いたメッセージを思い出す。
『壁越しの結界、張ってある。何かあったらすぐ呼んで』
スマホを確認すると、夜中に新しい通知はなかった。
優子からも、神一郎からも、椎菜からも、母からも。
何もない。
主からも、何もない。
それを安心と呼べるのかどうか、奈々にはもう分からなかった。
「……何もない方が怖いって、どうなのよ」
小さく呟いて、奈々はベッドから降りた。
制服に着替え、鏡の前に立つ。
目元は少し重い。けれど、昨日よりは顔色がいい気がした。母のいる部屋で眠ったからかもしれない。隣の結界があったからかもしれない。
それとも、少しだけでも知ることができたからかもしれない。
知らないことはまだ多い。
むしろ、知れば知るほど分からないことが増えていく。
でも昨日の奈々は、確かにひとつだけ前に進んだ。
自分は本当に、誰かに助けられた。
母はその人の名前を知らない。 顔もはっきり覚えていない。 病院に聞いても、そんな人はいなかったように扱われた。
でも、母は覚えていた。
誰かがいたことを。
奈々の手を握ってくれたことを。
「……消えた女の人、か」
口にすると、思ったより不気味だった。
ただの優しい記憶のはずなのに、そこにはどうしても影が差す。
いたはずなのに、いない。 助けたはずなのに、記録に残っていない。 母の記憶にはいるのに、病院には残っていない。
その事実は、主のやり方と少し似ていた。
何も残さない。 けれど、確かにいたと分かる。
奈々は胸に手を当てる。
そこには、魔力があった。
怖いものではない。
少なくとも、今はそう思いたかった。
リビングへ行くと、母はすでに起きていた。 キッチンから味噌汁の匂いがする。
「おはよう、奈々」
「おはよ」
「今日は顔色、少しマシね」
「昨日よりは寝たから」
「ほんとに?」
「ほんと。一応」
奈々がそう言うと、母は少しだけ笑った。
「その“一応”って言い方、最近多いわね」
「便利なの」
「便利な言葉ばっかり使ってると、本当のこと言いづらくなるわよ」
何気ない母の言葉に、奈々は一瞬だけ返事に詰まった。
本当のこと。
自分は今、どれだけのことを隠しているのだろう。
魔力のこと。 主のこと。 神一郎が騎士であること。 優子の正体。 椎菜の立場。 昨日、母から聞いた話をこれから神一郎たちに伝えようとしていること。
全部は言えない。
でも、言えないことが増えるほど、日常の会話が少しずつ薄くなっていくような気がした。
「……奈々?」
母が不思議そうに顔を覗き込む。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「無理してない?」
「してない」
言ってから、奈々は少しだけ間を置いた。
「……ちょっとだけしてるかも」
母は目を丸くしたあと、ふっと表情を柔らかくした。
「じゃあ、ちゃんと朝ご飯食べなさい」
「そこ?」
「そこよ。悩むにも体力いるんだから」
その言い方があまりにも母らしくて、奈々は少しだけ笑った。
朝食の間、昨日の話は出なかった。
母も、奈々に何かを聞こうとはしなかった。 それがありがたくもあり、少し寂しくもあった。
聞いてほしいわけではない。
でも、母も何かを避けているのだと分かってしまったから。
食器を片付け、鞄を持つ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日は帰り、遅くならない?」
「たぶん、そんなには」
「たぶんって」
「分かった。連絡する」
「よろしい」
玄関を出る直前、奈々は振り返った。
「お母さん」
「なに?」
「昨日の話……ありがとう」
母は一瞬だけ目を伏せた。
それから、小さく頷いた。
「うん」
たったそれだけだった。
でも奈々には、それで十分だった。
部屋を出ると、廊下にはすでに神一郎がいた。
制服姿で、鞄を肩にかけている。いつものように少し眠たそうな顔をしているのに、視線だけは奈々の方へまっすぐ向いていた。
「おはよう」
「おはよ」
奈々が返すと、神一郎はすぐに目を細めた。
「昨日よりは寝た?」
「一応」
「また一応か」
「便利なのよ、一応って」
「お母さんにも言われてそうだな」
「言われた」
「だろうな」
神一郎が小さく笑う。
その顔を見て、奈々はほんの少しだけ安心した。
昨日、母から聞いたことを伝えたら、この顔は変わるかもしれない。
神一郎の母に繋がるかもしれない話。
彼を傷つけるかもしれない話。
