第四章 第二話 沙耶の名を知る者
夜は、静かだった。
あれほどの戦いがあった後だというのに、窓の外に広がる街はいつもと変わらない顔をしている。
マンションの向こうには、駅前の灯りが見えた。 道路を走る車のライトが、時折カーテンの隙間を淡く照らす。 遠くで救急車のサイレンが鳴っているが、それもこの部屋とは関係のない、どこか別の世界の音に聞こえた。
けれど、部屋の中だけは違った。
リビングの中央には、医療用の結界陣がまだ淡く光っている。 その中心で、神一郎は眠っていた。
腹部の傷は椎菜の術式で塞がれている。 奈々の暴走した魔力が、致命的な出血を止めた。 その後、椎菜が本部の医療班と通信しながら応急処置を施し、内側の損傷も最低限の安定状態まで持っていった。
助かった。
椎菜はそうは言わなかった。
ただ、助ける、と言った。
その言葉通り、神一郎は今、生きている。
胸が上下している。 呼吸している。 時折、苦しげに眉を寄せるけれど、それでも確かにここにいる。
奈々はソファの端に座り、毛布を肩にかけたまま、神一郎を見つめていた。
近づいてはいけない。
椎菜にそう言われている。
今の奈々の魔力は不安定だ。 神一郎の傷に反応すれば、また勝手に魔力が流れ出すかもしれない。 それは神一郎を助けるための行為であると同時に、奈々自身の命を削る行為でもある。
分かっている。
分かっているから、奈々は立ち上がらない。
でも、指先は何度も膝の上で握られていた。
「奈々」
隣から、優子が小さく声をかけた。
「水、飲める?」
「……うん」
奈々は差し出されたペットボトルを受け取った。
蓋を開けようとしたが、指に力が入らない。
優子がすぐに気づいて、何も言わずに蓋を開けてくれた。
「ありがと」
「うん」
一口飲む。
水は冷たいはずなのに、喉を通る感覚がひどく遠かった。
身体がまだ、自分のものではないみたいだ。
魔力を暴走させた後から、ずっとそんな感じがしている。 腕も、足も、胸の奥も、全部が薄い膜に包まれているようだった。
けれど、胸の奥の魔力だけは、相変わらずそこにあった。
弱く。 静かに。 消えかけた灯火のように。
奈々は、その温度に触れようとして、すぐにやめた。
触れたらまた、溢れてしまいそうだった。
「奈々、顔色悪い」
「優子もね」
「私は元から白い方だから」
「私が色黒みたいに言わないで」
「うん。そうだね」
優子は苦笑した。
けれど、その目は笑っていなかった。
優子もまた、隣室の方を気にしている。
そこには、李静蘭がいる。
胸をツキカゲに貫かれ、奈々の治癒魔力によって一命を取り留めた少女。 優子の同期。 主の命令で奈々を狙い、神一郎と相打ちになった騎士。
椎菜は先ほどまで静蘭の容態を確認していた。
拘束術式は三重に張られ、動くことはできない。 武器である玄嵐は椎菜が回収し、別室の封印結界の中へ置かれている。 静蘭の手足には、術式に加え魔力を阻害する拘束具が装着されている。
それでも、安心はできない。
椎菜はそう言った。
李静蘭は重傷でも、ただの捕虜として扱っていい相手ではない。
優子はその言葉に反論しなかった。
できなかったのだと思う。
「静蘭、起きてるのかな」
奈々が呟くと、優子の肩が小さく揺れた。
「さっき、一度意識が戻ったって椎菜さん言ってたけどね」
「うん」
「でも、ちゃんと話せる状態じゃないと思う。胸を貫かれてるんだから」
その言い方は淡々としていた。
淡々としようとしているのが、奈々には分かった。
「優子」
「なに?」
「会いたい?」
優子はすぐには答えなかった。
ペットボトルを持つ手に、少しだけ力が入る。
「分からない」
やがて、彼女はそう言った。
「会いたくない。怖い。何を言われるか分からないし、私も何を言えばいいか分からない」
「うん」
「でも、会わないままだと、もっと怖い」
その言葉は、奈々にも分かった。
怖いものから逃げれば、その場では少し楽になる。
けれど、逃げたものは形を変えて背後に残る。 見ないふりをしても、消えたわけではない。
奈々にとっての、消えた女の人。 神一郎にとっての、母の死。 優子にとっての、李静蘭。
みんな、それぞれの怖いものがある。
そして今、そのすべてが同じ場所へ集まろうとしていた。
