第三章 第五話 交差する刃
李静蘭。
その名前は、旧体育館裏に残った夕方の空気よりも重く、奈々の胸の奥へ沈み込んでいた。
結界の内側には、まだ戦いの痕跡が残っている。
地面に刻まれた鎖の跡。 魔力弾が穿ったコンクリートの小さな穴。 神一郎の頬に走った細い傷。 拘束された黒装束の敵兵。 そして、優子の震える指先。
結界が少しずつ解枯れていくことで傷ついた校舎や地面の後は消えていく。
敵兵をアトランティス軍本部へ転移させる神一郎の表情はまだ硬い。
静蘭。
一方で優子はその名前を口にしたきり、しばらく動けずにいた。
奈々は、優子の手を握っていた。 冷たい手だった。 映画館で奈々の前に立ってくれた時の、あの強い背中とは違う。今の優子は、ただひとりの少女として、自分の過去から伸びてきた刃を見つめていた。
「……静蘭が、本当に来る」
優子の声は、かすれていた。
「優子」
奈々が名前を呼ぶと、優子はようやく瞬きをした。
「ごめん。私、今ちょっと変な顔してるよね」
「してる」
「そこは否定してよ」
「嘘ついたら怒るでしょ」
「怒らないけど、ちょっと傷つく」
優子は弱く笑った。
その笑顔はいつもの明るさを取り戻そうとしているのに、口元だけがうまく動いていなかった。
奈々は手を離さなかった。
「静蘭って、そんなに怖い人なの?」
「怖い……っていうのとは、少し違うかな」
優子は考えるように視線を落とした。
「静蘭は、綺麗なの。動きも、判断も、感情の切り方も。私が迷うところで迷わない。私が立ち止まるところで、立ち止まらない」
「それって……」
「強いってこと」
優子は静かに言った。
「そして、任務に向いてるってこと」
奈々は何も返せなかった。
優子が言っているのは、単なる戦闘能力の話ではないのだと分かったからだ。
人を傷つけること。 誰かを捕らえること。 命令された相手へ刃を向けること。
そのすべてに迷わない強さ。
それは、奈々には想像しにくいものだった。
でも、優子の世界では、それがきっと正しさだったのだ。
「朝倉優子」
椎菜の声がした。
奈々と優子が振り向く。
椎菜は次々に転移されていく敵兵のそばに立っていた。アグニはすでに銃形態を解いているが、彼女の周囲に張りつめた空気はまだ戦闘中のままだ。
「李静蘭について、今分かることを整理する。感情的にきついなら後でもいい」
「……今、話します」
優子は奈々の手をそっと離した。
指先はまだ少し震えていたが、声はさっきよりもはっきりしていた。
「静蘭は、中国軍特務隊foxの同期です。私と同じ施設で訓練を受けていました。得意なのはクロスレンジ。武器は剣。名前は――玄嵐」
「ゲンラン」
神一郎が低く繰り返した。
ツキカゲを収めた彼は、頬の傷を手の甲で拭っていた。血はもうほとんど止まっている。けれどその赤い線を見るたびに、奈々の胸の奥の魔力が小さく揺れた。
「玄嵐は、片刃です。でも日本刀とは違う。もっと重くて、刃の腹で受けても折れにくい。正面からの斬り合いに向いてます」
「クロスレンジ同士なら、間合いが近い分、読み合いが速くなる」
神一郎が言う。
優子は頷いた。
「静蘭は、その読み合いがすごく上手い。相手の呼吸を見る。足を見る。剣を見るより先に、相手が次にどこへ重心を置くかを読む」
「癖は?」
椎菜が聞く。
「……あります」
優子は少し迷った。
「静蘭は、最初の数手は本気で斬りに来ません。相手の間合いを測る。二手目、三手目でわざと少し動きを遅らせて、相手に“読めた”と思わせるんです」
「誘いか」
「はい。読めたと思って踏み込んだ瞬間、速度を変える」