でも、黙っているのは違う。
奈々はもう、知らないままで守られることを拒んだ。 なら、自分だけが知ったことを隠すのも違う。
「神一郎」
「何?」
「昨日、お母さんから聞いたこと……あとで話す」
神一郎の表情がすぐに変わった。
「今じゃなくていいのか」
「ここじゃ無理。お母さん、まだ部屋にいるし」
「……分かった」
「昼休み、どこか人が少ないところで」
「椎菜さんにも伝える」
「うん」
神一郎は、それ以上聞かなかった。
そのことに奈々は少し救われた。
エレベーター前には、優子と椎菜がいた。
優子は奈々を見るなり、少し明るい声で言った。
「おはよ、奈々。ちゃんと自分の部屋で寝られた?」
「寝たわよ。一応」
「また一応」
「流行ってるの?」
「奈々発信でね」
優子が笑う。
けれど、その目は奈々の顔色をしっかり見ていた。
椎菜も同じだった。何も言わないが、奈々の様子を一瞥しただけで、何かを読み取ったように小さく頷く。
「昨夜、追加の異常は?」
椎菜が聞く。
「なかったと思います」
「結界側にも反応はなかった。なら問題ない」
「問題ないって言い切れるの、ちょっとすごいですね」
「現時点での話だ」
「ですよね」
奈々がそう返すと、椎菜は少しだけ口元を緩めた。
四人でマンションを出る。
朝の空気は少し湿っていた。 昨日より雲が多い。
駅へ向かう人の流れに混ざりながら、奈々は何度か話そうとして、結局やめた。
母から聞いたこと。
大怪我。 助からないかもしれなかったこと。 女の人。 あなた、つまり奈々をお願いします。
言葉にしようとすると、喉の奥で引っかかる。
神一郎が傷つくかもしれない。 優子が余計に主を怖がるかもしれない。 椎菜が冷静に分析して、決定的なことを言ってしまうかもしれない。
知りたいと思った。
でも、知ることが誰かを傷つけるなら。
それでも進むのか。
奈々は自分に問いかけた。
答えは、すぐには出なかった。
学校に着いてからの午前中は、どこか上滑りしていた。
教師の声は聞こえている。 黒板の文字も見えている。 ノートも取っている。
でも、意識の半分はずっと別のところにあった。
昼休みになれば、話さなければならない。
話せば、また何かが進む。 進めば、戻れなくなる。
それが怖い。
それでも昼休みは来た。
チャイムが鳴り、教室が一気にざわめく。
神一郎は何も言わずに立ち上がった。 優子もすぐに鞄から小さなパンと飲み物を取り出す。 奈々が立ち上がると、優子がそっと近づいてきた。
「奈々、話すんだよね?」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、話す」
「便利」
「でしょ」
優子は少しだけ笑って、それから真面目な顔になった。
「私もいるから」
「うん」
旧校舎側の空き教室。
そこは、前にも使った場所だった。 使われなくなった机と椅子が端に寄せられ、窓際には薄く埃が積もっている。
普通の生徒はほとんど来ない。
椎菜はすでに待っていた。
「来たな」
「早いですね」
神一郎が言うと、椎菜は淡々と返した。
「人払いは済ませた」
「相変わらず手際がいい」
「必要だからな」
奈々は教室の中央付近に立った。
椅子に座ることもできたが、座ってしまうと逆に話しにくい気がした。
三人が奈々を見る。
奈々は、一度だけ深く息を吸った。
「昨日、お母さんに聞いたの。小さい頃、大怪我したことがあるのかって」
自分の声が、思ったより静かに響いた。
三人とも、何も言わない。
奈々は続ける。
「……あったって」
優子の顔が少し曇る。
神一郎は、表情を固めたままだった。
「まだ小さい頃。私は事故に巻き込まれて、かなりひどい怪我をしたらしいの。お母さんは混乱してて、全部をちゃんと覚えてるわけじゃないって言ってた。でも、病院で……助からないかもしれないって言われたって」
言葉にすると、改めて重かった。
助からないかもしれなかった。
その言葉は、自分のことなのにどこか遠く感じる。
でも胸の奥のモヤモヤが、それを遠いままにはしてくれなかった。
「それで?」
椎菜が静かに促す。
奈々は頷いた。
「女の人がいたって」
神一郎の目が、わずかに揺れた。
「その人が私の手を握ってたって。何かを言ってたって。お母さんは、その人の名前も顔もはっきり覚えてない。でも、声は覚えてるって言ってた。綺麗な声だったって」
優子が唇を噛む。
奈々は、そこから先を言うのが少し怖かった。
