第四章 第三話 黒瀬祈莉
夜は、長い。
その言葉を、奈々は何度も胸の中で繰り返していた。
窓の外には、いつもの街がある。 マンションの隙間から見える細い道路。 遠くに並ぶ街灯。 時間が遅くなるにつれ、少しずつ減っていく車の音。
何も変わっていないように見える。
けれど、部屋の中にはまだ、白い医療用結界の光が残っていた。
神一郎は眠っている。 呼吸は浅いが、さっきよりは落ち着いているように見える。 椎菜が数分おきに術式を確認し、必要な数値を端末へ記録していた。
その横顔は、いつものように冷静だった。
でも奈々には分かる。
椎菜も疲れている。
旧体育館裏での戦闘。 神一郎の治療。 奈々の魔力暴走の制御。 静蘭の拘束と処置。 そして、今も続く主への警戒。
休む時間など、ほとんどなかったはずだ。
それでも椎菜は、座ろうともしない。
指揮官として。 隊長として。 今、この場で最も折れてはいけない人間として。
椎菜はずっと立っている。
奈々はソファに座ったまま、その背中を見ていた。
優子は隣にいる。 肩が触れそうな距離で、ずっと奈々のそばにいてくれている。
その近さが、今はありがたかった。
ひとりになったら、きっと考えてしまう。
藤崎沙耶。 黒瀬祈莉。 主。 奈々の中に残った、魔力。
藤崎沙耶を返せ。
紙片に浮かんだ文字は、もうケースごと椎菜の術式で封じられている。 けれど、頭の中からは消えなかった。
返せ。
その言葉は、まるで奈々の胸の奥に直接刻まれたみたいだった。
奈々は胸に手を当てる。
そこには、まだ温かさがある。
怖いほど静かで、泣きたくなるほど優しい魔力。
これが、藤崎沙耶の残したものなのだとしたら。 これが、藤崎沙耶の願いなのだとしたら。
自分は何をすればいいのだろう。
返せと言われても、返し方なんて分からない。 そもそも、返していいものなのかも分からない。
でもひとつだけ、さっき言えたことがある。
恨みだけで奪わせたくない。
その気持ちは、今も変わらない。
「奈々」
優子が小さく呼んだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫。今はなんとか」
「得意のあれじゃないんだ」
「便利すぎてちょっとね」
「うん。便利だよね、あれ」
優子は小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに消える。
彼女の視線は、隣室へ向いた。
そこには、李静蘭がいる。
拘束されたまま、術式で命を繋がれている。 神一郎を刺した敵であり、優子の同期であり、祈莉の部下だった少女。
だった。
奈々は、その言葉を心の中で選び直す。
まだ、祈莉の部下なのかもしれない。 でも、優子が問いかけた時、静蘭は言った。
分からない。
祈莉を止める気があるのかと聞かれて、静蘭は分からないと答えた。
それは、今までの静蘭からすれば大きな変化なのだろう。
任務第一。 命令に従う。 迷わない。
優子がそう言っていた静蘭が、分からないと言った。
それだけで、何かが変わり始めているのかもしれない。
「優子は、静蘭のこと気になる?」
奈々が聞くと、優子は少しだけ肩を揺らした。
「気になるよ」
「うん」
「でも、どう気にしていいのか分からない。敵だし、神一郎君を刺したし、奈々を連れていこうとした。そこは絶対に許せない」
優子は自分の指を握りしめた。
「でも、静蘭が死にそうになった時、怖かった。死んでほしくないって思った。そう思った自分にも、ちょっと戸惑ってる」
「それは、変じゃないと思う」
「そうかな」
「うん。私も……静蘭を助けるつもりなんてなかった。でも、結果的に助けた。神一郎を刺した人なのに。それでも、目の前で死んでほしくなかったのかもしれない」
自分で言って、奈々は不思議な気持ちになった。
あの時、考えていたのは神一郎だけだった。
神一郎を死なせたくない。
それだけだった。
でも、暴走した治癒魔力は、静蘭にも届いた。
敵味方を選ばなかった。
それを自分の意思だと言えるのかは分からない。 でも、完全に自分の意思ではないと言い切ることもできない。
奈々の中にある力は、きっとそういう力なのだ。
傷ついた人を見つける。 死に向かう命へ手を伸ばす。
それが味方か敵かよりも先に、命を見てしまう。