「奈々は?」
今度は優子が聞いた。
「静蘭と会いたい?」
「……分からない」
奈々は正直に答えた。
「怖い。神一郎を刺した人だし、私を連れていこうとした人だし。でも、私の魔力を見て……何か知ってるみたいだった」
なぜ、その魔力がここにある。
静蘭はそう言った。
静蘭は奈々の魔力を見て驚いた。 驚いただけではない。 知っているものを見たような反応だった。
そして続けて言った。
主が知れば、もう止まらない。
「静蘭は、私の中の魔力が何なのか知ってるのかな」
「全部は知らないと思う」
優子は少し考えながら答えた。
「静蘭は情報を与えられてる。でも、主の全部を知ってるわけじゃない。たぶん、主に必要な範囲だけを教えられてるだけなんだよ」
「必要な範囲?」
「奈々を確保しろ、とか。奈々の魔力に注意しろ、とか。藤崎神一郎は邪魔だから排除しろ、とか」
神一郎の名が出た瞬間、奈々は彼の方を見た。
眠っている。
まだ目を覚まさない。
さっき一度、少しだけ話してくれた。 奈々のことを心配してくれていた それだけで十分だったはずなのに、今はまた不安になる。
本当に大丈夫なのか。 もう一度、目を開けてくれるのか。 さっきの会話は夢ではなかったのか。
考え始めると、胸の奥がざわつく。
「奈々」
優子がすぐに気づいた。
「神一郎君は生きてる」
「……うん」
「椎菜さんが助けるって言った。だから大丈夫」
「大丈夫って言ったでしょ」
「今は言うよ。奈々が必要そうだから」
優子は少しだけ笑った。
奈々も、ほんの少しだけ笑った。
その時、隣室の扉が開いた。
椎菜が戻ってくる。
白い騎士団の戦闘服の上に、血の後が残っていた。 表情はいつも通り冷静だが、目元には少し疲労が見える。
「神一郎の状態は安定している」
開口一番、椎菜はそう言った。
奈々は無意識に息を吐いた。
「本当ですか」
「ああ。油断はできないが、少なくとも今すぐ命に関わる状態ではない。奈々くんの魔力がが効いている」
その言葉に、奈々の胸が小さく痛んだ。
自分が助けた。 でも、暴走した。
その二つを、どう受け止めればいいのか分からない。
「それから、李静蘭も再び意識が戻った」
優子の顔が強張る。
「話せるんですか」
「短時間ならな。ただし、状態は悪い。こちらの問いに全部答えられるとは限らない」
「尋問をする気ですか」
「ああ」
椎菜は即答した。
「いや、尋問ではない。今は情報を引き出すより、相手の反応を見る。特に、奈々くんの魔力に対する反応だ」
奈々の肩がこわばる。
「私も行くんですか」
「本来なら会わせたくない」
「本来なら?」
「李静蘭は君の魔力を見て驚いていた。本人の前で再度反応がある可能性がある。危険ではあるが、情報は得られる」
「危険なら、奈々は」
優子が言いかける。
しかし椎菜が静かに首を振った。
「優子くん。これは奈々くん自身の問題だ」
その言葉に、優子は口を閉じた。
奈々は膝の上で拳を握る。
自分自身の問題。
そうだ。
自分の中の魔力。 誰かが残したもの。 神一郎を救い、静蘭すら生かした白い魔力。
もう、遠くから見ているだけでは済まない。
「行きます」
奈々は言った。
声は少し震えていた。
でも、言えた。
「私、静蘭に聞きたい」
「無理はさせない」
椎菜は頷いた。
「ただし気をつけろ。奈々くんは静蘭へ近づきすぎないように。優子くんは奈々くんのそばを離れるな。私が制止したら即座に下がれ」
「分かりました」
優子が答える。
奈々も頷いた。
「はい」
椎菜は神一郎の方を一度見た。
「神一郎はこのまま休ませる。会話内容は後で共有すればいい」
神一郎は眠ったままだった。
奈々は少しだけ迷ってから、小さく声をかけた。
「神一郎、行ってくるね」
返事はない。
でも、胸は静かに上下している。
それを確認して、奈々は立ち上がった。
足元が少しふらつく。
優子がすぐに支えてくれた。
「無理しないで」
「うん。今のは普通にふらついただけ」
「それ、普通じゃないから」
「そう?」
「そう、やっぱ魔力を使いすぎだよ」
優子に支えられながら、奈々は隣室へ向かった。
扉の前には、椎菜が追加の結界を張っていた。 青白い術式が扉の縁をなぞっている。