でも止まれなかった。
「その人は、お母さんに言ったらしいの」
胸の奥が熱くなる。
「この子をお願いします、って」
空き教室の中が、静まり返った。
外からは、遠くの教室の笑い声が聞こえる。 昼休みの学校の音。
それなのに、この教室だけが別の場所みたいだった。
神一郎は動かなかった。
けれど、その顔から血の気が少し引いたように見えた。
「……この子、お願いします」
神一郎は小さく繰り返した。
奈々は頷く。
「うん」
「その人は、そのあと?」
「消えたって」
「消えた?」
「気づいた時には、もういなかった。病院の人に聞いても、そんな人は知らないって言われたみたい。まるで、最初からいなかったみたいに」
椎菜の目が鋭くなる。
「病院側に記録がない?」
「お母さんの話では、そう聞こえた。はっきり確認したわけじゃないけど」
「興味深いな」
「興味深いって言い方、怖いです」
「すまない。だが、重要だ」
椎菜は腕を組んだ。
「奈々くんの母親がその女の存在を覚えている。にもかかわらず、病院側が把握していない。単なる記憶違いとして片づけるには、少し出来すぎている」
優子が小さく言った。
「痕跡が残ってない」
椎菜が優子を見る。
「そうだ」
優子は少し顔色を悪くしながら続けた。
「主のやり方と似てる。もちろん、その女の人が主と同じだって意味じゃないよ。むしろ逆だと思う。奈々を助けた人なんだから。でも……“いたのに残らない”っていう感じが、似てる」
神一郎は黙っていた。
奈々はそれが気になって、彼を見る。
「神一郎」
「……何」
「大丈夫?」
聞いてから、違うと思った。
大丈夫なわけがない。
けれど他に言葉が出なかった。
神一郎は少しだけ視線を落とした。
「分からない」
その返事は、正直だった。
「その言葉、母が……言いそうな気がした」
奈々の胸が小さく跳ねた。
「言いそう?」
「うん。でも、はっきりした記憶じゃない。母が誰かに言っていたのを聞いたとか、俺に言ってくれたとか、そういうのじゃなくて……ただ、そういう言い方をする人だった気がする」
神一郎は自分でも戸惑っているようだった。
無理に記憶を探ろうとしているわけではない。 でも、目の前に置かれた言葉が、心の奥にある何かを揺らしている。
「母は、治癒系の術者だった」
彼は続けた。
「怪我を治すだけじゃなくて、回復した後の相手の生活まで考える人だったって聞いてる。助けたら終わりじゃない。助けた相手が、その後ちゃんと生きられるかまで気にする人だったって」
この子をお願いします。
その言葉と、あまりにも重なる。
奈々は何も言えなかった。
言ってはいけない気がした。
それは神一郎の母かもしれない。
その可能性は、もうとっくに全員の前に置かれている。
けれど、それを口にしてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。
椎菜が静かに口を開いた。
「仮説を整理する」
その声で、少しだけ空気が戻った。
「まず一つ。奈々くんを救命した人物は、通常の医療関係者ではない可能性が高い」
奈々は頷く。
「二つ。奈々くんの中に残る治癒系魔力と、その人物が関係している可能性がある」
神一郎が拳を軽く握った。
「三つ。その人物は、何らかの方法で記録上から消えている。あるいは、最初から記録に残らない立場だった」
「記録に残らない立場?」
優子が聞く。
「軍属、特殊任務、非公式派遣、あるいは単独行動。いくつか考えられる」
「アトランティス側の人間なら、病院側が知らなくてもおかしくないってことですか」
奈々が聞くと、椎菜は頷いた。
「可能性はある。人間界で活動する騎士が、一般人の記録に残らないよう処理することはある。だが、救命した相手の母親だけが覚えているというのは少し妙だ」
「どうして?」
「完全に消すなら、母親の記憶にも処理を施すはずだ。逆に、あえて残したのかもしれない」
「あえて……?」
「いつか奈々くんが辿れるように」
その言葉に、奈々は息を呑んだ。
いつか辿れるように。
女の人は、母の記憶だけに自分を残したのだろうか。
名前も顔も残さず、ただ「いた」という事実だけを。
それは優しさなのか。
それとも、最後に残した願いなのか。
奈々には分からなかった。
優子が小さく呟く。
「でも、主も知ってるんだよね」
その一言で、空気がまた冷える。
そうだ。
主は知っている。
少なくとも、奈々が知らない何かを知っている。