その優しさは、とても怖い。
だって、優しさは時々、自分を削るから。
「奈々くん」
椎菜の声がした。
奈々と優子が顔を上げる。
椎菜は端末を閉じ、二人の方へ歩いてきた。
「神一郎の容態は安定している。短時間なら私は隣室へ移動できる」
「静蘭のところですか」
「ああ」
椎菜は頷いた。
「もう一度、静蘭から話を聞こうと思う。黒瀬祈莉について知っておきたい」
黒瀬祈莉。
名前が出た瞬間、部屋の空気が少し重くなった。
奈々は無意識に胸に手を当てる。
その名前を聞くと、胸の奥の温度が小さく揺れる。 まるで、その名を拒んでいるのか、悲しんでいるのか、奈々には分からない。
「私も行きます」
奈々は言った。
優子がすぐにこちらを見る。
「奈々」
「大丈夫。近づきすぎない。椎菜さんの言うことも聞く」
「でも」
「知りたいの」
奈々は優子を見た。
「黒瀬祈莉が何を思ってるのか。藤崎沙耶、沙耶さんをどう思っていたのか。どうして私をそんなに憎むのか」
「憎む理由なんて、奈々が知らなくても」
「知らないと、怖いままだから」
奈々はゆっくり息を吸った。
「それに、私が知らないまま黒瀬祈莉と向き合ったら、きっと黒瀬祈莉の言葉で簡単に壊れると思う」
自分で言って、少し情けなくなった。
でも、事実だった。
奈々は強くない。
神一郎が責めないと言ってくれた。 優子が隣にいると言ってくれた。 椎菜が一部の情報で自分を裁くなと言ってくれた。
それでも、祈莉に直接言われたらどうなるか分からない。
あなたのせいで沙耶さんは死んだ。 あなたが生きているから沙耶さんは帰らない。 その魔力を返せ。
そんな言葉を真正面から受けた時、奈々は平気でいられる自信がない。
だから、今知っておきたい。
祈莉がどういう人なのか。 何に囚われているのか。 どこが壊れていて、どこがまだ人として残っているのか。
「分かった」
優子は小さく頷いた。
「私も行く」
「もちろんだ」
椎菜が言う。
「優子くんは静蘭との対話に必要だ。ただし、感情的になりすぎるな」
「努力します」
「努力では足りない」
「……気をつけます」
「よろしい」
椎菜は一度、神一郎へ視線を向けた。
神一郎はまだ眠っている。
奈々もつられてそちらを見た。
「神一郎に言わなくていいですか」
「今は休ませる。回復してもらわないと困る。起きたら共有すればいい」
「はい」
奈々は小さく頷いた。
近づけない距離から、神一郎を見る。
「行ってくるね」
返事はない。
でも、それでいい。
神一郎は生きている。 それだけで、今は十分だった。
隣室へ移動すると、空気がさらに冷たく感じた。
拘束術式の青白い線が床を這っている。 窓は完全に閉じられ、外の明かりもほとんど入ってこない。 部屋の中央には、李静蘭が拘束椅子に座らされていた。
胸元の術式は、先ほどより少し落ち着いている。 だが、顔色はまだ悪い。
それでも彼女の目は、はっきりとこちらを見た。
「また来たの」
静蘭の声は弱い。
だが、冷静だった。
「必要だからな」
椎菜は淡々と答えた。
「黒瀬祈莉について聞く」
静蘭は、ほんのわずかに目を細めた。
「その名前が合ってるなんて言っていないけど」
「君の反応で十分だった」
「私は何も言っていない」
「何も言わなかったことが答えになることもある」
椎菜の言葉に、静蘭はわずかに口元を緩めた。
「あなたは本当にやりにくい」
「よく言われる」
「本当に?」
「部下には言われないがな」
「言えないだけでは」
「かもしれないな」
そんな会話をしている場合ではないのに、と奈々は少しだけ驚いた。
椎菜と静蘭の会話は、妙に噛み合っている。
冷静な者同士。 感情を表に出さない者同士。 必要な言葉だけを選ぶ者同士。
だからこそ、互いの小さな嫌味にも気づくのかもしれない。
優子は奈々の隣に立っていた。
静蘭を見る目は、まだ複雑だった。
「静蘭」
優子が呼ぶ。
静蘭の視線が、優子へ移る。
「主は、本当に黒瀬祈莉なの?」
「私の口からは言えない」
「でも、否定もしないんだね」
「否定もできない」
優子の表情が少し歪んだ。
「静蘭は、いつから知ってたの」
「何を」
「主の名前」
静蘭は少しだけ沈黙した。
「正式に名乗られたことはない」
「え?」
