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Reverse World   作者: 陽乃鳥 蒼
第一章 副隊長、学園へ
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第四話 壊れる前の時間


 朝、目が覚めたとき、神一郎(シンイチロウ)はまず自分がどこで寝ていたのかを一瞬だけ忘れた。


 硬い感触で背中が痛い。どう考えてもベッドではない。一瞬開けた目に入った天井で、ようやく思い出す。人間界に来て数日。駅前のマンション。護衛対象の隣室。そして、椎菜(シイナ)と同居中。


「……郎、神一郎」


 上から声が降ってきた。


 まだ頭がはっきりしないまま、神一郎は小さく呻く。


「ん……」


「起きろ。朝だ」


 近い。


 声が近い、と気づいた瞬間、神一郎は反射的に上体を起こそうとして――


「だっ!?」


「っ、痛……!」


 額と額が正面衝突した。


 かなりいい音がした。


 神一郎は目の前を押さえ、椎菜は椎菜で額を押さえて恨めしげに睨んでくる。


「神一郎……朝からやってくれるな昨日の模擬戦の腹いせか?」


「いや、これは事故ですよ。っていうか、なんでそんな近くにいるんですか……」


「起こそうと思っただけだ」


「その距離でですか?」


「……驚かせようと思った」


「完全に自爆してるじゃないですか」


 少しだけ黙ってから、椎菜は咳払いをした。


「よく寝ていたからな。つい、様子を見ていた」


「様子を見る距離じゃないですよね」


 言いながら神一郎は上体を起こす。すると椎菜は露骨に目を逸らした。


「……それに」


「それに?」


「寝顔が妙に気持ちよさそうだった」


 神一郎は嫌な予感がした。


「まさか」


「……写そうかと思っただけだ」


「思っただけですか?」


「まあ、少しだけ」


「少しでもダメですよ!」


 朝から何をしているんだろう、と神一郎は本気で思った。昨日は昨日で、中国側の騎士と本音をぶつけ合ったばかりだというのに、この人はこの人で、平然とこういう方向から調子を崩してくる。


 椎菜はふっと小さく笑った。


「ようやく起きたな。日曜だからといって寝過ぎるのは感心しないぞ」


「誰のせいだと思ってるんですか……」


「私のせいか?」


「七割くらいは」


「三割は認めるわけだ」


 その返しが妙に自然で、神一郎は言葉に詰まった。


 不思議な人だ、と改めて思う。任務では容赦がなく、模擬戦では圧倒的で、普段はこうして妙に距離が近い。何を考えているのか分かりづらいのに、時々、ふとした顔だけが年相応に見える。


奈々(ナナ)は?」


 着替えながら神一郎が聞くと、椎菜は窓の外を見ながら答えた。


「ああ。まだ部屋にいる。午後から出かけるそうだ」


朝倉(アサクラ)さんと、ですか」


「おそらくな。駅前のショッピングモールに行くみたいだ」


 そこまで言ってから、椎菜は少しだけ声の調子を変えた。


「わかっていると思うが」


「私情は挟まない、ですよね」


「そうだ」


 神一郎はシャツの袖に腕を通しながら、静かに息を吐いた。


 言われなくてもわかっている。優子はもう、ただのクラスメイトではない。中国側の騎士だ。奈々に近づいた理由も、最初から友達になるためだけじゃなかったはずだ。


 けれど、昨日優子が見せた顔は、あれも嘘には思えなかった。


「……難しいな」


「何がだ?」


「任務ってやつがですよ」


 椎菜はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、「そろそろ朝食にしないか。さっきから空腹で死にそうなんだが」と、急にいつもの調子に戻ったので、神一郎は思わず苦笑した。


「さっきまで真面目な話してたのに」


「真面目な話だけで人は生きていけない」


「便利な言い訳ですね」


「よく言われる」



 同じ日の午後、駅前では奈々が人混みの中で優子(ユウコ)を待っていた。


 休日の駅前は平日とは空気が違う。家族連れ、買い物帰りの大人、部活のない学生たち。誰もが少しだけ気を抜いた顔をしていて、その中に立っていると、自分もただの高校生なんだと安心できる。


