嫌な予感
悠真は車の鍵を掴むと、ほとんど反射で部屋を飛び出していた。
エレベーターを待つ時間すら長い。
舌打ちしながら階段を駆け下りる。
頭の中では、さっきの莉奈の声が何度も響いていた。
──もし私が死んだら、少しは後悔する?
嫌な予感しかしない。
電話をかけ直す。
出ない。
もう一度。
繋がらない。
「くそ……!」
ハンドルを強く叩く。
莉奈の家へ向かいながら、何度も電話を鳴らす。
その頃。
美咲は蒼真の事務所を出たところだった。
夜風が冷たい。
少し疲れていた。
でも不思議と、心は前より軽い。
蒼真が隣を歩く。
「送ります」
「大丈夫だよ、近いし」
「こういう時に一人にしたくないんです」
自然にそう言う。
美咲は少し笑う。
「ずるいよね、蒼真さん」
「また言いましたね」
そのやり取りの途中。
美咲のスマホが震えた。
悠真。
こんな時間に珍しい。
美咲は少し迷ってから出る。
「……もしもし」
『莉奈そっち行ってないか!?』
切羽詰まった声だった。
美咲の表情が変わる。
「え?」
『電話がやばい』
『今から家行くけど出ない』
蒼真も空気の変化を察する。
美咲は胸騒ぎを覚えた。
莉奈の最後の顔。
壊れた目。
「……何があったの」
『死ぬとか言い出した』
その瞬間、美咲の血の気が引く。
蒼真がすぐスマホを受け取った。
「住所送ってください」
冷静な声。
悠真は少し止まったあと、すぐ送る。
通話が切れる。
美咲は顔色が真っ白だった。
「蒼真さん……」
蒼真はすぐ車の鍵を取り出す。
「行きましょう」
車内。
重い沈黙。
美咲はずっとスマホを握っている。
“もし本当に何かあったら”
その考えが頭から離れない。
蒼真は運転しながら静かに言った。
「まだ間に合います」
美咲は頷けなかった。
怖い。
憎い。
許せない。
でも。
妹だった。
どれだけ壊れても、
消えてほしいとは思っていなかった。
十分後。
莉奈の部屋の前には、すでに悠真がいた。
何度もインターホンを押している。
「開けろ!!」
返事はない。
美咲が駆け寄る。
「悠真!」
悠真が振り返る。
顔色が悪い。
「電話も出ねえ」
蒼真はドアを確認する。
鍵が閉まっている。
室内は静かすぎた。
その瞬間。
悠真の顔が変わる。
「……っ」
微かに、何かを倒す音が聞こえた。
悠真は迷わずドアを蹴る。
一回。
二回。
鈍い音。
三回目で鍵が壊れた。
部屋へ飛び込む。
暗い室内。
酒の匂い。
そして。
床に座り込んだ莉奈がいた。
手首から血が落ちている。
「莉奈!!」
美咲の悲鳴。
悠真がすぐ駆け寄る。
傷は浅い。
でも、明らかに正常じゃない。
莉奈はぼんやり顔を上げる。
「……来たんだ」
掠れた声。
悠真は強く手首を押さえる。
「何してんだよ!!」
初めて本気で怒鳴った。
莉奈は少し笑う。
泣きながら。
「だってもう終わりじゃん」
「終わってねえよ!」
「終わってるよ!!」
叫び返す。
「お姉ちゃんには蒼真いるし!」
「悠真も私のこと嫌いだし!」
「違——」
「違わない!!」
部屋に響く声。
莉奈は泣き崩れる。
「もう誰も私のこと必要としてない……」
その言葉に、美咲の胸が強く痛む。
蒼真は少し離れた場所で救急へ連絡していた。
冷静だった。
でもその目は、過去の何かを思い出しているみたいに暗かった。
救急車のサイレンが、夜の住宅街に響いていた。
狭い部屋。
床には血のついたティッシュと、割れた酒瓶。
悠真はずっと莉奈の手首を押さえている。
「……救急もう来るから」
低い声。
でも莉奈は焦点の合わない目で天井を見ていた。
「なんで助けるの……」
掠れた声。
悠真の眉が強く寄る。
「当たり前だろ」
「私、お姉ちゃん壊したのに」
「……」
「悠真も壊したのに」
その言葉に、悠真は何も返せなかった。
事実だった。
全部ぐちゃぐちゃに壊れた。
誰のせいかなんて、もう単純じゃない。
美咲は少し離れた場所で立ち尽くしている。
怖かった。
莉奈が死にかけている現実も。
それを見て、自分がまだ“助かってほしい”と思ってしまったことも。
蒼真が戻ってくる。
「救急、もう着きます」
落ち着いた声。
でも美咲には分かった。
蒼真は、かなり感情を抑えている。
莉奈を見る目が硬い。
それでも、ちゃんと救急を呼び、状況を整理している。
仕事みたいに冷静だった。
数分後。
救急隊が到着し、部屋の空気が一気に慌ただしくなる。
処置。
確認。
搬送準備。
その中で、莉奈がぼんやり美咲を見た。
「……お姉ちゃん」
弱い声。
美咲の喉が詰まる。
莉奈は泣きながら笑った。
「ごめんね」
その一言に、美咲の胸が強く揺れる。
今さら。
そう思う自分もいる。
でも同時に、
やっと本音を聞けた気もした。
救急隊がストレッチャーを動かす。
悠真も付き添おうと立ち上がる。
その時。
蒼真が静かに口を開いた。
「悠真さん」
悠真が振り返る。
蒼真は低い声で言った。
「今回の件で、美咲さんがまた巻き込まれるなら」
「俺は容赦しません」
空気が止まる。
静かな声だった。
でも、はっきり警告だった。
悠真は数秒黙る。
それから疲れたように笑った。
「……分かってる」
怒らない。
反論もしない。
ただ、全部受け入れている顔だった。
救急車のドアが閉まる。
サイレンが遠ざかっていく。
静かになった夜道で、美咲は力が抜けたみたいにしゃがみ込んだ。
「……美咲さん」
蒼真がすぐ支える。
その腕の温度で、やっと張っていたものが崩れた。
美咲は小さく震えていた。
蒼真は何も言わない。
ただ、落ち着くまで隣にいる。
しばらくして、美咲が掠れた声で言う。
「私……」
途中で言葉が詰まる。
蒼真は静かに待つ。
美咲は涙を拭きながら続けた。
「慰謝料請求、やめた方がいいのかな」
その言葉に、蒼真の目が少しだけ動く。
でも否定もしない。
肯定もしない。
代わりに、ゆっくり聞く。
「今、それ本心ですか」
美咲は答えられない。
罪悪感だった。
死にかけた妹を見た直後だから。
蒼真は静かに言った。
「同情と、許すことは別です」
その言葉が夜の空気に落ちる。
「美咲さんが傷つけられた事実は、消えてません」
「今日だって、本来背負わなくていいものを背負わされた」
美咲は黙って聞いている。
蒼真は続ける。
「だから、今は答えを急がなくていい」
「感情が揺れるのは当然です」
その声は優しかった。
でも、現実から逃がさない優しさだった。
美咲はゆっくり目を閉じる。
その横顔を見ながら。
蒼真はふと、自分の過去を思い出していた。
──壊れた人間を、“可哀想”だけで許した結果。
また自分が壊れたことを。
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