第四章 第一話 白き治癒
世界が、白く染まっていた。
光。
音のない光。
それは爆発ではなかった。 炎でもない。 敵を焼くための熱でも、何かを壊すための衝撃でもない。
けれど、旧体育館裏を包んでいた結界は、内側から押し広げられるように軋んでいた。
白い光が、地面を這う。 ひび割れたコンクリートの隙間に流れ込み、血の跡をなぞり、倒れた神一郎の身体へ集まっていく。
奈々は、その中心にいた。
立っているのか、膝をついているのか、自分でも分からなかった。 身体が熱い。 胸の奥が、痛いほど熱い。
違う。 痛いのは胸だけではない。
手が熱い。 喉が熱い。 目の奥が熱い。 心臓が壊れそうなほど強く鳴っている。
そのすべてが、ひとつの叫びになって外へあふれていた。
神一郎を死なせたくない。
ただ、それだけだった。
「奈々!」
誰かが呼んでいる。
優子の声。
聞こえている。 でも、遠い。
「奈々、落ち着いて! お願い、こっちを見て!」
見られない。
奈々の目には、神一郎しか映らなかった。
倒れている。
腹部から血が流れている。
さっきまで奈々の前に立っていた神一郎が、静蘭の剣を受けても退かなかった神一郎が、地面に倒れている。
その姿を見た瞬間、奈々の中で何かが切れた。
まただ。
また、血の匂い。
また、倒れている誰か。
また、冷たくなっていく手。
白い天井。 誰かの声。 女の人の手。 あなたは、生きて。 奈々をお願いします。
違う。
違う。
今度は、奈々が手を伸ばす番だ。
「神一郎を……」
声が、勝手にこぼれた。
自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。
「神一郎を、返して……!」
光がさらに強くなる。
神一郎の身体を包んでいた白い光が、腹部の傷へ集まった。
血の流れがわずかに遅くなる。
裂けた戦闘服の下で、傷口の周囲が淡く発光していた。
治っている。
いや、治ろうとしている。
奈々には、それが分かった。
どうすればいいのかは分からない。 どこまでできるのかも分からない。 けれど、神一郎の身体が壊れた場所へ、自分の中の何かが流れ込もうとしている。
温度。
ずっと胸の奥にあった、誰かの温度。
それが今、奈々の意思を待たずに暴れ出していた。
「まずい」
椎菜の声がした。
今まで聞いたことがないほど鋭い声だった。
「神一郎の止血は始まっている。だが、このままでは奈々くんの魔力が空になる」
「空って……!」
優子の声が震える。
「奈々が危ないってことですか!?」
「そうだ!」
椎菜の叫びが、白い光の中で響く。
次の瞬間、二丁のアグニが光った。
椎菜は神一郎へ銃口を向けたのではない。 奈々へ向けたのでもない。
奈々と神一郎の間に広がる白い光、その外縁を撃った。
魔力弾が結界のように弾け、白い光の流れをわずかに整える。
暴れていた奔流が、ほんの少しだけ形を持った。
「優子くん、風で外へ漏れる魔力を戻せ! 押さえ込むな、流れを丸めろ!」
「分かりました!」
優子が指輪に手を当てる。
青緑の風が、白い光の周囲を包んだ。
いつものシールドとは違う。 硬い壁ではない。
風が器になる。
白い光が、暴れながらもその内側を巡り始めた。
「奈々!」
優子が叫ぶ。
「聞こえてるなら、神一郎君だけ見て! 助けたいなら、ちゃんと神一郎君だけ見て!」
その声が、奈々の耳に届いた。
神一郎だけを見る。
奈々は必死に、目の前の神一郎へ意識を向けた。
倒れている神一郎。 血を流している神一郎。 でも、まだ生きている。
かすかに胸が動いている。
生きている。
「……生きてる」
奈々は呟いた。
その瞬間、白い光がわずかに落ち着いた。
椎菜が即座に叫ぶ。
「そうだ、奈々くん! 死を否定するな! 生きている方を見ろ!」
死を否定するな。
生きている方を見る。
奈々には難しい言葉だった。
でも、今は分かった。
神一郎が死んでしまう。 そう思った瞬間、自分の魔力は暴れた。
違う。
見なければならないのは、失う恐怖ではない。
