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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第四章 夜を越えるために
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第四章 第五話 夜明けの残響

 白い光の中で、奈々は声を聞いていた。

 それは遠くから聞こえてくるようでもあり、胸の奥から響いているようでもあった。

 ――大丈夫。

 懐かしい声。

 まだ名前を知らなかった頃から、奈々の奥に残っていた声。

 ――あなたは、生きて。

 白い天井。

 血の匂い。

 誰かの手。

 幼い奈々が見上げていた世界の断片が、今、訓練場の白い光の中で重なっていた。

 祈莉の黒い糸が、奈々の胸から白い魔力を引きずり出そうとしている。

 優子のシールドが軋み、椎菜のアグニが術式を撃ち抜き、神一郎が傷だらけの身体で前へ進もうとしている。

 全部、見えている。

 見えているのに、身体が動かない。

 胸の奥が痛い。

 奪われている。

 そう分かる。

 奈々の中にあった魔力。

 ずっと怖い夜を支えてくれていた、白い魔力。

 それが、祈莉の手へ向かって引きずられていく。

「沙耶さん……」

 祈莉の声が、光の向こうから聞こえた。

 それは敵の声ではなかった。

 泣いている子どもの声だった。

「そこに、いるの……?」

 奈々は、祈莉を見た。

 黒瀬祈莉。

 主と呼ばれていた人。

 奈々を追い詰め、優子と静蘭を戦場へ引き戻した人。

 でも今、白い光に照らされた祈莉の顔は、恐ろしいほど寂しそうだった。

 奈々を見ていない。

 奈々の中にある何かだけを見ている。

 藤崎沙耶。

 祈莉が失った人。

 神一郎の母。

 奈々を救った人。

 その人の残響だけを、祈莉は見ている。

「返して……」

 祈莉は呟いた。

「お願いだから……沙耶さんを、返して……」

 黒い糸がさらに強くなる。

 奈々の胸から白い光が引かれる。

 痛みが走った。

 身体が裂ける痛みではない。

 もっと内側。

 心臓の奥から、何かを剥がされるような痛み。

「っ……!」

 奈々は息を詰めた。

 膝が崩れそうになる。

 その瞬間、優子の声が届いた。

「奈々!」

 青緑の風が、奈々の身体を支える。

 優子は奈々の前に立ち、両手でシールドを広げていた。

 いつもの明るい顔はない。

 額には汗が浮かび、唇は震えている。

 それでも、優子は退かなかった。

「黒瀬祈莉さん、やめてください!」

 優子が叫ぶ。

「それ以上やったら、奈々が壊れる!」

「壊れる?」

 祈莉の声が静かに返る。

「壊れたのは、私の方よ」

 その一言で、空気が凍った。

「沙耶さんが死んだ日から、私はずっと壊れている。記録は消されて、部隊はなかったことにされて、沙耶さんが何を守ったのかも、誰を救ったのかも、誰も語らない」

 祈莉の目が、奈々の胸元の光へ向く。

「なのに、その子の中にだけ残っている。沙耶さんの魔力が、沙耶さんの温度が、沙耶さんの声が」

「だからって、奈々を壊していい理由にはならない!」

「理由なんて、もういらない」

 祈莉は、泣きそうな顔で笑った。

「私は、沙耶さんに会いたいだけ」

 黒い糸が、さらに深く奈々の魔力へ食い込む。

 奈々の視界が白く濁った。

 足元が消えていく。

 自分がどこに立っているのか、分からなくなる。

 その時、乾いた破裂音が響いた。

 椎菜のアグニだった。

 魔力弾が祈莉の足元を撃ち抜く。

 黒い術式が一つ、砕けた。