中に入ると、空気が違った。
リビングとは違い、部屋の明かりは落とされている。 窓はカーテンで閉ざされ、床には拘束用の魔法陣が描かれていた。
その中央に、李静蘭がいた。
横たえられているわけではない。 上半身を起こされ、壁際の拘束椅子に固定されている。
胸元には椎菜の応急術式が施されていた。 傷は塞がっていない。 ただ、出血を抑え、命を繋いでいるだけだ。
顔色は悪い。
唇も白い。 額には冷や汗が浮かんでいる。
それでも、静蘭の目だけはまだ折れていなかった。
彼女は部屋に入ってきた奈々たちを見た。
まず椎菜。 次に優子。 最後に奈々。
奈々を見た瞬間、その瞳がわずかに揺れた。
「……赤坂、奈々」
かすれた声。
奈々は息を呑む。
「私の名前、知ってるんだ」
「保護対象だから」
「対象って言い方、嫌い」
奈々の声は思ったより冷たく出た。
自分でも少し驚く。
静蘭は、わずかに瞬きをした。
「優子に似たことを言う」
「似てる?」
「対象を、対象と呼ぶなと」
優子の肩が小さく震えた。
「静蘭……」
静蘭は優子を見た。
「優子。あなたはまだ、そちらにいるんだね」
「いるよ」
「戻る気は?」
「ない」
優子の声は震えていた。
けれど、はっきりしていた。
静蘭は目を伏せる。
「そう」
それだけだった。
怒らないし責めない。 ただ事実として受け止める。
その静かさが、かえって優子を傷つけているように見えた。
椎菜が口を開く。
「李静蘭。質問する。答えられる範囲で構わない」
「答える義務はない」
「その通りだ。だが、答えなければ君自身の扱いも変わる」
「拷問?」
「しない」
椎菜は即答した。
「君は捕虜だ。重傷者でもある。こちらは必要な治療と拘束を行う。ただし、情報を出せば君自身の生存可能性も上がる」
「取引」
「そうだ」
静蘭はかすかに笑った。
「アトランティスの騎士は、もっと綺麗な言葉を使うと思っていた」
「私は必要な言葉を使う」
「似ている」
「誰に」
静蘭の視線が、ほんの一瞬だけ奈々へ向いた。
そして、彼女は答えなかった。
奈々の胸の奥がざわつく。
何かを思い出したような目。
静蘭は、誰かと椎菜を重ねたのだろうか。
それとも、奈々の中にある魔力と、誰かを重ねたのだろうか。
「静蘭」
優子が一歩前に出ようとして、椎菜に視線で止められた。
優子は足を止める。
「さっき、言ったんでしょ。主が知れば、もう止まらないって。あれ、どういう意味?」
静蘭は優子を見た。
「優子は知らない方がいい」
「そうやって言うと思った」
「本当に知らない方がいい」
「もう遅いよ」
優子の声が少しだけ強くなる。
「私はこっちにいる。奈々の隣にいるって決めた。だったら、知らないままじゃいられない」
「それは、ただのあなたの感情」
「感情で選んだら駄目なの?」
「任務では」
「これはもう任務じゃない!」
優子の声が震えた。
「少なくとも、私にとってはもう任務じゃない。奈々も、神一郎君も、椎菜さんも、静蘭も……全部、任務って言葉で片づけられるものじゃないんだよ」
静蘭は黙っていた。
その瞳は、優子をじっと見ている。
揺れてはいない。
でも、何も感じていないわけでもない。
奈々はそう思った。
「李静蘭」
椎菜が静かに言った。
「君は奈々くんの魔力を見て、なぜ驚いた」
静蘭の視線が奈々へ戻る。
その目を向けられた瞬間、奈々の胸の奥の温度が小さく震えた。
「……似ていたから」
静蘭は言った。
部屋の空気が変わる。
「何に?」
奈々が聞いた。
声が震える。
静蘭はすぐには答えなかった。
息を吸おうとして、胸の傷に痛みが走ったのか、顔を歪める。
椎菜が術式を少し調整した。
「無理に長く話すな。単語でいい」
静蘭は目を閉じる。
そして、静かに口を開いた。
「藤崎沙耶」
その名前が、部屋の中に響いた。
奈々の呼吸が止まる。
優子も、椎菜も、動かなかった。
藤崎沙耶。
神一郎の母。
治癒系の高位騎士。
消えた女の人かもしれない人。
奈々の中の魔力と、ずっと繋がりかけていた名前。
それを、静蘭が口にした。
「あなた……」
奈々は声を絞り出した。
「神一郎のお母さんを、知ってるの?」
「私は知らない」
静蘭は答えた。
「でも、主が知っている」
椎菜の目が鋭くなる。