「主は、自分を主と呼ばせる。名前で呼ぶことを許さない。けれど、記録や側近の会話から推測はできた」
「じゃあ、確実に知ってたわけじゃないの?」
「確信はあった」
静蘭は目を伏せる。
「でも、口にする必要はなかった。主にとって、名前はもう意味を持っていなかったから」
奈々はその言葉に、息を呑んだ。
名前が意味を持たない。
それは、どういうことなのだろう。
黒瀬祈莉という人間であることを捨てた、ということなのか。 それとも、祈莉自身がもう自分を黒瀬祈莉として見ていないのか。
「黒瀬祈莉はどういう人だったの?」
奈々は静かに聞いた。
静蘭の視線が奈々へ向く。
「あなたが、それを聞くの」
「聞きたい」
「知れば苦しむことになる」
「知らない方が苦しいの」
静蘭は、わずかに目を見開いた。
奈々は続けた。
「黒瀬祈莉は、私を憎んでるんですよね。私の中にあるものを、返せって言ってる。でも、私は祈莉さんのことを知らない。知らない人に憎まれるのは、怖いというか、なんかムカつくし」
声は震えていた。
でも、最後まで言った。
「だから、知りたい」
静蘭は奈々を見つめた。
その目に、ほんの少しだけ何かが揺れる。
それは同情ではない。 けれど、敵を見る目とも違っていた。
「私が知っている主は、もう黒瀬祈莉ではない」
静蘭は言った。
「記録に残っている黒瀬祈莉は、アトランティス軍騎士団の騎士だった。遠距離干渉型。若くして戦術支援に優れ、藤崎沙耶の直属補佐に抜擢された」
「沙耶さんの……」
奈々は呟く。
「直属補佐?」
椎菜が確認する。
「そう記録にあった」
「沙耶さんの独立部隊、いわゆる沙耶隊だな」
静蘭は小さく頷いた。
「主の保管していた古い資料には、そう書かれていた。黒瀬祈莉は、藤崎沙耶の作戦補助と護衛、遠距離支援を担当していた」
「護衛……」
奈々の胸が痛んだ。
もし祈莉が沙耶の護衛だったのなら。
沙耶を守る立場だったのなら。
その沙耶が奈々を救って死んだ時、祈莉は何を思ったのだろう。
守れなかった。
そう思ったのかもしれない。
沙耶が死んだ原因を、誰かに押しつけなければ耐えられなかったのかもしれない。
それが、奈々だったのかもしれない。
「黒瀬祈莉は、沙耶さんをどう思っていたんですか」
奈々は聞いた。
静蘭はしばらく答えなかった。
その沈黙の長さが、答えの重さを物語っていた。
「主は、多くを語らないからわからない」
「うん」
「けれど、藤崎沙耶の話をする時だけ、声が変わっていた」
奈々は胸に手を当てた。
「声が?」
「怒っているようで、泣いているようでもあった。憎んでいるのは、藤崎沙耶が亡くなる理由を作ったすべてだった」
静蘭の声は静かだった。
「アトランティス。騎士団。任務。藤崎沙耶の記録を消した者。人間界。そして、赤坂奈々」
奈々の名前が出た瞬間、優子の手が動いた。
奈々の腕を支えるように、そっと触れる。
奈々は小さく頷いた。
大丈夫。
大丈夫じゃないけど、大丈夫。
「なるほど。私は、その中にいるんですね」
「主にとっては」
「あんたにとっては?」
その問いに、静蘭の目がわずかに揺れた。
優子も驚いたように奈々を見る。
奈々は静蘭から目を逸らさなかった。
「あんたは、私をどう見てるんですか」
「保護対象」
「それはさっき聞きました」
「……」
「今は?」
静蘭はすぐには答えなかった。
拘束された手の指先が、わずかに動く。
彼女は痛みを堪えるように息を吐いた。
「分からない」
また、その言葉。
奈々は少しだけ息を吸った。
「そっか」
「なぜ、そこで少し安心するの」
「分からないって言ってくれたから」
「答えになっていない」
「静蘭もさっき同じようなこと言ったでしょ」
奈々がそう言うと、静蘭はわずかに目を細めた。
怒ってはいない。
むしろ、ほんの少しだけ意表を突かれたように見えた。
優子が小さく笑う。
「奈々って、たまに真正面から変化球投げるよね」
「変って言わないで」
「褒めてる」
「絶対違う」
そのやり取りに、静蘭が黙って優子を見た。
優子はそれに気づき、少しだけ笑みを消す。
「何?」
「優子が、そういう顔をするのを久しぶりに見た」
優子の表情が固まった。
「……覚えてるんだ」
「覚えている」
「任務のため?」
「違う」
静蘭は静かに答えた。
「覚えているから、それだけ」