 奈々を引く力が、一瞬だけ弱まる。

「黒瀬祈莉」

 椎菜の声は冷たかった。

「君の気持ちは理解できる。だが、それを理由に奈々くんを破壊するなら、私は君を敵として処理する」

「処理」

 祈莉が椎菜を見る。

「騎士団らしい言葉ね」

「必要な言葉だ」

「沙耶さんなら、そんな言い方はしなかった」

「私は藤崎沙耶ではない」

 椎菜はアグニを構えた。

「だが、藤崎沙耶が救った命を守ることはできる」

 祈莉の表情が歪む。

「あなたも、沙耶さんを語るの」

「私は沙耶さん本人を知らない。だが、神一郎を知っている。奈々くんを知っている。優子くんを知っている。君が今壊そうとしているものを知っている」

 アグニの銃口が、祈莉の周囲に浮かぶ黒い糸を捉える。

「だから止める」

 椎菜が撃つ。

 一発目が術式を砕く。

 二発目が黒い糸を断つ。

 三発目が祈莉の足元の魔法陣を削る。

 だが、祈莉は動かなかった。

 彼女の周囲に、無数の黒い糸が浮かび上がる。

 遠距離干渉型。

 静蘭が言った通り、祈莉は武器を持たない。

 けれど、訓練場そのものが祈莉の武器になっていた。

 壁。

 床。

 天井。

 空気。

 あらゆる場所に細い術式が走り、椎菜の射線を潰していく。

 椎菜は一歩も下がらず撃ち続けた。

 光弾と黒い糸がぶつかり、訓練場の中で火花のような魔力光が散る。

「優子くん、奈々くんの魔力流出を抑えろ!」

「はい!」

 優子がシールドを奈々の胸元へ重ねる。

 硬い壁ではなく、柔らかく流れる風。

 奈々の胸から引きずり出される白い光を、無理に押し戻すのではなく、奈々の身体へ沿うように包み込む。

「奈々、聞こえる?」

 優子が言う。

「聞こえるなら、私の声を聞いてて。祈莉さんの声は聞かないで。私もいる。椎菜さんもいる。神一郎君もいるよ」

 神一郎。

 その名前で、奈々の意識が少しだけ戻る。

 白く霞む視界の中で、奈々は神一郎を探した。

 いた。

 神一郎は右側にいた。

 腹部を押さえ、玄嵐を杖のように使い、それでも立っている。

 顔色は悪い。

 腹部を見ると、血が滲んでいる。

 また傷が開きかけている。

「神一郎……」

 声がかすれた。

 神一郎が奈々を見る。

 その目は苦しそうで、それでもまっすぐだった。

「奈々、こっちを見ろ」

「でも……」

「俺は生きてる」

 その言葉が、白い闇の中で灯りになった。

「ここにいる。だから、持っていかれるな」

 持っていかれるな。

 奈々は胸に手を当てようとした。

 けれど、黒い糸が腕に絡みつき、うまく動かない。

 祈莉の魔力が、まだ奈々の中へ食い込んでいる。

 魔力が引っ張られる。

 祈莉の手へ。

 祈莉の喪失へ。

 祈莉の十年へ。

「神一郎」

 椎菜が短く呼んだ。

「動けるか」

「動けます」

 神一郎は玄嵐を握り直した。

「奈々くんを引き戻すには、やつを止めるしかない」

 椎菜は一瞬だけ神一郎を見た。

 だが、椎菜はすぐに判断を下した。

「三十秒保たせろ」

「余裕です」

「足りなければ死ぬぞ」

「死にません」

「なら証明しろ」

 椎菜が前へ出る。

 アグニが二丁へ分かれる。

 右手の銃口が祈莉の術式を狙い、左手の銃口が神一郎の進路を塞ぐ黒い糸を撃ち抜く。

「優子くん、奈々くんを固定しろ!」

「はい!」

「神一郎、右から攻めろ。やつの魔力は奈々くんに集中している。それ以外は手薄なはずだ」

「了解」

 神一郎が走る。

 いや、走ったというには遅い。

 傷を庇いながら、足を引きずるような踏み込み。

 だが、間合いの取り方だけは鋭かった。

 黒い糸が神一郎へ殺到する。

