向き合う【最終話】
莉奈の表情が固まった。
「……来たの」
掠れた声。
さっきまでの諦めたような顔が消えている。
代わりに浮かんだのは、怯えだった。
親に会うのが怖い。
怒られることじゃない。
失望した顔をされることが。
美咲はそんな莉奈を見て、小さく息を吐いた。
昔からそうだった。
莉奈は怒られることより、“見放されること”を異常に怖がっていた。
蒼真は空気を読んだのか、それ以上何も言わない。
「……少し席外します」
そう言って扉へ向かう。
美咲も立ち上がりかけた。
けれど。
服の袖を、小さく掴まれた。
莉奈だった。
「……行かないで」
震える声。
美咲は止まる。
莉奈は俯いたまま続けた。
「一人だと無理」
その姿は、今までの莉奈じゃなかった。
怒鳴っていた妹でも、
壊れた妹でもない。
昔、転んで泣いていた頃と同じ顔だった。
美咲はしばらく黙る。
それから静かに椅子へ座り直した。
「いるよ」
その一言で、莉奈の肩が少しだけ下がる。
数秒後。
扉が開いた。
母が先に入ってくる。
目は赤い。
昨日から何度泣いたのか分からないくらいだった。
後ろには父。
二人とも、言葉が出ない。
ベッドの上の莉奈を見る。
青白い顔。
細くなった身体。
手首の包帯。
母の目から涙が溢れた。
「……何してるのよ」
震えた声。
「こんなことして……」
莉奈は顔を逸らした。
「……ごめん」
母は近づく。
怒ると思った。
責めると思った。
でも違った。
母はベッドの横で泣きながら言った。
「生きててよかった……」
その言葉で、莉奈の目が大きく揺れた。
「え……?」
「馬鹿……」
母は泣きながら莉奈の頭を撫でる。
「何しててもいいから、生きてなさいよ……」
莉奈が固まる。
父も何も言わない。
ただ、ずっと俯いていた。
やがて低い声が落ちる。
「……お前がしたことは、消えない」
莉奈の肩が震える。
「美咲を傷つけたことも」
「悠真くんのことも」
「全部ちゃんと向き合え」
静かな声だった。
怒鳴らない。
だから余計に重い。
父は続ける。
「でも」
長い間。
「お前が死んで終わりなんて許さない」
莉奈の目から、ぽろっと涙が落ちた。
一滴。
二滴。
そして次の瞬間。
顔を覆って、子供みたいに泣き始めた。
「ごめんなさい……っ」
「ごめんなさい……!」
母も泣いていた。
父は顔を逸らしていた。
美咲は、その光景を見つめていた。
ずっと壊れ続けていたものが。
ほんの少しだけ。
初めて、修復を始めた気がした。
そして病室の外。
蒼真は静かに壁へ寄りかかっていた。
その時、隣に悠真が来る。
しばらく無言。
やがて悠真が小さく笑った。
「……入らないのか」
蒼真は病室を見る。
「今は家族の時間なので」
悠真はその横顔を見て、少し苦く笑った。
「負けたな」
蒼真が眉を動かす。
悠真は病室の方を見たまま言った。
「俺、多分最後まで守り方間違えた」
静かな声だった。
初めて、自分の弱さを認めた声だった。
病室の外。
悠真は自販機の缶コーヒーを開けた。
炭酸でもないのに、プシュッという音が妙に大きく聞こえる。
「……守るつもりだったんだけどな」
誰に向けた言葉でもなかった。
蒼真は隣で黙っている。
悠真は苦く笑った。
「美咲は昔から無理するタイプだったし」
「莉奈は放っとくと危なっかしかったし」
「だから俺が何とかしなきゃって思ってた」
缶を握る指に力が入る。
「でも結局、誰も守れてなかった」
静かな廊下。
蒼真は数秒考えてから口を開いた。
「一つだけ言うなら」
悠真が視線を向ける。
「“守る”って、自分一人で抱えることじゃないです」
悠真は少し笑う。
「……また刺さること言うな」
「仕事なので」
いつもの返し。
でも今回は、少しだけ空気が柔らかかった。