神一郎の目が鋭くなった。
「嫌なタイプだな」
「神一郎君も、似たことするでしょ」
「俺はもう少し素直だよ」
「どの口が言ってるの」
優子の突っ込みに、神一郎は少しだけ眉を寄せた。
いつもの調子に近い。 けれど、空気は重いままだった。
静蘭という名前が出たことで、次に来る戦いの形が見えてしまったからだ。
敵部隊との戦闘は終わった。 だが、これは前触れにすぎない。
奈々にも分かっていた。
李静蘭本人は、まだ来ていない。
「転移させた奴らはどうしますか」
神一郎が椎菜を見る。
「尋問する。だが、期待は薄い」
椎菜は敵兵の仮面を見下ろした。
「口を割らないための訓練は受けている。加えて、先ほどから意識が混濁している。撤退に失敗した場合の情報遮断術式が仕込まれている可能性が高い」
「やっぱり、静蘭らしい」
優子が呟いた。
「捕まる前提も、捕まった後の処理も、全部決めてる」
「優秀だな」
椎菜の声は冷静だった。
「敵としては、厄介だ」
その時だった。
転移される直前、敵兵の一人がかすかに笑った。
仮面の奥で、口元だけが動く。
「……遅い」
神一郎が即座に振り向いた。
「何?」
「隊長は……もう、来ている」
次の瞬間、消えかけていた結界の外側が裂けた。
音はなかった。
爆発でも衝撃でもない。
空間そのものに、細い線が入ったような感覚。
夕方の光が、その裂け目に吸い込まれる。
奈々の胸の奥の魔力が、一瞬で跳ね上がった。
優子が叫ぶ。
「奈々、下がって!」
椎菜がアグニを展開する。
神一郎の手がツキカゲへ伸びる。
すべてが一瞬だった。
結界の裂け目から、一人の少女が歩いてきた。
黒を基調にした戦闘服。 無駄のない軽装。 手には、鈍い青灰色の鞘。 長い黒髪が、夕方の風に揺れている。
年齢は、奈々たちと大きく変わらないように見えた。 けれど、その目だけが違った。
冷たいわけではない。 怒っているわけでもない。 ただ、真っ直ぐだった。
まるで、感情というものを水面の下へ沈めてしまったような目。
少女はゆっくりと周囲を見た。。 拘束され転移されていく部下。 椎菜。 神一郎。 奈々。 そして最後に、優子。
「優子」
少女は静かに名前を呼んだ。
その声は、思っていたよりも柔らかかった。
だからこそ、怖かった。
優子の肩が小さく震える。
「……静蘭」
李静蘭。
その名前が、ついに目の前に形を持った。
「久しぶり」
静蘭はそう言った。
まるで、放課後に偶然会った友人へ声をかけるみたいに。
優子は何も言えなかった。
奈々は、優子の横顔を見る。
怖がっている。 でも、それだけではない。
懐かしさ。 痛み。 迷い。 いくつもの感情が優子の中でぶつかっているのが、表情だけで分かった。
静蘭はそのすべてを見ているはずなのに、顔を変えなかった。
「部隊を退かせるつもりだったけれど、予想以上に削られたから来た」
神一郎がツキカゲを剣形態へ変える。
黒いボールペンが、光を帯びて剣へ変わる。 奈々は何度見ても、その瞬間に息を呑んでしまう。
静蘭の視線が、ツキカゲへ向いた。
「藤崎神一郎」
「俺の名前も知ってるんだな」
「もちろん。主から聞いている」
主。
その一言で、空気がさらに冷たくなる。
奈々の胸の奥がざわついた。
静蘭の口からその名前が出ると、主の影がさらに近くなる。
「目的は奈々か」
神一郎が問う。
「対象、赤坂奈々の確保。朝倉優子の状態確認。可能なら回収」
「回収って言い方、嫌い」
優子が低く言った。
静蘭は優子を見る。
「なら、帰投と言えばいい?」