 椎菜の射撃で糸が弾ける。

 残った糸を神一郎が玄嵐で斬る。

 一歩。

 また一歩。

 祈莉へ近づく。

「神一郎くん」

 祈莉が静かに言った。

「来ないで」

「奈々を離してください」

「沙耶さんを返してくれたら、離すわ」

「返せません」

「なぜ」

「母さんは、物じゃない」

 神一郎の刃が黒い糸を断つ。

「奈々も、物じゃない」

 祈莉の視線が揺れる。

「沙耶さんは、その子の中にいる」

「なら、そこにいることを母さんが望んだんです」

「違う!」

 初めて、祈莉が声を荒げた。

 訓練場の壁が軋む。

 黒い糸が一斉に神一郎へ向かった。

 椎菜の弾幕がそれを撃ち落とす。

 だが、数が多い。

 一本の糸が神一郎の肩を裂く。

 別の糸が脚を絡める。

 神一郎の身体が傾いた。

「神一郎君!」

 優子が叫ぶ。

 神一郎は倒れなかった。

 玄嵐を床に突き立て、無理やり姿勢を戻す。

 顔が青白い。

 傷口から血が落ちる。

 奈々の胸の奥が爆ぜそうになる。

 だめ。

 また暴走しそうになる。

 その時、背後から静かな声がした。

「藤崎神一郎」

 静蘭だった。

 外縁結界の中で、拘束されたまま祈莉を見ていた静蘭。

 その顔は真っ青だった。

 胸の傷も開きかけている。

 けれど、目ははっきりしていた。

「玄嵐だけじゃない」

 神一郎が振り向く。

「何?」

「主の干渉域は、玄嵐一本では斬り切れない。玄嵐は重いが足りない。術式を押し切るのには折れたとてツキカゲが必要だ」

 椎菜が静蘭を見る。

「君の知恵を貸すのか」

「貸すのではありません」

 静蘭は短く言った。

「見ていられないだけです」

「違いが分からないな」

「私にはあります」

 優子が静蘭を見つめた。

「静蘭……」

「勘違いしないで」

 静蘭は優子を見ないまま言った。

「私は、あなたたちの仲間になったわけではない」

「うん」

「でも、今の主はもう任務を遂行していない」

 静蘭の声が少しだけ震えた。

「これは、止めるべきものです」

 静蘭の声を聞き椎菜が叫ぶ

「神一郎!」

 神一郎は左手を胸ポケットに伸ばした。

 ボールペンが一振りの刀へと姿を変える。

 中程で折れているが、玄嵐の魔力に反応し、青黒い刀身を形成した。

 重さに身体が沈む。

 腹の傷に響いたのか、神一郎の顔が歪んだ。

 それでも、神一郎は倒れなかった。

 右手にツキカゲ。

 左手に玄嵐。

 二本の剣。

 黒い刃と、青灰色の刃。

 静蘭が息を呑む。

「本当にリンクできるのか。しかし重いな、2本だと」

 神一郎が苦しげに笑う。

「普段のあなたの剣が軽すぎるだけ」

「そうかもな」

 二本の刃が、白い光の中で鈍く輝く。

 ツキカゲは速い。

 玄嵐は重い。

 まったく違う二本。

 普通なら扱えるはずがない。

 まして今の神一郎は重傷だ。

 それでも、彼は二本を構えた。

 奈々はその姿を見て、涙が滲んだ。

 無茶だ。

 どう考えても無茶だ。

 でも、神一郎はそこに立っている。

 奈々を取り戻すために。

 沙耶の願いを、祈莉の喪失だけで終わらせないために。

「神一郎」

 奈々はかすれた声で呼んだ。

 神一郎がこちらを見る。

「勝って」

「うん」

 短い返事。

 それだけだった。

 神一郎が踏み込む。

 祈莉の黒い糸が、再び殺到した。

 まずツキカゲを振り抜く。

 速い斬撃が、正面の糸を断つ。

 次に玄嵐。

 重い一撃が、糸の束ごと術式を押し潰す。

 切るのではない。

 砕く。

 祈莉の干渉域に初めて大きな穴が開いた。

 椎菜がそこへ弾丸を通す。

