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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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31/31

向き合う【最終話】

莉奈の表情が固まった。

「……来たの」

掠れた声。

さっきまでの諦めたような顔が消えている。

代わりに浮かんだのは、怯えだった。

親に会うのが怖い。

怒られることじゃない。

失望した顔をされることが。


美咲はそんな莉奈を見て、小さく息を吐いた。

昔からそうだった。

莉奈は怒られることより、“見放されること”を異常に怖がっていた。

蒼真は空気を読んだのか、それ以上何も言わない。

「……少し席外します」

そう言って扉へ向かう。


美咲も立ち上がりかけた。

けれど。

服の袖を、小さく掴まれた。

莉奈だった。

「……行かないで」

震える声。

美咲は止まる。

莉奈は俯いたまま続けた。

「一人だと無理」


その姿は、今までの莉奈じゃなかった。

怒鳴っていた妹でも、

壊れた妹でもない。

昔、転んで泣いていた頃と同じ顔だった。

美咲はしばらく黙る。

それから静かに椅子へ座り直した。

「いるよ」

その一言で、莉奈の肩が少しだけ下がる。


数秒後。

扉が開いた。

母が先に入ってくる。

目は赤い。

昨日から何度泣いたのか分からないくらいだった。

後ろには父。

二人とも、言葉が出ない。

ベッドの上の莉奈を見る。


青白い顔。

細くなった身体。

手首の包帯。

母の目から涙が溢れた。

「……何してるのよ」

震えた声。

「こんなことして……」

莉奈は顔を逸らした。

「……ごめん」

母は近づく。


怒ると思った。

責めると思った。

でも違った。

母はベッドの横で泣きながら言った。

「生きててよかった……」

その言葉で、莉奈の目が大きく揺れた。

「え……?」

「馬鹿……」

母は泣きながら莉奈の頭を撫でる。

「何しててもいいから、生きてなさいよ……」

莉奈が固まる。

父も何も言わない。

ただ、ずっと俯いていた。


やがて低い声が落ちる。

「……お前がしたことは、消えない」

莉奈の肩が震える。

「美咲を傷つけたことも」

「悠真くんのことも」

「全部ちゃんと向き合え」

静かな声だった。

怒鳴らない。

だから余計に重い。


父は続ける。

「でも」

長い間。

「お前が死んで終わりなんて許さない」

莉奈の目から、ぽろっと涙が落ちた。

一滴。

二滴。


そして次の瞬間。

顔を覆って、子供みたいに泣き始めた。

「ごめんなさい……っ」

「ごめんなさい……!」

母も泣いていた。

父は顔を逸らしていた。

美咲は、その光景を見つめていた。


ずっと壊れ続けていたものが。

ほんの少しだけ。

初めて、修復を始めた気がした。


そして病室の外。

蒼真は静かに壁へ寄りかかっていた。

その時、隣に悠真が来る。

しばらく無言。

やがて悠真が小さく笑った。

「……入らないのか」

蒼真は病室を見る。

「今は家族の時間なので」

悠真はその横顔を見て、少し苦く笑った。

「負けたな」

蒼真が眉を動かす。

悠真は病室の方を見たまま言った。

「俺、多分最後まで守り方間違えた」

静かな声だった。

初めて、自分の弱さを認めた声だった。


病室の外。

悠真は自販機の缶コーヒーを開けた。

炭酸でもないのに、プシュッという音が妙に大きく聞こえる。

「……守るつもりだったんだけどな」

誰に向けた言葉でもなかった。

蒼真は隣で黙っている。

悠真は苦く笑った。


「美咲は昔から無理するタイプだったし」

「莉奈は放っとくと危なっかしかったし」

「だから俺が何とかしなきゃって思ってた」

缶を握る指に力が入る。

「でも結局、誰も守れてなかった」


静かな廊下。

蒼真は数秒考えてから口を開いた。

「一つだけ言うなら」

