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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第四章 夜を越えるために
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第四章 第四話 沙耶さんを返して

 紙片に浮かんだ文字は、いつまでも消えなかった。

 ――今夜、迎えに行く。 ――沙耶さんを、返して。

 椎菜が封印術式を重ねても、黒い文字は紙の上に焼きついたままだった。 墨でもない。インクでもない。魔力の残滓でもない。

 もっと濃いもの。

 十年分の執着が、言葉という形を取って紙面に残っている。

 奈々は、その文字から目を離せなかった。

 返して。

 命令ではない。 脅迫でもない。 それは、どこか泣き声のようだった。

 だからこそ、怖い。

 黒瀬祈莉の怒りがただの憎悪なら、まだ分かりやすかった。 敵として拒めばいい。 奈々を奪おうとする相手として、抗えばいい。

 けれど、紙片に残った「返して」という言葉は、奈々の中に別の痛みを残した。

 沙耶さんを失った人。 沙耶さんを取り戻したい人。 そのために、奈々の中にある魔力を奪おうとしている人。

 黒瀬祈莉。

 まだ会ったことのないその名前が、もう奈々の胸の奥に触れている。

 奈々は自分の胸に手を当てた。

 魔力は、そこにあった。

 ずっとあった。 最初に紙片を見た時も、母から消えた女の人の話を聞いた時も、神一郎が血を流して倒れた時も。

 怖い時ほど、この魔力は奈々の中で揺れた。

 それが沙耶のものなのか。 沙耶が残した願いなのか。 それとも、もう奈々自身の一部になっているものなのか。

 まだ分からない。

 でも、今夜。

 それを奪いに来る人がいる。

「奈々くん」

 椎菜の声で、奈々は顔を上げた。

 部屋は一気に戦闘準備へ移っていた。

 椎菜は端末を片手に、本部との短い通信を繰り返している。 優子は奈々のそばに立ち、指輪の状態を何度も確認していた。 神一郎は医療結界の中で上体を起こし、静かに呼吸を整えている。

 本当は、起き上がることすら許されていない。

 それなのに、神一郎はさっきからずっと黙ってこちらを見ていた。

 嫌な予感がする。

 奈々がそう思うより早く、椎菜が言った。

「移動する。ここを戦場にはできない」

「訓練場ですか」

 優子が聞く。

「ああ。アトランティス側が管理している仮設訓練場へ向かう。人間界側からは放棄された研究施設跡に見えるが、内部には対魔力用の多重結界がある。黒瀬祈莉が来るなら、こちらで迎え撃つ」

「黒瀬祈莉が本当に来るって、分かるんですか」

 奈々の声は思ったより小さかった。

 椎菜は紙片を見る。

「この紙片は予告だ。今までと違い、黒瀬祈莉は自分の感情を隠していない。ならば、来る」

「……はい」

「奈々くんは、優子くんのシールド範囲から絶対に出るな。君の魔力は奴の目的そのものだ。神一郎を治したことで、奴は君の中の魔力が稼働状態にあると確信した。狙いは確保ではなく、強制抽出になる可能性が高い」

「強制、抽出」

 言葉だけで、身体が冷える。

 自分の中にあるものを、無理やり引きずり出される。 それがどういうことなのか、奈々には分からない。

 でも、良いことではないのは分かった。

「それをされたら、私はどうなるんですか」

「分からない」

 椎菜は正直に答えた。

「だが、安全ではない。君の中に残った魔力が藤崎沙耶由来のものだとしても、今は君の生命活動と深く結びついている可能性が高い。無理に奪われれば、君の身体も精神も危険だ」

