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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第三章 その力は誰のもの?
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第三章 第三話 封じられた記録

 翌朝、奈々はノートを鞄に入れるかどうかで、しばらく迷っていた。

 机の上に開かれたノートには、昨夜書きつけた文字が残っている。

 白い天井。 血の匂い。 女の人の手。 綺麗な声。 大丈夫。 あなたは、生きて。 奈々をお願いします。 入院書類がない。 退院写真がない。 母は残していたはずと言った。

 そして、最後の一文。

 ――あの人は、確かにいた。

 書いた時よりも、朝の光の中で見るその文字は、少しだけ頼りなく見えた。

 でも、消えてはいない。

 奈々の記憶が曖昧でも、母の言葉が震えていても、写真や書類がなくても。 それでも、奈々は昨夜、自分の手でその一文を書いた。

 あの人は、確かにいた。

 そう決めた。

「……持っていこう」

 奈々は小さく呟いて、ノートを鞄に入れた。

 怖いものを閉じ込めるように鞄の奥へ押し込むのではなく、ちゃんと取り出せる場所へ入れる。 その違いが、自分にとっては大事な気がした。

 制服のリボンを整え、鏡を見る。

 目元には少し疲れが残っている。 けれど、昨日ほど青白くはない。

 胸の奥には、まだあの魔力がある。

 静かに揺れている。

 昨夜、母とアルバムを見た後、奈々は何度もその魔力を確かめた。 怖くなかったわけではない。 むしろ、怖かった。

 あるはずの書類がない。 残していたはずの写真がない。 母が覚えているものが、形として残っていない。

 それは、紙片の言葉よりもずっと生々しく、日常に食い込んでいた。

 主の仕業なのか。 もっと前から誰かが消していたのか。 それとも、奈々を救った女の人自身が、あえて記録を残さなかったのか。

 答えはない。

 でも、分からないことが増えるたび、奈々の中の魔力は静かに揺れた。

 それはまるで、怖がる奈々の手を、もう一度だけ握ってくれているみたいだった。

 リビングへ行くと、母はすでに仕事へ出る準備をしていた。

「おはよう、奈々」

「おはよ」

「昨日、眠れた?」

「一応」

 言ってから、奈々は少しだけ笑った。

 母も同じ言葉に気づいたのか、苦笑する。

「また一応?」

「便利なの」

「便利な言葉に逃げてる顔してる」

「……お母さん、そういうところ鋭いよね」

「母親だからね」

 母はバッグの持ち手を直しながら、ふと表情を曇らせた。

「昨日の箱、触ってないから。あなたに言われた通り、そのままにしてある」

「うん。ありがとう」

「本当に、誰かが調べるの?」

 その問いに、奈々は一瞬だけ言葉に詰まった。

 椎菜が見る。 神一郎たちが確認する。 でも、それをそのまま母に言うわけにはいかない。

「詳しい人に、少し見てもらう」

「詳しい人?」

「うん。学校関係で……その、事故とか記録とかに詳しい人」

 苦しい説明だと自分でも思った。

 けれど母は、深く追及しなかった。

 昨日、奈々が「今は全部話せない」と言ったからだろう。

 母は不安そうだった。 でも、その不安を押しつけないようにしてくれている。

 それが分かったから、奈々は胸が痛くなった。

「奈々」

「なに?」

「危ないことじゃないのよね?」

 その言葉は、まっすぐだった。

 奈々はすぐに答えられなかった。

 危ないことではない。 そう言えたらよかった。

 でも、それは嘘だ。

 主はもう奈々の部屋の前に紙片を置いた。 学校の靴箱にも、マンションの結界にも触れてきた。

 危なくないはずがない。

 だから奈々は、少しだけ考えてから答えた。

「……危ないことにしないために、調べてる」

 母は奈々を見つめた。

 その目は不安そうで、それでもどこか納得したようでもあった。

「そう」

「ごめん。変な言い方で」

「いいの。今の奈々が、ちゃんと考えて言ったのは分かったから」

 母は小さく笑った。

「ただ、約束して。無理はしないこと」

「それ、最近みんなに言われる」