 アグニの魔力弾が、祈莉の背後にあった術式を撃ち抜いた。

 奈々に繋がる魔力が揺らぐ。

 奈々の胸から引き出されていた白い光が、少しだけ戻る。

「奈々、今!」

 優子が叫ぶ。

「自分の方へ引いて!」

 引く。

 自分の方へ。

 奈々は胸の奥の魔力へ意識を向けた。

 これは誰のものなのか。

 沙耶のもの。

 祈莉が返してほしいと願うもの。

 奈々に残されたもの。

 その全部かもしれない。

 でも、今ここで生きているのは奈々だ。

 奈々は生きている。

 沙耶が願ったかもしれない命で生きている。

「返さない……」

 奈々は呟いた。

 祈莉の目が奈々へ向く。

「返して」

「返さない」

 声は震えていた。

 でも、奈々は言った。

「これは、あなたのものじゃない」

 白い光が、奈々の胸へ戻ろうとする。

 祈莉の表情が崩れる。

「いや……」

 祈莉の声が、幼くなる。

「いやよ。沙耶さんを、また失うなんて嫌……!」

 黒い糸が暴れ出す。

 訓練場全体が軋む。

 祈莉の魔力が制御を失い始めている。

 椎菜が叫んだ。

「祈莉の術式が崩壊する! 神一郎、決めろ!」

 神一郎は答えなかった。

 二本の剣を構え直す。

 右手のツキカゲで、祈莉へ伸びる黒い糸を断つ。

 左手の玄嵐で、祈莉の周囲の干渉域を砕く。

 一歩。

 また一歩。

 神一郎が祈莉へ近づく。

 祈莉は逃げない。

 白い光を掴んだまま、神一郎を見ている。

「神一郎くん」

 祈莉の声が震えた。

「あなたまで、私から沙耶さんを奪うの」

「奪いません」

 神一郎は言った。

「でも、奈々は渡しません」

「どうして」

「奈々は、母さんが生かした人だから」

 ツキカゲが最後の糸を斬った。

 玄嵐が最後の術式を砕いた。

 祈莉の前が開く。

 神一郎は二本の剣を交差させた。

 その瞬間、奈々の胸の奥の魔力が強く震えた。

 祈莉の黒い魔力と、奈々の白い魔力。

 神一郎のツキカゲと、静蘭の玄嵐。

 沙耶の残響と、祈莉の喪失。

 すべてが一点で重なる。

「祈莉さん」

 神一郎は静かに言った。

「母さんのところへ、行ってください」

 祈莉の目が大きく開いた。

 次の瞬間。

 ツキカゲと玄嵐が、祈莉の胸を貫いた。

 肉体そのものではない。

 祈莉の胸元に展開されていた、黒い干渉術式の中心。

 十年分の執着を支え、奈々の魔力を引きずり出していた核。

 そこへ、二本の刃が届いた。

 黒い術式が砕けた。

 祈莉の身体が大きく揺れる。

 同時に、神一郎の腹部から血が溢れた。

「神一郎!」

 奈々が叫ぶ。

 祈莉の術式が砕けた反動で、抽出されていた白い魔力が一気に奈々へ戻る。

 だが、その一部が神一郎の傷へ反応した。

 そして、祈莉の胸元にも。

 奈々の魔力が、二人の傷を同時に見つけてしまう。

「だめ……」

 奈々は震える声で言った。

「死なないで……」

 白い光が広がる。

 今度は暴走ではなかった。

 奈々は必死に意識を保った。

 神一郎を生かす。

 祈莉にも届く。

 でも、自分を空にしない。

 神一郎は膝をつきながらも、まだ息をしている。

 祈莉は崩れ落ち、白い光に包まれている。

 椎菜が叫ぶ。

「奈々くん、神一郎へ優先して流せ! 祈莉は魔力が崩壊している、深追いするな!」

「でも……!」

「気持ちと実力を混同するな!」

 その言葉は厳しかった。

 けれど、奈々を繋ぎ止めた。

 優子が奈々の手を握る。

「奈々、神一郎君を見て。祈莉さんにも届いてる。でも、使いきっちゃダメ」

 奈々は泣きながら頷いた。

 白い魔力が神一郎の腹部へ流れる。

 傷の出血が止まり始める。