優子が息を呑んだ。
その短い言葉は、静蘭にとってかなり大きなものだったのかもしれない。
優子の目が少しだけ潤む。
けれど、彼女は泣かなかった。
「静蘭」
「何」
「黒瀬祈莉、主の命令は、まだ絶対?」
静蘭は目を伏せた。
「分からない」
「また?」
「今は、それしか言えない」
静蘭の声はかすかだった。
「私は、主の部隊に属している。主の命令で動いた。優子を戻すために、赤坂奈々を確保するために、藤崎神一郎を排除するために来た」
静蘭は一度、胸元の傷を押さえるように息を詰めた。
「でも、主の目的が任務ではなく、喪失感の当てつけなら」
その言葉に、椎菜の目が細くなる。
「続けろ」
「それは、任務ではない。主の私情だ」
優子の表情が変わった。
奈々も、息を呑む。
静蘭は続けた。
「私の剣は任務のためのものだ。主の悲しみを満たすために剣を取ったわけではない」
それは、静蘭の中で何かがずれ始めた瞬間。
部隊を裏切ったわけではない。 奈々たちに寝返ったわけでもない。
でも、祈莉の命令をそのまま絶対のものとして受け入れることが、もうできなくなっている。
奈々には、それが分かった。
椎菜は静蘭を見つめた。
「つまり、君は主の部隊から離れる可能性がある」
「答える義理はない」
「十分だ」
「私を信用するの」
「しない」
椎菜は即答した。
「君は敵だ。神一郎を刺した。奈々くんを連れ去ろうとした。拘束は解かない」
「正しい判断」
「だが、敵が常に同じ方向を向いているとは限らない。君には利用価値がある」
「本当に、綺麗な言葉を使わない」
「必要ないだろう」
椎菜の言葉に、静蘭は微かに笑った。
それは、痛みに歪んだ表情の中に一瞬だけ浮かんだ、人間らしい表情だった。
奈々はその表情を見て、胸が少しだけ苦しくなった。
静蘭も人間なのだ。
当たり前のことなのに、戦場ではすぐに忘れそうになる。
神一郎を刺した敵。 奈々を狙った敵。 優子を引き戻そうとする敵。
でも同時に、優子の過去を知っている少女であり、任務と私情の境界に戸惑い始めている人間でもある。
だからといって、すべてを許せるわけではない。
でも、ただ憎めば済む相手でもなくなっていく。
それは、ひどく難しいことだった。
「黒瀬祈莉について、もう一つ聞く」
椎菜が話を戻した。
「奴は今、どこにいる」
静蘭は沈黙した。
「言えないか」
「正確には知らない」
「通信拠点は」
「拠点は使わない」
「人間界にいるのか」
「いる」
その答えに、部屋の空気が変わった。
奈々は思わず優子を見る。
優子の顔も強張っている。
祈莉は、人間界にいる。
遠い場所から命令しているのではない。 もう、近くにいる。
「いつからだ」
椎菜が聞く。
「少なくとも、初めての攻撃の前から」
奈々の背筋が冷える。
映画館。
やはりあの攻撃は黒瀬祈莉のものだったのだ。
あの日から、近くにいたのかもしれない。
奈々が何も知らずに映画を見ていた時。 神一郎が日常のふりをして隣にいた時。 優子がまだ正体を隠していた時。
そのずっと前から、主は奈々を見ていた。
「お前の部隊は、黒瀬祈莉と動いていたのか」
「私は一度だけ直接命令を受けた」
「いつ」
「昨日」
優子が息を呑んだ。
「昨日……?」
「出撃前に」
静蘭の声は静かだった。
「主は、いつも画面越しや音声越しで指示を出す。けれど昨日は、直接会った」
「何を言われた」
椎菜が問う。
静蘭は少しだけ目を閉じた。
思い出しているのだろう。
「対象を確保しろ。朝倉優子が抵抗するなら、判断は任せる。藤崎神一郎は障害となる。可能なら無力化しろ」
「殺せとは?」
「言わなかった」
「だが、君は殺そうと戦った」
「彼は強かった。無力化するには、こちらも命をかける必要があった」
静蘭は淡々と言った。
奈々は神一郎の倒れた姿を思い出し、胸が痛んだ。
けれど、静蘭を責める言葉は出なかった。
静蘭は嘘をついていない。
神一郎も静蘭を止めるために、本気で殺そうとした。 静蘭もまた、任務を果たすために神一郎の腹を貫いた。
戦いだったのだ。
それをきれいな言葉で片付けることはできない。
「黒瀬祈莉は、どんな顔をしてた?」
優子が聞いた。
椎菜が少しだけ視線を向ける。
質問としては感情的すぎる。
でも椎菜は止めなかった。
静蘭は優子を見る。