 優子の手が、奈々の袖を掴んだ。

「させない」

 その声は低かった。

「絶対にさせない」

 奈々は優子を見る。

 優子の顔は少し青い。 静蘭のこと。祈莉のこと。主に対する恐怖。 全部を抱えたまま、それでも優子は奈々の前に立とうとしている。

「優子」

「何?」

「ありがとう」

「まだ何もしてない」

「でも、今言いたかった」

 優子は一瞬だけ目を丸くした。

 それから、少しだけ困ったように笑う。

「そういうところ、本当に奈々だよね」

「どういう意味?」

「いい意味」

「最近みんな、それでごまかす」

「便利だから」

 ほんの短いやり取り。

 それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 その時、医療結界の中から声がした。

「椎菜さん」

 神一郎だった。

 声はまだ弱い。

 だが、そこには明確な意思があった。

「やっぱり俺も行きます」

 部屋の空気が止まる。

 奈々は神一郎を見た。

 予感はしていた。

 それでも、実際に言われると胸が痛んだ。

「何言ってるの」

 奈々の声は震えた。

「神一郎、まだ動ける状態じゃないでしょ」

「分かってる」

「分かってない」

「分かってるよ」

 神一郎は静かに言った。

 その静けさが、余計に奈々を不安にさせる。

「でも、黒瀬祈莉は母さんのことを知ってる。奈々の中の力を狙ってる。俺がここで寝てるわけにはいかない」

「寝てるわけにはって……!」

 奈々は立ち上がりかけて、すぐにふらついた。

 優子が支える。

「奈々」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「分かってる」

 奈々は優子の腕に支えられながら、神一郎を見る。

「神一郎が無理に来たら、また傷が開くかもしれない。黒瀬祈莉がそこを狙うかもしれない。私がまた暴走するかもしれない」

「だから行く」

「どうしてそうなるの!」

「奈々がまた暴走しそうになった時、俺がいない方が危ない」

 神一郎の言葉に、奈々は息を呑んだ。

「俺が生きてるって、奈々が自分の目で確認できる場所にいた方がいい。俺は戦えなくても、奈々の支えにはなれる」

「戦えなくてもって言いながら、絶対戦うでしょ」

「必要なら」

「ほら!」

 奈々の声が少し大きくなる。

 泣きそうだった。

 怒っているのか、怖いのか、自分でも分からない。

 神一郎は奈々を見ていた。

 その目は、責めるものではない。 無茶をする人の目でもない。

 ただ、決めている目だった。

「奈々」

「何」

「俺は、母さんの死を奈々に背負わせたくない」

 奈々は言葉を失った。

「黒瀬祈莉が何を言っても、奈々が生きてることを否定させたくない。そのために、俺はそこにいる必要がある」

「でも、神一郎が死んだら意味ないじゃない」

「死なない」

「それで信じろって言うの?」

「信じろとは言わない」

 神一郎は少しだけ苦笑した。

「見張っててくれ。俺が無茶しすぎないように」

「そんなの……」

 ずるい。

 そう言いたかった。

 神一郎は、自分が奈々にとってどれだけ大きな支えになっているかを分かっている。 だから、そこにいると言う。

 でも同時に、自分がいることで奈々がまた傷つくかもしれないことも分かっている。

 それでも来る。

 神一郎らしい。

 嫌になるくらい、神一郎らしかった。

 椎菜が深く息を吐いた。

「本来なら却下だ」

「ですよね」

「だが、黒瀬祈莉の目的と心理を考えれば、神一郎の不在は逆に危険でもある」

 奈々は椎菜を見る。

「椎菜さんまで?」

「奈々くん。黒瀬祈莉は君だけでなく、神一郎も狙っている。藤崎沙耶の息子である神一郎がその場にいなければ、奴の狙いはすべて君へ向く」

「それは……」

「また、神一郎が無事であることを君が確認し続けられる状態は、君の魔力暴走を抑える要素にもなり得る」

 椎菜は神一郎へ視線を向ける。

「ただし、戦闘参加は最低限だ。正面戦闘は禁止。ツキカゲがないんだ。魔力自体できるだけ抑えた方がいい。腹部の傷が開けば、その場で強制的に転移させる」

「分かりました」

「分かっていない顔だ」

「努力はします」

「努力では足りない」

「気をつけます」

 椎菜はしばらく神一郎を見ていた。

 そして、短く言う。

「優子くん」

「はい」

「神一郎が無茶をしたら、奈々くんより先に止めろ」

「了解です」

「奈々くん」

「はい」

「君は神一郎に意識を向けすぎるな。奴はそこを突く」

「……分かりました」

「分かった顔ではないな」

「努力します」

「君もか」