悠真が視線を向ける。

「“守る”って、自分一人で抱えることじゃないです」

悠真は少し笑う。

「……また刺さること言うな」

「仕事なので」

いつもの返し。

でも今回は、少しだけ空気が柔らかかった。


その時。

病室の扉が開く。

出てきたのは美咲だった。

目は少し赤い。

でも、前みたいな苦しそうな顔じゃない。

悠真は立ち上がる。

一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちる。

夫婦だった二人。

でも今は、もう違う。


悠真が先に言った。

「……悪かった」

真っ直ぐだった。

言い訳もない。

「全部」

美咲は静かに見つめる。

責めようと思えばいくらでも責められる。

恨もうと思えば恨えた。

でも今、目の前にいる悠真は。

怒る相手というより、全部失って立ち尽くしてる人に見えた。


美咲はゆっくり息を吐く。

「……私も」

悠真が顔を上げる。

「気づけなかった」

「莉奈のことも」

「自分のことも」

悠真は何も言わない。


美咲は少し笑う。

悲しい笑顔だった。

「でも」

少し間。

「もう戻れないと思う」

その言葉で、悠真の目が揺れる。


分かっていた。

ずっと前から。

でも、本人の口から聞くのは違った。

胸が苦しくなる。

それでも悠真は、小さく頷いた。

「……うん」

短い返事。

それだけだった。


長い沈黙のあと、美咲が小さく頭を下げる。

「今までありがとう」

夫婦としての終わり。

責め合いでもなく、

怒鳴り合いでもなく。

静かな別れだった。


少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた蒼真は何も言わない。

ただ、美咲がこちらへ歩いてきた時だけ、自然に隣へ並んだ。

その距離感があまりにも自然で。

悠真は少しだけ笑った。


「あーあ」

空を見上げる。

「完全に遅かったな、俺」

その声には、諦めと。

ほんの少しだけ、安堵も混ざっていた。


数日後。

病院の窓から入る朝の光は、少し柔らかくなっていた。

莉奈はベッドの上でぼんやり外を見ていた。

スマホはほとんど触っていない。

前みたいに誰かからの連絡を待つこともなくなっていた。


空っぽだった。

でも、少し前の壊れ方とは違う。

何もない場所に座り込んでいる感覚だった。


コンコン。

小さくノックが鳴る。

「……どうぞ」

扉が開いた。

入ってきたのは悠真だった。

莉奈は目を丸くする。

「え……」


悠真は近くの椅子に座る。

少し疲れた顔。

でも以前みたいな、揺れている感じはなかった。

「元気そうではないな」

「そりゃそうでしょ」

莉奈は苦笑する。


少しだけ沈黙。

そして莉奈が俯いたまま言う。

「……怒ってないの」

悠真は数秒考える。

「怒ってるよ」

はっきり言った。

莉奈の肩が震える。


「でも」

悠真は続けた。

「俺も同じくらい悪かった」

莉奈がゆっくり顔を上げる。

「俺、お前のこと助けてるつもりでいたけど」

「結局、自分が必要とされたいだけだったかもしれない」


静かな声。

言い訳じゃなかった。

認めていた。

自分の弱さを。

莉奈の目に涙が浮かぶ。


「……なんで今さら優しくするの」

「優しくしてるわけじゃない」

悠真は苦く笑った。

「終わらせに来た」

空気が止まる。

莉奈の顔が固まる。


悠真はまっすぐ言った。

「俺とお前、もう会わない方がいい」

「……っ」

莉奈の呼吸が止まる。

分かっていた。

でも聞きたくなかった。


悠真は続ける。

「このまま繋がってたら、また同じこと繰り返す」

「また誰か傷つける」

「だから終わり」

静かな声だった。

でも迷いはなかった。

莉奈は唇を噛む。

泣きそうになりながら笑う。


「……そっか」

「最後まで、お姉ちゃん選ぶんだ」

悠真は首を振る。

「違う」

数秒の沈黙。

「今は誰も選ばない」


その言葉に、莉奈の目が揺れる。

悠真は立ち上がる。

