第三章 第四話 静蘭の名
校舎の向こうで、二度目の音が弾けた。
爆発というほど大きくはない。 けれど、普通の学校で鳴っていい音ではなかった。
ガラスが割れる音でも、部活動の用具が倒れた音でもない。 もっと硬く、もっと鋭い。 空気の表面を、何かが爪で引っかいたような音。
奈々の胸の奥で、魔力が跳ねた。
反射的に胸へ手を当てる。
そこにある光が、ざわついている。
怖い。
けれど、その怖さの形が昨日までとは違った。 主からの紙片を見た時のように、見えないものに精神をなぞられる怖さではない。
今度は、来ている。
敵が。 現実の刃を持って。
「奈々、動かないで」
優子の声が低くなった。
さっきまでの震えを押し込めるように、彼女は奈々の前へ半歩出る。右手が左手の指輪へ触れていた。
あの映画館で奈々を守った時と同じ動き。
奈々は思わず、優子の横顔を見た。
顔色は悪い。 けれど、目だけは前を向いている。
「優子」
「大丈夫、って言うと怒られるから言わない」
優子は小さく笑った。
それでも、その笑みはすぐ消える。
「でも、ここは私が前に出る。静蘭の部隊なら、私が一番癖を知ってる」
「静蘭の部隊って……本当に?」
「たぶん」
優子は唇を噛んだ。
「今の結界の触り方、訓練施設で見たことがある。真正面から壊すんじゃなくて、薄いところを探って、こっちの反応を見る。静蘭がよく使ってた斥候の入れ方」
また音が鳴った。
今度は近い。
校舎の裏手。 使われていない運動施設の方角。
そこには今、神一郎と椎菜がいる。
近接対人の確認をするために、奈々たちから少し離れた場所へ向かったはずだった。
奈々はスマホを握る。
神一郎からのメッセージ。
『奈々、動くな。椎菜さんと合流する』
その文面を見たばかりだ。
動くな。
分かっている。
分かっているけれど、身体が勝手に前へ出そうになる。
神一郎がいる。
椎菜がいる。
今、敵がそこへ向かっているかもしれない。
それなのに、自分はここで待っているだけなのか。
「奈々」
優子が振り返らずに言った。
「行きたいって顔してる」
「……してる?」
「してる。神一郎君に似てきた」
「それ、褒めてないでしょ」
「半分くらい褒めてる」
優子はそう言いながらも、目は笑っていなかった。
「でも、今は行かないで。奈々が動くと、あいつらの目的が半分叶う」
「私を狙ってるから?」
「うん」
短い返事。
奈々は唇を噛んだ。
自分が狙われている。 それは何度も言われてきた。
でも、敵が実際に動いた瞬間、その言葉の重さが変わる。
守られる側でいるということは、自分のために誰かが前へ出るということだ。
神一郎が。 椎菜が。 優子が。
その事実が、奈々の胸を締めつけた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「私と一緒にいる。絶対に一人にならない。何か見えても、声が聞こえても、追わない」
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
奈々は頷いた。
その時、スマホが震えた。
神一郎からではない。 椎菜からだった。
『旧体育館裏へ移動しろ。優子が先導。奈々は結界内から出るな』
奈々は優子へ画面を見せた。
優子は一瞬だけ目を細める。
「旧体育館裏……あそこなら人が少ない。椎菜さん、一般生徒を巻き込まない場所に誘導してる」
「じゃあ行くの?」
「行く。でも走らない。慌ててるのを見せると、向こうが動く」
優子は深く息を吸った。
そして、指輪に触れた。
淡い青緑の光が、彼女の指先からふわりと広がる。 映画館で見た防御魔法よりもずっと薄い。 けれど、奈々の周囲を包むように、透明な膜が張られていく。
「簡易シールド。近くにいる限り、私の反応に合わせて動く」
「優子は?」
「私も中にいるから平気。たぶん」
「たぶん?」
「便利でしょ」
「私の言葉、みんな勝手に使いすぎ」
そう返しながら、奈々は少しだけ息を整えた。
優子が前に立つ。 奈々はその後ろを歩く。
校舎の廊下は、まだ日常の顔をしていた。