 椎菜が珍しく少しだけ眉間を押さえた。

 その反応に、優子が少しだけ笑う。

 奈々も笑いそうになって、すぐに胸が詰まった。

 笑える。

 こんな夜でも。

 黒瀬祈莉が来ると分かっていても、まだ笑える。

 それが少しだけ救いだった。

 準備は、急速に進んだ。

 神一郎の腹部には追加の固定術式が巻かれた。 動けば痛みが走る代わりに、傷口の再裂開をある程度抑えるものらしい。

 椎菜いわく、痛みを消す術式はあえて使わない。

「痛みは警告だ。消せば無茶をするだろう」

 神一郎は何も言えなかった。

 奈々は少しだけ安心した。

 優子は奈々の周囲に重ねる防御術式を調整した。 青緑の風の膜。 それを薄く、二重三重に重ねる。

 奈々から離れすぎず、しかし密着しすぎない距離。

 黒瀬祈莉が遠距離干渉型なら、防御は硬い壁よりも、流れを逸らす柔らかい層の方がいい。 椎菜はそう判断した。

 静蘭については、最後まで意見が割れた。

 連れていくべきか。 残すべきか。

 静蘭は重傷者だ。 拘束したまま移動させるだけでも危険がある。

 だが、祈莉が動くなら、静蘭を置いていくことも危険だった。 祈莉が静蘭を回収する可能性がある。 あるいは、静蘭を切り捨てる可能性もある。

 最終的に、椎菜は静蘭を限定拘束状態で同行させると決めた。

 ただし、戦場の中心ではなく、訓練場外縁の保護結界内。 魔力結晶はすべて没収。 武器の剣、玄嵐は収納形態のまま椎菜が管理する。

 優子はそれを聞いて、複雑そうな顔をした。

「静蘭、耐えられるかな」

「耐えられなければ置いていく」

 椎菜の答えは冷たい。

 でも、それが現実だった。

 奈々は一度だけ、静蘭と目を合わせた。

 静蘭は拘束具をつけられたまま、椅子に座っていた。 顔色は悪い。 胸の傷はまだ深い。

 それでも、彼女は静かに言った。

「連れて行ってほしい」

「静蘭」

 優子が呼ぶ。

「私は、主が何をするか見届ける必要がある」

「主の部下として?」

「分からない」

 静蘭はそう言った。

 また、その言葉。

 でも今度は、逃げではなかった。

「ただ、今の主が任務ではなく私情で動いているのなら、私は考え直さなければならない」

 椎菜が静蘭を見る。

「君に戦闘参加は許可しない、と言うよりは無理だろうが」

「分かっている」

「逃亡を試みれば撃つ」

「それも分かっている」

 静蘭の視線が、優子へ向いた。

「優子」

「何?」

「私は、あなたの隣には立たない」

「うん」

「でも、主の刃として動くかどうかも、今は分からない」

 優子は少しだけ目を伏せた。

「それでいいよ。今は」

 静蘭は何も言わなかった。

 その代わり、ほんのわずかに頷いた。

 移動は、椎菜の術式によって行われた。

 転移ではない。

 正確には、既存の結界経路を利用した高速移動だという。 奈々には細かい違いは分からなかった。

 ただ、足元の術式が光り、視界が一瞬だけ白く滲んだと思った次の瞬間、空気の匂いが変わっていた。

 湿ったコンクリートの匂い。 使われなくなった施設特有の、乾いた埃の匂い。 夜風の冷たさ。

 そこは、郊外にある廃施設だった。

 外から見れば、古い研究所か工場跡のように見える。 ひび割れた外壁。 錆びたフェンス。 草の伸び切った中庭。

 だが、内部に入ると違った。

 広い訓練場。

 床には古い傷が無数に刻まれている。 壁には結界用の術式が組み込まれ、天井には淡い青白い光が走っていた。

 ここは戦うための場所だ。

 奈々は、入った瞬間にそう感じた。

「ここなら、多少の衝撃は外へ漏れない」

 椎菜が言った。

「ただし、黒瀬祈莉の魔力は未知数だ。油断するな」

「黒瀬祈莉の武器は?」

 神一郎が聞く。

 椎菜は静蘭を見る。

 静蘭は拘束された状態で外縁の結界内に座らされていた。 優子が少しだけそちらを気にする。

「主は、特定の武器を持たないと言われているけど、昔はロングレンジ、ライフルだったと聴いている」

 静蘭は答えた。

「魔力糸、遠隔干渉、空間固定。状況に応じて使う。剣士ではない」

「遠距離型か」

 神一郎が呟く。

「なら、接近できれば」

「安易に近づくな」

 静蘭が即座に言った。

 神一郎がそちらを見る。

「君に心配されるとは思わなかった」

「心配ではない。情報」

「そうか」

「主の周囲には、見えない干渉壁がある。近づくほど身体の動きを奪われる。クロスレンジは相性が悪い」

 椎菜が頷く。

「予想通りだな」

「だからこそ、静蘭のようなクロスレンジを使ったわけか」

 神一郎の声に、わずかな皮肉が混じる。

 静蘭は否定しなかった。

「主は、自分の弱点を理解している」