「言い方の問題じゃない」
「そう」
静蘭は少しだけ首を傾げた。
「優子、任務対象に情を移したの?」
優子の表情が強張る。
「……奈々は、任務対象じゃない」
「違うの?」
「違う」
優子は指輪に触れた。
青緑の光が指先から広がり、奈々の前へ薄いシールドを張る。
「奈々は、私の友達」
その言葉を聞いた瞬間、奈々の胸が熱くなった。
静蘭は少しだけ目を細めた。
「友達」
その言葉を確かめるように繰り返す。
「まだ、そういう言葉を使うんだね」
「悪い?」
「任務には向かない」
「知ってる」
優子の声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「でも、私はそれを捨てたくない」
静蘭は黙った。
その沈黙の間に、周囲の気配が変わる。
結界の裂け目から、さらに数人の兵が現れた。 先ほどの部隊より数は少ない。 だが、動きの質が違う。
椎菜がすぐに位置を変えた。
「神一郎、静蘭は君がやれ。私は部隊を抑える。優子くん、奈々くんから離れるな」
「はい!」
「分かりました」
神一郎は静蘭から目を逸らさない。
「いいんですか、隊長」
「クロスレンジ同士なら君が適任だ。無理はするな」
「できるだけ」
「その返答は不安だ」
「すみません」
静蘭の手が、腰の鞘に触れた。
「玄嵐」
短く名を呼ぶ。
鞘から抜かれた刃は、夕方の光を吸うような青灰色をしていた。
片刃。 重そうな刀身。 けれど、静蘭の手の中では羽のように自然に軽く見えた。
神一郎がツキカゲを構える。
黒い剣と、青灰の剣。
二人の距離は、十歩ほど。
奈々は息を止めた。
クロスレンジ同士。
優子が言っていた。 正面からの斬り合いなら、静蘭はかなり強い。
神一郎も、もちろん強い。
けれど、目の前の静蘭には、神一郎とは違う種類の鋭さがあった。
神一郎は守るために前へ出る。 静蘭は任務のために前へ出る。
同じ近接戦闘型でも、刃の向いている理由が違う。
「藤崎神一郎」
静蘭が言った。
「あなたを倒せば、対象に近づける」
「倒せると思ってるのか」
「倒す必要がある」
「答えになってない」
「任務では、それで十分」
次の瞬間、静蘭が踏み込んだ。
速い。
奈々の目では、最初の一歩を追いきれなかった。
ただ、地面を蹴る音がしたと思った次の瞬間、玄嵐は神一郎の首筋へ迫っていた。
神一郎が受ける。
ツキカゲと玄嵐がぶつかる。
金属音。
衝撃が結界内に響く。
神一郎の足が、半歩沈んだ。
重い。
静蘭の剣は、速いだけではなかった。
神一郎は受け流そうとした。 だが、玄嵐の刃は流れきらず、ツキカゲの上で重さを残す。
静蘭が二撃目を繋ぐ。
斜め下から腹部へ。
神一郎は身体をひねってかわし、ツキカゲを返す。
今度は神一郎の刃が静蘭の肩口を狙った。
静蘭は避けない。
玄嵐の峰で受ける。
刃と刃が噛み合う。
一瞬、二人の距離が詰まった。
神一郎と静蘭の視線が交差する。
「重いな」
神一郎が低く言う。
「あなたは軽い」
静蘭は淡々と返した。
「剣が?」
「そう、迷いがある」
神一郎の目がわずかに鋭くなる。
「初対面でよく言うな」
「見れば分かる。あなたは守るものが多い」
静蘭が玄嵐を押し込む。
神一郎は横へ流し、体勢を低くする。
ツキカゲが下から跳ね上がる。
静蘭の髪が数本、宙に舞った。
初めて、静蘭の動きが後ろへ引いた。
しかし、すぐに踏み直す。
次の瞬間、彼女の速度が変わった。
奈々にも分かった。
さっきまでより、速い。
「これ!」
優子が叫んだ。
「神一郎君、今の速度が本命!」