その時。
病室の扉が開く。
出てきたのは美咲だった。
目は少し赤い。
でも、前みたいな苦しそうな顔じゃない。
悠真は立ち上がる。
一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちる。
夫婦だった二人。
でも今は、もう違う。
悠真が先に言った。
「……悪かった」
真っ直ぐだった。
言い訳もない。
「全部」
美咲は静かに見つめる。
責めようと思えばいくらでも責められる。
恨もうと思えば恨えた。
でも今、目の前にいる悠真は。
怒る相手というより、全部失って立ち尽くしてる人に見えた。
美咲はゆっくり息を吐く。
「……私も」
悠真が顔を上げる。
「気づけなかった」
「莉奈のことも」
「自分のことも」
悠真は何も言わない。
美咲は少し笑う。
悲しい笑顔だった。
「でも」
少し間。
「もう戻れないと思う」
その言葉で、悠真の目が揺れる。
分かっていた。
ずっと前から。
でも、本人の口から聞くのは違った。
胸が苦しくなる。
それでも悠真は、小さく頷いた。
「……うん」
短い返事。
それだけだった。
長い沈黙のあと、美咲が小さく頭を下げる。
「今までありがとう」
夫婦としての終わり。
責め合いでもなく、
怒鳴り合いでもなく。
静かな別れだった。
少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた蒼真は何も言わない。
ただ、美咲がこちらへ歩いてきた時だけ、自然に隣へ並んだ。
その距離感があまりにも自然で。
悠真は少しだけ笑った。
「あーあ」
空を見上げる。
「完全に遅かったな、俺」
その声には、諦めと。
ほんの少しだけ、安堵も混ざっていた。
数日後。
病院の窓から入る朝の光は、少し柔らかくなっていた。
莉奈はベッドの上でぼんやり外を見ていた。
スマホはほとんど触っていない。
前みたいに誰かからの連絡を待つこともなくなっていた。
空っぽだった。
でも、少し前の壊れ方とは違う。
何もない場所に座り込んでいる感覚だった。
コンコン。
小さくノックが鳴る。
「……どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは悠真だった。
莉奈は目を丸くする。
「え……」
悠真は近くの椅子に座る。
少し疲れた顔。
でも以前みたいな、揺れている感じはなかった。
「元気そうではないな」
「そりゃそうでしょ」
莉奈は苦笑する。
少しだけ沈黙。
そして莉奈が俯いたまま言う。
「……怒ってないの」
悠真は数秒考える。
「怒ってるよ」
はっきり言った。
莉奈の肩が震える。
「でも」
悠真は続けた。
「俺も同じくらい悪かった」
莉奈がゆっくり顔を上げる。
「俺、お前のこと助けてるつもりでいたけど」
「結局、自分が必要とされたいだけだったかもしれない」
静かな声。
言い訳じゃなかった。
認めていた。
自分の弱さを。
莉奈の目に涙が浮かぶ。
「……なんで今さら優しくするの」
「優しくしてるわけじゃない」
悠真は苦く笑った。
「終わらせに来た」
空気が止まる。
莉奈の顔が固まる。
悠真はまっすぐ言った。
「俺とお前、もう会わない方がいい」
「……っ」
莉奈の呼吸が止まる。
分かっていた。
でも聞きたくなかった。
悠真は続ける。
「このまま繋がってたら、また同じこと繰り返す」
「また誰か傷つける」
「だから終わり」
静かな声だった。
でも迷いはなかった。
莉奈は唇を噛む。
泣きそうになりながら笑う。
「……そっか」
「最後まで、お姉ちゃん選ぶんだ」
悠真は首を振る。
「違う」
数秒の沈黙。
「今は誰も選ばない」
その言葉に、莉奈の目が揺れる。
悠真は立ち上がる。
そして病室を出る前、振り返らないまま言った。