 神一郎の呼吸が、かすかに整う。

 同時に祈莉の身体を包む光が変化した。

 奈々は、それを見た。

 祈莉の前に、白い人影が立っている。

 輪郭は曖昧だった。

 顔もはっきり見えない。

 でも、奈々には分かった。

 藤崎沙耶。

 祈莉にも見えているのだろう。

 祈莉は、子どものように目を見開いていた。

「沙耶さん……」

 祈莉の声は、もう主の声ではなかった。

 壊れた指揮官でも、奈々を奪おうとした敵でもない。

 ただ、想い人と再開した人の声だった。

「やっと……会えた……」

 白い人影は、祈莉へ手を伸ばした。

 奈々の中に、声が響く。

 ――祈莉。

 祈莉の目から、涙がこぼれた。

「ごめんなさい……私、守れなかった……あなたを、守れなかった……」

 ――ありがとう。

 沙耶の声は、責めていなかった。

 ただ、温かかった。

 ――もう、いいの。

「よくない……よくないです……私、ずっと……」

 祈莉は泣いた。

 十年分の怒りが剥がれ落ちて、ようやく本当の涙になったようだった。

「ずっと、沙耶さんに会いたかった……」

 白い人影が、祈莉を包む。

 奈々の胸の奥が、静かに震えた。

 それは恐怖ではない、悲しみだった。

 祈莉は奈々を見た。

 初めて、奈々自身を見た。

 沙耶の残響を宿す器ではなく、赤坂奈々という一人の少女を。

「あなた……」

 祈莉はかすかに笑った。

「沙耶さんに、全然似てないのね」

 奈々は涙をこぼしたまま、祈莉を見る。

「はい」

「でも……どうして、沙耶さんみたいな顔をするの」

「分かりません」

 奈々は正直に答えた。

「でも、沙耶さんが私を生かしてくれたなら、私はその命を大切にします」

 祈莉の表情が、少しだけ緩んだ。

「そう……」

 祈莉は神一郎を見た。

「神一郎くん」

 神一郎は膝をついたまま、顔を上げる。

「はい」

「沙耶さんに、似てきたわね」

 神一郎の目が揺れた。

 祈莉は、泣きながら微笑んだ。

「嫌になるくらい」

 それが、祈莉の最後の皮肉だった。

 でも、そこにはもう憎しみはなかった。

 白い人影が祈莉を包む。

 祈莉の身体が、光の粒のようにほどけていく。

「沙耶さん……」

 祈莉は最後に、そう呼んだ。

「今度は……置いていかないで……」

 白い光が、静かに強くなる。

 そして、祈莉の姿は消えた。

 訓練場に、静寂が落ちた。

 黒い糸はもうない。

 術式も砕け、干渉域も消えている。

 残ったのは、床に膝をついた神一郎と、泣きながら立つ奈々と、優子と椎菜、そして外縁結界の中で黙って見ている静蘭だけだった。

 奈々は力が抜け、その場に崩れた。

 優子が支える。

「奈々!」

「……神一郎は?」

「生きてる。奈々が助けた」

 優子の声が震えている。

 椎菜がすぐに神一郎のそばへ行き、処置を始める。

「出血は止まっている。意識は?」

「あります……」

 神一郎がかすれた声で答えた。

「馬鹿者」

 椎菜が低く言った。

「すみません」

「謝る体力があるなら呼吸しろ」

「はい」

 そのやり取りを聞いて、奈々はようやく息を吐いた。

 神一郎は生きている。

 祈莉は、いなくなった。

 沙耶さんと会えたのかどうか、本当のところは分からない。

 でも、奈々は見た。

 白い人影。

 祈莉の涙。

 最後の笑顔。

 少なくとも、祈莉の長い夜は終わったのだと思った。

 静蘭が、外縁結界の中で静かに目を閉じた。

「主……」

 その呼び方は、もう上官へ向けたものではなかった。

 旅立った人へ向ける声だった。

 優子が静蘭を見る。

「静蘭」

 静蘭は目を開けた。

「私は、主の部下ではなくなった」