 奈々は神一郎を見る。

 彼は立っている。

 腹部に魔力を使用した包帯を巻いているが、顔色はまだ悪い。

 戦う気だ。

 本当に戦う気なのだ。

「藤崎神一郎」

 静蘭は神一郎を真っ直ぐ見つめている。

「玄嵐を使って」

「自分で何を言っているのかわかってるか?玄嵐の魔力結晶はお前とリンクしている。それを俺に渡すことになるんだ」

「わかっている」

 魔力結晶とのリンクはある意味契約みたいな物。

 別の騎士とリンクした時点でその人が所有権を放棄するまで別の騎士の言うことは聞かなくなる。

 自分の半身を失う様なものだった。

「あなたの武器は私が壊してしまった。主を相手するのに武器がなくては自殺行為。それに」

 静蘭途中で口籠る。

「それに、何だ?」

 神一郎の代わりに椎菜がきく。

「主止めて欲しい」

 皆が押し黙る。

 静蘭は敵。

 間違いのない事実だが、主を止めたいと言う気持ちも恐らく事実だった。

 「わかった。言うことを聞くかどうかはわからないが、この力を借りよう」

 そう言うと神一郎は椎菜から玄嵐を受け取った。

 「リンク」

 その一言で玄嵐纏う魔力と神一郎の魔力が結合する。

 優子と同じ風系統の魔力が漂った。

 その戦闘へと向かう神一郎の視線を見て奈々の胸がざわつく。

「神一郎」

「何?」

「無茶したら怒るから」

「分かってる」

「本当に?」

「一応」

「便利に逃げない」

「……分かった」

 神一郎は少しだけ苦笑する。

「無茶はしない。必要ならやるべきことをやる」

「それ、神一郎の中では無茶に入らないやつでしょ」

「信用ないな」

「あるから言ってるの」

 神一郎は言葉に詰まった。

 奈々も、自分で言って少し恥ずかしくなる。

 でも、もう隠さなかった。

 怖い。 心配。 生きていてほしい。

 そういう気持ちを、今はちゃんと言葉にしたかった。

 優子が隣で小さく咳払いする。

「お二人さん、今は決戦前です」

 「「分かってる」」

 奈々と神一郎が同時に答える。

 優子が少しだけ笑った。

「息ぴったり」

「優子」

「はいはい、もう茶化さないよ」

 そんなやり取りの直後。

 訓練場の空気が、ぴたりと止まった。

 夜風の音が消える。 天井の光が、一瞬だけ弱くなる。

 奈々の胸の奥が、強く揺れた。

 来る。

 誰かに言われなくても分かった。

 主が来る。

 椎菜がアグニを展開する。

「全員、配置」

 短い命令。

 優子が奈々の前に立つ。 青緑のシールドが薄く広がる。

 椎菜はやや左前。 神一郎は奈々の右側、少し後ろ。 後方と言うのは本来ならクロスレンジの位置ではない。 しかし彼は、奈々から見える場所にいた。

 静蘭は外縁結界の中で、じっと訓練場の中央を見つめている。

 床の中央に、黒い線が走った。

 亀裂ではない。 影だ。

 光のない場所から、影が伸びる。

 その影の中心に、一人の女性が立っていた。

 紫の髪。 腰にかかる長さで整えられたそれが、空調もないはずの訓練場でわずかに揺れている。 年齢は、奈々たちよりずっと上だ。 けれど老いているわけではない。

 むしろ、整いすぎている。

 感情を削り落としたような顔。 淡い色の肌。 疲れたような目。 それなのに、その奥に燃えているものだけが異様に濃い。

 黒瀬祈莉。

 奈々は、見た瞬間に分かった。

 この人が主だ。

 紙片を置いた人。 奈々を監視していた人。 神一郎の母を返してと叫んでいた人。

 黒瀬祈莉はゆっくりと視線を巡らせた。

 椎菜。 優子。 静蘭。 神一郎。

 最後に、奈々。

 その瞬間、祈莉の目が揺れた。

 怒りではない。

 痛み。

 奈々を見る目の奥に、どうしようもない痛みがあった。

「……本当に」

 祈莉が呟いた。

 声は静かだった。

 けれど、その声を聞いた瞬間、奈々の胸の奥の魔力が震えた。

「本当に、そこにあるのね」

 祈莉は一歩、奈々へ近づいた。

 優子のシールドが強く光る。

「止まってください」

 優子が言った。

 声は震えていない。

 祈莉は優子を見る。

「朝倉優子」

「はい」

「静蘭を負かしたの?」

「違います。私は、奈々を守っただけです」

「そう」

 祈莉は外縁にいる静蘭へ視線を向けた。

「静蘭」

 静蘭の身体がわずかに強張る。

「任務は失敗したのね」

「はい」

 静蘭は静かに答えた。

「対象確保に失敗。朝倉優子の回収にも失敗。藤崎神一郎の無力化は、一時的には達成しましたが、失敗」

「胸を貫かれても、報告は正確ね」

「訓練通りです」

「そう」

 祈莉は少しだけ笑った。

 その笑みは、ひどく冷たく、ひどく悲しかった。