「おはよーっ、ごめんねっ」


 優子が小走りでやって来る。


 少し息を弾ませて、いつものように明るく笑っている。


「ううん、私も今来たところだから」


 奈々は定番の台詞を口にした。本当はもう二十分近く待っていたけれど、それを言ったところで優子が余計に謝るだけだとわかっていた。


「助かったー。実はさ、起きたのちょっと遅くて。まだお昼食べてないんだよね」


 お腹を押さえて笑う優子に、奈々もつられて笑う。


「映画の前に何か食べる?」


「んー、シネコンのとこで軽くでもいいかな。奈々は?」


「私は平気。紅茶飲めればなんとかなるし」


 二人で駅ビルに向かいながら、奈々はちらりと優子の横顔を見た。


 優子は可愛い。本人はあまり意識していないのかもしれないけれど、男子が放っておかないのもよく分かる。入学してすぐにファンクラブだなんだと騒がれていたのも、今ならちょっと納得できる。


 そして、不意に思い出してしまう。


 神一郎は、こういう感じの女の子の方が好きなのかな、と。


 考えた瞬間、自分で嫌になった。


「どうしたの、奈々?」


「え? ううん、なんでもない」


「怪しいなー」


 優子は笑いながら一歩先へ出た。


「ほら、置いてくよ」


「ちょ、待ちなさいよ」


 奈々は慌てて後を追う。


 こうしていると、昨日までのややこしいことなんて、何もなかったみたいに思えてしまう。神一郎のことも、学校のことも、転校のことも。ただの休日で、ただの友達との約束で、ただ映画を観に来ただけだと。