まだここにある命だ。
神一郎は生きている。
まだ、ここにいる。
「神一郎……」
奈々は手を伸ばした。
届かない距離だった。 でも、光は届いた。
白い魔力が、神一郎の腹部へ集まる。
傷が完全に塞がるわけではない。
深すぎる。
血が流れすぎている。
けれど、流れは止まり始めた。
乱れていた呼吸が、わずかに整う。
神一郎の眉が、苦しげに動いた。
「神一郎君は大丈夫!」
優子が叫ぶ。
「止血は成功しかけている。だが、ここで切る!」
椎菜の声。
「切るって、奈々の魔力をですか!?」
「そうだ! これ以上流せば奈々くんが倒れる。いや、倒れるだけでは済まない」
奈々はその言葉を聞いていた。
でも、やめられなかった。
神一郎がまだ苦しそうだから。 まだ血の匂いがするから。 まだ、手が冷たくなる気がするから。
「いや……まだ……」
「奈々!」
優子が奈々の肩を掴んだ。
その手は震えていた。
「もう止めて! 神一郎君は生きてる! だから奈々も戻ってきて!」
「でも……」
「神一郎君、奈々が倒れるの絶対嫌がるよ!」
その言葉が、奈々の胸に刺さった。
神一郎が嫌がる。
きっとそうだ。
神一郎は、奈々が無茶をするたびに怒る。 心配する。 大丈夫じゃないと言う。 無理をするなと言う。
神一郎は、奈々が自分を壊してまで助けることを望まない。
分かっている。
分かっているのに。
「でも、神一郎が……」
「生きてる!」
優子が叫んだ。
「生きてるから!」
奈々の目から涙がこぼれた。
その瞬間、白い光が少しだけ弱まる。
椎菜が動いた。
アグニを片手で構えたまま、もう片方の手で術式を展開する。
床に青白い線が走り、奈々の足元へ円を描く。
「優子くん、合わせろ!」
「はい!」
風が白い光を包む。
椎菜の術式が、その流れを奈々の胸元へ押し戻す。
痛みが走った。
「っ……!」
奈々の身体が大きく震える。
胸の奥へ何かが押し込まれる痛み。
あふれ出たものを無理やり押し戻されるような、息苦しさ。
でも同時に、遠ざかっていた意識が少しずつ戻ってくる。
白く染まっていた視界に、色が戻る。
夕方の空。 旧体育館裏のコンクリート。 倒れた敵兵。 優子の泣きそうな顔。 椎菜の鋭い目。 そして、神一郎。
神一郎は倒れている。
けれど、胸が動いている。
生きている。
「……神一郎」
奈々は一歩踏み出そうとした。
けれど、膝から力が抜けた。
「奈々!」
優子が支える。
そのまま奈々は、優子の腕の中へ崩れ落ちた。
身体が重い。
指一本動かすのもつらい。
胸の奥の温度は、まだある。
けれど、さっきまでの奔流が嘘のように、今は小さく震えているだけだった。
「奈々、大丈夫? ねえ、聞こえる?」
「……聞こえる」
声はかすれていた。
「神一郎は……?」
「生きてる。奈々が血、止めたんだよ」
「……よかった」
その言葉を言った瞬間、奈々の視界が滲んだ。
よかった。
本当に、よかった。
でも、その安堵と同時に、身体の奥から冷たい疲労が押し寄せてくる。
眠い。
寒い。
胸が痛い。
それでも、神一郎が生きているならいいと思った。
「よくない」
椎菜の声がした。
奈々はぼんやりと顔を上げる。
椎菜は神一郎のそばに膝をつき、応急処置をしていた。
「奈々くん、今の考えは捨てろ」
「え……?」
「神一郎が生きていれば自分はどうなってもいい、という考えだ。今すぐ捨てろ」
その声は厳しかった。
けれど、怒っているわけではない。 奈々を現実に引き戻そうとしている声だった。
「君が倒れれば、神一郎はそれを背負う。優子くんも背負う。私もだ。助けたつもりで、別の傷を残すな」
奈々は何も言えなかった。
椎菜の言葉は鋭かった。
でも、正しかった。
優子が奈々を支える腕に力を込める。
「奈々、私もそれは嫌だよ」
「……ごめん」
「謝らなくていいから、戻ってきて」
「うん……」
奈々は小さく頷いた。
その時、かすかな声が聞こえた。
「……っ」
静蘭だった。
奈々ははっとして、視線を向ける。