「疲れているように見えた」
「疲れて?」
「眠っていない顔だった。怒っているのに、泣いているようにも見えた」
奈々は胸に手を当てた。
静蘭の言葉は、さっきと同じだった。
祈莉は沙耶の話をする時、怒っているようで、泣いているようでもあった。
「主は言った」
静蘭は続ける。
「赤坂奈々の中には、藤崎沙耶の残したものがある。それは、本来そこにあるべきものではない」
奈々の胸の奥が震える。
「そして、こうも言った」
静蘭の声が少しだけ低くなる。
「藤崎沙耶は、返してもらう」
部屋の空気が冷えた。
紙片の言葉と同じ意味。
藤崎沙耶を返せ。
それは黒瀬祈莉の目的ではなく、願いそのものなのだ。
「でも」
優子が震える声で言った。
「沙耶さんはもう……」
「死んでいる」
静蘭は言った。
「だから、主は止まらない」
その一言は重かった。
死んだ人は戻らない。
だから諦めるのではない。
戻らないからこそ、戻すことに取り憑かれる。
奈々の中にある魔力を見つけた黒瀬祈莉にとって、それはきっと希望のような絶望だったのだろう。
藤崎沙耶は死んだ。 でも、藤崎沙耶の魔力は残っていた。
それなら取り戻せる。
そう思ってしまった。
その瞬間から、奈々は黒瀬祈莉にとって人ではなくなったのかもしれない。
藤崎沙耶を取り戻すための器。 藤崎沙耶の残響を閉じ込めた場所。
奈々は指先が冷たくなるのを感じた。
「奈々」
優子がすぐに呼ぶ。
「大丈夫?」
「……怖い」
奈々は正直に言った。
「でも、聞けてよかった」
静蘭の視線が奈々へ向く。
「なぜ」
「黒瀬祈莉が怖いだけの敵じゃないって分かったから」
「主を哀れむの?」
「哀れむとかじゃないです」
奈々は首を振った。
「ただ、沙耶さんを返してほしいって気持ちだけは、嘘じゃないんだと思った」
静蘭は黙った。
「でも」
奈々は胸に手を当てる。
「だからって、私の中にあるものを奪っていい理由にはならない。私が生きていることを否定していい理由にもならない」
声は震えている。
でも、消えない。
「黒瀬祈莉が沙耶さんを大切に思っていたなら、なおさら知りたい。黒瀬祈莉が思っているように、私が沙耶さんを奪ったのか」
奈々は息を吸った。
「私は、そうじゃないと思いたい」
思いたい。
まだ、言い切れない。
でも、それが今の奈々の精一杯だった。
静蘭は奈々を見ていた。
その目の奥に、かすかな戸惑いがあった。
「あなたは、変」
「よく言われます」
「誰に」
「最近は、みんなに」
奈々がそう言うと、優子が小さく笑った。
「私は言ってないよ」
「今ちょっと思ったでしょ」
「思った」
「ほら」
ほんの少しだけ、部屋の空気が緩む。
椎菜が端末を操作した。
「静蘭、最後に確認する。黒瀬祈莉は次にどう動く」
「ここへ来る」
静蘭は即答した。
「確証は」
「主は、を越えた。もう様子を見る段階ではない」
「目的は奈々くんの確保か」
「違う」
静蘭の答えに、全員が息を呑んだ。
椎菜の目が鋭くなる。
「違うとは」
「もう確保では足りない。主は見てしまった。赤坂奈々の魔力が、藤崎神一郎を治癒したところを」
奈々の胸が跳ねた。
旧体育館裏での暴走。
白い光。
神一郎を包んだ治癒魔力。
そして、静蘭にまで届いた魔力。
「あれで、主は確信したはず」
「何を」
「藤崎沙耶の魔力は、赤坂奈々の中で生きている」
静蘭の声は低かった。
「だから、主は直接奪いに来る」
その言葉が放たれた瞬間、部屋の中の結界が微かに震えた。
椎菜が即座に端末を見る。
しかし、警告音は鳴っていない。
「今のは?」
優子が小さく言う。
奈々は胸を押さえた。
鼓動が大きい。
外から何かが触れたのではない。
内側から、何かが反応した。
黒瀬祈莉の名。 沙耶さんの魔力。 奪いに来るという言葉。
それらに、奈々の中の魔力が反応している。
「奈々くん」
椎菜がすぐに呼ぶ。
「魔力を抑えろ。恐怖に支配されるな」
「はい……」
奈々は深く息を吸う。
生きている方を見る。
椎菜の言葉を思い出す。
失う恐怖ではなく、今ここにあるものを見る。
神一郎は隣の部屋で生きている。 優子はここにいる。 椎菜もここに立っている。 静蘭も、まだ目の前にいる。
大丈夫。
大丈夫じゃないけど、大丈夫。
奈々は何度も呼吸を整えた。
胸の奥の魔力が、少しずつ落ち着いていく。