 そう思えた時間は、まだ壊れていなかった。



 一方、神一郎と椎菜は駅近くのバーガーショップに入っていた。


「人間界の店って、本当にどこも明るいんですね」


 トレイを持って席に着きながら神一郎が言うと、椎菜はハンバーガーをまじまじと見つめたまま小さく頷いた。


「騎士団の食堂とは雰囲気が違うな」


「比べる相手がそこなんですか」


「他に何がある」


「いや、まあ……ないですけど」


 神一郎は紙に包まれたバーガーを開ける。昔は好きだった。今も嫌いではない。ただ、しばらく食べていなかったせいか、懐かしさの方が先に来る。


 その横で椎菜がハンバーガーを皿の上の料理みたいに観察していた。

 そして徐にバンズを剥がし始める。


「……まさか」


「なんだ」


「分解しようとしてません?」


「どうやって食べるのが正解なんだ? ナイフは見当たらないし」


「そのままですよ。そのまま持ってかぶりつくんです」


 言いながら神一郎が実演すると、椎菜は「なるほど」と妙に真面目な顔で頷いた。


「合理的だな」


「そういう食べ物ですから」


 椎菜もおそるおそる一口食べる。少しだけ目を見開いて、それからもう一口食べた。


「……悪くない」


「気に入ったなら何よりです」


「うん。神一郎がよく食べていた理由がわかった気がする」


「小学生の頃ですよ」


「それでも好みは残るだろう」


 そう言われると、少しだけ人間界にいた頃の自分を思い出す。まだ任務も騎士団もなくて、吹奏楽部のことや、学校のことだけ考えていた頃。


「そういえば」


 椎菜が口を開いた。


「あの二人、映画を観るらしいな」


「であれば。俺たちも近くにはいた方がいいでしょう」


「なら同じものを観るか」


「……その前に、一つ聞いていいですか」


「なんだ」


 神一郎はバーガーを置いた。


「さっきから、なんで奈々たちの予定をそこまで把握してるんですか」


 ほんのわずかに、椎菜の表情が固まった。


「言っても怒らないか?」


「内容によります」


「多分怒る」


「じゃあもう怒る前提じゃないですか」


 椎菜は珍しく視線を逸らした。


「……先週から魔力球をつけている」


「は?」


 神一郎は素で聞き返した。


「念のためだ」


「念のためで盗聴はダメでしょ」


「通常ならそうだ。だが今回の任務は事情が違う」


 椎菜は淡々と言う。


「護衛対象に許可を取れば、こちらの正体も話さなければならない。そうなれば学校での警護が難しくなる可能性もある」


「それでも、一言くらい俺に相談してくださいよ」


 口調が少し強くなる。


 椎菜は黙って神一郎を見た。


「言えば反対しただろう?」


「……しましたよ。でも、それとこれとは別です」


 神一郎は小さくため息をつく。


「俺だって任務の事情くらいわかります。でも、だからこそ勝手に決めてほしくない」


 少しの沈黙のあと、椎菜は静かに頷いた。


「すまなかった」


 その謝り方が思っていたよりも素直で、神一郎は一瞬言葉を失った。


「……もういいです。今回は。奈々のことを考えての判断だったのは分かるので」


「神一郎」


「はい?」


「次からは相談する」


「そうしてください」


 椎菜は少しだけ口元を緩めた。


 こういうとき、ずるい人だと思う。謝るときはきちんと謝るから、それ以上強く言えなくなる。


「……動いたな」


 椎菜が端末を見る。


 画面の向こうで、奈々と優子が映画館に向かっていた。


「行きましょうか」


「ああ」


 神一郎は残りのバーガーを一口で食べた。


 この時点ではまだ、胸騒ぎは小さかった。ただ、何かが引っかかっていた。映画館という、人の多い場所。休日の駅前。奈々と優子。自分たちの任務。


 うまく言葉にならないまま、その違和感だけが少しずつ膨らんでいた。



 シネコンは、休日らしい熱気に包まれていた。


「すっごい人だねー」


「うん……ちょっと舐めてたかも」


 奈々と優子は最後尾に並びながら、上映作品の一覧を見上げる。


「どれ観たい?」


 奈々が聞くと、優子は少しだけ考えたあと、一つのポスターを指差した。


「これ。CMでやってたやつ」


『魔法少女セイクリッドみみな』


 字面だけなら、いかにも子ども向けのアニメ映画だ。だが最近話題だということは奈々も知っていた。


「これにする?」


「うん」


「じゃ、決まりね」


 二人分のチケットを買って、飲み物と軽いお菓子を持ってシアターへ入る。


 座席に腰を下ろし、場内が暗くなっていくのを見ながら、奈々はふと肩の力が抜けるのを感じた。


 映画館の暗さは好きだ。周りの顔が見えなくなって、自分も見られなくなるから。


 上映が始まる。


 画面の中では、魔力を持つ少女たちが戦っていた。傷つき、守り、迷い、それでも誰かを助けようとする物語。


 派手な戦闘のはずなのに、奈々には不思議と、ただの空想には見えなかった。


 優子も、いつもより静かだった。


 終盤、敵だった少女が自分の事情を明かし、主人公がそれを受け止める場面で、奈々は隣の優子が小さく息を呑んだのに気づく。


 映画が終わり、明るくなったロビーのベンチに二人で座る。


「……なんか、すごかったわね」


「うん。なんかリアルだった」


「リアルって言うのかな、それ」


 奈々が苦笑すると、優子も小さく笑った。


 でもその笑いは、どこか考え込んでいるようにも見える。


「私もああいう服、ちょっと着てみたいかも」


 奈々が冗談半分で言うと、優子は本気で頷いた。


「似合うと思うよ?」


「あれが似合う高校生ってどんなよ」


「結構いると思うけど……」


 優子はそこで急に黙り、映画のパンフレットをちらりと見下ろした。ルイスという少女が着ていた衣装を、真剣な顔で見つめている。


「優子?」


「え、あ、いや……その、ちょっとえっちかなって思って」


「何が?」


「衣装が」


「今、絶対違うこと考えてたでしょ」


「気のせい気のせい」


 優子が慌てて誤魔化す。その様子が少しおかしくて、奈々は思わず笑ってしまった。


 笑ったところで、不意に視線が動く。


「あれ……?」


「どうしたの?」


「……神一郎?」


 少し離れた人混みの中に、それらしい姿が見えた。しかも隣には椎菜もいる。


「あ、ほんとだ。なんでいるんだろ――」


 優子が言いかけた、その時だった。


 神一郎が、あり得ない速度でこちらへ走ってきた。


 その表情を見て、奈々の背筋が凍る。


 何かが来る。


 そう思った瞬間には、もう遅かった。


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