その力は、君のものではない。 君が生きている理由を、君はまだ知らない。
あの二枚の紙片は、偶然ではない。
「主は、奈々の過去を知ってる」
神一郎が低く言った。
「そして、俺の母の記録とも関係している可能性がある」
椎菜は頷く。
「それが問題だ。主が元アトランティス側の騎士だったという優子くんの証言とも繋がる」
「証言ってほど確実じゃないです」
優子が少し弱く言う。
「噂です。訓練施設で聞いた話とか、教官たちの会話とか、その程度」
「それでも、無視はできない」
椎菜は淡々と返した。
「主はアトランティス側の術式を知っている。痕跡を消す技術にも長けている。こちらの結界構造にも触れられる。加えて、奈々くんの魔力の由来を知っている可能性がある。偶然で片づけるには多すぎる」
奈々は胸に手を当てた。
魔力がある。
でも、今は少しだけ落ち着かない。
まるで、自分の中の何かもこの話を聞いているみたいだった。
「私」
奈々は静かに言った。
「昨日、お母さんに聞いてよかったと思う」
三人が奈々を見る。
「怖かったけど。でも、聞かなかったら、私はずっと夢かもしれないって思い続けてた。今も全部分かったわけじゃないけど……少なくとも、あの人はいた」
その言葉を口にすると、胸の奥の魔力が少しだけ安定した。
「あの人が誰なのか、まだ分からない。でも、いたことは分かった」
神一郎は奈々を見ていた。
その目には、苦しさと、どこか救われたような色が混ざっていた。
「奈々は強いな」
「強くないわよ」
「強いよ」
「神一郎まで優子みたいなこと言わないで」
「俺が言うと変か?」
「変っていうか……照れる」
言ってから、奈々は少しだけ顔を逸らした。
優子がにやっと笑う。
「おやおや?」
「優子、そういうのいいから」
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「顔は自由だから」
そのやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
椎菜が咳払いする。
「話を戻す」
「はい」
奈々と優子が同時に返事をして、少しだけ顔を見合わせた。
「今後の調査方針は三つだ」
椎菜は指を一本立てる。
「一つ。藤崎沙耶の任務記録の照会。これは私と神一郎で進める」
二本目。
「二つ。奈々くんの幼少期の事故に関する人間界側の記録。病院、救急搬送、警察、学校関係。直接調べるには危険もあるが、可能な範囲で確認する」
三本目。
「三つ。優子くんから主に関する断片情報を整理する。元アトランティス側という噂の出所、主が使う術式、過去の任務傾向。些細なものでもいい」
優子は真剣な顔で頷いた。
「分かりました。思い出せるだけ書き出します」
「頼む」
奈々は椎菜を見た。
「私は?」
「君は無理をしないこと」
「またそれ?」
「そして、思い出したことがあれば記録すること」
椎菜は少しだけ表情を和らげた。
「夢でも、感覚でも、匂いでもいい。今は断片で構わない。断片を勝手に繋げず、まず集める」
「……分かった」
「それと、母親に追加で聞く場合は慎重に。昨日の反応から見て、彼女にも負担がある」
「うん」
奈々は素直に頷いた。
母の表情を思い出す。
あの時、母は確かに痛そうだった。
忘れていたのではない。 忘れたふりをしていたのかもしれない。 思い出すと壊れてしまいそうだから、触れずにいたのかもしれない。
それを、奈々は無理にこじ開けるわけにはいかなかった。
昼休みの終わりが近づいていた。
四人は空き教室を出る。
廊下には、昼休みの終わりを惜しむ生徒たちの声が響いている。
奈々はその中を歩きながら、ふと思った。
普通の学校。
普通の廊下。
普通の昼休み。
その中で、自分たちは誰かの生死や消えた記録の話をしている。
もう完全に日常へ戻ることはできない。
でも、日常が完全に消えたわけでもない。
その境界線の上に立っている。
午後の授業は、午前中より少しだけ集中できた。
話したからだと思う。
抱え込んでいたものを、ひとりで持たなくてよくなったから。
それでも、時々胸の奥が揺れた。
この子をお願いします。
その言葉が、何度も戻ってくる。
そのたびに、奈々はそっと呼吸を整えた。
押さえつけるのではなく、そこにあると認める。
椎菜に教わったことを思い出す。
放課後。
今日は特別な訓練はしないことになった。