 短い言葉。

 それが、静蘭の結論だった。

「でも、あなたたちの仲間でもない」

「うん」

 優子は頷いた。

「分かってる」

「私は、私のしたことを償う必要がある」

「それも、分かってる」

「優子」

「何?」

 静蘭は少しだけ迷った。

 そして、言った。

「あなたが選んだ場所は、悪くないのかもしれない」

 優子の目が潤んだ。

「うん」

 それ以上、二人は何も言わなかった。

 言えなかったのだと思う。

 夜は、静かに明けようとしていた。

 事件が完全に終わったのは、それから数日後のことだった。

 祈莉の消滅により、主の指揮下にあった部隊は散った。

 中国側との関係は複雑なままだが、少なくとも奈々を狙った直接的な追跡は止まった。

 静蘭はアトランティス側に捕虜として拘束された。

 だが、彼女は祈莉の命令系統から離れたこと、奈々たちに重要な情報を与えたこと、そして最終局面で祈莉を止める意思を示したことから、即座に処分されることはなかった。

 神一郎はしばらく絶対安静になった。

 本人は不服そうだったが、椎菜が本気で怒ったため、さすがに逆らわなかった。

 奈々の魔力も安定したわけではない。

 しかし祈莉との決戦を経て、奈々の中の魔力は以前よりはっきりと形を持ち始めていた。

 白い魔力。

 沙耶が残したもの。

 でも、それだけではない。

 奈々自身が受け取ったもの。

 奈々はそれを、扱えるようになっていかなければならない。

 そして、優子もまた決めた。

 もう中国側には戻らない。

 主がいなくなっても、優子の立場が簡単に良くなるわけではない。

 だが、少なくとも彼女は奈々の隣にいることを選んだ。

 その選択を、椎菜は一つの提案で形にした。

「訓練生扱いだ」

 数日後。

 アトランティス騎士団本部へ向かうゲートの前で、椎菜はそう言った。

 奈々は思わず聞き返した。

「訓練生?」

「正式な騎士ではない。だが、君たち二人は魔力を持ち、今後も事件に関わる可能性が高い。最低限の訓練と知識は必要だ」

「私も?」

 優子が自分を指差す。

「君は本来なら捕虜だが、協力の実績と本人の意思を考慮して、暫定訓練生扱いにする」

「待遇、微妙に重くないですか」

「軽い方だ」

「そうなんですね……」

 奈々は隣を見る。

 神一郎は制服姿だった。

 まだ傷は完全に治っていない。

 だが、歩ける程度には回復している。

 胸ポケットには、ボールペン形態のツキカゲが挿してあった。

「神一郎は、大丈夫なの?」

「何が?」

「本部に行くの」

「大丈夫じゃないけど、大丈夫」

「それ、ほんと便利に使うね」

「奈々の言葉だからな」

「私のせいみたいに言わないで」

 神一郎は少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、奈々は胸が温かくなる。

 生きている。

 それだけで、まだ泣きそうになる時がある。

 優子が二人を見て、にやっと笑った。

「お二人さん、そろそろ行くよ」

「その言い方やめて」

「なんで?」

「なんか腹立つ」

「照れてる」

「違う」

「違わない」

 優子が笑う。

 椎菜が軽く咳払いした。

「遊びに行くのではない」

「はい」

 三人が同時に返事をした。

 ゲートの光が開く。

 その向こうに、アトランティス騎士団本部があった。

 初めて見る場所。

 高い天井。

 青白い光の走る壁。

 幾何学的な術式が床に刻まれ、遠くでは騎士たちが行き交っている。

 奈々は思わず息を呑んだ。

「すごい……」

「ここが本部」

 神一郎が言う。

「なんか久しぶりに感じるな」