「主は藤崎沙耶を知っているのか」
「知っている、という言い方では足りない」
「どういう意味だ」
静蘭はかすかに笑った。
それは苦しげで、皮肉にも見えた。
「主にとって、藤崎沙耶は……失われた主君のような者」
優子が息を呑んだ。
「主君……?」
奈々はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
主にとっての主君。
つまり、主は誰かに仕えていた。 優子が前に思い出した教官の言葉。
主は、もともと誰かに仕えていた人だ。 あの人を失ってから変わった。
あの人。
藤崎沙耶。
線が、繋がる。
奈々の胸の奥が、痛いほど熱くなった。
「主は、藤崎沙耶の部下だったの?」
奈々は聞いた。
静蘭は、奈々を見た。
「詳しくは、私は知らない」
「でも、そうなんでしょ?」
「主は多くを語らない。が、主の部屋には古い記録がある。藤崎沙耶の名。治癒系高位術式の資料。アトランティス騎士団時代の徽章」
椎菜がわずかに息を呑んだ。
「徽章?」
「白い翼の徽章。旧アトランティス軍騎士団、沙耶隊のものだと聞いた」
沙耶隊。
その言葉は、奈々には分からなかった。
だが椎菜の表情で、それが軽いものではないと分かった。
「藤崎沙耶が独立小隊を持っていたという記録は、現行の公開資料にはない」
「消されているから」
静蘭は淡々と言った。
「主はそう言っていた、騎士団は都合の悪い記録は消すと」
消されている。
また、その言葉。
奈々の母が残していたはずの書類。 退院の写真。 藤崎沙耶の死亡任務記録。 そして今、沙耶隊という存在。
消されている。
誰が。
何のために。
その問いが、奈々の中で膨らんでいく。
椎菜が低く言った。
「主の名は」
静蘭は黙った。
「李静蘭。主の名を答えろ」
「言えない」
「術式による制限か」
「命令」
「命令なら破れる」
「私は破らない」
その答えは、静蘭らしかった。
優子が苦しそうに口を開く。
「静蘭、お願い。主が誰なのか教えて」
「優子」
「お願い。奈々も、神一郎君も、もう巻き込まれてる。神一郎君は死にかけた。静蘭だって死にかけたんだよ。これ以上何を守るの?」
「任務」
「違うでしょ!」
優子が叫んだ。
静蘭は目を伏せる。
「違わない。私は任務のためにここにいる。優子、あなたを戻すために。赤坂奈々を確保するために。藤崎神一郎を排除するために」
「神一郎君はまだ排除対象なの?」
「主にとって、藤崎神一郎は障害」
静蘭の声はかすれていた。
「そして、確認対象」
「確認対象?」
椎菜が問い返す。
静蘭は奈々を見る。
「藤崎沙耶の息子が、藤崎沙耶の魔力を宿す少女をどう扱うか」
奈々の身体が冷えた。
沙耶の魔力を宿す少女。
それは、自分のことだ。
静蘭は言った。
沙耶の魔力。
主は、そう見ているのだ。
奈々の中の力を、奈々のものではなく、藤崎沙耶のものとして。
その力は、君のものではない。
最初の紙片の言葉が蘇る。
「私は……」
奈々の声は震えた。
「やっぱり私の魔力は神一郎のお母さんの物なんじゃない」
静蘭は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。 あるいは、それ以上は知らないのかもしれない。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
優子が奈々の腕を掴む。
「奈々、落ち着いて」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない」
「……うん。じゃあ落ち着けない」
胸の奥が揺れる。
熱い。 でも、暴走はしていない。
奈々は必死に呼吸を整えた。 椎菜の言葉を思い出す。
失う恐怖ではなく、今ここにあるものを冷静に見る。
神一郎は生きている。 優子は隣にいる。 椎菜も目の前にいる。
そして静蘭も、まだ生きている。
「李静蘭」
椎菜が口を開いた。
「主が藤崎沙耶の元部下、または沙耶隊関係者である可能性は高い。そう判断していいな」
「私は肯定も否定もしない」
「十分だ」
椎菜は端末に記録を残す。
「もう一つ。主はなぜ奈々くんを確保しようとしている」
静蘭はしばらく黙った。
呼吸が浅い。