静蘭は神一郎から少し離れた場所に倒れていた。
胸をツキカゲに貫かれた彼女もまた、深い傷を負っている。
戦闘服の胸元が赤く染まっている。 呼吸は浅い。 それでも、まだ意識はあるようだった。
いや、正確には、意識が戻りかけている。
その胸元にも、白い光の名残が残っていた。
奈々は息を呑む。
「静蘭も……」
優子が言葉を失った。
椎菜が短く言う。
「奈々くんの暴走した治癒魔力が、範囲内の重傷者へ反応した。神一郎だけでなく、李静蘭にも一部流れている」
「そんな……」
奈々は混乱した。
神一郎を助けたかった。 それだけだった。
静蘭を助けようとしたつもりはない。
だが、自分の魔力は静蘭にも届いた。
敵にも。
神一郎を刺した相手にも。
胸を貫かれた静蘭の傷を、完全ではないにせよ繋ぎ止めてしまった。
「……奈々の魔力、そういう力なんだね」
優子が小さく言った。
「敵だから治さない、とか、味方だから治す、とかじゃない。傷ついてる人を治すんだよ」
奈々は何も言えなかった。
それは優しい力なのか。 残酷な力なのか。
自分には分からない。
ただ、胸の奥がとても静かに揺れていた。
椎菜は神一郎の処置を終えると、すぐに静蘭へ向かった。
「優子くん、奈々くんを座らせておけ。動かすな」
「はい」
「神一郎は止血済みだが内臓損傷の可能性がある。すぐに安全地帯へ運ぶ」
「静蘭は……?」
優子の声が震えた。
椎菜は静蘭の状態を確認しながら答える。
「生きている。だが重傷だ。奈々くんの魔力で即死は避けたようだが、放置すればもたないだろう」
「助けるんですか?」
その声は、優子自身のものだった。
けれど、聞いた瞬間、優子は後悔したように顔を歪めた。
椎菜は静かに優子を見た。
「君はどうしたい」
「私は……」
優子は静蘭を見る。
胸から血を流し、倒れている同期。
任務のために奈々を狙い、神一郎を刺した敵。
でも、かつて同じ施設で訓練を受けた少女。
同じ食堂で食事を共にした。 同じ訓練場で倒れ込んだ。 同じ命令の下で生きてきた。
優子の指先が震えた。
「死んでほしくない」
やがて、優子はそう言った。
声は小さかった。
だがはっきりしていた。
「静蘭は敵です。奈々を連れていこうとした。神一郎君を刺した。私は……怖いし、許せない。でも、死んでほしくはない」
「なら、それでいい」
椎菜は即答した。
「捕虜として確保する。最低限の治療は行う、生存優先だ。その後、拘束と尋問に移る」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。情報源としても重要だからな」
椎菜は淡々と言った。
だが奈々には、その言葉が椎菜なりの優しさだと分かった。
敵だから見捨てるのではない。 優子が死んでほしくないと言ったから、そう扱う。 ただし、感情だけで判断したように見せない。
椎菜はそういう人なのだ。
神一郎を安全地帯へ移す準備は、すぐに始まった。
旧体育館裏には、もう学校の日常の音が戻り始めていた。 遠くで部活の掛け声が聞こえる。 チャイムの余韻も消え、夕方の空が少しずつ紫へ沈んでいく。
この場所で、神一郎と静蘭が互いを殺し合ったことなど、誰も知らない。
奈々は優子に支えられながら、その光景を見ていた。
神一郎の身体は、椎菜の簡易的な転移魔法陣に包まれている。 静蘭も別の術式で胸元の止血を施され、動けない状態にされていた。
静蘭の玄嵐は、椎菜が回収した。
青灰色の刀身は、もう鞘に納められている。 だが、奈々にはその刃がまだ神一郎の腹を貫いているように見えた。
吐き気がする。
血の匂いが、夢の記憶と重なって離れない。
「奈々、見なくていい」
優子が言った。
「でも……」
「今は見なくていい。見ないからって逃げたことになるわけじゃないよ」
奈々はその言葉に、少しだけ救われた。
ずっと、見なければならないと思っていた。 逃げたくないから。 知らないふりをしたくないから。
でも、見ることと、自分を壊すことは違う。
奈々は目を閉じた。