神一郎と椎菜は本部への照会と団長への連絡準備を進める。優子は主に関する記憶を整理する。奈々は自分の部屋へ戻り、母に無理のない範囲で追加の話を聞く。
そう決まった。
帰り道、優子は奈々の隣を歩いていた。
「奈々のお母さん、いい人だね」
「まだちょっとしか会ってないでしょ」
「分かるよ。奈々のお母さんだもん」
「どういう理屈」
「奈々がいい子だから」
「だからそういうの急に言わないで」
「慣れて」
「それ私の台詞」
奈々が呆れると、優子は笑った。
でもすぐに、その笑顔は少しだけ真面目になる。
「奈々、怖くなったら言ってね」
「優子こそ」
「私は……」
優子は少しだけ迷った。
「怖いよ。正直、ずっと怖い」
その言葉に、奈々は優子を見た。
優子は前を向いたまま続ける。
「主の話をすると、身体が勝手に固まる。でも、奈々が話してくれたから、私も逃げるのは違うなって思った」
「私、そんな大したことしてないよ」
「してるよ」
優子は小さく笑った。
「奈々が怖いまま話してくれるから、私も怖いまま話していいんだって思える」
奈々は何も言えなかった。
自分が誰かを支えているなんて、思っていなかった。
守られてばかりだと思っていた。
けれど、もしかしたら。
自分が震えながらでも立っていることが、誰かの役に立つこともあるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥の魔力が少しだけ柔らかくなった。
マンションに戻ると、奈々は母にメッセージを送った。
『今日、少し早く帰ったよ』
母からの返事はすぐに来た。
『おかえり。今日は少し遅くなるけど、夕飯は冷蔵庫にあるから食べてね』
日勤とはいえ、仕事が長引いているのだろう。
奈々は画面を見つめながら、少し考えた。
今夜、もう一度聞くべきか。
昨日の続き。
女の人のこと。
事故のこと。
病院のこと。
でも母は仕事で疲れて帰ってくる。
いきなり全部を聞くのは、やっぱり違う気がした。
奈々は返信した。
『ありがとう。あとで少しだけ、昨日の話の続き聞いてもいい?』
しばらく既読がつかなかった。
その間、奈々は胸が少しだけ苦しくなった。
やっぱり送らなければよかったかもしれない。
そう思い始めた時、返事が来た。
『いいよ。私も、少し探してみるね。昔の書類とか写真とか、何か残ってるかもしれないから』
奈々は息を止めた。
昔の書類。
写真。
残っているかもしれないもの。
それは、思ってもみなかった手がかりだった。
奈々はすぐ返信した。
『無理しないでね』
母からは短く、
『奈々もね』
と返ってきた。
その夜、母が帰ってきたのは少し遅かった。
奈々は夕飯を済ませ、神一郎たちにはメッセージで母が書類を探してくれることを伝えていた。
神一郎からは、
『無理に聞くなよ』
と返ってきた。
優子からは、
『何か出たらすぐ言って。何も出なくても言って』
と来た。
椎菜からは、
『現物がある場合、直接触る前に写真を撮れ』
と来た。
三者三様すぎて、奈々は少しだけ笑った。
母が帰宅し、簡単に夕食を済ませたあと、押し入れの奥から古い箱を出してきた。
「この辺に、昔の書類をまとめてたと思うの」
母はそう言って、リビングのテーブルに箱を置いた。
奈々は少し緊張しながら、その向かいに座る。
箱の中には、古いアルバムや封筒、保険関係の書類、幼稚園の頃の連絡帳などが入っていた。
懐かしいものばかりだった。
遠足の写真。 七五三の写真。 笑っている小さな奈々。 若い母。 今より少し髪の短い父。
それらを見ていると、自分がちゃんと生きてきた時間がそこにあるのだと感じた。
けれど、肝心のものはなかなか見つからなかった。
「おかしいわね……」
母が眉を寄せる。
「何が?」
「入院関係の書類、このあたりに入れてたはずなの」
奈々の胸がざわついた。
「入院関係?」
「ええ。診断書とか、病院からもらった説明書とか、退院の時の書類とか。全部じゃないけど、少しは残してたと思うのよ」
母は箱の中を何度も確認する。
封筒を開ける。 アルバムの間を見る。 古いクリアファイルをめくる。
でも、ない。
奈々は、自分の指先が冷えていくのを感じた。
「別の場所じゃないの?」
「そうかもしれないけど……」
母の表情は納得していなかった。
「確かに、ここに入れたと思うの。あの事故のことは怖くて、あまり見返したくなかったけど、捨てる気にはなれなかったから」
捨てる気にはなれなかった。
それなら、どこへ行ったのか。