「みんなが言うなら、よっぽど無理してるんでしょ」

「……否定しづらい」

「じゃあ、ちゃんと守りなさい」

 奈々は少しだけ肩をすくめた。

「分かった」

 今度は、一応とは言わなかった。

 部屋を出ると、廊下には神一郎が立っていた。

 昨夜と同じように、壁一枚向こうにいた人。

 結界を張り、異常があればすぐ動けるようにしてくれていた人。

 奈々がドアを閉めると、神一郎はすぐにこちらを見た。

「おはよう」

「おはよ」

 いつもの挨拶。

 それなのに、少しだけ空気が重い。

 神一郎の視線が奈々の鞄へ向いた。

「ノート、持ってきた?」

「うん」

「箱は?」

「お母さんがそのままにしてくれてる。今日は帰ったら見てもらえると思う」

「分かった。椎菜さんに伝える」

「……神一郎」

「何?」

「昨日、来ようとしてくれたでしょ」

 神一郎は一瞬だけ視線を逸らした。

「行った方がいいかと思った」

「来ないでくれて助かった」

「……そっか」

「でも、来ようとしてくれたのは、ありがとう」

 神一郎は少しだけ目を丸くした。

 それから、困ったように小さく笑った。

「なんだよ、それ」

「言っとこうと思って」

「律儀だな」

「そういう気分だったの」

 エレベーター前には、優子と椎菜が待っていた。

 優子は奈々を見るなり、小走りに近づいてきた。

「奈々、おはよ。昨日、ほんとに大丈夫だった?」

「大丈夫じゃなかったけど、大丈夫」

「便利すぎる」

「万能なのよ」

 優子は少し笑って、それから声を落とした。

「無理してない?」

「してる」

「即答?」

「嘘つくと怒られそうだから」

「怒らないけど心配はするよ」

「神一郎と同じこと言ってる」

「え、やだ」

「こっちの台詞なんだけど」

 そのやり取りで、少しだけ空気が緩む。

 椎菜は静かに奈々を見る。

「ノートは?」

「持ってきました」

「よし。昼に確認する。母親が触った箱は?」

「そのままにしてあります」

「帰宅後、確認する。可能なら、箱全体に残留痕跡があるか見る」

「分かりました」

 椎菜は淡々としている。

 でも、それが今はありがたい。

 感情で揺れる奈々たちの中で、椎菜だけは常に一本線を引いてくれる。 怖いことを怖いままにせず、調べるべき対象に変えてくれる。

 四人で登校する道は、いつもより少し静かだった。

 奈々は時々、胸の奥の魔力を確かめる。 昨日よりは落ち着いている。 それでも、神一郎が隣を歩くたび、ほんの少しだけ揺れた。

 それが何を意味しているのか、まだ分からない。

 藤崎沙耶。

 神一郎の母。

 治癒系の高位術者。

 奈々を助けたかもしれない女の人。

 可能性は、もう目の前にある。

 でも、まだ口にしてはいけない気がした。

 口にした瞬間、神一郎も、自分も、後戻りできなくなる。

 学校に着くと、日常のざわめきが四人を包み込んだ。

 生徒たちは昨日と同じように笑い、走り、教室へ向かう。 誰も、奈々の鞄の中にあるノートのことを知らない。 誰も、昨日母とアルバムを開いたことを知らない。 誰も、消えた写真の空白を知らない。

 それが少し不思議だった。

 こんなにも世界が変わっているのに、周囲は何も変わらない。

 午前の授業は、ゆっくり過ぎていった。

 奈々はノートを取るふりをしながら、時々別のノートの重みを鞄の中に感じていた。

 あの人は、確かにいた。

 その一文が、ずっと奈々を見ている。

 昼休み。

 四人は食堂ではなく、旧校舎の空き教室へ向かった。

 もう何度目か分からない場所だ。

 使われていない机。 薄く埃の積もった窓際。 遠くから聞こえる生徒たちの声。

 その中で、奈々は鞄からノートを取り出した。

「これ、昨日書いたもの」

 椎菜が受け取る。

「開いていいか」

「はい」

 奈々は少しだけ緊張した。

 自分の中身を見られるような気がしたからだ。

 でも、これは共有しなければならない。

 椎菜はページをめくり、黙って目を通す。

 神一郎と優子も、その横から覗き込んだ。

 白い天井。 血の匂い。 女の人の手。 綺麗な声。 大丈夫。 あなたは、生きて。 奈々をお願いします。 入院書類がない。 退院写真がない。 母は残していたはずと言った。 あの人は、確かにいた。