それでも、神一郎の血は瞼の裏に残った。
次に目を開けた時、場所は変わっていた。
神一郎たちのマンションの一室。
普段、作戦会議をしていた部屋ではない。 椎菜が一時的に展開した医療用の結界空間だった。
リビングの家具は端へ寄せられ、床には青白い治療用の魔法陣が幾重にも描かれている。 部屋の中央に神一郎が横たえられていた。
上着は外され、腹部には椎菜の術式による応急処置が施されている。
血は止まっている。
だが、顔色は悪い。
奈々は部屋の入口で立ち尽くした。
「神一郎……」
「近づくな」
椎菜が言った。
奈々の足が止まる。
「今の君は魔力が不安定だ。近づけば、また勝手に魔力が放出される可能性がある」
「でも」
「神一郎を助けたいなら、今は近づくな」
厳しい言葉だった。
奈々は唇を噛む。
近づきたい。
手を握りたい。 神一郎が生きていることを確かめたい。
でも、それをすればまた暴走するかもしれない。
神一郎を助けるつもりで、自分も、周りも、壊すかもしれない。
奈々は拳を握った。
「……分かりました」
声は震えた。
でも、従った。
優子がそっと奈々の隣に立つ。
「ここで見てよう」
「うん」
椎菜は神一郎の状態を確認しながら、端末に何かを入力していた。
「腹部の損傷は深い。だが、奈々くんの魔力で致命的な出血は止まっている。内側の損傷も、一部は再生が始まっている」
「助かるんですか」
奈々の声はかすれていた。
椎菜は一瞬だけ手を止めた。
そして、奈々を見た。
「助ける」
断言だった。
助かる、ではない。
助ける。
その言い方が、奈々を少しだけ支えた。
「本部の医療班を呼ぶ。ただし、このまま大人数を入れるわけにはいかない。神一郎の状態、奈々くんの魔力、静蘭の拘束。全て秘匿が必要だ」
「静蘭は?」
優子が聞く。
「隣室で拘束中だ。意識はない。胸部の傷は深いが、こちらも奈々くんの魔力で一命は取り留めている」
「……そっか」
優子は複雑そうに目を伏せた。
奈々はその横顔を見る。
優子は、安心している。 でも、その安心を素直に表に出せないでいる。
当然だ。
静蘭は神一郎を刺した。 奈々を連れていこうとした。 優子を連れ戻そうとした。
それでも、死ななくてよかったと思っている。
その感情を、どう扱えばいいのか分からないのだろう。
奈々にも分からなかった。
分からないことばかりだった。
それからの時間は、ひどく長かった。
椎菜は神一郎の処置を続けた。 時折、本部らしき相手と短く通信する。 専門用語ばかりで、奈々には内容の半分も分からなかった。
ただ、神一郎の状態が安定に向かっていることだけは、椎菜の声の調子で分かった。
優子は奈々の隣に座って水を渡してくれる。 肩に毛布をかけてくれる。 でも、優子自身も顔色が悪かった。
「優子も休んで」
奈々が言うと、優子は苦笑した。
「それ、今の奈々に言われるの、すごく説得力ない」
「分かってるけど」
「じゃあ一緒に休もう」
「神一郎が……」
「神一郎君は椎菜さんが見てる」
「でも」
「奈々」
優子の声が少しだけ強くなった。
「奈々が倒れたら、私もう無理」
その言葉に、奈々は動けなくなる。
優子は無理に笑おうとしていたが、うまく笑えていなかった。
「神一郎君が倒れて、静蘭も倒れて、奈々まで倒れたら、私……本当に無理」
「……ごめん」
「謝るところじゃないよ。でも、座って」
奈々は素直にソファへ座った。
優子も隣に座る。
二人の間に、沈黙が落ちる。
隣室には静蘭がいる。
そう思うだけで、空気が重くなる。
「静蘭とは、仲良かったの?」
奈々は静かに聞いた。
優子は少しだけ考えた。
「仲が良かった、って言っていいのかな。あの施設での仲良しって、普通の学校とは違うから」
「うん」
「でも、一緒にいた時間は長かった。訓練でペアを組むことも多かったし、食事も近くの席だった。私がよく怒られて、静蘭が横で黙って見てた」
「助けてはくれなかったの?」
「助ける、っていうより……あとで正解を教えてくれる感じかな」