「でも、もういいわ」

 静蘭の目がわずかに揺れる。

「もう、いい?」

「あなたの任務は終わり。ここからは私がやる」

 その言葉に、静蘭は顔を上げた。

「それは、軍の任務ですか」

 祈莉の視線が静蘭へ向く。

 空気が凍った。

 優子が息を呑む。

 静蘭は怯まなかった。

 重傷の身体。 拘束された手足。 武器もない。

 それでも、彼女は祈莉を見ていた。

「主。これは、軍の任務ですか」

 祈莉はしばらく静蘭を見つめていた。

 それから、静かに言った。

「違うわ」

 その答えは、あまりにもあっさりしていた。

「これは私の願い」

 静蘭の表情が止まった。

 優子の顔が歪む。

 椎菜の目が鋭くなる。

 祈莉は奈々を見た。

「沙耶さんを返してもらうための、私の願い」

 奈々の胸が強く揺れた。

「黒瀬祈莉さん」

 奈々は名前を呼んだ。

 祈莉の目が奈々へ向く。

 その視線は、熱いのに冷たかった。

「私の名前を呼ばないで」

「でも」

「あなたに呼ばれたくない」

 言葉は刃だった。

 奈々は息を止める。

 優子が前へ出ようとするが、奈々は小さく首を振った。

 言われると思っていた。

 祈莉にとって、奈々は沙耶を奪った存在だ。 その奈々に名前を呼ばれることすら、許せないのだろう。

 それでも、奈々は目を逸らさなかった。

「私は、沙耶さんを奪ったつもりはありません」

「そうでしょうね」

 祈莉の声は静かだった。

「あなたは何も知らなかった。何も選ばなかった。ただ生き残った」

 その言葉が、胸に刺さる。

「沙耶さんは、あなたを救って、そして死んだ。あなたは生きた。沙耶さんはいなくなった」

 祈莉の目が、ほんの少しだけ歪んだ。

「それだけよ」

「それだけじゃない」

 神一郎の声だった。

 祈莉の視線が神一郎へ移る。

 その瞬間、祈莉の表情が初めて大きく揺れた。

「……神一郎くん」

 その呼び方に、奈々は息を呑んだ。

 祈莉は、神一郎を知っている。

 まだ幼かった頃の彼を、きっと知っている。

 神一郎もまた、その呼び方にわずかに反応した。

「俺を知ってるんですね」

「知ってるわ」

 祈莉は静かに答えた。

「小さかった。沙耶さんの後ろに隠れて、でも剣の稽古だけは負けず嫌いで。泣きそうになっても、泣かないふりをしていた」

 神一郎の表情が硬くなる。

 奈々は胸が痛くなった。

 祈莉は、本当に神一郎の過去を知っている。

 沙耶のそばにいた人なのだ。

「大きくなったのね」

 祈莉の声に、ほんの一瞬だけ柔らかさが混じった。

 けれど、それはすぐに消えた。

「でも、どうしてそこにいるの」

「そこ?」

「その子の隣」

 祈莉の視線が奈々へ戻る。

「沙耶さんが命を落とした原因。その子の隣に、どうしてあなたがいるの」

 神一郎の顔色が悪くなる。

 傷のせいだけではない。

 その言葉は、祈莉が神一郎に向けて放った刃だった。

「あなたは知らなかった。だから責めない。でも、今は知っているでしょう」

 祈莉は一歩、近づく。

 椎菜がアグニを構えた。

 祈莉の周囲で、見えない糸のようなものが揺れる。

「藤崎沙耶は、その子を救って死んだ。あなたの母親は、その子のせいで帰ってこなかった」

 奈々の身体が震える。

 神一郎が何を思うのか。

 怖い。

 神一郎は奈々を責めないと言ってくれた。 それでも、祈莉の口からこの言葉を聞くのは耐え難い。

 神一郎の母を知る人。 沙耶の近くにいた人。 その人に言われると、奈々の胸の奥に罪悪感が押し寄せてくる。

 神一郎は、しばらく何も言わなかった。

 ただ、呼吸を整えていた。

 痛みのせいか、腹部を押さえる手に力が入っている。

 奈々は思わず一歩近づこうとして、優子に止められた。

「奈々、だめ」

「でも」

「神一郎君は大丈夫。見て」

 奈々は神一郎を見る。

 神一郎は顔を上げた。

 祈莉を見る。

「知りました」

 声は弱い。

 でも、まっすぐだった。

「母さんが奈々を救ったことも。奈々の中に、母さんの魔力が残っていることも」

 祈莉の目が細くなる。

「なら、なぜ」

「それでも、奈々は母さんが生かした人です」

 祈莉の表情が止まった。

 神一郎は続ける。

「母さんが奈々に生きてほしいと思ったなら、俺はそれを否定しません」

「綺麗事ね」

「あなたは、母親を失ったのよ」

「はい」

 神一郎の声が、わずかに震えた。

「失いました」

 奈々の胸が痛む。

「俺は母さんの死の理由を知らなかった。知らないまま生きてきた。でも、母さんが誰かを救う人だったことは知ってます。だから、奈々を憎むことは、母さんの選択を否定することになる」