胸の傷が痛むのだろう。
だが、彼女は目を開けたまま答えた。
「回収」
その一言に、奈々の背筋が冷えた。
「何を」
「藤崎沙耶の遺したもの」
「奈々くんの魔力か」
「主はそう呼ばない」
「では何と呼ぶ」
静蘭の唇がわずかに震えた。
「藤崎沙耶の残響」
部屋の空気が、凍ったように静まり返った。
残響。
奈々は胸に手を当てる。
自分の中にある魔力。
誰かが残したかもしれない願い。
それを、主は残響と呼ぶ。
人の中に残った、失われた人の音。
それは美しい言葉のようで、ぞっとするほど怖かった。
「主は……」
静蘭の声がさらに弱くなる。
「主は、それを人間界の少女の中に残したままにすることを許さない」
「だから奈々を連れていくの?」
優子が言った。
「奈々自身はどうなるの」
「知らない」
「知らないって何よ!」
「私は、任務の全容を聞かされていない」
静蘭は優子を見た。
「けれど、優子。あなたなら分かるはず。主が“回収”と言った時、対象の生死など気にしない」
優子の顔から血の気が引いた。
奈々にも分かった。
回収。
その言葉には、奈々自身の命や意思は含まれていない。
奈々の中にある魔力。 沙耶の残響。 それを取り出すことだけが目的なら、奈々という人間がどうなるかは問題ではない。
身体が震えた。
優子が奈々を支える。
椎菜の声が低くなる。
「主は奈々くんを殺すつもりか」
「殺す、とは聞いていない」
「だが、生かすとも聞いていないということか」
「そう」
静蘭は目を閉じた。
それは肯定だった。
奈々は呼吸を忘れそうになった。
怖い。
今までの紙片も、視線も、静蘭の部隊も怖かった。
でも今、初めてはっきりした。
主は奈々を人として見ていない。
自分の中に残った何かを、回収すべきと見ている。
その力は、君のものではない。 君が生きている理由を、君はまだ知らない。
その言葉の奥には、最初からこういう意味があったのかもしれない。
奈々は拳を握った。
震えを止めるためではない。
震えたままでも、折れないために。
「私は」
奈々は静かに言った。
三人の視線が向く。
静蘭も、薄く目を開けた。
「私は、物じゃない」
声は小さかった。
でも、部屋の中にはっきり響いた。
「誰かの魔力が残ってるのかもしれない。神一郎のお母さんが助けてくれたのかもしれない。私はまだ全部知らない。でも、私を回収するとか、残響とか、勝手に決めないで」
胸の奥の魔力が、静かに揺れる。
暴れてはいない。
ただ、奈々の言葉を支えるように、そこにある。
「私が生きてる理由は、私が決める」
静蘭は奈々を見つめていた。
その目に、ほんのわずかな変化があった。
驚き。 あるいは、迷い。
しかしすぐに、彼女は目を伏せた。
「主は、そうは見ない」
「それでも」
奈々は言った。
「私はそう思わない」
沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、椎菜の端末だった。
短い通知音。
椎菜の表情が変わる。
「本部からだ」
彼女は画面を確認した。
数秒。
その間、誰も動かなかった。
椎菜の目が、ゆっくりと細くなる。
「……団長から、藤崎沙耶に関する追加照会の返答が来た」
奈々の心臓が強く鳴った。
優子も息を呑む。
静蘭でさえ、目を開けた。
「何が分かったんですか」
奈々が聞く。
椎菜は一度だけ深く息を吐く。
「藤崎沙耶が、かつて小規模の独立部隊を率いていたことが確認された」
「沙耶隊……」
優子が呟く。
「正式名称は違う。だが現場ではそう呼ばれていたようだ」
椎菜の声は硬かった。
「そして、その部隊の名簿に、一人だけ閲覧制限の強い人物がいる」
奈々の胸がざわつく。
静蘭の目が、わずかに動いた。
「名前は」
奈々が聞いた。
椎菜は少しだけ躊躇した。
その躊躇が、答えの重さを示していた。
「黒瀬祈莉」
ただの名前。
奈々にとっては、もちろん初耳。
けれど、部屋の空気が変わった。
静蘭の表情が、初めてはっきりと揺れた。
「……なぜ」
かすれた声。
「なぜ、その名前を」
椎菜は静蘭を見た。
「知っている名か」
静蘭は唇を閉ざした。
答えなかった。
だが、その反応がすべてだった。
黒瀬祈莉。