奈々の頭の中に、椎菜の言葉が浮かぶ。
記録に残らない。 あるいは、残っていたものが消された。
「写真は?」
奈々は自分でも声が硬くなっているのを感じた。
「その頃の写真とか」
「あるはずだけど……」
母はアルバムをめくる。
幼稚園の運動会。 誕生日。 旅行。 父と奈々。 母と奈々。
でも、ある時期だけが不自然に薄かった。
数か月分の写真が、ほとんどない。
ページは残っている。
けれど、そこだけ空白が多い。
写真が剥がされた跡のようなものはない。
最初から貼られていなかったようにも見える。
でも、母はそのページを見て、顔色を変えた。
「……こんなに少なかったかしら」
「お母さん?」
「事故のあと、しばらく写真を撮る余裕がなかったのは覚えてる。でも、退院した時の写真は撮ったはずなの」
「退院した時?」
「あなたが助かったから。お父さんと泣きながら撮ったのよ。病院の前で」
奈々は息を呑んだ。
「それが、ないの?」
母は答えなかった。
ただ、アルバムの空白を見つめている。
その沈黙だけで十分だった。
ない。
あるはずの書類がない。 あるはずの写真がない。 母が覚えているものが、形として残っていない。
奈々はゆっくりスマホを取り出した。
椎菜にメッセージを送る。
『昔の書類と写真が見つからない。母は残していたはずだと言ってる』
送信して数秒も経たないうちに、既読がついた。
返信は短かった。
『触ったものをそのままに。箱全体を後で確認する』
続いて神一郎から。
『今そっち行くか?』
奈々は母を見る。
母はまだアルバムを見つめている。
今、神一郎たちを呼ぶのは違う。
奈々は返信した。
『大丈夫。今は来ないで。あとで話す』
少し間があって、神一郎から返事が来る。
『分かった。でも何かあったらすぐ呼べ』
奈々はスマホを伏せた。
「奈々」
母が静かに呼んだ。
「なに?」
「ごめんね」
また謝られた。
奈々は首を振る。
「謝らないで」
「でも、私……本当に、ちゃんと残していたはずなの。あなたが生きて戻ってきてくれた証拠みたいなものだったから。捨てるはずないの」
母の声が震えていた。
奈々は胸が痛くなった。
記録がないことが怖いのは、奈々だけではない。
母にとっても、そこに残していたはずのものは大切だったのだ。
自分の娘が生きて帰ってきた証。
それが、消えている。
「お母さん」
奈々は静かに言った。
「私、信じるよ」
「え?」
「お母さんが残してたって言うなら、残してたんだと思う。今ここにないだけで」
母は奈々を見た。
奈々は自分の胸に手を当てる。
魔力がある。
怖い。
でも、今は震えているだけではいられない。
「誰かが消したのかもしれない。どうしてかは、まだ分からないけど」
母は目を見開いた。
「奈々、あなた何を……」
「ごめん。今は全部話せない」
「奈々」
「でも、ちゃんと話せるようにする。だから……もう少しだけ待って」
母は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった」
その声は、不安そうだった。
でも、奈々を信じようとしてくれていた。
それが分かって、奈々は泣きそうになった。
その夜。
奈々は自室の机に向かい、ノートを開いた。
椎菜に言われた通り、思い出したこと、聞いたこと、感じたことを断片のまま書き出していく。
白い天井。 血の匂い。 女の人の手。 綺麗な声。 大丈夫。 あなたは、生きて。 奈々をお願いします。 入院書類がない。 退院写真がない。 母は残していたはずと言った。
書いているうちに、奈々は気づいた。
これは、ただ記録がない話ではない。
人の記憶には残っている。
母は覚えている。 奈々も断片を見た。 胸の奥の魔力も、確かにある。
でも、紙の記録は消えている。 写真も消えている。 病院の記憶にも残っていない。
誰かが、記録を残さなかった。
あるいは、残っていたものを消した。
奈々はペンを握る手を止めた。
窓の外を見る。
隣室の明かりが、カーテンの隙間からわずかに見える。
神一郎たちは、きっとまだ起きている。
主も、どこかで見ているのかもしれない。
でも今夜、奈々が見ているのは主だけではなかった。
消えた書類。 消えた写真。 消えた女の人。
そして、消されずに残った魔力。
奈々はノートの最後に、ゆっくり一文を書いた。
――あの人は、確かにいた。
書き終えた瞬間、胸の奥の魔力が、ほんの少しだけ静かに揺れた。