「沙耶さんの選択……?」

 祈莉の声が冷たくなる。

「あなたに何が分かるの。あの場にいなかったあなたに。沙耶さんがどれだけ苦しんだか、どれだけ魔力を消費したか、最後にどんな顔をしていたか、何も知らないあなたに」

 空気が重くなる。

 祈莉の周囲の魔力が、床を這い始めた。

 見えない刃が、少しずつこちらへ伸びてくる。

 椎菜が銃口を向ける。

「黒瀬祈莉、そこまでだ」

 祈莉は椎菜を見た。

「中嶋椎菜。二番隊隊長だったかしら。若いのに優秀ね」

「情報収集は十分なようだな」

「沙耶さんがいた騎士団だから。知っているわ」

「なら分かるはずだ。お前の行為は、騎士団の任務でも軍の任務でもない。私怨だ」

「そうよ」

 祈莉は即答した。

「私怨よ。未練よ。執着よ。それが何?」

 その声が、初めて震えた。

「沙耶さんはいない。消された。誰も語らない。沙耶さんが何をしたのか、誰を救ったのか、どうして死ななければならなかったのか。全部、なかったことにされた」

 祈莉の瞳が、奈々へ向く。

「なのに、その子の中にだけ残っている」

 胸の奥の魔力が、痛いほど震える。

「沙耶さんの魔力が。沙耶さんの魂が。沙耶さんの声が」

 祈莉の手が、ゆっくりと上がった。

「返して」

 その一言と同時に、訓練場の床から黒い糸が跳ね上がった。

 速い。

 優子が即座にシールドを展開する。

 青緑の壁に、黒い糸が突き刺さる。

 音はしなかった。

 糸は壁に絡みつき、染み込むように内側へ入ろうとする。

「重い……!」

 優子が歯を食いしばる。

 椎菜のアグニが火を噴いた。

 魔力弾が黒い糸を撃ち抜く。

 だが、糸は千切れてもすぐに再生した。

「通常弾では効きにくいか」

 椎菜が冷静に呟く。

「優子くん、押し返そうとするな。流せ!」

「はい!」

 優子のシールドが形を変える。

 硬い壁から、流れる風へ。

 黒い糸が風に巻き込まれ、横へ逸れる。

 その隙に、椎菜が連射した。

 今度は糸の根元。

 床に打ち込まれた術式が弾け飛ぶ。

 黒い糸が消えた。

 だが、祈莉は動じない。

「防御が上手いのね、優子」

「褒められても嬉しくありません」

「昔から、あなたは人を守る方が向いていたのかもね」

「だったら、私はそれでいいです」

 優子の声は震えていた。

 でも、強かった。

「私は奈々を守ります。主には渡しません」

 祈莉は少しだけ目を伏せた。

「あなたも、そちら側なのね」

「はい」

「そう」

 その声は寂しそうだった。

 でも次の瞬間、祈莉の影が広がった。

 訓練場の壁、床、天井。 あらゆる場所に黒い術式が浮かび上がる。

 椎菜が叫ぶ。

「全方位干渉! 優子くん、奈々くんを中心に防御!」

「分かってます!」

 優子のシールドが球状に広がる。

 奈々はその中心に立っていた。

 目の前には優子。 左前に椎菜。 右後ろに神一郎。

 神一郎が一歩、動いた。

「神一郎!」

 奈々が叫ぶ。

「大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

 黒い術式の一部が、奈々の背後へ回り込もうとしていた。

 優子の防御が追いつかない角度。

 神一郎はそこへ立った。

 玄嵐を構える。

「椎菜さん」

「許可しない」

「必要です」

 椎菜の舌打ちが聞こえた。

「一撃だけだ」

「了解」

 玄嵐が応えるように光る。

 神一郎は腹部を押さえながらも、黒い術式の線へ向かって刃を振るった。

 斬る。

 だが、ただの斬撃ではない。

 術式の流れを断つような、短く正確な一撃。

 黒い線が弾け、奈々の背後へ伸びていた干渉が途切れた。

 直後、神一郎の顔が歪む。

 傷が痛んだのだ。

 奈々の胸が跳ねる。

「神一郎!」

「大丈夫……じゃないけど、大丈夫」

「それ私の!」

「便利だな」

「今言うことじゃない!」

 祈莉の視線が、神一郎へ向いた。

「その傷で立つのね」

「母さんの知り合いに、寝てろって言われるよりは」

「減らず口も似てきた」

「誰に?」

「沙耶さんに」

 その言葉に、神一郎の表情が揺れた。

 祈莉は、その揺れを見逃さない。

「沙耶さんもそうだった。自分が傷ついても、笑ってごまかす。大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言う。人を助けるためなら、自分の命を軽く扱う」

 祈莉の声が低くなる。

「だから死んだ」

 神一郎の顔が白くなる。

 奈々も息を呑む。

「沙耶さんは優しかった。強かった。誰よりも人を救おうとした。だから、その優しさに殺された」

 祈莉の目が奈々を射抜く。

「その結果が、あなたよ」

 胸の奥が痛い。

 奈々は膝をつきそうになった。

 けれど、優子の手が奈々の腕を掴む。

「奈々、聞かないで」

「でも」

「じゃあ聞いていい。でも、飲まれちゃダメ」

 飲まれない。

 奈々は必死に呼吸をした。

 祈莉の言葉は、半分は本当なのかもしれない。 沙耶は奈々を救った。 そのために魔力を使い果たした。 祈莉はそれを見て、壊れた。

 でも、それがすべてではない。

 椎菜が言った。

 一部の情報で自分を裁くな。

 神一郎が言った。

 奈々が生きていることを否定する答えは選ばない。

 優子が言った。

 奈々の隣にいる。

 奈々は胸に手を当てる。

 魔力は震えている。 でも、まだそこにある。

「黒瀬祈莉さん」

 奈々は言った。

「私は、沙耶さんがどういう人だったのか、まだ少ししか知りません」

 祈莉が奈々を見る。

「あなたに分かるわけない」

「はい。まだ分かりません」

 奈々は認めた。

 認めた上で、続けた。

「でも、沙耶さんが私を生かしてくれたなら、その命を恨みだけで捨てたくありません」

「恨みだけ?」

 祈莉の声が震える。

「あなたが、それを言うの?」

「言います」

 怖い。

 声が震える。

 でも、奈々は言った。

「あなたがが沙耶さんを大切に思っていたことは、本当なんだと思います。返してほしいって言葉も、嘘じゃないと思います。でも、私を壊して沙耶さんの魔力を取り戻すことが、沙耶さんの願いだとは思いたくない」