「……ちゃんと生きろ」
扉が閉まる。
静かな病室。
莉奈はしばらく動かなかった。
やがて。
ぽろっと涙が落ちる。
でもそれは前みたいな、誰かを恨む涙じゃなかった。
全部失った。
そう思っていた。
だけど今初めて。
“終わった”じゃなくて、“ここから何もない場所から始まる”んだと、少しだけ思ってしまった。
その頃。
店では、美咲がケーキを並べていた。
「それ、ちょっと曲がってます」
隣から声。
振り返ると蒼真がいた。
「……仕事は?」
「昼休みです」
「最近ほんといるね」
「はい」
即答。
美咲が吹き出す。
その笑い声を聞いた蒼真は、少しだけ安心した顔をしていた。
前みたいな無理した笑顔じゃない。
ちゃんと、笑えていたから。
一ヶ月後。
店の空気は少し変わっていた。
ショーケースには新作ケーキ。
焼き菓子の種類も増えている。
前より客も少し増えていた。
美咲はカウンターの中で忙しそうに動いている。
「美咲さん」
「ん?」
「それ砂糖じゃなくて塩です」
「……え?」
手が止まる。
見てみる。
本当に塩だった。
美咲が固まる。
蒼真は黙って差し出されたボウルを回収した。
「危なかったですね」
「……見てたならもっと早く言って」
「五秒前から気づいてました」
「もっと早く言って!」
久しぶりの軽い言い合い。
二人とも少し笑う。
あの頃と違う。
泣いて、
壊れて、
苦しくて。
そんな時間を通ったあとだからか、今の空気は穏やかだった。
その時、入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
美咲が顔を上げる。
そして止まった。
「……莉奈」
蒼真も顔を上げる。
一瞬だけ空気が張る。
でも。
以前と何か違った。
髪は短くなっていた。
薄いメイク。
表情も落ち着いている。
少し痩せてはいたけれど、目は前みたいに荒れていない。
莉奈は入口で立ち止まったまま、小さく頭を下げた。
「……ごめん」
最初の言葉がそれだった。
美咲は何も言えない。
莉奈は続ける。
「病院出てから、しばらく実家戻ってた」
「カウンセリングも行ってる」
少し笑う。
「先生に“まず人と比べるのやめましょう”って言われた」
自分で言って、自分で少し苦笑していた。
沈黙。
そして莉奈が鞄から封筒を出す。
「これ」
美咲が受け取る。
中には通帳のコピーと、メモが入っていた。
『毎月少しずつ返します』
『逃げません』
美咲の目が揺れる。
莉奈は俯いたまま言った。
「慰謝料も」
「お店の怪我のことも」
「ちゃんと払う」
震えていた。
でも逃げていない声だった。
蒼真は何も言わない。
ただ、静かに見ていた。
莉奈は深く頭を下げる。
「……今さら許してなんて言わない」
「でも、ちゃんと向き合う」
長い沈黙。
美咲は封筒を見つめる。
そしてゆっくり言った。
「……顔上げて」
莉奈が少しずつ顔を上げる。
美咲はしばらく見つめたあと、小さく笑った。
「ケーキ、食べる?」
莉奈の目が大きくなる。
「え……」
「お金は取るけど」
数秒。
莉奈の目から涙が溢れた。
笑いながら泣いていた。
「……なにそれ」
美咲も少し笑う。
まだ全部元通りじゃない。
許したわけでもない。
傷は消えていない。
でも。
壊れたものは、“元に戻る”んじゃなくて。
時間をかけて、“別の形で作り直す”ものなのかもしれなかった。
そしてカウンターの向こうで。
蒼真はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。
ようやく、本当の意味で終わりが始まった気がした。
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