部活へ向かう生徒が笑いながら通り過ぎる。 誰かが忘れ物を取りに教室へ戻っていく。 先生の声が遠くで響く。
誰も気づいていない。
校舎の一角で結界が弾け、敵が侵入しようとしていることを。
奈々は、その異常さに吐き気を覚えた。
自分たちだけが、別の世界を歩いている。
けれどその別の世界は、もう日常のすぐ隣にある。
廊下の角を曲がった瞬間、優子が足を止めた。
奈々も止まる。
数メートル先。
非常階段へ続く扉の前に、黒い点のようなものが浮いていた。
虫に見える。
小さな羽虫。
けれど、羽ばたき方が不自然だった。
空中で止まったまま、こちらを見ている。
奈々の背筋が冷えた。
「使い魔」
優子が低く呟いた。
次の瞬間、彼女の指輪が光った。
風が弾ける。
小さな使い魔は、音もなく潰れた。
黒い点は粉のようにほどけ、床へ落ちる前に消えた。
「今の……」
「見られてた」
優子は静かに言った。
「でも、もう遅い。こっちの位置は向こうに渡った」
「じゃあ」
「急ぐ」
今度は優子が走り出した。
奈々もその後を追う。
旧体育館へ続く廊下は、人気が少なかった。 窓の外には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
走るたびに、奈々の胸の奥の魔力が揺れた。
怖い。 でも、それだけではない。
何かが近づいている。
奈々の魔力が、外の異常に反応しているのか。 それとも、これから傷つく誰かを予感しているのか。
分からない。
ただ、胸が落ち着かない。
旧体育館裏へ出る直前、優子が片手を上げた。
「止まって」
奈々は息を切らしながら止まる。
扉の向こうから、金属がぶつかる音がした。
一度。
二度。
三度。
その音は、奈々の記憶を呼び起こす。
映画館で見た神一郎の剣。 椎菜のアグニ。 火花。 消える観客席。 砲撃。
優子が扉を少しだけ開ける。
外の空気が流れ込んできた。
そして、奈々は見た。
旧体育館裏の空き地。
普段は使われていない倉庫とフェンスに囲まれたその場所に、薄い結界が張られていた。外から見れば、ただ夕方の光が揺れているようにしか見えないだろう。
その内側で、神一郎が剣を振るっていた。
黒いロングコート風の戦闘服。 手にはツキカゲ。
敵は三人。
黒に近い戦闘服をまとい、顔の半分を覆う仮面をつけている。 一人は短剣。 一人は鎖のような魔力具。 もう一人は細い刀身の剣。
神一郎はその三人を相手に、ほとんど下がらずに受けていた。
短剣が左から来る。 神一郎はツキカゲの腹で受け、刃を滑らせるように流す。
同時に、鎖が足元を狙う。
神一郎は一歩だけ後ろへ跳ぶのではなく、逆に前へ出た。 間合いを潰された鎖使いがわずかに遅れる。
その隙へ、神一郎の肘が入った。
鈍い音。
鎖使いが崩れる。
だが、右から細剣が来る。
神一郎は振り返らない。
背中側へ回したツキカゲが、細剣を正確に受け止めた。
「すごい……」
奈々は思わず呟いた。
神一郎の戦い方は、映画館の時とは少し違って見えた。
あの時は、守るために動いていた。 今も守っている。 でも、今回はもっと鋭い。
敵を倒すために、無駄なく踏み込んでいる。
その動きは、美しいというより、怖いくらい正確だった。
旧体育館の反対側では、椎菜が別の敵二人を相手にしていた。
白いロングコートに、黒いインナー。 銀白髪が夕方の光を受けて揺れている。
手にはアグニ。
銃口が二つ、静かに敵を捉える。
相手が動く前に、椎菜はもう撃っていた。
弾丸ではない。 圧縮された魔力の光が、敵の足元を正確に撃ち抜く。
殺すためではなく、動きを止めるための射撃。
敵が体勢を崩した瞬間、二発目が腕の魔力具を弾き飛ばす。
椎菜は表情を変えない。
ただ淡々と、相手の選択肢を潰していく。
「奈々、こっち」
優子が奈々を結界の内側へ導く。
すぐに神一郎がこちらを一瞬だけ見た。
その視線が奈々を捉える。
無事か。
言葉にしなくても、そう聞こえた気がした。
奈々は小さく頷いた。
神一郎はすぐに敵へ視線を戻す。
「朝倉さん、奈々を離すな!」