神一郎は返事をしない。
する余裕がない。
静蘭の玄嵐が、連続で襲いかかる。
右。 左。 上。 下。
単純な連撃ではない。 一撃ごとに速度と重さが違う。
遅い一撃で防御を誘い、速い一撃で隙を突く。 重い斬撃で足を止め、軽い斬撃で視線を誘導する。
神一郎は受け、流し、避け、踏み込む。
ツキカゲの黒い刃が、玄嵐と何度もぶつかった。
火花が散る。
奈々は、瞬きもできなかった。
怖い。
でも、目を逸らせない。
これが、神一郎の戦い。
これが、静蘭の戦い。
二人とも、一歩間違えれば命に届く距離で、呼吸ひとつの差を奪い合っている。
その周囲では、椎菜と優子も戦っていた。
静蘭の部隊は、神一郎と静蘭の一騎打ちを邪魔するのではなく、奈々を狙って動いてくる。
椎菜がアグニを二丁拳銃形態で構え、近づく敵の足を撃ち抜く。
光弾が地面を走り、敵の進路を塞ぐ。
「右、二人」
椎菜が短く言う。
「任せて!」
優子の指輪が光る。
風の壁が奈々の右側へ展開された。
敵の短剣がその壁に弾かれる。
だが、別の敵が足元へ小型の魔力具を投げた。
それが地面に落ちた瞬間、黒い糸のようなものが奈々の足へ伸びる。
「奈々、跳んで!」
優子が叫ぶ。
奈々は反射的に後ろへ下がった。
黒い糸が空を切る。
直後、椎菜の魔力弾が魔力具を破壊した。
「優子くん、奈々くんの足元を優先しろ。敵は拘束狙いだ」
「分かってます!」
優子の声には余裕がなかった。
それでも、彼女は奈々の前を離れない。
青緑のシールドが何度も形を変える。
前へ。 右へ。 足元へ。 背後へ。
奈々は、その中心にいた。
護られている。
まただ。
そう思った瞬間、胸の奥の魔力がざわついた。
でも、奈々は唇を噛んで耐えた。
今、自分が勝手に動けば、優子の邪魔になる。 椎菜の判断を狂わせる。 神一郎の背中を揺らす。
護られることも、役割。
椎菜が言っていた。
狙われていることも、戦場での役割なのだと。
だから奈々は、逃げずにそこに立った。
震えていても。 怖くても。
そこにいることを選んだ。
「優子」
部隊の一人が声を上げた。
「李隊長は言っていた。まだ戻れると」
優子のシールドが、一瞬だけ揺れた。
奈々はすぐに気づいた。
優子の心が揺さぶられた。
「優子!」
「分かってる!」
優子は奥歯を噛みしめる。
「そうやって揺さぶるのも、静蘭の指示?」
「事実だ。主はまだお前を処分対象にしていない」
「だから戻れって?」
「戻るなら今だ」
敵の声は淡々としていた。
それが余計に腹立たしかった。
奈々は思わず声を上げそうになった。
だが、それより先に優子が言った。
「戻らない」
短い言葉。
敵がわずかに動きを止める。
優子の指輪が、さっきより強く光った。
「私は、奈々を連れていく気はない」
風が渦を巻く。
「私は、奈々の隣にいる」
その瞬間、優子のシールドが広がった。
防御だけではない。
風の壁が敵を押し返す。
敵の足が浮く。
椎菜がその隙を逃さなかった。
アグニの二連射。
敵二人の魔力具が同時に弾け飛ぶ。
「いい判断だ、優子くん」
椎菜が言った。
優子は肩で息をしながら笑う。
「褒められるなんて思ってもみなかった」
「油断するな」
「はい!」
奈々は優子の背中を見た。
その背中は震えていた。
でも、もう逃げてはいなかった。
奈々の胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
優子は選んだ。
主ではなく。 静蘭ではなく。 任務ではなく。
奈々の隣を。
その一方で、神一郎と静蘭の戦いはさらに激しさを増していた。