藤崎沙耶の部隊にいた人物。 強い閲覧制限がかけられた人物。 静蘭が反応する名。
そして、おそらく。
主へ繋がる名前。
奈々は、その名を心の中で繰り返した。
黒瀬祈莉。
胸の奥の魔力が、静かに揺れた。
まるで、その名前を知っているかのように。
椎菜は端末を見つめたまま続けた。
「記録によれば、黒瀬祈莉は藤崎沙耶の直属補佐。任務上は護衛兼戦術支援。魔力系統は遠距離干渉型、ロングレンジだな。十年前の任務を最後に、アトランティス側の記録から消えている」
「消えている……」
奈々が呟く。
まただ。
消えた女の人。 消えた書類。 消えた写真。 消えた任務名。 消えた沙耶隊。 そして、消えた黒瀬祈莉。
全部が同じ場所へ向かっている。
椎菜は静蘭を見た。
「李静蘭。主の正体は、黒瀬祈莉か」
静蘭は答えない。
だが、呼吸が浅くなった。
胸の傷のせいだけではない。
その沈黙は、肯定よりも重かった。
優子が震える声で言う。
「静蘭……主の名前って、黒瀬祈莉なの?」
「……」
「答えてよ」
静蘭は目を閉じた。
「私は、言えない」
「言えないってことは、知ってるんでしょ」
「優子」
「ねえ、静蘭!」
優子が一歩前へ出る。
椎菜が腕で制した。
「それ以上近づくな」
優子は歯を食いしばる。
静蘭は、目を閉じたまま言った。
「主は、藤崎沙耶を奪われた」
その言葉に、奈々の身体が凍った。
「奪われた?」
「そう信じている」
静蘭の声はか細い。
けれど、はっきり聞こえた。
「藤崎沙耶は、人間界の少女を救うために魔力を使い果たした。主は、それを許していない」
奈々の呼吸が止まった。
人間界の少女。
それは。
奈々だ。
世界が遠くなる。
神一郎の母。 藤崎沙耶。 消えた女の人。 あなたをお願いしますと言った人。 奈々を助けた人。
その人は、奈々を救うために魔力を使い果たした。
主は、それを許していない。
奈々は、自分の膝が崩れそうになるのを感じた。
優子が慌てて支える。
「奈々!」
奈々は呼吸をしようとした。
でも、空気が入ってこない。
私のせい。
その言葉が頭をよぎる。
いや、違う。 まだ全部は分かっていない。
そう思おうとしても、静蘭の言葉はあまりにも重かった。
藤崎沙耶は、人間界の少女を救うために魔力を使い果たした。
人間界の少女。
赤坂奈々。
「私が……」
声が震える。
「私が、生きたせいで……?」
胸の奥の温度が痛む。
痛い。 熱い。 苦しい。
奈々は胸を押さえた。
椎菜が鋭く言う。
「奈々くん、飲まれるな」
「でも……」
「まだ結論を出すな」
椎菜の声は厳しかった。
「自分を裁くな。藤崎沙耶が何を選び、何を望んだのかは、まだ誰も語っていない」
その言葉に、奈々はわずかに顔を上げた。
何を選び、何を望んだのか。
母が言った。
あの女の人は、この子をお願いしますと言った。
奈々を責めたのではない。 奈々を置いていったのではない。 奈々をお願いしますと、母に託した。
それを思い出す。
それでも、苦しさは消えなかった。
優子が奈々の手を握る。
「奈々、今は私を見て」
「優子……」
「神一郎君のこと、見たいのは分かる。でも今は、私を見て。奈々が戻れなくなると困る」
優子の手は温かかった。
震えている。
でも、離さない。
奈々は必死に呼吸を整えた。
静蘭はそんな奈々を見ていた。
その顔には、任務の冷たさだけではないものがあった。
痛み。
かもしれない。
「赤坂奈々」
静蘭が言った。
奈々はゆっくりと視線を向ける。
「主は、あなたを許さない」
「……うん」
「藤崎神一郎も、この事実を知ればどうするかわからない」
「うん」
「あなたは、耐えられるの」
その問いは、刃のようだった。
奈々は答えられなかった。
耐えられるかなんて分からない。
今だって、立っているだけで精一杯だ。
けれど。
奈々は優子の手を握り返した。
「分からない」
正直に言った。
「でも、逃げたら耐えるどころではなくなる」
静蘭の目がわずかに動く。
「だから知らなきゃいけないの。神一郎と一緒に。優子と一緒に。椎菜さんと一緒に」
声は震えていた。
でも、確かに言葉にした。
「私だけで背負うわけじゃない。さっき、神一郎にもそう言われたから」
静蘭はもう何も言わなかった。
その時、隣室から微かな反応音がした。