「分かってる!」
優子が返す。
その声を聞いた瞬間、敵の一人が反応した。
仮面の奥の視線が、優子へ向く。
「朝倉優子」
低い声。
優子の肩が強張った。
奈々にも分かった。
敵は優子を知っている。
「やっぱり、あんたたち……」
優子の声が震えた。
短剣を持った敵が、仮面の下で笑ったようだった。
「李隊の予測通りだ。対象は朝倉優子と接触継続中。裏切りの兆候あり」
「裏切り……」
優子の顔から血の気が引く。
奈々は優子の袖を掴んだ。
「優子」
「大丈夫」
優子はそう言いかけて、言い直した。
「大丈夫じゃない。でも、今は平気」
指輪が強く光る。
優子の周囲に、青緑の風が渦を巻いた。
「奈々には触らせない」
その言葉に、短剣の敵が動いた。
速い。
優子のシールドが展開されるより一瞬早く、敵は低い姿勢で踏み込んでくる。
奈々の喉が詰まる。
だが、その間に神一郎が割って入った。
ツキカゲが短剣を弾く。
火花が散った。
「奈々に近づくな」
神一郎の声は低かった。
敵は短剣を引き、すぐに距離を取る。
「クロスレンジ。藤崎神一郎。データ通り」
「俺の名前まで知ってるのか」
「李隊は情報を重視する」
敵はそう言った。
李隊。
奈々はその言葉を聞き逃さなかった。
優子も同じだった。
「李隊……」
彼女の唇が震える。
「静蘭……本当に、静蘭が」
その瞬間、鎖使いが地面を叩いた。
魔力の鎖が地面を走り、奈々たちの足元へ伸びる。
優子がすぐにシールドを張る。
鎖は透明な壁に弾かれた。
だが、鎖の先端が分裂する。
二本。 三本。 四本。
優子のシールドの縁を絡め取るように、鎖が巻きついた。
「っ……重い!」
優子が歯を食いしばる。
奈々を守る膜が軋む。
神一郎が動こうとするが、短剣と細剣の敵が同時に前へ出る。
足止め。
奈々にも分かった。
敵は奈々を直接狙うだけではない。 優子を圧迫し、神一郎を足止めし、椎菜を分断している。
訓練された動き。
ただの雑兵ではない。
椎菜の声が飛んだ。
「優子くん、左へ流せ!」
「はい!」
優子はシールドを押し返すのではなく、左へ傾けた。
鎖の力が受け流される。
その瞬間、椎菜のアグニが光った。
魔力弾が鎖の根元を撃つ。
鎖使いの手元が弾かれ、術式が乱れる。
優子のシールドが解放された。
「神一郎!」
椎菜の声。
「了解!」
神一郎が一歩踏み込む。
敵二人の間合いに自ら入る。
短剣が腹部を狙う。 細剣が喉を狙う。
神一郎は身体をひねり、短剣を紙一重で避けた。 同時にツキカゲを逆手に返し、細剣の軌道を潰す。
刃と刃が交差する。
その隙に、神一郎の膝が短剣使いの腹へ入った。
敵が折れる。
だが倒れない。
訓練されている。
神一郎は眉を寄せた。
「しぶといな」
「李隊に、半端な者はいない」
短剣使いはそう言った。
その声に誇りがあった。
李静蘭。
まだ姿を見せていない相手の影が、戦場全体に染み込んでいる。
奈々はそれを感じた。
この敵たちは、ただ命令されて来たのではない。 李静蘭という人物のもとで鍛えられ、その名を背負ってここにいる。
優子が、その名前に怯える理由が少し分かった気がした。
「奈々、下がって」
優子が言った。
「え?」
「今から少しだけシールドを広げる。私から離れないで」
優子の指輪が強く光った。
風が渦を巻く。
青緑の壁が、奈々と優子を包むだけではなく、神一郎の背後まで広がった。
神一郎が一瞬だけ振り返る。
「助かる!」
「前だけ見て!」
「言われなくても!」
優子のシールドが神一郎の背中側を守る。
そのおかげで、神一郎は後ろを気にせず前へ出られる。
神一郎の動きが変わった。
守りながら戦う動きから、攻める動きへ。
ツキカゲが鋭く振り下ろされる。
敵の細剣が受ける。
だが、重さが違った。
神一郎の一撃が、敵の腕ごと刃を沈める。
短剣使いが横から割り込む。
優子のシールドが、その一撃をわずかにずらす。
ずれた短剣の軌道を、神一郎は見逃さなかった。
踏み込み。
肩。
肘。
柄。
連続した打撃が、短剣使いの体勢を崩す。
最後にツキカゲの峰が首筋へ入った。