神一郎の頬の傷が開き、血が顎へ流れる。 静蘭の左肩にも薄い裂傷があった。
だが、二人とも止まらない。
静蘭の玄嵐が、神一郎の懐へ深く入る。
神一郎は一瞬遅れた。
奈々の心臓が跳ねる。
玄嵐の切っ先が、戦闘服の脇腹を裂いた。
「神一郎!」
奈々の声が出た。
神一郎は顔をしかめたが、下がらない。
むしろ、前へ出た。
斬られた距離を、さらに詰める。
静蘭の目がわずかに動く。
神一郎のツキカゲが、静蘭の胴を狙った。
静蘭は玄嵐を戻す。
間に合うかどうかの速度。
刃がぶつかる。
しかし、神一郎はそこで剣を止めなかった。
ツキカゲの刃を滑らせ、静蘭の受けを外へ流す。
そこから、柄頭で静蘭の胸元を打つ。
静蘭の身体が後ろへ跳ねた。
初めて、大きく距離が開く。
神一郎は荒く息を吐いた。
「優子が言ってた通りだな」
「何が?」
静蘭は胸元を押さえながら聞いた。
「二手目、三手目で技と動きを遅らせる。読めたと思わせて、本命で本気を出す」
「優子が教えたの?」
「ああ、さっきな。朝倉さんは心強い味方なんだよ」
「そう」
静蘭は優子へ視線を向けた。
「優子は、もうそちら側なんだね」
「静蘭」
優子が叫ぶ。
「もうやめて! 奈々を連れていく必要なんてない!」
「ある」
静蘭は即答した。
「主が命じた」
「それだけ?」
「十分」
「十分じゃない!」
優子の声が震えた。
「静蘭はそれでいいの? 主が命じたから、奈々を連れていくの? 神一郎君を殺すの? 私と戦うの?」
「任務だから」
「静蘭!」
「優子」
静蘭の声は、変わらなかった。
「あなたは昔から、人を好きになりすぎる」
優子が息を呑んだ。
その言葉は、主が優子へ言った言葉と同じだった。
任務に必要なのは共感ではなく理解。 相手を理解しろ。 だが、寄り添うな。
奈々は優子の横顔を見た。
痛そうだった。
それでも、優子はシールドを下ろさない。
「私は……」
優子は震える声で言う。
「私は、それでもいい」
静蘭は何も言わなかった。
その代わりに、玄嵐を構え直した。
「なら、連れて帰れない」
「そうだよ」
「なら、処分対象になる」
「……分かってる」
「優子」
「分かってるって言ってるでしょ!」
優子のシールドが、激しく揺れた。
感情に反応した風が、周囲の砂を巻き上げる。
椎菜が声を飛ばす。
「優子くん、乱すな! 奈々くんを巻き込む!」
「っ……はい!」
優子は必死に呼吸を整えた。
奈々は優子の肩へ手を伸ばした。
触れる。
優子が一瞬だけこちらを見る。
「奈々?」
「ここにいる」
奈々は言った。
「私はここにいるから」
それだけだった。
でも、優子の目が少しだけ落ち着いた。
「……うん」
風の揺れが収まる。
静蘭はそのやり取りを見ていた。
表情は変わらない。
しかし、その目の奥にほんの一瞬だけ、何かが揺れた気がした。
迷い。
羨望。
それとも、怒り。
奈々には分からなかった。
「藤崎神一郎」
静蘭が視線を戻す。
「続けよう」
「まだやるのか」
「任務は終わっていない」
「なら、お前を止めるしかない」
神一郎はツキカゲを構え直した。
脇腹から血が滲んでいる。 頬の傷も深くなっている。 呼吸も少し荒い。
それでも、立っている。
奈々の胸が痛んだ。
これ以上、神一郎に傷ついてほしくない。
でも止められない。
ここで静蘭を止めなければ、奈々自身が連れていかれる。 優子が引き戻される。 主へ近づく道が、敵の刃で閉ざされる。
神一郎はそれを分かっている。
だから退かない。
静蘭が踏み込んだ。
今度は最初から本命の速度だった。
