第三話 近すぎる距離
正直、空気は最悪だった。
食堂のテーブルに向かい合って座っているのは四人。
神一郎の向かいに椎菜、その隣に奈々。神一郎の隣には優子。
ただそれだけの配置なのに、なぜこんなに居心地が悪いのか。神一郎は目の前のカレーを見下ろしながら、小さくため息をついた。
奈々が買ってきてくれたカレーはまだ湯気を立てている。昼休みの食堂は相変わらず騒がしく、周囲の生徒たちは思い思いに笑っているのに、このテーブルだけ妙に張りつめていた。
「……それで?」
最初に口を開いたのは奈々だった。
視線は神一郎ではなく、その向かいに座る椎菜へ向いている。
「その人、知り合い?」
聞き方は普通だ。けれど声の温度が普通ではない。
神一郎は少しだけ答えに詰まった。まさか「上司です」とも言えないし、「任務の相棒です」など論外だ。そもそも転校初日の昼休みにこんな知り合いが現れる時点で不自然でしかない。
どう答えるか迷っていると、椎菜が平然と口を開いた。
「私は向こうで神一郎の先輩だったんだ。たまたま一緒に転校してきてな」
神一郎は危うくむせそうになった。
いや、その答えはないだろう。
たまたま一緒に転校してきた、で済ませるには無理がありすぎる。もっとこう、他にあったのではないかと神一郎は思ったが、奈々は「へえ……」とだけ言って、完全には納得していない顔のまま頷いた。
その横で優子がにこっと笑う。
「あ、でもすごく仲よさそうですね」
「そう見えるか?」
椎菜が面白そうに聞き返す。
「見えますよ。だって神一郎君、さっきからすごく困った顔してるし」
嫌味が鋭い。
優子の性格はアイスピック並みに尖っているのか。
「それは仲がいいっていうより振り回されてるだけじゃないかな……」
神一郎がぼそっと言うと、椎菜がちらりとこちらを見た。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
即答する。
面倒なことになるのは避けたい。
すると優子が、ふと思い出したようにスプーンを持ち上げた。
「神一郎君、食べないの? 冷めちゃうよ」
「食べるよ」
「はい、あーん」
言った次の瞬間、優子は自分のスプーンに一口分のカレーを乗せ、そのまま神一郎の口元へ差し出してきた。
一瞬、思考が止まった。
周りの音が遠くなる。
食堂のざわめきも、椅子を引く音も、全部消えたみたいに感じた。
いや、これどうすればいいんだ。
神一郎は固まったまま優子のスプーンと、優子の笑顔と、奈々の顔を順番に見た。
奈々は明らかに怒っていた。
しかもかなり本気で。
「……いいよ、自分で食べるし」
神一郎はできるだけ平静を装って言った。
優子は一瞬だけ「あ」と小さく声を漏らしたあと、すぐに笑って引っ込めた。
「そっか。じゃあ私が食べちゃお」
「最初からそうしてくれると助かるかな……」
「ひどいなあ」
言葉は軽い。けれど、神一郎にはわかった。
優子はただふざけているわけではない。
距離を測っている。
神一郎との距離。奈々との距離。そして、たぶん椎菜との距離も。
椎菜は無言だった。
だが、その無言が一番怖い。視線ひとつ動かしていないのに、全員の一挙手一投足を見逃していないのがわかる。
そして奈々は、あからさまに不機嫌だった。
スプーンを持つ手つきが少し雑になっている。表情は平静を装っているつもりなのだろうが、神一郎から見れば全然隠せていない。
気まずい。
とにかく気まずい。
十分ほど経っても、その空気はほとんど変わらなかった。
結局、まともに会話らしい会話もないまま食事は終わり、最初に席を立ったのは椎菜だった。
「ごちそうさま。神一郎、行くぞ」
「え、もうですか?」
「もうだ」
有無を言わせない言い方だった。
神一郎が慌てて立ち上がると、奈々と優子の声がぴたりと重なった。
「は? どこ行くのよ?」
「どこ行くの?」
さっきまで温度差のあった二人の息が、こういうときだけ合うのは何なのだろう。
椎菜は少しも慌てずに答えた。
「学内を案内してやるだけだ。何か問題でも?」
「いや、別に問題ってわけじゃ……」
奈々は言葉を濁す。
優子は黙って二人を見ている。
「授業までには戻す」
椎菜はそれだけ言うと、もう話は終わりだと言わんばかりに歩き出した。
神一郎は奈々たちに向かって軽く手を挙げる。
「じゃあまた。……朝倉さんも、ごめんね」
「全然いいよー」
優子はにこっと笑った。
奈々は「別に」とだけ言ったが、その声は不機嫌そのものだった。
⸻
食堂を出てしばらく歩いたあと、椎菜は校舎の裏手へ進路を変えた。
「やっぱり案内じゃないですよね」
「半分はな」
「残り半分は?」
「決まってるだろう」
着いた先は体育館裏だった。
