莉奈の過去
中学二年の冬だった。
最初は、本当に些細なことだったと思う。
クラスの女子グループから少し距離を置かれて、LINEの返信が来なくなって、廊下で笑い声が聞こえるたびに「自分のことを言われてる気がする」ようになった。
でも、その“気がする”は、だんだん“確信”に変わっていった。
『あの子、なんか重いよね』
『すぐ病むじゃん』
『男に依存しそう』
聞こえてしまった言葉は、耳の奥にずっと残った。
最初は笑って誤魔化していた。
平気なふりをしていた。
けれど、家に帰ると急に呼吸が苦しくなった。
自分の部屋に入って、制服のまま床に座り込む。
スマホを開いて、誰からも連絡が来ていない画面を見る。
胸の奥が、じわじわと冷えていった。
誰にも必要とされていない気がした。
母親は仕事で帰りが遅かった。
父親は家にいてもテレビばかり見ていた。
だから、美咲だけだった。
「莉奈ー? ご飯食べる?」
部屋のドアをノックする声が聞こえる。
その声だけで泣きそうになるのに、素直に返事ができなかった。
「……いらない」
「またそんなこと言って。少しでも食べなさい」
ドアが開いて、美咲が入ってくる。
当時大学生だった姉は、バイト終わりなのに疲れた顔一つ見せなかった。
コンビニ袋を机に置いて、しゃがみ込む。
「ほら、プリン買ってきた」
「……別にいらない」
「好きだったじゃん」
「今は好きじゃない」
本当は食べたかった。
でも、素直に頷いたら負けな気がした。
美咲は困ったように笑って、それでもプリンのスプーンを開けてくれた。
「ひと口だけ」
「……子供扱いしないで」
「じゃあ大人扱いするから、ちゃんと食べなさい」
その言い方が少しおかしくて、思わず笑ってしまった。
美咲は安心したみたいに目を細めた。
たぶん、あの頃からだ。
私は、美咲に依存していた。
姉がいないと駄目だった。
姉に嫌われたら、生きていけないと思っていた。
だから、彼氏ができたと聞いた時、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「今度ね、紹介したい人いるんだ」
夕飯の時だった。
美咲は少し照れたように笑っていて、母親は「えー!」とはしゃいでいた。
私は、その時の味を覚えていない。
箸を持つ手だけが震えていた。
「……ふーん」
それしか言えなかった。
その夜、初めて手首を切った。
本当に、軽く。
カッターの刃を肌に押し当てるだけ。
痛かった。
でも、それ以上に安心した。
ぐちゃぐちゃしていた頭の中が、一瞬だけ静かになった。
赤い線を見ていると、自分の苦しさが“形”になった気がした。
次の日、美咲はすぐ気づいた。
「……莉奈、それどうしたの」
洗面所だった。
制服の袖が少し上がってしまって、細い傷が見えていた。
「猫に引っかかれた」
「うち猫いないよ」
優しい声だった。
怒っていなかった。
それが逆につらかった。
「……別に」
「莉奈」
「放っといてよ!」
叫んだ瞬間、自分でもびっくりした。
美咲は黙ったまま、しばらく私を見ていた。
それから、静かに抱きしめた。
「ごめんね」
「……なんでお姉ちゃんが謝るの」
「気づけなかったから」
その瞬間、涙が止まらなくなった。
自分でもわからないくらい泣いた。
美咲の服をぐしゃぐしゃに掴んで、子供みたいに泣いた。
「私、変なんだよ……」
「みんなに嫌われるし……」
「すぐ重いって言われるし……」
「お姉ちゃんにも、そのうち嫌われる……」
「嫌わないよ」
即答だった。
「絶対に嫌わない」
その言葉に、私は救われた。
でも同時に、もっと依存した。
美咲がいないと、自分には価値がないと思うようになった。
高校に入っても、それは変わらなかった。
彼氏ができても長続きしなかった。
返信が遅いだけで不安になる。
女友達の名前が出るだけで泣きたくなる。
『重い』
『束縛きつい』
『めんどくさい』
最後はいつも同じだった。
別れ話のたびに、美咲は黙って話を聞いてくれた。
「また振られた」
「そっか」
「やっぱ私、おかしいのかな」
「おかしくないよ」
「でもみんな離れてく」
その時も、美咲は頭を撫でてくれた。
「莉奈は、ちゃんと人を好きになれるだけだよ」
優しすぎる言葉だった。
だから私は、余計に壊れていった。
“こんな自分でも受け入れてくれる人がいる”
その安心に甘えた。
美咲は結婚して、子供が生まれても変わらなかった。
実家を出たあとも、毎日のように連絡をくれた。
『ちゃんと食べてる?』
『寝れてる?』
『無理してない?』
私はその通知を見るたび、少しだけ生き返った。
でも、同時に寂しかった。
お姉ちゃんには、もう“家族”ができていた。
私だけじゃなくなっていた。
その寂しさを誤魔化すように、私は何人かと付き合った。
でも長く続かなかった。
結局、最後に連絡するのはいつも美咲だった。
泣きながら電話して、美咲に慰められる。
その繰り返し。
そして、悠真に会った。
最初は、本当に理想の夫だった。
優しくて、気遣いができて、子供にもちゃんと笑っていた。
美咲が幸せそうに笑うから、安心していた。
なのに。
あの日。
ホテルから出てくる悠真を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
裏切られた、と思った。
お姉ちゃんが可哀想だと思った。
最低だと思った。
でも。
それと同時に。
どこかで安心してしまった自分がいた。
──完璧じゃなかった。
──お姉ちゃんだけの人じゃなかった。
そう思った瞬間、自分でも気づかないところで、何かが壊れた。
たぶん私は、昔からずっと。
誰かの一番になりたいんじゃない。
誰かを自分だけにしたいんだ。
だから、失うのが怖い。
だから、嫌われる前に縋りつく。
だから、重い。
だから──。
「……お義兄ちゃん」
夜のリビングで、その名前を口にした時。
胸の奥が、あの頃の傷みたいに熱を持った。
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