静蘭は、その様子をじっと見ていた。
「制御できるようになっている」
「まだ少しだけです」
「それでも、主の想定より速い」
「それは……困ること?」
「主にとっては」
静蘭は静かに言った。
「藤崎沙耶の魔力が、赤坂奈々自身の意思で動くようになれば、主はさらに焦る」
奈々は眉を寄せた。
「どうして?」
「奪いにくくなるから」
その言葉に、奈々は息を呑んだ。
奪いにくくなる。
つまり黒瀬祈莉にとって、奈々の魔力が奈々自身のものに近づいていくことは都合が悪い。
今までは、沙耶の残響として見ていた。 取り戻すべきものとして見ていた。
でも奈々がその力を受け止め、自分の意思で動かし始めれば、それはもう単なる残響ではなくなる。
奈々の命と混ざり、奈々の意思に根を下ろした力になる。
それは、黒瀬祈莉にとって沙耶を二度失うようなものなのかもしれない。
奈々は胸に手を当てた。
魔力はまだ静かにそこにある。
「椎菜さん」
「何だ」
「黒瀬祈莉は、私がこの力を使えるようになる前に来るんですよね」
「可能性は高い」
「じゃあ、本当に戦う事になるんですね」
「奈々くんを巻き込んですまないが、そうだ」
椎菜は当然のように言った。
奈々は思わず瞬きをした。
「勝てる見込みは?」
「五分五分だ」
「甘くはないですね」
「気休めを言ったところで勝てるわけではない」
「椎菜さん、正直ですよね」
「当たり前だ」
優子が小さく吹き出した。
静蘭はそのやり取りを理解できないように見ていた。
そして、ぽつりと呟く。
「変な部隊」
「部隊じゃないよ」
優子が言った。
「じゃあ何」
「友達」
静蘭は黙った。
優子は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「あと、上官と部下とか、護衛対象とか、いろいろあるけど。でも、私は友達だと思ってる」
「任務ではないのなら」
「うん」
「効率が悪い」
「そうかもね」
優子は静蘭を見る。
「でも、静蘭。効率が悪くても、大切なものってあるよ」
静蘭は答えなかった。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
分からない。
きっと、今の静蘭の中にはその言葉がある。
けれど、もうそれは拒否するための言葉ではない。
何かを考え始めた沈黙だった。
尋問はそこで終わった。
椎菜は静蘭の術式を再調整し、拘束を確認した。
「今後、君は黒瀬祈莉の部下としてではなく、捕虜として扱う」
「最初から捕虜では」
「こちらの認識の問題だ。君が黒瀬祈莉の命令を絶対とするなら、最大限に警戒する必要があった。だが今は違う」
「信用はしないのに」
「しない。だが、認識は更新する」
静蘭は小さく息を吐いた。
「優子」
部屋を出る直前、静蘭が呼んだ。
優子は立ち止まる。
「何?」
「私は、あなたの隣には立てない」
優子の表情が少し曇る。
「……うん」
「でも」
静蘭はゆっくりと目を開けた。
「今の主の刃であり続けるかは、分からない」
優子の目が大きく見開かれた。
それは、仲間になるという言葉ではない。
許しを乞う言葉でもない。
でも、確かに静蘭が自分で選び始めた言葉だった。
「それでいいよ」
優子は言った。
「今は、それでいい」
静蘭は何も言わなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
リビングへ戻ると、神一郎が目を覚ましていた。
身体を起こそうとして、痛みに顔を歪めている。
「動くなって言われませんでしたかー?」
奈々が揶揄うように言うと、神一郎は気まずそうに視線を逸らした。
「起き上がれるか確認しようとしただけだ」
「それを動くなって言うの」
「正論だな」
椎菜が近づき、神一郎の術式を確認する。
「起き上がる許可は出していない」
「すみません」
「次に勝手に動いたら眠らせる」
「本気ですか」
「本気だ」
神一郎は諦めたように息を吐いた。
奈々は少しだけ笑いそうになって、すぐに胸が詰まった。
こうして会話できることが、まだ奇跡みたいだった。
神一郎は奈々を見る。
「奴から聞けたのか」
「うん」
奈々は頷いた。
どこから話せばいいのか分からなかった。
でも、隠すわけにはいかない。
