第四話 壊れる前の時間
朝、目が覚めたとき、神一郎はまず自分がどこで寝ていたのかを一瞬だけ忘れた。
硬い感触で背中が痛い。どう考えてもベッドではない。一瞬開けた目に入った天井で、ようやく思い出す。人間界に来て数日。駅前のマンション。護衛対象の隣室。そして、椎菜と同居中。
「……郎、神一郎」
上から声が降ってきた。
まだ頭がはっきりしないまま、神一郎は小さく呻く。
「ん……」
「起きろ。朝だ」
近い。
声が近い、と気づいた瞬間、神一郎は反射的に上体を起こそうとして――
「だっ!?」
「っ、痛……!」
額と額が正面衝突した。
かなりいい音がした。
神一郎は目の前を押さえ、椎菜は椎菜で額を押さえて恨めしげに睨んでくる。
「神一郎……朝からやってくれるな昨日の模擬戦の腹いせか?」
「いや、これは事故ですよ。っていうか、なんでそんな近くにいるんですか……」
「起こそうと思っただけだ」
「その距離でですか?」
「……驚かせようと思った」
「完全に自爆してるじゃないですか」
少しだけ黙ってから、椎菜は咳払いをした。
「よく寝ていたからな。つい、様子を見ていた」
「様子を見る距離じゃないですよね」
言いながら神一郎は上体を起こす。すると椎菜は露骨に目を逸らした。
「……それに」
「それに?」
「寝顔が妙に気持ちよさそうだった」
神一郎は嫌な予感がした。
「まさか」
「……写そうかと思っただけだ」
「思っただけですか?」
「まあ、少しだけ」
「少しでもダメですよ!」
朝から何をしているんだろう、と神一郎は本気で思った。昨日は昨日で、中国側の騎士と本音をぶつけ合ったばかりだというのに、この人はこの人で、平然とこういう方向から調子を崩してくる。
椎菜はふっと小さく笑った。
「ようやく起きたな。日曜だからといって寝過ぎるのは感心しないぞ」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「私のせいか?」
「七割くらいは」
「三割は認めるわけだ」
その返しが妙に自然で、神一郎は言葉に詰まった。
不思議な人だ、と改めて思う。任務では容赦がなく、模擬戦では圧倒的で、普段はこうして妙に距離が近い。何を考えているのか分かりづらいのに、時々、ふとした顔だけが年相応に見える。
「奈々は?」
着替えながら神一郎が聞くと、椎菜は窓の外を見ながら答えた。
「ああ。まだ部屋にいる。午後から出かけるそうだ」
「朝倉さんと、ですか」
「おそらくな。駅前のショッピングモールに行くみたいだ」
そこまで言ってから、椎菜は少しだけ声の調子を変えた。
「わかっていると思うが」
「私情は挟まない、ですよね」
「そうだ」
神一郎はシャツの袖に腕を通しながら、静かに息を吐いた。
言われなくてもわかっている。優子はもう、ただのクラスメイトではない。中国側の騎士だ。奈々に近づいた理由も、最初から友達になるためだけじゃなかったはずだ。
けれど、昨日優子が見せた顔は、あれも嘘には思えなかった。
「……難しいな」
「何がだ?」
「任務ってやつがですよ」
椎菜はそれ以上何も言わなかった。
ただ、「そろそろ朝食にしないか。さっきから空腹で死にそうなんだが」と、急にいつもの調子に戻ったので、神一郎は思わず苦笑した。
「さっきまで真面目な話してたのに」
「真面目な話だけで人は生きていけない」
「便利な言い訳ですね」
「よく言われる」
⸻
同じ日の午後、駅前では奈々が人混みの中で優子を待っていた。
休日の駅前は平日とは空気が違う。家族連れ、買い物帰りの大人、部活のない学生たち。誰もが少しだけ気を抜いた顔をしていて、その中に立っていると、自分もただの高校生なんだと安心できる。
「おはよーっ、ごめんねっ」
優子が小走りでやって来る。
少し息を弾ませて、いつものように明るく笑っている。
「ううん、私も今来たところだから」