 祈莉の表情が変わった。

 怒り。

 痛み。

 そして、拒絶。

「黙って」

 空気が軋む。

 祈莉の魔力が一気に膨れ上がった。

「あなたが、沙耶さんの願いを語らないで」

 黒い術式が、今度は奈々の足元に直接浮かび上がる。

 優子のシールドの内側。

 いつの間に。

 椎菜が反応する。

「内側から干渉!? 奈々くん、動くな!」

 床から伸びた黒い糸が、奈々の足首に絡みついた。

「っ……!」

 冷たい。

 身体の中へ指を入れられるような感覚。

 奈々は息を詰めた。

 優子がシールドを内側へ向ける。

 だが、黒い糸は奈々の魔力に直接触れていた。

 胸の奥の魔力が、強引に引っ張られる。

 痛い。

 熱い。

 気持ち悪い。

「奈々!」

 神一郎が動く。

 椎菜が叫ぶ。

「神一郎、動くな!」

 しかし神一郎は止まらなかった。

 腹部の傷を押さえながら、玄嵐を構えて奈々の足元へ踏み込む。

 祈莉の指が動いた。

 見えない糸が神一郎の身体へ巻きつく。

「っ……!」

 神一郎の動きが止まる。

 傷口に負荷がかかったのか、顔が歪む。

 奈々の胸が壊れそうになる。

「神一郎、だめ!」

「奈々を……離せ」

 神一郎は歯を食いしばる。

 玄嵐を振り下ろす。

 黒い糸が一本、二本と切れる。

 だが、すぐに別の糸が絡みつく。

 祈莉は神一郎を見た。

「あなたも、本当に沙耶さんに似ている」

「だったら」

 神一郎は息を荒げながら言う。

「母さんが嫌がることも、分かるはずだ」

 祈莉の目が揺れた。

「母さんは、奈々を壊してまで自分を取り戻してほしいなんて、思わない」

「黙って」

「思わない!」

 神一郎が叫んだ。

 その瞬間、腹部の魔力を注いだ包帯が赤く点滅した。

 危険信号。

 奈々の視界が滲む。

「神一郎!」

 優子が叫ぶ。

「奈々、黒瀬祈莉に意識を向けて! 引っ張られてる!」

 分かっている。

 でも、神一郎が。

 血が。

 また。

 また失う。

 胸の奥が暴れ始める。

 白い光が、奈々の身体から漏れた。

 祈莉の目が見開かれる。

「沙耶さん……」

 その声は、祈りに近かった。

 黒い糸が一斉に奈々の胸へ向かう。

 優子のシールドが破裂するように揺れた。

 椎菜のアグニが連射される。

 静蘭が外縁結界の中で叫んだ。

「主、それは抽出用術式じゃない!」

 祈莉は静蘭を見ない。

 静蘭はなおも叫ぶ。

「それは破壊用です! 対象が死ぬ!」

「知っているわ」

 祈莉の返答に、全員が凍った。

 静蘭の表情が崩れる。

「……知っていて、やるんですか」

「沙耶さんを返してもらう」

「赤坂奈々は死にます」

「沙耶さんは、もう死んでいる」

 その声は、静かだった。

 あまりにも静かで、壊れていた。

「だから、返してもらうの」

 静蘭の顔から血の気が引いた。

 優子が叫ぶ。

「静蘭! それでも祈莉さんの命令なの!?」

 静蘭は答えられなかった。

 拘束された手が、わずかに震えている。

「私は……」

 静蘭の唇が動く。

「私は、任務のために……」

 祈莉の黒い糸が、奈々の胸へ触れた。

 瞬間、奈々の視界が白く弾けた。

 身体の中から、何かが引きずり出される。

 痛い。

 声にならない。

 胸の奥にあった魔力が、根ごと剥がされそうになる。

「奈々!」

 神一郎の声が聞こえる。

 遠い。

 優子の声も、椎菜の声も、遠ざかっていく。

 祈莉の声だけが、すぐそばにあった。

「沙耶さん」

 泣いているような声。

「やっと、見つけた」

 奈々の身体から、白い光が引き出されていく。

 それは糸のように細く、でも確かに奈々の胸から祈莉の手へ繋がっていた。

 祈莉はその光を両手で受け止めるように見つめる。

 その顔は、初めて戦う敵の顔ではなくなっていた。

 迷子の子どものようだった。

 長い間探していたものに、ようやく触れた人の顔。

 奈々はその表情を見て、なぜか泣きそうになった。

 怖いのに。

 痛いのに。

 祈莉が自分を殺そうとしているのに。

 それでも、その顔があまりにも悲しかった。

「返して……」

 祈莉は呟く。

「沙耶さんを、返して……」

 白い光が、さらに強く引かれる。

 奈々の膝が崩れた。

 優子が支えようとするが、黒い糸に阻まれる。

 椎菜が術式を撃つ。 しかし祈莉の干渉域に弾かれる。