 優子が小さく息を吐いた。

「こうやって見ると、やっぱり……消されてる感じが強いね」

「そうだな」

 椎菜は頷く。

「記憶には残っている。だが物証が消えている。これは、意図的な処理と見た方がいい」

 神一郎は黙っていた。

 視線は、ノートの中の一文に止まっている。

 奈々をお願いします。

 神一郎の表情が硬い。

 奈々は声をかけようとして、やめた。

 今、何を言っても薄くなる気がした。

「椎菜さん」

 神一郎が静かに言った。

「母の記録について、返答は?」

「今朝、団長補佐を経由して一部返ってきた」

 椎菜は端末を取り出す。

 その動作だけで、教室の空気が一段重くなった。

「ただし、内容は期待したものではない」

「どういう意味ですか」

「藤崎沙耶の通常経歴は確認できた。所属、階級、魔力系統、任務歴の一部。だが、死亡直前の任務に関しては依然として閲覧制限がかかっている」

「隊長の権限でも?」

「私の権限では不可。団長補佐の照会でも不可。団長本人の承認が必要な扱いになっている」

 神一郎の眉がわずかに動いた。

「母の任務記録が、そこまで?」

「通常ではない」

 椎菜は端末を見ながら続ける。

「特に不自然なのは、死亡時の任務番号が存在するにもかかわらず、任務名称が空白になっていることだ」

「任務名称が空白?」

 奈々が聞き返す。

「任務があったことは記録されている。だが、その内容を示す欄が消えている」

「消えているって……」

「空欄として処理されている。最初から記入されていないのか、後から削除されたのかは不明だ」

 優子が小さく呟く。

「また、残ってない」

 その言葉に、奈々の胸が冷える。

 入院書類がない。 退院写真がない。 病院の記録に残っていない。 そして、藤崎沙耶の死亡任務名も消えている。

 別々の場所で、同じことが起きている。

 何かがあった痕跡だけが残り、内容が消されている。

「さらに」

 椎菜は画面を切り替えた。

「藤崎沙耶が最後に使用したとされる魔力消費量の記録も、異常だ」

 神一郎の顔色が変わった。

「魔力消費量?」

「ああ。高位治癒術者の場合、大規模治療を行うと魔力消費量が記録される。特に命に関わる治療の場合、術者の負荷管理のために必須だ」

「それが?」

「数値欄が黒塗りになっている」

 黒塗り。

 その言葉だけで、奈々は息苦しくなった。

「ただし、周辺データから推測はできる」

 椎菜は一瞬だけ奈々を見た。

「かなりの量だ。通常の外傷治療ではあり得ない。複数人の重傷者を同時に治療したか、あるいは一人の致命傷者に対して、極限まで魔力を流し込んだ可能性がある」

 教室の空気が止まった。

 一人の致命傷者。

 奈々は自分の胸に手を当てた。

 魔力が揺れる。

 違うと言いたかった。

 まだ決まっていない。

 そう思いたかった。

 でも、すべてがそこへ向かっている。

 助からないかもしれなかった幼い奈々。 手を握っていた女の人。 治癒系高位術者だった藤崎沙耶。 消えた記録。 黒塗りの魔力消費量。

「……俺は」

 神一郎の声が、かすかに震えた。

「母が、魔力枯渇に近い状態で亡くなったって聞いてます」

 椎菜は頷いた。

「その記述は残っている。だが、なぜそこまで魔力を使ったのかが消えている」

「消えている」

 神一郎は低く繰り返した。

 その声があまりにも静かで、奈々は怖くなった。

 怒っているわけではない。 泣きそうなわけでもない。 でも、何かが内側で軋んでいる。

「神一郎」

 奈々は思わず呼んだ。

 神一郎は奈々を見た。

 その目を見て、奈々は言葉を失った。

 責めている目ではなかった。

 でも、苦しそうだった。

 神一郎はすぐに視線を逸らす。

「悪い。奈々にそんな顔させるつもりはなかった」

「謝らないで」

「……最近、そればっかり言われてるな」

「だって、謝るところじゃないでしょ」

 奈々はそう言ったが、自分の声も少し震えていた。

 優子が静かに口を開く。

「主は、ここまで知ってるのかな」

 誰もすぐには答えなかった。

 椎菜は端末を閉じる。