奈々は定番の台詞を口にした。本当はもう二十分近く待っていたけれど、それを言ったところで優子が余計に謝るだけだとわかっていた。
「助かったー。実はさ、起きたのちょっと遅くて。まだお昼食べてないんだよね」
お腹を押さえて笑う優子に、奈々もつられて笑う。
「映画の前に何か食べる?」
「んー、シネコンのとこで軽くでもいいかな。奈々は?」
「私は平気。紅茶飲めればなんとかなるし」
二人で駅ビルに向かいながら、奈々はちらりと優子の横顔を見た。
優子は可愛い。本人はあまり意識していないのかもしれないけれど、男子が放っておかないのもよく分かる。入学してすぐにファンクラブだなんだと騒がれていたのも、今ならちょっと納得できる。
そして、不意に思い出してしまう。
神一郎は、こういう感じの女の子の方が好きなのかな、と。
考えた瞬間、自分で嫌になった。
「どうしたの、奈々?」
「え? ううん、なんでもない」
「怪しいなー」
優子は笑いながら一歩先へ出た。
「ほら、置いてくよ」
「ちょ、待ちなさいよ」
奈々は慌てて後を追う。
こうしていると、昨日までのややこしいことなんて、何もなかったみたいに思えてしまう。神一郎のことも、学校のことも、転校のことも。ただの休日で、ただの友達との約束で、ただ映画を観に来ただけだと。
そう思えた時間は、まだ壊れていなかった。
⸻
一方、神一郎と椎菜は駅近くのバーガーショップに入っていた。
「人間界の店って、本当にどこも明るいんですね」
トレイを持って席に着きながら神一郎が言うと、椎菜はハンバーガーをまじまじと見つめたまま小さく頷いた。
「騎士団の食堂とは雰囲気が違うな」
「比べる相手がそこなんですか」
「他に何がある」
「いや、まあ……ないですけど」
神一郎は紙に包まれたバーガーを開ける。昔は好きだった。今も嫌いではない。ただ、しばらく食べていなかったせいか、懐かしさの方が先に来る。
その横で椎菜がハンバーガーを皿の上の料理みたいに観察していた。
そして徐にバンズを剥がし始める。
「……まさか」
「なんだ」
「分解しようとしてません?」
「どうやって食べるのが正解なんだ? ナイフは見当たらないし」
「そのままですよ。そのまま持ってかぶりつくんです」
言いながら神一郎が実演すると、椎菜は「なるほど」と妙に真面目な顔で頷いた。
「合理的だな」
「そういう食べ物ですから」
椎菜もおそるおそる一口食べる。少しだけ目を見開いて、それからもう一口食べた。
「……悪くない」
「気に入ったなら何よりです」
「うん。神一郎がよく食べていた理由がわかった気がする」
「小学生の頃ですよ」
「それでも好みは残るだろう」
そう言われると、少しだけ人間界にいた頃の自分を思い出す。まだ任務も騎士団もなくて、吹奏楽部のことや、学校のことだけ考えていた頃。
「そういえば」
椎菜が口を開いた。
「あの二人、映画を観るらしいな」
「であれば。俺たちも近くにはいた方がいいでしょう」
「なら同じものを観るか」
「……その前に、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
神一郎はバーガーを置いた。
「さっきから、なんで奈々たちの予定をそこまで把握してるんですか」
ほんのわずかに、椎菜の表情が固まった。
「言っても怒らないか?」
「内容によります」
「多分怒る」
「じゃあもう怒る前提じゃないですか」
椎菜は珍しく視線を逸らした。
「……先週から魔力球をつけている」
「は?」
神一郎は素で聞き返した。
「念のためだ」
「念のためで盗聴はダメでしょ」
「通常ならそうだ。だが今回の任務は事情が違う」
椎菜は淡々と言う。
「護衛対象に許可を取れば、こちらの正体も話さなければならない。そうなれば学校での警護が難しくなる可能性もある」
「それでも、一言くらい俺に相談してくださいよ」