椎菜が要点を整理して伝えた。
黒瀬祈莉は藤崎沙耶の直属補佐だった可能性が高いこと。 遠距離干渉型で、沙耶の護衛兼戦術支援を担っていたこと。 黒瀬祈莉は藤崎沙耶の死を、奈々やアトランティス、人間界すべてに奪われたものとして捉えていること。 奈々の中の魔力を、沙耶の残したものとして奪い返そうとしていること。
神一郎は黙って聞いていた。
顔色は悪い。
傷の痛みもあるはずだ。
それでも、最後まで目を逸らさなかった。
「母さんの直属補佐……」
神一郎は呟く。
「黒瀬祈莉。やっぱり、名前を聞いたことがある気がする」
「記憶は戻りそうか」
椎菜が聞く。
「はっきりとは。でも、小さい頃、母さんの荷物の中に写真があった気がします」
「写真?」
奈々が聞く。
神一郎は目を閉じた。
「母さんと、何人かの騎士が写ってる写真。父さんが片づけたのか、今どこにあるかは分からないけど……紫色の髪の女の人がいた」
奈々の胸が鳴った。
紫色の髪。
「その人が、黒瀬祈莉?」
「たぶん。でも、俺が覚えてるのは写真だけだ。母さんをその人が何て呼んでたかまでは……」
「沙耶さん」
奈々は思わず呟いた。
神一郎がこちらを見る。
「奈々?」
「黒瀬祈莉は、沙耶さんって呼ぶ気がする」
「どうして?」
「分からない。でも、沙耶様じゃないと思う。そんな遠い感じじゃなくて、もっと近くて、でも手が届かなくて……そういう感じ」
自分でも、不思議だった。
黒瀬祈莉と会ったこともない。 声を聞いたこともない。
それなのに、なぜかそう思った。
沙耶様。
それは違う。
祈莉の喪失は、崇拝というより、もっと近いところで起きた傷だ。
先輩。 上官。 憧れの人。 頼れる人。 もしかしたら、自分を認めてくれた人。
そういう相手を失った人の叫びなら。
返して、という言葉はきっと、もっと生々しい。
沙耶さんを返して。
奈々はその言葉を想像して、胸が痛くなった。
椎菜が静かに言う。
「呼称は重要だ」
「呼称?」
「相手との距離が出る。黒瀬祈莉が沙耶さんと呼んでいたなら、彼女の執着は単なる上官への忠誠ではない。もっと個人的な喪失だ」
神一郎は天井を見上げた。
「母さんは……人に好かれる人だったって、父さんが言ってました」
「人に?」
「怪我人とか、居場所のない人とか、無茶をする部下とか。放っておけない人だったって」
奈々の胸の奥が温かく揺れた。
それは、奈々が夢で見た声と重なる。
大丈夫。
あなたは、生きて。
「黒瀬祈莉も、沙耶さんに拾われた人なのかな」
奈々が言うと、神一郎は少しだけ目を伏せた。
「かもしれない」
もしそうなら。
黒瀬祈莉にとって沙耶は、ただの上官ではない。
自分を見つけてくれた人。 立つ場所をくれた人。 名前を呼んでくれた人。
その人が、奈々を救って死んだ。
黒瀬祈莉が壊れた理由は、少しだけ分かる気がした。
分かることと、許すことは違う。
でも、ただの敵ではなくなる。
奈々はそれが怖かった。
敵を人として見てしまえば、戦う時に心が痛む。 でも、人として見なければ、沙耶さんが残した温度に背く気がした。
「黒瀬祈莉は来る」
椎菜が言った。
その一言で、全員の意識が現実へ戻る。
「静蘭の証言、紙片の変化、奈々くんの魔力暴走。状況から見て、次の接触は黒瀬祈莉本人だ」
「ここに?」
優子が聞く。
「可能性はある。ただし、この部屋を戦場にするのは避けたい。神一郎はもちろん、静蘭の拘束、奈々くんの不安定な魔力。守るものが多すぎる」
「移動するんですか」
奈々が聞く。
「こちらから場所を選ぶ」
椎菜は端末を操作する。
「旧体育館裏は使えない。学校内も論外。人払いが難しい。候補は、アトランティス側が管理する人間界の仮設訓練場。市街地から離れているし結界設備もある」
「そんな場所があるんですか」
「ある。隠しているだけだ」
「いろいろ隠しすぎじゃないですか」
「騎士団だからな」
椎菜は平然と答えた。
神一郎が小さく息を吐く。
「俺は行けますか」
「駄目だ」
「即答ですね」
「当たり前だ。腹に穴が空いている人間を戦場に出すわけがない、それにツキカゲもやられているだろう」
神一郎の剣、ツキカゲは静蘭との戦闘で折れてしまっている。
「でも、奴は母さんのことを」
「だから動くな」
椎菜の声が強くなる。