優子は少しだけ遠い目をした。
「静蘭は優しかったわけじゃない。でも、見捨てる子でもなかった。私が失敗したことを、全部覚えてるの。それで、次に同じ失敗をしないようにアドバイスしてくれる」
「それって、優しいんじゃない?」
「どうだろう」
優子は小さく笑った。
「静蘭に言ったら、任務のためって返されると思う」
「言いそう」
「会ったばっかりなのに分かるんだ」
「なんとなく」
奈々は隣室の方を見る。
静蘭は、今は眠っている。 胸を貫かれても、生きている。
奈々の魔力が命を繋ぎ止めてしまった。
「私、静蘭を助けたんだよね」
「結果的には、そうだね」
「神一郎を刺した人なのに」
「うん」
「それって、変かな」
優子はすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言った。
「変じゃないと思う」
「どうして?」
「奈々の魔力は、たぶんそういう力だから」
「そういう力?」
「傷ついてる人を見たら、反応して治す。敵とか味方とか、そういうのより先に」
優子は自分の指輪を見つめた。
「私の風は、守る相手を選べる。誰を囲むか、どこに壁を作るか、私が決められる。でも奈々の力は、もっと根っこに近い気がする」
「根っこ?」
「生きて、っていう力」
奈々の胸が小さく揺れた。
生きて。
あなたは、生きて。
夢の中で聞いた言葉。
女の人の声。
その言葉が、優子の口から別の形で出てきた。
「私、そんな立派な力、持ってる気はしない」
「持ってるかどうかじゃなくて、残されてるんだと思う」
優子は言った。
「誰かが、奈々に残したんだよ。生きてっていう願いごとみたいなものを」
奈々は何も言えなかった。
胸の奥の温度が、少しだけ震えた。
その時、隣室から低い音がした。
拘束術式が反応した音。
椎菜がすぐに顔を上げる。
「静蘭が意識を戻しかけている」
優子の身体が強張った。
奈々も息を呑む。
「行くんですか」
優子が聞く。
「私が確認する。優子くんはここに残れ」
「でも」
「今の君が会えば、静蘭の魔力が暴走するかもしれない」
椎菜の言葉は鋭かった。
優子は唇を噛む。
「……分かりました」
「奈々くんも残れ。神一郎のそばへも、静蘭のそばへも近づくな」
「はい」
椎菜は立ち上がり、隣室へ向かった。
扉が閉まる。
部屋には、奈々と優子、そして眠っている神一郎だけが残された。
奈々は神一郎を見る。
遠い。
すぐそこにいるのに、近づけない。
手を握ることもできない。
それが苦しかった。
「神一郎」
小さく呼んでも、返事はない。
胸は動いている。
生きている。
それだけを、何度も自分に言い聞かせる。
しばらくして、神一郎の指がかすかに動いた。
奈々は息を呑む。
「神一郎?」
優子も立ち上がりかけた。
神一郎のまぶたが、わずかに震える。
そして、薄く目を開けた。
「……奈々」
かすれた声だった。
奈々は立ち上がろうとして、椎菜の言葉を思い出して止まった。
近づくな。
今は近づいてはいけない。
「ここにいる」
奈々は声を震わせながら言った。
「私、ここにいるから」
神一郎の視線がゆっくり動き、奈々を捉えた。
焦点はまだ合っていない。 けれど、奈々を見ようとしている。
「無事か……?」
「私の心配してる場合じゃないでしょ」
言いながら、涙がこぼれた。
神一郎は少しだけ笑おうとした。 けれど痛みで顔を歪める。
「よかった」
「よくない」
「……生きてるなら、よかった」
その言葉に、奈々は胸が詰まった。
同じことを、さっき自分も思った。
神一郎が生きていれば、自分はどうなってもいい。
でも、それは違うと椎菜に言われた。
今、神一郎も同じことを言っている。
奈々は涙を拭わずに、首を振った。
「神一郎も同じ。生きてるだけじゃ、よくない」
「厳しいな」
「椎菜さんに言われたの」
「なら、正しいな」
神一郎は小さく息を吐いた。
「奈々、無茶しただろ」
「した」
「即答か」
「嘘つくと怒るでしょ」
「今は怒れない」
「じゃああとで怒って」