「知っている可能性が高い」

 その言葉は重かった。

「主の紙片は、奈々くんの魔力の由来と生存理由に直接触れていた。こちらが調べ始める前からだ。加えて、主が元アトランティス側であるなら、藤崎沙耶の記録に接触できた可能性もある」

「でも、ただの元騎士がそんな記録に触れられるんですか」

 優子が聞く。

「普通は無理だ」

 椎菜は答えた。

「だからこそ、主がただの元騎士ではない可能性が出てくる。高位士官だったか、藤崎沙耶に近い立場だったか、あるいは記録封鎖に関与できる位置にいたか」

 奈々は小さく息を呑んだ。

 沙耶さんに近い立場。

 その言葉が、妙に耳に残った。

「近い立場って」

 奈々が聞くと、椎菜は少しだけ言葉を選んだ。

「部下、補佐官、同じ隊の騎士。あるいは弟子に近い者。高位治癒術者は単独で動くこともあるが、重要任務には護衛や補助が付くことが多い」

「その中に、主がいたかもしれないってこと?」

「可能性のひとつだ」

 奈々は胸の奥が冷えていくのを感じた。

 もし主が、神一郎の母の近くにいた人物なら。

 奈々を救った現場を知っていたなら。

 沙耶が魔力を使い果たしたことを見ていたなら。

 だから、奈々を恨んでいるのだとしたら。

 その考えは、あまりにも重かった。

 優子の表情も暗い。

「私、少し思い出したことがあります」

 椎菜が優子を見る。

「話せるか」

「はい」

 優子は少しだけ深呼吸した。

「主の話を訓練施設で聞いた時、教官たちが言ってました。主は、もともと誰かに仕えていた人だって」

「誰かに?」

「名前は出てません。でも、“あの人を失ってから変わった”って」

 神一郎の肩がわずかに揺れた。

 優子は続ける。

「その時は意味が分からなかった。主は最初から主で、上に立つ人だと思ってたから。でも今考えると……主にも、仕えていた相手がいたのかもしれない」

「あの人」

 奈々が呟く。

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 あの人。

 誰かにとっての、あの人。

 奈々にとっての、消えた女の人。

 神一郎にとっての、母。

 主にとっての、失った人。

 それらが同じ人物だとしたら。

 藤崎沙耶だとしたら。

 教室の空気が、ひどく重くなる。

 でも、ここで誰もその名前を断定しなかった。

 できなかった。

 まだ、それを言うには早い。

 早いのではなく、怖いのだ。

 神一郎が低く言った。

「その教官の名前は?」

「分かります。張教官です。今はもう施設にはいないかもしれませんけど、私の訓練時代の記録には残ってるはずです」

「その情報、使えるかもしれないが簡単にはアクセスできまい。直接攻めてきてくれるなら話は別だが」

 椎菜が言った。

「優子くん、後でその教官に関する記憶をできるだけ書き出してくれ。顔、声、話した時期、場所。曖昧でもいい」

「分かりました」

 奈々は優子を見る。

 優子の顔色は悪い。 主の話をするたび、彼女は少しずつ過去へ引き戻されている。

 それでも、優子は逃げていない。

 奈々はそう思った。

 自分だけではない。

 みんな、それぞれ怖いものに触れている。

「私も」

 奈々はノートに手を置いた。

「もっと思い出せるかやってみる。無理には掘らない。でも、断片が出たら書く」

「焦るなよ」

 神一郎が言う。

「分かってる」

「本当に?」

「本当に」

 奈々は少しだけ笑った。

「私ばっかり無理するなって言われてるけど、神一郎もだからね」

 神一郎は少しだけ目を見開く。

「俺?」

「そう。お母さんのこと、無理に思い出そうとしてる顔してる」

「……してたか」

「してた」

「最近、顔に出すぎだな」

「今さらね」

 優子が小さく笑う。

 椎菜もわずかに表情を緩めた。

 けれど、次の瞬間にはまた冷静な指揮官の顔に戻る。

「今後の方針を決める」

 椎菜は言った。

「第一に、藤崎沙耶の記録は団長へ直接照会する。これは私が進める。第二に、奈々くんの箱とアルバムは今日確認する。第三に、優子くんの記憶から主につながる人物を洗い出す」

