本音
翌朝。
病院の待合室には、重たい空気が漂っていた。
白い壁。
静かな足音。
消毒液の匂い。
美咲は椅子に座ったまま、ぼんやり床を見ている。
隣には蒼真。
少し離れた場所には悠真がいた。
誰も会話をしない。
昨夜のことが、まだ現実感を持って整理できていなかった。
やがて診察室の扉が開く。
医師が出てきた。
「命に別状はありません」
その一言で、美咲の肩から力が抜ける。
「傷も浅かったので、身体的には大丈夫です」
「ただ、精神状態はかなり不安定です」
医師は慎重に言葉を選んでいた。
「しばらく一人にしない方がいいでしょう」
その言葉に、空気がさらに重くなる。
誰が見るのか。
誰が責任を持つのか。
悠真が先に口を開いた。
「俺が見る」
即答だった。
美咲が顔を上げる。
悠真は疲れた顔のまま続ける。
「今放っとくの危ない」
蒼真は静かに悠真を見る。
「あなた、もう当事者から降りるべきじゃないですか」
冷静な声だった。
でも鋭い。
悠真は眉を寄せる。
蒼真は続けた。
「共依存になってます」
「責任感だけで関わり続けると、また全員壊れますよ」
美咲が息を飲む。
“共依存”
誰も口にしなかった言葉。
でも、一番正確だった。
悠真はしばらく黙ったあと、低く笑う。
「……弁護士って嫌なことちゃんと言うな」
「仕事なので」
蒼真は表情を変えない。
その空気に、美咲は胸が苦しくなる。
二人とも正しい。
悠真は放っておけない。
でも、それを続けた先に何があるのかも分からない。
その時。
病室の方から小さな物音がした。
美咲が振り返る。
扉の隙間から、莉奈がこちらを見ていた。
青白い顔。
泣いた跡。
その目が、美咲と蒼真で止まる。
数秒。
そして、ゆっくり逸れた。
その反応だけで、美咲の胸が痛む。
莉奈は分かっている。
もう、自分が入り込める場所じゃないことを。
美咲は立ち上がる。
「……少し話してくる」
蒼真は止めなかった。
ただ静かに頷く。
病室。
莉奈はベッドの上で膝を抱えていた。
美咲が入ると、小さく笑う。
「迷惑かけたね」
弱々しい声。
美咲はベッド横の椅子へ座る。
何を言えばいいのか分からない。
怒りもある。
でも昨夜の光景が頭から離れない。
沈黙のあと、莉奈がぽつりと言う。
「……慰謝料、請求するんでしょ」
美咲の指が止まる。
莉奈は続ける。
「した方がいいよ」
笑っていた。
でも目は死んでいる。
「その方がスッキリするでしょ」
美咲は苦しそうに眉を寄せる。
「そういう話じゃ——」
「そういう話だよ」
遮る。
「お姉ちゃんは被害者なんだから」
その言葉に、美咲の胸が強く痛む。
莉奈は天井を見ながら呟く。
「私さ」
「ずっと、お姉ちゃんになりたかった」
美咲が息を止める。
莉奈は続けた。
「ちゃんとしてて」
「愛されて」
「期待されて」
「でも無理だった」
乾いた笑い。
「だから、悠真取った時」
少し間。
「初めて勝てた気がした」
美咲は言葉を失う。
そんな風に思っていたなんて、知らなかった。
莉奈は目を閉じる。
「なのに結局、また負けた」
病室が静まり返る。
その時、美咲は初めて理解する。
莉奈はずっと、
“悠真”を欲しかったんじゃない。
“美咲より上だと思える何か”が欲しかったんだと。
病室には静かな機械音だけが響いていた。
美咲は、すぐに言葉が出なかった。
莉奈の告白はあまりにも重かった。
ずっと比べられていたと思っていた妹。
でも本当は、
妹自身がずっと“比べ続けていた”。
美咲は小さく息を吐く
「……なんで言わなかったの」
掠れた声。
莉奈は少し笑う。
「言えるわけないじゃん」
「お姉ちゃんに嫉妬してますなんて」
自嘲だった。
「しかも、お姉ちゃん悪くないし」
その言葉に、美咲の胸が締め付けられる。
悪くない。
そんなことない。
最初に悠真と付き合った時だって、
莉奈は少し寂しそうだった。
結婚が決まった時も、
どこか無理して笑っていた。
気づけた瞬間はいくつもあったはずだ。
でも、美咲は“妹なら大丈夫”と思っていた。
莉奈はぽつりと言う。
「お姉ちゃんってさ」
「ずっと優しいじゃん」
「だから余計惨めだった」
美咲は顔を歪める。
「そんな言い方——」
「だって本当だもん」
莉奈は笑う。
泣きそうな顔で。
「怒ってくれた方が楽だった」
「責めてくれた方が楽だった」
「でもお姉ちゃん、ずっと我慢するから」
その言葉が、美咲の奥に刺さる。
我慢。
確かにそうだった。
ずっと、
壊れないように、
嫌われないように。
感情を飲み込んできた。
その結果。
全部、歪んだ。
長い沈黙。
やがて美咲は静かに聞く。
「……悠真のこと、好きだった?」
莉奈は少し目を閉じる。
「最初は違った」
正直な声だった。
「でも」
「私を見てくれたから」
その一言で十分だった。
美咲より、
自分を。
それが嬉しかった。
嬉しくて、やめられなかった。
莉奈はゆっくり天井を見る。
「最低だよね」
「お姉ちゃんの旦那なのに」
「妊娠までして引き止めて」
その声は、もう怒りじゃなかった。
空っぽだった。
美咲は黙ったまま聞いている。
すると莉奈がぽつりと落とす。
「……でもさ」
「蒼真さんは、本当にお姉ちゃんのこと好きだよね」
美咲の心臓が跳ねる。
「莉奈」
「分かるよ」
小さく笑う。
「あの人、ずっとお姉ちゃん守ってるもん」
病室の空気が静まる。
莉奈は視線を逸らしたまま続けた。
「だから余計、惨めだった」
「私には誰もああならなかった」
その言葉に、美咲は返せない。
悠真は確かに莉奈を求めた。
でもそれは、
壊れた感情の延長だった。
蒼真みたいに、
“守りたい”という愛情ではない。
莉奈自身、それを分かっている。
だから苦しい。
美咲はしばらく黙ったあと、小さく口を開く。
「……慰謝料のこと」
莉奈の肩がわずかに強張る。
美咲は続けた。
「まだ、決めきれてない」
本音だった。
憎い。
許せない。
でも今の莉奈を見ていると、
全部叩き潰すことだけが正解なのか分からなくなる。
莉奈は数秒黙ったあと、静かに笑う。
「お姉ちゃんらしい」
「そういうとこ、昔から嫌いだった」
ひどい言葉のはずなのに。
そこにはもう棘がなかった。
ただの諦めだった。
その時。
病室の扉が軽くノックされる。
蒼真だった。
「……すみません、少しだけ」
美咲は振り返る。
蒼真は美咲を見る。
「ご両親が来ました」
その一言で、病室の空気が止まった。
莉奈の顔色が変わる。
逃げ場のない現実が、
また目の前まで来ていた。
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