そして病室を出る前、振り返らないまま言った。

「……ちゃんと生きろ」


扉が閉まる。

静かな病室。

莉奈はしばらく動かなかった。

やがて。

ぽろっと涙が落ちる。


でもそれは前みたいな、誰かを恨む涙じゃなかった。

全部失った。

そう思っていた。

だけど今初めて。


“終わった”じゃなくて、“ここから何もない場所から始まる”んだと、少しだけ思ってしまった。


その頃。

店では、美咲がケーキを並べていた。

「それ、ちょっと曲がってます」

隣から声。

振り返ると蒼真がいた。


「……仕事は?」

「昼休みです」

「最近ほんといるね」

「はい」

即答。

美咲が吹き出す。

その笑い声を聞いた蒼真は、少しだけ安心した顔をしていた。

前みたいな無理した笑顔じゃない。

ちゃんと、笑えていたから。


一ヶ月後。

店の空気は少し変わっていた。

ショーケースには新作ケーキ。

焼き菓子の種類も増えている。

前より客も少し増えていた。

美咲はカウンターの中で忙しそうに動いている。


「美咲さん」

「ん?」

「それ砂糖じゃなくて塩です」

「……え?」

手が止まる。

見てみる。

本当に塩だった。

美咲が固まる。

蒼真は黙って差し出されたボウルを回収した。


「危なかったですね」

「……見てたならもっと早く言って」

「五秒前から気づいてました」

「もっと早く言って!」

久しぶりの軽い言い合い。

二人とも少し笑う。

あの頃と違う。


泣いて、

壊れて、

苦しくて。

そんな時間を通ったあとだからか、今の空気は穏やかだった。


その時、入口のベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

美咲が顔を上げる。

そして止まった。

「……莉奈」

蒼真も顔を上げる。

一瞬だけ空気が張る。

でも。

以前と何か違った。


髪は短くなっていた。

薄いメイク。

表情も落ち着いている。

少し痩せてはいたけれど、目は前みたいに荒れていない。


莉奈は入口で立ち止まったまま、小さく頭を下げた。

「……ごめん」

最初の言葉がそれだった。

美咲は何も言えない。

莉奈は続ける。

「病院出てから、しばらく実家戻ってた」

「カウンセリングも行ってる」

少し笑う。

「先生に“まず人と比べるのやめましょう”って言われた」

自分で言って、自分で少し苦笑していた。


沈黙。

そして莉奈が鞄から封筒を出す。

「これ」

美咲が受け取る。

中には通帳のコピーと、メモが入っていた。


『毎月少しずつ返します』

『逃げません』

美咲の目が揺れる。

莉奈は俯いたまま言った。

「慰謝料も」

「お店の怪我のことも」

「ちゃんと払う」

震えていた。

でも逃げていない声だった。


蒼真は何も言わない。

ただ、静かに見ていた。

莉奈は深く頭を下げる。

「……今さら許してなんて言わない」

「でも、ちゃんと向き合う」


長い沈黙。

美咲は封筒を見つめる。

そしてゆっくり言った。

「……顔上げて」

莉奈が少しずつ顔を上げる。

美咲はしばらく見つめたあと、小さく笑った。

「ケーキ、食べる?」

莉奈の目が大きくなる。

「え……」

「お金は取るけど」


数秒。

莉奈の目から涙が溢れた。

笑いながら泣いていた。

「……なにそれ」

美咲も少し笑う。


まだ全部元通りじゃない。

許したわけでもない。

傷は消えていない。


でも。

壊れたものは、“元に戻る”んじゃなくて。

時間をかけて、“別の形で作り直す”ものなのかもしれなかった。


そしてカウンターの向こうで。

蒼真はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。

ようやく、本当の意味で終わりが始まった気がした。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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