「第四は?」

 神一郎が聞く。

「第四。敵の接触に備える」

 その言葉に、空気が変わった。

「主は、こちらが真相に近づくことを望んでいるのか、あるいは試しているのか分からない。だが、ここまで情報が動けば、次は紙片だけでは済まない可能性がある」

「実力行使ですか」

「あり得る」

 優子の顔がこわばった。

「主本人じゃなくても、誰かを動かすかもしれない」

 椎菜は優子を見た。

「心当たりは?」

 優子はしばらく黙った。

 それから、小さく首を振る。

「ありすぎて、逆に分かりません。でも……奈々を確保するなら、ただの兵じゃ無理です。神一郎君と椎菜さんがいるって分かってるなら、それなりの相手を出してくる」

「君の知る範囲で、その候補は?」

 優子の指先が震えた。

 奈々は気づいた。

 優子は、誰かの顔を思い浮かべている。

 でも、まだ言いたくないのだ。

「……います」

 優子は言った。

「私の同期に、近接戦闘が得意な騎士がいます。任務第一で、感情を切るのが上手い。私よりずっと、軍人向きの子です」

「名前は」

 椎菜が聞く。

 優子は唇を噛んだ。

李静蘭(リ・ジンラン)

 その名前が、教室の中に落ちた。

 奈々は、その音を知らない。

 けれど優子の反応で分かった。

 ただの名前ではない。

 優子にとって、その名前は過去そのものなのだ。

「リー・ジンラン」

 椎菜が確認するように言う。

「はい。中国軍特務隊fox系の同期です。私と同じ時期に訓練を受けていました。得意なのはクロスレンジ。剣を使います」

 神一郎の目が鋭くなる。

「クロスレンジか」

「うん」

 優子は神一郎を見た。

「神一郎君と同じ。正面からの斬り合いなら、かなり強い」

「君より?」

「近接なら、私よりずっと」

 優子は苦笑した。

「私がシールドを張る前に踏み込んでくるタイプ」

 奈々は思わず優子を見た。

「その人が、来るかもしれないの?」

「分からない。でも、主が優子くんをまだ見捨てていないとしたら、その人を使う可能性は高い」

 椎菜が代わりに答えた。

「同期であり、近接戦闘が得意で、奈々くんの確保にも向く。さらに優子くんへの心理的圧力にもなる」

「嫌な条件、揃いすぎですね」

 神一郎が低く言う。

 優子は小さく頷いた。

「静蘭は……悪い子じゃない」

 その声は、ひどく静かだった。

「でも、任務を選ぶ子じゃない。命令されたら来る。私がこっち側にいるって知ったら、たぶん迷わず剣を向ける」

「優子」

 奈々が呼ぶと、優子は少しだけ笑った。

「大丈夫。……って言いたいけど、たぶん大丈夫じゃない」

「言えて偉い」

「奈々に褒められた」

「茶化さない」

「ごめん」

 優子は目を伏せた。

「でも、もし静蘭が来たら、私ちゃんと話す。逃げない」

 その言葉に、奈々の胸が少し熱くなった。

 優子も、前に進もうとしている。

 主に怯えていた少女が、自分の過去に向き合おうとしている。

「なら、こちらも備える」

 椎菜が言った。

「神一郎、この後短時間だけ近接対人の確認をする。相手がクロスレンジなら、君が前に出る可能性が高い」

「了解」

「優子くんは李静蘭の戦闘癖を可能な限り思い出せ。構え、踏み込み、間合い、得意な連撃」

「はい」

「奈々くんは無理に訓練しない。今日は記録の整理を優先だ」

「また私だけ待機?」

「必要な役割だ」

 椎菜はそう言った。

「君が倒れれば、敵の目的は半分達成される。自分が狙われているということも、戦場での役割のひとつだ」

 奈々は少しだけ唇を尖らせた。

「納得はしづらいけど、分かりました」

「それでいい」

 昼休みの終わりが近づく。

 四人は空き教室を出た。

 廊下の空気は相変わらず普通だった。

 でも、奈々にはもう分かっている。

 この普通の裏側で、少しずつ何かが動いている。