「君が感情で動けば、黒瀬祈莉の思うつぼだ。君の役割は今、傷を悪化させないことだ」
神一郎は悔しそうに唇を噛んだ。
奈々は、その表情を見るのがつらかった。
神一郎は行きたいに決まっている。
母の過去。 黒瀬祈莉の正体。 奈々の中の魔力。
全部が神一郎に関わっている。
それなのに、身体が動かない、武器がない。
彼がどれだけ悔しいか、奈々には分かりきれなかった。
でも、その悔しさの一部は伝わってくる。
「神一郎」
奈々は言った。
「私、逃げない」
神一郎が奈々を見る。
「だから、神一郎も今は無理しないで」
「奈々」
「神一郎が無理してまた倒れたら、私また暴走するかもしれない」
その言葉に、神一郎は息を呑んだ。
奈々は続ける。
「私、今度はちゃんと立っていたい。黒瀬祈莉に会っても、壊れたくない。そのためには、神一郎が生きてるって分かってないと無理」
神一郎は黙った。
「だからお願い。休んでて。ここで」
それは、ひどくわがままな言葉だった。
神一郎に戦うなと言っている。 母の真実に近づく場から離れていろと言っている。
でも、奈々にとっては本心だった。
神一郎が生きている。
それが、奈々を戦場へ立たせるための支えになる。
神一郎はしばらく何も言わなかった。
やがて、苦しげに息を吐く。
「分かった」
その声は悔しさで掠れていた。
「今は動かない」
「うん」
「でも、何かあったら呼べ」
「呼ぶ」
「絶対だぞ」
「絶対」
奈々は頷いた。
神一郎は少しだけ目を閉じる。
「なら、俺はここで待ってる」
その言葉に、奈々の胸が熱くなった。
「うん」
優子が小さく鼻をすすった。
椎菜が視線だけ向ける。
「優子くん」
「泣いてません」
「何も言っていない」
「言われる前に答えました」
「そうか」
椎菜はそれ以上追及しなかった。
その時、部屋の空気が再び震えた。
今度ははっきりと分かった。
外からだ。
結界の最外周に、何かが触れている。
優子が即座に奈々の前へ出る。
椎菜がアグニを展開する。
神一郎が起き上がろうとして、奈々の視線で止まった。
椎菜の端末が警告音を鳴らす。
「外周結界に接触。正体不明」
次の瞬間、リビングの照明が一度だけ落ちた。
暗闇。
すぐに予備の術式光が点く。
部屋の中央に、白い紙片が落ちていた。
どこから入ったのか分からない。
封鎖された結界の内側。 全員の目があった部屋の中央。
そこに、最初からあったかのように紙片が置かれている。
椎菜は近づかず、術式で紙片を浮かせた。
黒い文字が、すでに書かれている。
奈々は息を止めた。
紙片には、短い文章があった。
――今夜、迎えに行く。
その下に、もう一行。
――沙耶さんを、返して。
奈々の胸の奥の温度が、強く震えた。
今度の言葉は、命令ではなかった。
返せ、ではない。
返して。
そこにあったのは、怒りだけではない。
喪失。
嘆き。
どうしようもなく壊れた願い。
黒瀬祈莉という人間の声が、初めてそのまま届いた気がした。
「黒瀬祈莉……」
神一郎が、かすれた声で名前を呼んだ。
奈々は紙片を見つめる。
怖い。
それでも、目を逸らせなかった。
今夜、迎えに行く。
沙耶さんを、返して。
その言葉は、睨み合いの終わりがもう近いことを告げていた。
夜は長い。
でも、もう夜明けまで逃げ切ることはできない。
この夜の中で、向き合わなければならない。
黒瀬祈莉と。
藤崎沙耶の死と。
奈々の中に残された、白い温度と。
椎菜は紙片を封じ、静かに言った。
「決戦だ」
誰も否定しなかった。
奈々は胸に手を当てた。
温度はまだ震えている。
でも、消えてはいない。
その震えを抱えたまま、奈々は小さく頷いた。
「行きます」
声は怖いほど静かだった。
「黒瀬祈莉に、会います」
神一郎が奈々を見る。
優子が隣で頷く。
椎菜はアグニを下ろさないまま、短く答えた。
「準備を始める」
夜は、まだ終わらない。
けれど奈々は、もう知っていた。
夜を越えるためには、逃げ続けるだけでは足りない。
誰かの恨みも。 誰かの願いも。 誰かが残した温度も。
全部を抱えて、それでも前に進むしかない。
黒瀬祈莉。
沙耶さんを返してと泣く、主。
その人と向き合う時が、ついに来た。
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