「考え…とく」
そんなやり取りをしている場合ではない。
分かっているのに、奈々は少しだけ笑ってしまった。
神一郎も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
生きているし話している。
それだけで、奈々はまた泣きそうになった。
「奈々」
「なに?」
「助けてくれたの、奈々だよな」
奈々は答えに詰まった。
「……分からない」
「分からない?」
「神一郎を助けたかった。でも、上手くやれなかった。静蘭まで……」
言葉が詰まる。
神一郎は目を閉じた。
「静蘭は?」
「生きてる。拘束されてる」
「そうか」
「神一郎、怒ってる?」
「誰を」
「私を。静蘭も助けちゃったから」
神一郎はゆっくり目を開けた。
少しだけ驚いたような顔だった。
「怒るわけ…ないだろ」
「でも」
「奈々の力が助けたなら、そこに意味があるんだと思う」
「意味……」
「それに、静蘭が生きてるなら聞ける。主のことも、母さんのことも」
母さん。
その言葉が出た瞬間、奈々の胸が震えた。
神一郎もそれに気づいたように、少しだけ視線を落とす。
「……俺も、知りたい」
神一郎の声は弱かった。
「母さんがどう死んだのか。奈々の中の力が何なのか。主が何を恨んでるのか」
「神一郎」
「でも、奈々」
彼は奈々を見る。
「もし、それが俺たちにとってきついことでも、奈々ひとりで背負うな」
奈々は息を止めた。
「それ、神一郎もだからね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「……ああ一応」
「便利に逃げた」
奈々が言うと、神一郎はかすかに笑った。
その笑みを見た瞬間、奈々はまた泣いた。
今度は止められなかった。
優子がそっとティッシュを差し出してくる。
「はい」
「……ありがとう」
「泣いていいよ。今は」
奈々は頷いた。
神一郎の呼吸はまだ弱い。
傷も深い。
でも、生きている。
それだけで、今はどうしようもなく救われた。
しばらくして、椎菜が戻ってきた。
表情は硬い。
奈々も優子も、すぐにそちらを見る。
「静蘭は?」
優子が聞いた。
「意識は戻った。だが、まともな会話はまだ難しい。拘束は維持している」
「何か言いましたか」
神一郎がかすれた声で聞く。
「君は黙っていろ」
「すみません」
「だが、答える」
椎菜は部屋の中央に立った。
「李静蘭は、意識が戻った直後に一言言った」
奈々の胸がざわつく。
優子の顔がこわばる。
椎菜は静かに続けた。
「“なぜ、その魔力がここにあるんだ”と」
部屋の空気が止まった。
奈々は自分の胸に手を当てる。
その魔力。
それは、奈々の中の治癒系魔力のことだ。
静蘭はそれを見た。 触れた。 そして、知っているように反応した。
「それから、もう一つ」
椎菜の声が低くなる。
「“主が知っているのなら、もう止まらない”とも言った」
優子が息を呑む。
神一郎の目が鋭くなる。
奈々は、胸の奥の温度が冷たく震えるのを感じた。
主が知っているのなら。
もう止まらない。
主は何を知っているのか。 何を求めているのか。 奈々の中の魔力を見て、なぜ止まらなくなるのか。
答えはまだない。
けれど、もう遠くはなかった。
椎菜は神一郎を見た。
「戦争に入ったと思え」
その言葉は、冗談ではなかった。
「主は、必ず動く」
窓の外では、夜が完全に降りていた。
街の灯りが、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
奈々はその光を見つめた。
長い一日は、白い光の中で終わった。
そして長い夜が始まる。
もう戻れない。
けれど、戻るつもりもなかった。
神一郎は生きている。 静蘭も生きている。 優子はここにいる。 椎菜もここにいる。
そして奈々の中には、この魔力がある。
誰かが残した、生きてという願い。
その意味を知るために。
長い夜を越えるために。
奈々は震える手を、胸の上でぎゅっと握った。
⸻