人気がなく、視線もない。しかも少し前から、周囲の空気がほんのわずかに変わっているのを神一郎は感じていた。
結界だ。人避けに張っておいたのだろう。
「さて」
椎菜が簪に手をかける。
「神一郎。君はSだったな」
「……そうですけど」
「私と組んで任務をする以上、力量は見ておきたい」
するりと簪が外される。
先端に埋め込まれた黄色い魔力結晶が、陽の光を受けて鋭く光った。
「ここで、ですか」
「安心しろ。人は来ない」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
神一郎はため息をつきながら胸ポケットに手を入れた。
取り出したのは一本のボールペン。キャップ部分に黒く光る魔力結晶が埋め込まれている。
「体育館くらい吹き飛んでも知りませんよ」
「修復まで込みで結界を張ってある」
「用意が良すぎるんですよね、そういうところ」
「褒め言葉として受け取っておく」
神一郎はツキカゲを手の中で軽く回した。
正直、少しだけ気が重い。
相手はSSランク。自分より一段上だ。しかもただの高ランクではない。団長がわざわざ口にするくらいの相手だ。
だが、それでも。
「やりますよ」
「来い」
二人の声が重なる。
「「リンク!」」
光が弾ける。
椎菜の簪は宙を舞い、二丁の銃へ。
神一郎のボールペンは一振りの剣へと形を変えた。
騎士は自身が持つ魔力と、武器のコアである魔力結晶をリンクさせて武器として扱う。
Reverse Worldに住む人間の多くは魔力を持つが、基本的に使い道はそう多くない。
怪我をした時や病気をした時に、回復を促進するために使用する程度だ。
一方で戦闘に使用するには魔力結晶を介して武器に魔力を伝達、それを攻撃に使用する。
または防御に使用するといった形だ。
武器の形は様々あるが、椎菜のように銃であればロングレンジ、神一郎のように剣であればクロスレンジ、つまり接近戦メインである。
「隊長はロングレンジですか」
「隊長じゃなくて椎菜でいい」
「まだ慣れませんよ」
「そのうち慣れる」
言いながら、椎菜は両銃を軽く構えた。
「武器の名はアグニだ。神一郎のは?」
「ツキカゲです。基本はクロスレンジ」
「いい名だな」
「どうも」
次の瞬間、神一郎は地面を蹴っていた。
一気に間合いを詰める。神一郎の武器は近距離向きだ。なら、迷う理由はない。
だが椎菜は落ち着いていた。
「甘いな。シュート」
放たれた魔力弾を、神一郎は左手に張ったシールドで弾く。
「これくらいなら!」
そのまま踏み込み、斬る。
しかし受けられる。
椎菜は両銃を交差させてツキカゲを止め、その反動を利用するように後方へ飛んだ。
「速いな」
「そっちこそ、防ぐんですね」
「防げないと思ったか?」
「少しだけ」
神一郎は再び距離を詰めた。
斬る。弾く。受ける。離れる。
椎菜は決して慌てない。むしろ神一郎の動きに合わせて、最も嫌な距離を保ち続けている。
自分の速度には自信があった。
騎士団の中でもトップクラスだと自負している。だが、椎菜はその速さに対して一切焦らない。
「神一郎」
椎菜が笑った。
「まだこんなものじゃないだろう?」
「……言われなくても」
神一郎は息を整え、ツキカゲに意識を集中させる。
「ツキカゲ、いくよ」
呼応するように黒い刃が光を帯びた。
さらに速度を上げる。
「っ……」
椎菜が初めて感嘆の色を見せる。
「なるほど。それだ」
今度は連撃だった。
正面、横、死角、踏み込みの角度をずらしながら切り込む。だが、それでも椎菜は防ぐ。
受け、いなし、飛び上がる。
気づけば椎菜は高く跳んでいた。
「すごいジャンプですね。陸士なのに!」
「魔力を使えばこのくらいはな」
椎菜のように陸尉であれば基本陸上での戦闘に長けるため、空戦は苦手なはずだ。
ただでさえ銃で魔力を消費している。
飛行に回すほど魔力に余裕があるなんて信じられない。
上空に魔法陣。
大技だ。
神一郎も即座に飛翔し、空中で魔法陣を展開する。
「ツキカゲ、モードロングレンジ」
剣が変形し、長い砲身を持つライフルとなった。
「いくぞ!」
「来い!」
「シュート!」
「シュート!」
収束砲同士が正面衝突し、爆発した。
衝撃で視界が煙に包まれる。
その一瞬を神一郎は逃さない。
砲撃を止め、煙の向こうへ踏み込む。
「モードクロスレンジ!」
ツキカゲが再び剣へ戻る。
影を捉える。
「椎菜さん、覚悟です!」
切り込んだ、その瞬間。
空を切った。
「――え?」
背後。
首筋に冷たい感触。
「終わりだ」
神一郎は硬直した。
「分身……ですか」
「そうだ」
椎菜はあっさり答えた。
「ロングレンジだからといって、距離を取るだけだと思わない方がいい。高位の騎士はそれくらいやる」
リンクカット。
武器が元の形に戻る。