口調が少し強くなる。
椎菜は黙って神一郎を見た。
「言えば反対しただろう?」
「……しましたよ。でも、それとこれとは別です」
神一郎は小さくため息をつく。
「俺だって任務の事情くらいわかります。でも、だからこそ勝手に決めてほしくない」
少しの沈黙のあと、椎菜は静かに頷いた。
「すまなかった」
その謝り方が思っていたよりも素直で、神一郎は一瞬言葉を失った。
「……もういいです。今回は。奈々のことを考えての判断だったのは分かるので」
「神一郎」
「はい?」
「次からは相談する」
「そうしてください」
椎菜は少しだけ口元を緩めた。
こういうとき、ずるい人だと思う。謝るときはきちんと謝るから、それ以上強く言えなくなる。
「……動いたな」
椎菜が端末を見る。
画面の向こうで、奈々と優子が映画館に向かっていた。
「行きましょうか」
「ああ」
神一郎は残りのバーガーを一口で食べた。
この時点ではまだ、胸騒ぎは小さかった。ただ、何かが引っかかっていた。映画館という、人の多い場所。休日の駅前。奈々と優子。自分たちの任務。
うまく言葉にならないまま、その違和感だけが少しずつ膨らんでいた。
⸻
シネコンは、休日らしい熱気に包まれていた。
「すっごい人だねー」
「うん……ちょっと舐めてたかも」
奈々と優子は最後尾に並びながら、上映作品の一覧を見上げる。
「どれ観たい?」
奈々が聞くと、優子は少しだけ考えたあと、一つのポスターを指差した。
「これ。CMでやってたやつ」
『魔法少女セイクリッドみみな』
字面だけなら、いかにも子ども向けのアニメ映画だ。だが最近話題だということは奈々も知っていた。
「これにする?」
「うん」
「じゃ、決まりね」
二人分のチケットを買って、飲み物と軽いお菓子を持ってシアターへ入る。
座席に腰を下ろし、場内が暗くなっていくのを見ながら、奈々はふと肩の力が抜けるのを感じた。
映画館の暗さは好きだ。周りの顔が見えなくなって、自分も見られなくなるから。
上映が始まる。
画面の中では、魔力を持つ少女たちが戦っていた。傷つき、守り、迷い、それでも誰かを助けようとする物語。
派手な戦闘のはずなのに、奈々には不思議と、ただの空想には見えなかった。
優子も、いつもより静かだった。
終盤、敵だった少女が自分の事情を明かし、主人公がそれを受け止める場面で、奈々は隣の優子が小さく息を呑んだのに気づく。
映画が終わり、明るくなったロビーのベンチに二人で座る。
「……なんか、すごかったわね」
「うん。なんかリアルだった」
「リアルって言うのかな、それ」
奈々が苦笑すると、優子も小さく笑った。
でもその笑いは、どこか考え込んでいるようにも見える。
「私もああいう服、ちょっと着てみたいかも」
奈々が冗談半分で言うと、優子は本気で頷いた。
「似合うと思うよ?」
「あれが似合う高校生ってどんなよ」
「結構いると思うけど……」
優子はそこで急に黙り、映画のパンフレットをちらりと見下ろした。ルイスという少女が着ていた衣装を、真剣な顔で見つめている。
「優子?」
「え、あ、いや……その、ちょっとえっちかなって思って」
「何が?」
「衣装が」
「今、絶対違うこと考えてたでしょ」
「気のせい気のせい」
優子が慌てて誤魔化す。その様子が少しおかしくて、奈々は思わず笑ってしまった。
笑ったところで、不意に視線が動く。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「……神一郎?」
少し離れた人混みの中に、それらしい姿が見えた。しかも隣には椎菜もいる。
「あ、ほんとだ。なんでいるんだろ――」
優子が言いかけた、その時だった。
神一郎が、あり得ない速度でこちらへ走ってきた。
その表情を見て、奈々の背筋が凍る。
何かが来る。
そう思った瞬間には、もう遅かった。