玄嵐が低く走る。
神一郎は受けずに避ける。
だが、静蘭の刃は途中で軌道を変えた。
低い斬撃が跳ね上がり、神一郎の胸元を狙う。
ツキカゲで受け止める。
衝撃。
神一郎の足が滑る。
静蘭はその隙にさらに踏み込む。
近い。
近すぎる。
ただの剣の間合いではない。
互いの呼吸がぶつかる距離。
神一郎はツキカゲを引くのではなく、柄を押し込むことで静蘭の手元を崩す。
しかし、静蘭はそれを読んでいた。
玄嵐の柄が神一郎の手首を打つ。
ツキカゲの角度が一瞬だけずれる。
静蘭の刃が腹へ向かう。
奈々の口から声が漏れた。
けれど、神一郎はそこで前へ出た。
まただ。
神一郎は逃げない。
避けるのではなく、刃の内側へ入る。
玄嵐の切っ先が戦闘服を裂いたが、深く入る前に神一郎の肩が静蘭の胸元へぶつかった。
体当たり。
静蘭の体勢がわずかに崩れる。
神一郎のツキカゲが、横薙ぎに走った。
静蘭は身を反らす。
刃は彼女の胸元をかすめ、戦闘服を裂いた。
血が散る。
浅い。
だが、初めて静蘭の顔がわずかに歪んだ。
「あなた」
静蘭が言った。
「自分が傷つく前提で踏み込むんだね」
「護るものが多いからな」
「それは弱点」
「知ってる」
神一郎は息を吐く。
「でも、それも強さだ」
静蘭の目が細くなる。
「優子と同じ」
「それは光栄だな」
「任務には向かない」
「なら、それでいい」
神一郎が踏み込んだ。
今度は神一郎からだった。
魔力を乗せたツキカゲの一撃。
静蘭が受ける。
二撃目。
静蘭が流す。
三撃目。
静蘭が避ける。
そこまでは読んでいた。
だが、神一郎の四撃目は剣ではなかった。
左足の踏み込み。 肩の動き。 体重の移動。
静蘭の視線が一瞬だけ下へ落ちる。
その瞬間、神一郎のツキカゲが逆方向から入った。
静蘭の反応が遅れる。
玄嵐で受ける。
だが完全ではない。
刃同士が擦れ、火花が散る。
神一郎の剣先が静蘭の右腕をかすめた。
血が落ちる。
静蘭は後退しない。
むしろ、そこで笑った。
本当にわずかに。
初めて、感情が見えた。
「強い」
静蘭は言った。
「あなた、思っていたよりずっと強い」
「それはどうも」
「だから、ここで止める」
静蘭の魔力が変わった。
玄嵐の刃に、青灰色の光が走る。
空気が重くなる。
椎菜が反応した。
「神一郎、来るぞ!」
「分かってます!」
静蘭が低く構えた。
神一郎もツキカゲを正面に置く。
奈々は息を止めた。
何かが来る。
今までの斬り合いとは違う、決定的な一撃。
優子が叫ぶ。
「静蘭、やめて!」
静蘭は答えない。
玄嵐の光が強くなる。
「玄嵐・穿風」
静蘭が踏み込んだ。
速さではない。
重さでもない。
その一歩は、空気そのものを割った。
魔力の乗った玄嵐の刃が一直線に神一郎へ向かう。
防御の上からでも貫くような突き。
神一郎は真正面から受ける構えを取った。
「神一郎、避けて!」
奈々が叫んだ。
でも、神一郎は避けなかった。
避ければ、その後ろには奈々がいる。
椎菜と優子の防御があっても、静蘭の一撃はそれを貫くかもしれない。
神一郎は読んでいた。
だから、真正面に立った。
ツキカゲが玄嵐を受ける。
衝撃。
神一郎の足元の地面がひび割れた。
だが、受けきれない。
玄嵐の刃がツキカゲを押し込み、神一郎の肩口へ届く。
ツキカゲの刃が中程で折れると同時に血が散った。
「神一郎!」
奈々の声。
神一郎は歯を食いしばる。
そこで、彼はツキカゲを引いた。
防御を捨てる。
玄嵐の力が一瞬だけ空を切る。
静蘭の体勢が、わずかに前へ流れた。