結界も解かれ、半壊していた体育館が何事もなかったように修復されていく。
「戻るか」
「……はい」
悔しさが胸に残ったままだった。
速さだけなら負けないと思っていた。少なくとも近距離なら、そう簡単には通用しなくなることはないと。
だが現実は違った。
斬れなかった。
届かなかった。
「……このままじゃダメだな」
神一郎は小さく呟く。
椎菜は何も言わなかった。ただ、その沈黙が余計に悔しかった。
⸻
放課後。
結局、授業の残りは妙に長く感じた。
奈々に時々見られるし、優子は後ろから何か考え込んでいるし、神一郎自身もさっきの敗北が頭から離れない。
帰り道は奈々と優子と三人だった。
「神一郎はさ、どこに引っ越したの?」
「駅前のマンションだよ」
「へえ、あの最近建ったやつ? 確か奈々もあそこじゃなかった?」
「えっ」
奈々が目を見開く。
「まさか家まで同じところなの? あんたそれ下手したらストーカーよ?」
「いや、そこまで言う?」
普通に傷つく。
神一郎が肩を落とすと、奈々は少しだけ苦笑した。
その横で優子が何でもない風に言う。
「今度さ、神一郎君の家、お邪魔していい?」
「あ、別に――」
いいけど、と言いかけて神一郎は気づいた。
良くない。
非常に良くない。
まだ椎菜が「いない」。
だが優子は返事を待たずに笑った。
「ありがとっ。じゃ、私こっちだから。またねー」
そう言って手を振りながら走っていく。
「……あれ絶対来るわね」
奈々がぽつりと言った。
「だろうね……」
神一郎は遠い目になった。
⸻
奈々とは同じフロアの隣の部屋だった。
団長、まさかここまでやるとは。
奈々と別れ、自分の部屋へ戻ろうとしたときだった。
「やっほー」
ドアの前に、優子がいた。
「来るの早いな」
「本気だからね」
舌を少し出して笑う。昼間と変わらない軽い調子。けれど、その目だけは違っていた。
「遊びに来たわけじゃないよ」
「……だろうね」
神一郎は玄関の鍵を開けながら言った。
「でも、いきなり中には入れるつもりはない。奈々の友達でも、それは別」
「わかってる。だからちゃんと話す」
少しだけ黙る。
優子からは悪意を感じなかった。
そして神一郎は頷いた。
「……入って」
部屋に入るなり、優子は靴を脱ぎながら言った。
「神一郎君って、騎士ランクどのくらい?」
「いきなりそこから?」
「大事でしょ」
神一郎はテーブルの向かいに座る優子を見た。
確信に変わる。
この子は、ただの一般人じゃない。
「朝倉さんは…」
神一郎は正面から聞いた。
「中国側だね?」
優子は少しだけ笑った。
「うん。やっぱりバレてたか」
「昼の時点でかなり怪しかったから」
「じゃあ話が早いね」
その笑い方は、少しだけ寂しそうだった。
「私たち中国軍は、奈々を保護する任務を受けてる。その為に半年前から同じ学校に潜入してるの」
「保護、ね」
神一郎はその言葉を繰り返した。
「その言い方、俺は好きじゃないな」
「私もだよ」
優子は即座に返した。
「でも、そう聞かされてるの」
「本当に“保護”ならいいけど」
「……そうだね」
優子は自信なさげに視線を落とす。
「奈々は渡さない」
神一郎は、はっきり言った。
「騎士としても、友達としても。あいつが嫌がることはさせたくない」
優子はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと漏らす。
「羨ましいな」
「何が?」
「奈々が」
優子は笑った。
「神一郎君みたいな友達がいて」
「勘違いしてる」
神一郎は首を振る。
「朝倉さんだって友達だよ。あれだけ奈々と仲がいいんだ。いい子なんだろう。だから本当は敵対したくない」
その言葉に、優子の表情が少しだけ揺れた。
「……そういうこと簡単に言うんだ」
「本音だよ」
「困るなあ、そういうの」
優子は立ち上がる。
「でも、私にも私の立場があるから」
「朝倉さん」
「うん?」
「奈々のこと、大事なんだろ」
優子は背を向けたまま、少しだけ黙った。
「……大事だよ」
「なら」
「でもね」
神一郎の言葉を遮るように、優子が言う。
「任務と私情、どっちを選ぶかなんて、簡単じゃないんだよ」
ドアが開く。
「私は私のやり方でやる」
それだけ言って、優子は出ていった。
部屋に残ったのは静けさだけだった。
神一郎は椅子にもたれ、長く息を吐く。
面倒な任務だと思っていた。
けれど、たぶんもうそういう段階ではない。
奈々を守るだけなら、まだよかった。
優子とも向き合わなければいけない。
「……ほんと、面倒だな」
呟きながらも、神一郎はわかっていた。
それでも、自分は引かない。
引けない。
奈々も、優子も、できることなら守りたいと思ってしまった時点で、もう普通の任務ではなくなっていた。




