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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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「もう会えませんか?」

奈々の声は、思ったより静かだった。


ホテル街から少し離れたカフェ。

平日の昼間なのに、店内にはそこそこ人がいる。

悠真はコーヒーを一口飲んでから答えた。

「そういうこと」

奈々はしばらく黙っていた。

「奥さんにバレた?」

「いや」

「じゃあなんで」

悠真は窓の外を見る。

自分でも理由をうまく説明できなかった。


莉奈とのキス。

あの夜から、全部の感覚が狂い始めている。

奈々との時間が急に面倒になった。

「飽きた?」

奈々が笑う。

冗談っぽく言っているけど、目は笑っていない。

「そういう言い方やめろよ」

「でもいつもそうじゃないですか」

痛いところだった。

奈々はストローを回しながら続ける。


「黒沢さんって、絶対最後は戻るもんね」

家庭へ。

何事もなかったみたいに。

「……悪かった」

「ほんとですよ」

奈々は笑う。

でも次の瞬間、急に真顔になった。


「私、本気だったのに」

悠真は言葉に詰まる。

そういう空気になるのが一番嫌だった。

遊びのまま終わると思っていた。

「だからそういうのやめろって」

「最低」

奈々は小さく呟く。

その言葉が、最近やけに増えた気がした。



帰宅すると、莉奈がいた。

最近ほとんど毎日いる。

「おかえり」

ソファに寝転びながら手を振ってくる。

美咲がキッチンから顔を出した。


「今日早かったね」

「ああ」

ネクタイを外しながらリビングへ入る。


その瞬間。

莉奈と目が合う。

たったそれだけで、空気が少し変わる。

美咲は気づいていない。

まだ。


「今日さー、お義兄ちゃんの好きそうなプリン買ってきた」

莉奈が笑う。

「勝手に決めんな」

「好きじゃん」

「……まあ」

その会話を見ながら、美咲が苦笑する。

「ほんと仲良いよね最近」

一瞬だけ、二人の動きが止まりかける。


だが莉奈はすぐ笑った。

「だってお義兄ちゃん意外と優しいし」

「意外とは余計」

空気は自然だった。

自然すぎて、逆に危うかった。



夜。

子供たちが寝たあと。

美咲は先に風呂へ入っていた。


悠真が冷蔵庫を開けると、後ろから声がする。

「ほんとに終わらせたの?」

莉奈だった。

悠真は振り返らない。

「何を」

「浮気相手」

数秒沈黙。

「……ああ」

莉奈は少し黙る。


それから、小さく笑った。

「そっか」

その声が、思ったより嬉しそうだった。

悠真は水を飲みながら言う。

「約束しただろ」

「うん」


莉奈はゆっくり近づく。

距離が近い。

最近、もうそれが普通になり始めていた。

「ありがと」

小さな声。

悠真は視線を逸らす。


「別にお前のためじゃねぇよ」

「でも嬉しい」

莉奈はそう言って笑った。

その顔を見た瞬間。

悠真は、まずいと思った。


この空気に慣れ始めている。



数日後。

美咲と子供たちが実家へ泊まりに行った夜。

家には悠真と莉奈だけだった。


「静かだね」

莉奈はソファでクッションを抱えながら笑う。

「いつもうるさいからな」

「寂しい?」

「別に」

テレビだけが流れている。

だが、二人ともほとんど見ていなかった。


莉奈は酒を少し飲んでいた。

頬が赤い。

「ねえ」

「ん」

「最近、優しいね」

悠真は眉をひそめる。

「前からだろ」

「違うよ」

莉奈は笑う。

「前より私のこと見る」

その言葉に、悠真は返せなくなる。


沈黙。

やがて莉奈が小さく呟いた。

「嬉しい」

空気が静かに熱を持っていく。

悠真は煙草を取り出す。

だが火をつける前に、莉奈がその手を掴んだ。

「吸わないで」

「なんで」

「今、煙草の匂い嫌」


至近距離。

莉奈の目が揺れている。

悠真は離れなきゃいけないと思った。

でも。


次の瞬間、莉奈が小さく言った。

「キス、して」

理性が止まる。

悠真はそのまま莉奈を引き寄せた。

今度は短くなかった。


「……やば」

キスのあと、莉奈はソファに顔を埋めた。

耳まで赤い。

悠真は煙草を咥えながら天井を見る。


完全に終わってる。

頭では分かっていた。

でも後悔より先に、妙な満足感があった。


「お義兄ちゃん」

莉奈が小さく呼ぶ。

「ん」

「もう戻れないね」

その言葉に、悠真は何も返さなかった。

戻れない。

確かにそうだった。



それから二人の距離は急速に変わった。

触れることが増えた。

視線が絡む回数が増えた。

美咲が近くにいるのに、秘密を共有している感覚が二人を熱くさせる。


「お義兄ちゃん、これ食べる?」

「あー」

莉奈がフォークを差し出す。

悠真が普通に口に入れる。

その様子を見て、美咲が笑った。

「ほんと仲良いなぁ」

「でしょー」

莉奈は笑う。

だがテーブルの下では、悠真の手にそっと触れていた。


誰にも見えない場所で。


少しずつ。


壊れていく。



夜。

『会いたい』

莉奈からメッセージ。

二階と一階にいるだけなのに。

悠真は少し笑う。

『今下行く』

そのやり取りだけで、莉奈は嬉しそうにする。

どんどん依存していくのが分かった。


「ねえ」

ベランダ。

莉奈が後ろから抱きついてくる。

「もう他の女いないよね」

「いない」

「ほんと?」

「しつこい」

でも莉奈は離れない。

「だって怖いもん」

小さな声。


「お義兄ちゃん、普通に嘘つくから」

悠真は返せなかった。



会社の飲み会だった。

「黒沢さんって絶対モテますよね」

初めて話す派遣の女が笑う。


名前は由奈。

二十代前半。

酔っていて距離が近い。

悠真は適当に笑って流していた。


そのはずだった。

でも。


最近ずっと莉奈に縛られている感覚があった。

『今どこ?』

『誰といるの?』

『ちゃんと帰ってくる?』

メッセージが増えている。

まだ軽い。


でも確実に重くなり始めていた。


「二次会行きます?」

由奈が袖を掴む。

悠真は少し迷った。

ほんの少しだけ。



ホテル。

シャワーの音。

ベッドの上で、悠真はぼんやり天井を見ていた。

最悪だと思う。


莉奈と約束したばかりなのに。

でも。

妙に解放感があった。


その時。

スマホが震える。

莉奈。

『おやすみ』

その一文だけで、胸が少し痛む。


悠真は返信できなかった。



翌朝。

帰宅すると、莉奈がリビングにいた。


「おかえり」

笑っている。

でも。

悠真を見た瞬間、その表情が少し止まる。

「……煙草変えた?」

鋭かった。

悠真は一瞬だけ黙る。


由奈の甘い香水が、まだスーツに残っている。

莉奈の顔から、ゆっくり笑顔が消えていった。

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