神一郎の医療結界に接続された端末の音だった。
椎菜がすぐに確認する。
「神一郎が目を覚ました」
奈々の身体が反応する。
今すぐ行きたい。
でも、椎菜は手で制した。
「落ち着け。今の話を聞かせる必要がある。ただし、衝撃が強い。順序を間違えないようにな」
「……はい」
奈々は必死に頷いた。
椎菜は静蘭へ視線を戻す。
「李静蘭。今日はここまでだ。これ以上話せば君の容態が悪化する」
「……」
「治療は継続する。だが逃亡は不可能だと思え」
「分かっている」
静蘭は小さく答えた。
優子は静蘭を見つめていた。
何か言いたそうだった。
けれど、言葉は出なかった。
静蘭もまた、優子を見た。
その視線は短かった。
でも、そこには確かに何かがあった。
昔、同じ場所で訓練していた二人にしか分からない何か。
部屋を出る直前、静蘭が言った。
「優子」
優子が振り返る。
「主が来たら、もう私は止められない」
「静蘭は、止める気があるの?」
優子の問いに、静蘭は答えなかった。
ただ、目を伏せた。
「……分からない」
それは、この夜初めて聞いた静蘭の迷いだった。
優子の目が揺れる。
奈々も、息を呑んだ。
静蘭は、主に対する忠誠心が揺らいでいるのかもしれない。
何か引っ掛かる物があるのかもしれない。
でも、その何かが誰かの救いになるのか、絶望になるのかは分からなかった。
奈々たちは隣室へ戻った。
神一郎は結界の中で、薄く目を開けていた。
顔色は悪い。 それでも、視線ははっきりしている。
「……奈々」
名前を呼ばれるだけで、奈々の胸が詰まった。
「ここにいる」
奈々は答えた。
近づきすぎない距離で、立ち止まる。
神一郎はそれを見て、少しだけ苦笑した。
「椎菜さんに止められてる?」
「うん」
「だろうな」
椎菜が神一郎のそばに立つ。
「神一郎、状況を共有する。君の体力的に長くは話せない。要点だけだ」
「お願いします」
神一郎の声は弱い。
でも、逃げていなかった。
椎菜は静かに話した。
静蘭が奈々の魔力を藤崎沙耶に似ていると言ったこと。 主にとって藤崎沙耶は失われた主君に近い存在だということ。 団長からの照会で、沙耶の独立部隊と、その直属補佐だった人物の名が出たこと。
黒瀬祈莉。
その名を聞いた瞬間、神一郎の眉がわずかに動いた。
「黒瀬……祈莉」
「知っているか」
椎菜が聞く。
神一郎は少し考えた。
「名前は……聞いたことがある気がします」
奈々の心臓が鳴る。
「いつ?」
奈々が聞く。
神一郎は目を閉じた。
痛みをこらえているのか、記憶を探っているのか、分からない。
「小さい頃。母の古い写真に写っていたか、誰かの会話で。祈莉、って……母が呼んでいたような」
それだけだった。
でも十分だった。
神一郎の記憶の中にも、その名前は残っていた。
消されているはずの名前が。
かすかに。
「それから」
椎菜は言葉を続ける。
「静蘭は、藤崎沙耶が人間界の少女を救うために魔力を使い果たした、と言った」
神一郎の視線が止まった。
奈々は息を止める。
部屋の空気が、刃のように張り詰めた。
神一郎はしばらく何も言わなかった。
ただ、天井を見ていた。
その沈黙が長く感じられる。
奈々の手が震えた。
怖い。
神一郎が何を思うのか。
自分を見る目が変わるのか。
母を奪った存在だと思うのか。
胸の奥が痛い。
でも、奈々は逃げなかった。
神一郎がゆっくりと視線を動かす。
奈々を見る。
その目は、痛そうだった。
苦しそうだった。
でも、奈々を責める目ではなかった。
「奈々」
神一郎は言った。
「……はい」
なぜか、敬語になった。
神一郎は少しだけ息を吐く。
「それは奈々のせいじゃない」
その瞬間、奈々の目から涙がこぼれた。
「でも」
「違う」
神一郎の声は弱い。
でも、はっきりしていた。
「母さんが何を選んだのか、俺は知らない。でも、奈々を責めるのは違う。それだけは分かる」
「神一郎……」
「俺も知りたい。母さんがどう死んだのか。黒瀬祈莉が誰なのか。主が何を恨んでいるのか」
神一郎は苦しげに眉を寄せる。
それでも、言葉を続けた。
「でも、奈々が生きてることを否定する答えだけは、俺は選ばない」
奈々は泣いた。
声を出さずに、ただ涙が落ちた。