 神一郎が玄嵐を握り直す。

 血が、固定術式の下から滲んだ。

「奈々……!」

 神一郎が踏み出す。

 祈莉の糸が神一郎を止める。

 それでも、神一郎は進んだ。

 一歩。

 また一歩。

 傷口から血が落ちる。

 奈々は叫びたかった。

 来ないで。 動かないで。 死なないで。

 でも、声が出ない。

 胸から光を引きずり出され、呼吸すらできなかった。

 その時。

 外縁結界で、鋭い音が鳴った。

 静蘭だった。

 拘束具に力を込め、傷口を開きながら、術式に抵抗していた。

「静蘭!」

 優子が叫ぶ。

 静蘭の胸元に血が滲む。

 それでも、彼女は顔を上げた。

「これは……任務じゃない」

 静蘭の声は震えていた。

 けれど、はっきりしていた。

「主。これは、もう任務ではありません」

 祈莉は振り向かない。

 静蘭は続けた。

「私は、あなたの刃として来た。命令に従い、対象を確保し、障害を排除するために剣を取った。でも、これは違う」

 拘束術式が軋む。

 椎菜が目を見開く。

「静蘭、動くな! 傷が開く!」

「分かっています」

 静蘭は低く答えた。

「それでも、言わなければならない」

 静蘭は祈莉を見る。

「黒瀬祈莉。あなたは、もう主ではない。任務を指揮する者ではない。ただ、失った人を追い続けているだけです」

 祈莉の手が止まった。

 ほんの一瞬。

 白い光を引く力が緩む。

 その一瞬を、椎菜は逃さなかった。

「優子くん!」

「はい!」

 優子のシールドが形を変え、奈々を縛る黒い糸の外側を包む。

 押し返すのではなく、流す。

 黒い糸の張力がわずかに逸れる。

 椎菜のアグニが、祈莉の足元の術式を撃ち抜いた。

 黒い糸が数本、弾け飛ぶ。

 神一郎が、最後の一歩を踏み込んだ。

 玄嵐が黒い糸を斬る。

 奈々の胸を引いていた光が、一瞬だけたわんだ。

「奈々!」

 神一郎の声。

 奈々は必死に目を開けた。

 神一郎がいる。

 血を流している。 痛みに顔を歪めている。 それでも、そこにいる。

 生きている。

 優子がいる。

 椎菜がいる。

 静蘭も、外縁で傷口を開きながら立っている。

 奈々は、ひとりではない。

 胸の奥が震えた。

 逃げるような震えではない。

 答えようとする震えだった。

「これは……」

 奈々はかすれた声で呟いた。

「これは、返さない……」

 祈莉の目が奈々へ向く。

「何を……」

「沙耶さんが、私に残してくれたものなら」

 痛い。

 胸が裂けそうだ。

 でも、奈々は言った。

「私は、それを奪わせない」

 白い光が、奈々の胸へ戻ろうとする。

 祈莉が目を見開く。

「駄目」

 祈莉の声が震えた。

「駄目よ。沙耶さんを、また失うなんて」

 黒い糸が再び強くなる。

 白い光が引き戻される。

 奈々の意識が揺れる。

 椎菜が叫ぶ。

「奈々くん、持ちこたえろ!」

 優子が奈々の手を掴む。

「奈々、こっちを見て!」

 神一郎が玄嵐を支えに膝をつきながら、奈々を見る。

「奈々……!」

 声が重なる。

 白と黒が絡み合う。

 胸の奥から引きずり出される光。 それを奪おうとする祈莉。 それを繋ぎ止めようとする奈々。

 そして、その奥で。

 奈々は、聞いた。

 ――大丈夫。

 懐かしい声。

 夢で聞いた声。

 白い天井の下で、手を握ってくれた声。

 ――あなたは、生きて。

 奈々の視界が、白く染まる。

 祈莉の手が、光の中で震えた。

 彼女もまた、その声を聞いたのかもしれない。

「沙耶……さん……?」

 祈莉が、呆然と呟いた。

 その瞬間、訓練場のすべての術式が白く輝いた。

 奈々の意識は、光の奥へ沈んでいく。

 けれど、今度は暴走ではない。

 誰かに奪われるためでもない。

 胸の奥から溢れた魔力が、奈々自身の意思に寄り添うように広がっていく。

 その光の中で、祈莉は泣きそうな顔をした。

「沙耶さん……そこに、いるの……?」

 奈々は答えられなかった。

 答えられないまま、光に包まれていく。

 最後に見えたのは、神一郎がこちらへ手を伸ばす姿だった。

 その手が届くより先に、白い光が奈々と祈莉の間で弾けた。

 夜は、まだ終わらない。


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