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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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8/12

莉奈の過去

 中学二年の冬だった。

 最初は、本当に些細なことだったと思う。


 クラスの女子グループから少し距離を置かれて、LINEの返信が来なくなって、廊下で笑い声が聞こえるたびに「自分のことを言われてる気がする」ようになった。


 でも、その“気がする”は、だんだん“確信”に変わっていった。


『あの子、なんか重いよね』

『すぐ病むじゃん』

『男に依存しそう』


 聞こえてしまった言葉は、耳の奥にずっと残った。

 最初は笑って誤魔化していた。

 平気なふりをしていた。

 けれど、家に帰ると急に呼吸が苦しくなった。


 自分の部屋に入って、制服のまま床に座り込む。

 スマホを開いて、誰からも連絡が来ていない画面を見る。

 胸の奥が、じわじわと冷えていった。

 誰にも必要とされていない気がした。


 母親は仕事で帰りが遅かった。

 父親は家にいてもテレビばかり見ていた。

 だから、美咲だけだった。


「莉奈ー? ご飯食べる?」

 部屋のドアをノックする声が聞こえる。

 その声だけで泣きそうになるのに、素直に返事ができなかった。

「……いらない」

「またそんなこと言って。少しでも食べなさい」

 ドアが開いて、美咲が入ってくる。


 当時大学生だった姉は、バイト終わりなのに疲れた顔一つ見せなかった。

 コンビニ袋を机に置いて、しゃがみ込む。

「ほら、プリン買ってきた」

「……別にいらない」

「好きだったじゃん」

「今は好きじゃない」


 本当は食べたかった。

 でも、素直に頷いたら負けな気がした。

 美咲は困ったように笑って、それでもプリンのスプーンを開けてくれた。

「ひと口だけ」

「……子供扱いしないで」

「じゃあ大人扱いするから、ちゃんと食べなさい」

 その言い方が少しおかしくて、思わず笑ってしまった。

 美咲は安心したみたいに目を細めた。


 たぶん、あの頃からだ。

 私は、美咲に依存していた。

 姉がいないと駄目だった。

 姉に嫌われたら、生きていけないと思っていた。

 だから、彼氏ができたと聞いた時、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。


「今度ね、紹介したい人いるんだ」

 夕飯の時だった。

 美咲は少し照れたように笑っていて、母親は「えー!」とはしゃいでいた。

 私は、その時の味を覚えていない。

 箸を持つ手だけが震えていた。

「……ふーん」

 それしか言えなかった。


 その夜、初めて手首を切った。

 本当に、軽く。

 カッターの刃を肌に押し当てるだけ。

 痛かった。

 でも、それ以上に安心した。

 ぐちゃぐちゃしていた頭の中が、一瞬だけ静かになった。

 赤い線を見ていると、自分の苦しさが“形”になった気がした。


 次の日、美咲はすぐ気づいた。

「……莉奈、それどうしたの」

 洗面所だった。

 制服の袖が少し上がってしまって、細い傷が見えていた。

「猫に引っかかれた」

「うち猫いないよ」

 優しい声だった。

 怒っていなかった。

 それが逆につらかった。


「……別に」

「莉奈」

「放っといてよ!」

 叫んだ瞬間、自分でもびっくりした。

 美咲は黙ったまま、しばらく私を見ていた。

 それから、静かに抱きしめた。

「ごめんね」

「……なんでお姉ちゃんが謝るの」

「気づけなかったから」


 その瞬間、涙が止まらなくなった。

 自分でもわからないくらい泣いた。

 美咲の服をぐしゃぐしゃに掴んで、子供みたいに泣いた。


「私、変なんだよ……」

「みんなに嫌われるし……」

「すぐ重いって言われるし……」

「お姉ちゃんにも、そのうち嫌われる……」


「嫌わないよ」

 即答だった。

「絶対に嫌わない」

 その言葉に、私は救われた。

 でも同時に、もっと依存した。


 美咲がいないと、自分には価値がないと思うようになった。

 高校に入っても、それは変わらなかった。


 彼氏ができても長続きしなかった。

 返信が遅いだけで不安になる。

 女友達の名前が出るだけで泣きたくなる。


『重い』

『束縛きつい』

『めんどくさい』


 最後はいつも同じだった。

 別れ話のたびに、美咲は黙って話を聞いてくれた。

「また振られた」

「そっか」

「やっぱ私、おかしいのかな」

「おかしくないよ」

「でもみんな離れてく」

 その時も、美咲は頭を撫でてくれた。

「莉奈は、ちゃんと人を好きになれるだけだよ」

 優しすぎる言葉だった。

 だから私は、余計に壊れていった。


 “こんな自分でも受け入れてくれる人がいる”


 その安心に甘えた。

 美咲は結婚して、子供が生まれても変わらなかった。

 実家を出たあとも、毎日のように連絡をくれた。


『ちゃんと食べてる?』

『寝れてる?』

『無理してない?』


 私はその通知を見るたび、少しだけ生き返った。

 でも、同時に寂しかった。

 お姉ちゃんには、もう“家族”ができていた。

 私だけじゃなくなっていた。

 その寂しさを誤魔化すように、私は何人かと付き合った。

 でも長く続かなかった。


 結局、最後に連絡するのはいつも美咲だった。

 泣きながら電話して、美咲に慰められる。

 その繰り返し。


 そして、悠真に会った。

 最初は、本当に理想の夫だった。

 優しくて、気遣いができて、子供にもちゃんと笑っていた。

 美咲が幸せそうに笑うから、安心していた。


 なのに。

 あの日。

 ホテルから出てくる悠真を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

 裏切られた、と思った。

 お姉ちゃんが可哀想だと思った。

 最低だと思った。


 でも。

 それと同時に。

 どこかで安心してしまった自分がいた。


 ──完璧じゃなかった。

 ──お姉ちゃんだけの人じゃなかった。


 そう思った瞬間、自分でも気づかないところで、何かが壊れた。

 たぶん私は、昔からずっと。


 誰かの一番になりたいんじゃない。

 誰かを自分だけにしたいんだ。


 だから、失うのが怖い。

 だから、嫌われる前に縋りつく。

 だから、重い。

 だから──。


「……お義兄ちゃん」


 夜のリビングで、その名前を口にした時。

 胸の奥が、あの頃の傷みたいに熱を持った。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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