敵が膝をつく。
「一人」
神一郎が低く呟く。
椎菜の方でも、二人目が倒れていた。
アグニの銃口が、最後の敵の足元を捉える。
魔力弾。
敵の膝が崩れた。
残るは、細剣の敵と鎖使い。
だが、鎖使いはすでに術式を乱されている。
細剣の敵が舌打ちした。
「撤退準備」
その言葉に、鎖使いが手元の魔力具を叩く。
空間が歪んだ。
奈々は息を呑む。
転移。
映画館でも見た、空間が裂けるような感覚。
「逃がすか」
神一郎が踏み込む。
だが、細剣の敵がその前に立った。
細い刃が、神一郎の進路を塞ぐ。
「藤崎神一郎。李隊長の想定以上だ」
「隊長?」
神一郎の目が鋭くなる。
「李静蘭のことか」
敵は答えない。
だが、その沈黙が答えだった。
優子の顔がさらに青ざめる。
「静蘭……隊長って」
「昇格してるな」
椎菜が静かに言った。
「主の部下として動いているなら、相応の指揮権を持っていても不思議ではない」
細剣の敵が転移陣へ後退する。
神一郎が追う。
敵の刃が閃く。
一瞬、神一郎の頬をかすめた。
赤い線が走る。
「神一郎!」
奈々が叫ぶ。
「平気!」
神一郎は止まらなかった。
ツキカゲが細剣を叩き落とす。
敵の腕が跳ね上がる。
神一郎の左手が、敵の襟を掴んだ。
「名前を言え」
ツキカゲは敵の喉元に食い込んでいる。
「……」
「誰の命令で来た」
敵は笑った。
仮面の奥で、確かに笑った。
「もう遅い」
転移陣が強く光る。
敵の身体が輪郭を失い始める。
神一郎はさらに強く掴む。
「言え!」
その声に、敵は最後の一瞬だけ口を開いた。
「李静蘭様だ」
次の瞬間、敵の身体が光に呑まれた。
神一郎の手が空を掴む。
転移陣が消える。
旧体育館裏に、静寂が落ちた。
倒された敵のうち二人は、椎菜の術式で拘束されている。 だが、最も情報を持っていそうだった細剣の敵は逃げた。
残されたのは、その名前だけ。
李静蘭。
奈々は優子を見る。
優子は、その場に立ったまま動けなかった。
顔色は真っ白だった。
指輪を握る手が震えている。
「優子」
奈々が声をかけると、優子はようやく瞬きをした。
「……静蘭」
声が、かすれていた。
「本当に、静蘭が来る」
その言葉は予感ではなかった。
確信だった。
神一郎は頬の血を指で拭い、ツキカゲを下ろした。
傷は浅い。
それでも奈々の胸の奥の魔力は、まだ強く揺れている。
血を見たからか。 神一郎が傷ついたからか。 それとも、この戦いがまだ始まりにすぎないと分かっているからか。
椎菜は拘束した敵を確認しながら言った。
「李静蘭。優子くんの同期で、主の部下。これで確定したな」
優子は答えない。
奈々はそっと、優子の手に触れた。
優子の手は冷たかった。
「奈々……」
「いるから」
奈々は言った。
何をどう言えばいいのか分からなかった。
でも、それだけは言いたかった。
「私、ここにいるから」
優子の目が揺れた。
泣きそうな顔だった。
けれど彼女は泣かなかった。
代わりに、震える息を吐いて、小さく頷いた。
「うん」
キーンコーンカーンコーン
こんな時でも関係なくチャイムは鳴る。
「おい、そろそろ戻らないと授業に遅刻するぞ?」
「そうですね、急いで片付けて教室に戻りましょう」
椎菜の言葉が日常へと引き戻す。
太陽光が、旧体育館裏の結界に反射して揺れている。
その向こうでは、やはり学校の日常が続いている。
でも、奈々たちの前にはもう、次の敵の名前が置かれていた。
李静蘭。
優子の過去から来る刃。 神一郎と同じクロスレンジの騎士。 そして、主へつながる道。
奈々は胸の奥の魔力に手を当てた。
怖い。
けれど、もう知らないふりはできない。
消えた記録を追っていたはずの奈々の物語は、ここで確かに姿を変えた。
誰かが隠した過去は、いま刃になって現在へ届いている。
その刃の名を、奈々はもう知ってしまった。
李静蘭。
次に来るのは、きっと部隊ではない。
本人だ。
そう思った瞬間、奈々の胸の奥で、魔力が小さく震えた。
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