神一郎はその隙へ踏み込んだ。
静蘭の目が見開かれる。
神一郎のツキカゲが、彼女の胸へ向かう。
静蘭も同時に、玄嵐を戻した。
時間が、遅くなった気がした。
奈々には、すべてが見えた。
神一郎の右手。 ツキカゲの折れた黒い刃。 向かう先は静蘭の胸元。 静蘭の右手。 玄嵐の青灰色の刃。 向かう先は神一郎の腹部。
誰も止められない距離。
椎菜が叫んだ。
優子が叫んだ。
奈々も叫んだ。
でも、声は届かなかった。
神一郎のツキカゲが、静蘭の胸を貫いた。
同時に。
静蘭の玄嵐が、神一郎の腹を貫いた。
音が消えた。
世界が、止まった。
神一郎と静蘭は、互いの刃を身体に受けたまま、至近距離で向き合っていた。
神一郎の口元から、血がこぼれる。
静蘭の胸元から、赤い飛沫が広がる。
玄嵐の刃は、神一郎の腹を深く貫いている。
ツキカゲの刃は、静蘭の胸を突き抜けている。
相打ち。
その言葉が、奈々の頭に浮かんだ。
けれど、理解できなかった。
理解したくなかった。
「……神、一郎?」
声が出た。
自分の声だと、すぐには分からなかった。
神一郎がこちらを見ようとした。
だが、身体が揺れる。
静蘭も同時に膝をついた。
互いの剣が抜け、二人の身体が崩れる。
神一郎が地面に倒れた。
腹部から、赤い血が広がっていく。
奈々の目に、その赤色だけが焼きついた。
白い天井。
血の匂い。
誰かの手。
夢の中の断片が、現実と重なる。
違う。
違う。
これは夢じゃない。
神一郎が倒れている。
神一郎が、血を流している。
奈々の中で、何かが壊れた。
「いや……」
胸の奥の魔力が、膨れ上がる。
熱い。
痛い。
息ができない。
体の内側から、光があふれる。
「いや……いや、いや、いや!」
奈々は叫んだ。
優子が振り返る。
「奈々!」
椎菜の顔色が変わる。
「まずい、魔力が――」
奈々には、もう何も聞こえなかった。
神一郎しか見えない。
赤い血。
倒れた身体。
届かない手。
また誰かがいなくなる。
また、誰かの手が冷たくなる。
そんなのは嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「神一郎を……」
奈々の身体から、白く淡い光があふれ出した。
足元の地面に、光の輪が広がる。
結界が軋む。
椎菜の張った防御術式が、内側から押し広げられる。
優子のシールドが、奈々の魔力に触れて震えた。
「奈々、落ち着いて!」
優子の声。
でも、届かない。
奈々の視界は白く染まっていく。
胸の奥の魔力が、もうただの温かさではなくなっていた。
光。
奔流。
祈り。
叫び。
誰かの声が、奈々の中で重なる。
――大丈夫。
――あなたは、生きて。
――奈々をお願いします。
それは、過去の声なのか。
奈々自身の声なのか。
もう分からなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
神一郎を死なせたくない。
それだけだった。
「神一郎を、返して!」
奈々の叫びと同時に、光が爆ぜた。
旧体育館裏の結界が、内側から白く弾け飛ぶ。
椎菜が何かを叫ぶ。
優子が奈々へ手を伸ばす。
倒れた神一郎の身体を、光が包み込む。
胸を貫かれた静蘭さえ、その光の端に触れて目を見開いた。
奈々の意識が、白い光の中へ沈んでいく。
最後に見えたのは、神一郎の血に濡れた手だった。
その手へ、奈々は届かないまま手を伸ばす。
そして、昼休みは終わった。
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