優子も隣で目元を拭っている。
椎菜は何も言わなかった。
ただ静かに、神一郎の容態を見守っていた。
「主は」
神一郎が言った。
「俺にそう思わせたいんだろうな」
「可能性は高い」
椎菜が答える。
「奈々くんを罪悪感で壊し、君が母の死で奈々くんを恨むように仕向ける。二人の関係を断つことが目的の一つだと見ていい」
「なら、乗りません」
神一郎の声は弱い。
それでも、芯があった。
「母さんのことは知りたい。でも、奈々を責めるためじゃない」
奈々は両手で顔を覆った。
胸の奥が、静かに揺れている。
それはさっきまでの痛みとは違った。
泣きたくなるほど温かかった。
神一郎が自分を責めなかったからだけではない。
たぶん、藤崎沙耶という人が残したものも、そういう温かさだったのだと思った。
生きて。
奈々をお願いします。
それは誰かを責める言葉ではない。
託す言葉だ。
奈々は、まだその意味を全部は受け取れない。
でも、少しだけ分かった気がした。
その時、部屋の照明が一瞬だけ揺れた。
全員が反応する。
椎菜が即座にアグニへ手を伸ばす。
優子が指輪を押さえる。
奈々は神一郎を見た。
神一郎も起き上がろうとして、痛みに顔を歪める。
「動くな」
椎菜が短く制した。
部屋の空気が変わる。
窓の外ではない。
玄関でもない。
もっと近い。
結界の内側に、細い震えが走っている。
椎菜の端末が警告音を鳴らした。
「外周結界に接触があったみたいだな」
優子の顔が青ざめる。
「主……?」
椎菜は画面を睨む。
「違う。これは接触ではないようだ」
「何ですか」
奈々が聞く。
次の瞬間、部屋の中央に置かれていた二枚の紙片のケースが、淡く光った。
以前、主が残したもの。
その力は、君のものではない。 君が生きている理由を、君はまだ知らない。
ケースの内側で、黒い文字が滲む。
インクが変化している。
いや、違う。
新しい文字が、浮かび上がっている。
椎菜がケースを開けずに、外から解析する。
やがて、三つ目の文章が白い紙面に浮かんだ。
――藤崎沙耶を返せ。
奈々の呼吸が止まり、神一郎の目が見開かれる。
同時に優子が口元を押さえる。
椎菜の表情が、初めて明確に険しくなった。
藤崎沙耶を返せ。
それは、もう遠回しな揺さぶりではなかった。
恨み。
怒り。
喪失。
十年分の執着が、その短い一文に凝縮されていた。
奈々の胸の奥の温度が、震える。
まるでその言葉を悲しんでいるみたいに。
「黒瀬祈莉……」
神一郎がかすれた声で呟く。
「やはり黒瀬祈莉が主なのか」
誰も答えなかった。
答えは、もうほとんどそこにあった。
夜が深くなる。
主は、もう遠くから見ているだけではない。
藤崎沙耶の名を、神一郎の母の名を、奈々の中の魔力を、真正面から奪いに来ようとしている。
奈々は涙を拭った。
怖い。
怖くてたまらない。
でも、さっき神一郎が言ってくれた。
奈々が生きていることを否定する答えだけは、選ばないと。
なら、奈々も選ばなければならない。
自分の中にあるものを、誰かの恨みの道具にしない。
藤崎沙耶の願いを、主の怒りだけで決めさせない。
奈々は震える声で言った。
「返せって言われても」
全員が奈々を見る。
奈々は、紙片を見つめていた。
「私は、沙耶さんを奪ったつもりなんてない。まだ何も知らない。でも……私の中に残っているものが、沙耶さんの願いなら」
胸の奥に手を当てる。
温度が、静かにそこにある。
「それを奪わせたくない」
神一郎がニヤリと口角を上げる。
優子が静かに頷く。
椎菜は端末を閉じ、窓の方へ視線を向けた。
「意外と、いや十分すぎるほど核心に近づいたな」
椎菜はポツリと言った。
奈々も外を眺めるように顔を上げる。
「椎菜さん、核心に近づいたからといってこの後は?」
「闘い方を見誤らなければ勝てる」
「すごい自信」
優子が少しだけ笑った。
その笑いは、とても小さかった。
主の恨みがどんなに強くても。
藤崎沙耶を返せという言葉が突きつけられても。
奈々たちの心はまだ折れていない。
夜は長い。
でも、一人ではなかった。
そのことだけが、今は奈々を支えていた。
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