 藤崎沙耶の消えた記録。 奈々を救った女の人。 主が失った「あの人」。 そして、李静蘭という名前。

 見えない線が、ゆっくり繋がっていく。

 午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。

 奈々は黒板を見るふりをしながら、ノートの端に小さく名前を書いた。

 藤崎沙耶。 李静蘭。 主。

 そして、少し迷ってからもうひとつ書く。

 あの人。

 その四つの言葉を見ていると、胸の奥の魔力が静かに揺れた。

 まるで、どれかが近いと告げているみたいに。

 昼休みもそろそろ終わる頃。

 神一郎と椎菜は、短時間だけ校内の使われていない運動施設へ向かった。近接戦の確認をするためだ。

 奈々は優子と一緒に、少し離れた場所で待っていた。

「見に行かなくていいの?」

 優子が聞く。

「行ったら気になって集中できないでしょ、神一郎」

「奈々、分かってるね」

「何となくね」

 優子は少しだけ笑った。

 でも、その笑顔はすぐに消える。

「静蘭のこと、もっと早く言うべきだったかな」

「思い出したの、今なんでしょ」

「うん。でも、ほんとは名前を口にしたくなかっただけかも」

「それは仕方ないよ」

 奈々は言った。

「私だって、怖いことは口にしたくない」

「でも、言うんだよね」

「言わなきゃ進まない時はね」

「奈々、ほんと強くなった」

「強くなったんじゃなくて、逃げ道が減っただけ」

「それでも、前に立ってるなら強いよ」

 優子の声は優しかった。

 奈々は返事に困って、少しだけ視線を逸らした。

 その時、優子の端末が震えた。

 短く、一度だけ。

 奈々の心臓が跳ねる。

 優子の顔から血の気が引いた。

「優子?」

 優子は端末を取り出す。

 画面には、何も表示されていない。

 前にもあった。

 主の合図。

 メッセージを送らず、端末だけを鳴らす。

 思い出せ、という合図。

 でも今回は、それだけでは終わらなかった。

 画面が一瞬だけ明るくなり、すぐに消える。

 その直前、奈々にも見えた。

 短い文字列。

 たった三文字。

 静蘭。

 優子の唇が震えた。

「……来る」

 奈々は息を呑む。

「静蘭が?」

 優子は答えなかった。

 ただ、端末を握りしめたまま、遠くを見る。

 その目は、過去を見ていた。

 奈々はすぐに神一郎へメッセージを送ろうとした。

 しかし、その前に、校舎の向こうで小さな爆ぜるような音がした。

 大きな爆発ではない。

 けれど、普通の学校には似合わない音。

 結界が、何かに触れられた時の音。

 奈々の胸の奥の魔力が、強く揺れた。

 優子が顔を上げる。

「違う」

「え?」

「静蘭じゃない。まだ本人じゃない」

 優子の声は震えていた。

「でも、静蘭の部隊だ」

 遠くで、もう一度音がした。

 今度は神一郎からメッセージが届く。

『奈々、動くな。椎菜さんと合流する』

 その文面を見た瞬間、奈々は理解した。

 空気が、変わったのだ。

 調査の時間は終わりつつある。

 消えた記録を追っていたはずの自分たちに、今度は敵の方から手を伸ばしてきた。

 優子は端末を握ったまま、唇を噛んでいる。

「静蘭……」

 その名前は、ただの敵の名前ではなかった。

 優子の過去から伸びてきた、刃の名前だった。

 奈々は胸に手を当てた。

 怖い。

 けれど、逃げない。

 記憶は、まだそこにある。

 あの人は、確かにいた。

 その一文を、奈々はもう一度だけ心の中で繰り返した。

 そして今度は、まだ見ぬ敵の名を噛みしめる。

 李静蘭。

 その名前が、次の夜を連れてくるのだと、奈々は直感していた。

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