「神一郎でも?」

「奈々の任務の説明依頼だな」

「最近じゃん」

 奈々が周囲を見ていると、前方から一人の男性が歩いてきた。

 年齢は四十代後半くらいに見える。

 落ち着いた雰囲気。

 けれど、纏っている空気が違う。

 周囲の騎士たちが自然に道を開ける。

 椎菜が姿勢を正した。

「団長」

 奈々は反射的に背筋を伸ばした。

 この人が、団長。

 アトランティス騎士団を束ねる人。

 団長は奈々たちの前で立ち止まった。

 まず椎菜を見る。

「よくやった、中嶋一等陸士」

「はっ、ありがとうございます。ですが任務ですから」

「それでもだ」

 次に神一郎を見る。

「神一郎」

「はい」

「無茶をしたな」

「……すみません」

「沙耶に似たな、まさか護衛対象の少女を連れてくるなんてな」

 その一言で、神一郎の表情が変わった。

 奈々の心も揺れた。

 団長は静かに奈々を見る。

「君が赤坂奈々か」

「はい」

 奈々は緊張しながら答えた。

「藤崎沙耶が救った少女。そして、沙耶の魔力を受け取った少女」

 その言葉は重かった。

 でも、祈莉の言葉とは違った。

 責めていない。

 断罪していない。

 ただ、事実として見ている。

 奈々は小さく息を吸った。

「私は……まだ、全部分かってません」

「だろうな」

 団長は頷いた。

「だが、それでいい。生きている者は、時間をかけて知ればいい」

 その言葉に、奈々の胸の奥の魔力が静かに揺れた。

 優しい揺れだった。

 団長は優子へ視線を移す。

「朝倉優子」

「はい」

 優子の声は少し硬い。

「君の扱いについては、まだ色々と議論があった」

「分かっています」

「だが、赤坂奈々を守ったこと、黒瀬祈莉の件で協力したことは確認している。しばらくは中嶋一等陸士の監督下で訓練生扱いとする」

「ありがとうございます」

「礼を言うには早い。厳しいぞ中嶋は」

「……頑張ります」

 団長は少しだけ笑った。

 そして、四人を見渡す。

「話さなければならないことがある」

 空気が変わった。

 奈々は自然と神一郎を見る。

 神一郎も、団長を見つめていた。

「藤崎沙耶のこと」

 団長は言った。

「そして、君の父、藤崎総一郎のことだ」

 神一郎の目が揺れる。

 奈々も息を呑んだ。

 父。

 これまで深く語られなかった名前。


 沙耶の死。

 祈莉の喪失。

 奈々に残った魔力。


 その先に、まだ別の物語がある。

 団長は静かに続けた。

「神一郎。赤坂奈々。朝倉優子。中嶋椎菜」

 それぞれの名前を呼ぶ。

「君たちは、この一件で大きな成長を遂げた。だが、まだ知らなければいけないことが多い」

 団長の表情が、少しだけ遠くなる。

「藤崎沙耶と総一郎が、どんな道を歩いていたのか。黒瀬祈莉がなぜあそこまで壊れたのか。そして、あの日、本当は何が起きたのか」

 団長はゆっくりと歩き出した。

「少し、昔話をしよう」

 奈々は胸に手を当てた。

 そこには、白い魔力がある。

 沙耶が残したもの。

 奈々が受け取ったもの。

 そして、これから向き合っていくもの。

 夜は越えた。

 でも、夜明けの先にもまた長い一日は続いている。

 奈々は神一郎の隣に立ち、優子と椎菜の気配を背に感じながら、団長の後を追った。

 赤坂奈々物語は、そこで静かに幕を下ろす。

 けれど彼らの世界は、まだ終わらない。

 藤崎沙耶と藤崎総一郎。

 そして、Reverse Worldの本当の始まりへ。

 団長の昔話が、今まさに始まろうとしていた。


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