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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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29/31

嫌な予感

悠真は車の鍵を掴むと、ほとんど反射で部屋を飛び出していた。

エレベーターを待つ時間すら長い。

舌打ちしながら階段を駆け下りる。

頭の中では、さっきの莉奈の声が何度も響いていた。


──もし私が死んだら、少しは後悔する?


嫌な予感しかしない。

電話をかけ直す。

出ない。


もう一度。

繋がらない。

「くそ……!」

ハンドルを強く叩く。

莉奈の家へ向かいながら、何度も電話を鳴らす。


その頃。

美咲は蒼真の事務所を出たところだった。

夜風が冷たい。

少し疲れていた。

でも不思議と、心は前より軽い。

蒼真が隣を歩く。


「送ります」

「大丈夫だよ、近いし」

「こういう時に一人にしたくないんです」

自然にそう言う。

美咲は少し笑う。

「ずるいよね、蒼真さん」

「また言いましたね」

そのやり取りの途中。

美咲のスマホが震えた。


悠真。

こんな時間に珍しい。

美咲は少し迷ってから出る。

「……もしもし」

『莉奈そっち行ってないか!?』

切羽詰まった声だった。

美咲の表情が変わる。

「え?」

『電話がやばい』

『今から家行くけど出ない』

蒼真も空気の変化を察する。


美咲は胸騒ぎを覚えた。

莉奈の最後の顔。

壊れた目。

「……何があったの」

『死ぬとか言い出した』


その瞬間、美咲の血の気が引く。

蒼真がすぐスマホを受け取った。

「住所送ってください」

冷静な声。

悠真は少し止まったあと、すぐ送る。


通話が切れる。

美咲は顔色が真っ白だった。

「蒼真さん……」

蒼真はすぐ車の鍵を取り出す。

「行きましょう」


車内。

重い沈黙。

美咲はずっとスマホを握っている。

“もし本当に何かあったら”

その考えが頭から離れない。

蒼真は運転しながら静かに言った。

「まだ間に合います」

美咲は頷けなかった。


怖い。

憎い。

許せない。

でも。

妹だった。

どれだけ壊れても、

消えてほしいとは思っていなかった。


十分後。

莉奈の部屋の前には、すでに悠真がいた。

何度もインターホンを押している。

「開けろ!!」

返事はない。

美咲が駆け寄る。

「悠真!」

悠真が振り返る。

顔色が悪い。

「電話も出ねえ」


蒼真はドアを確認する。

鍵が閉まっている。

室内は静かすぎた。

その瞬間。

悠真の顔が変わる。


「……っ」

微かに、何かを倒す音が聞こえた。

悠真は迷わずドアを蹴る。

一回。

二回。

鈍い音。

三回目で鍵が壊れた。


部屋へ飛び込む。

暗い室内。

酒の匂い。

そして。

床に座り込んだ莉奈がいた。

手首から血が落ちている。

「莉奈!!」

美咲の悲鳴。

悠真がすぐ駆け寄る。

傷は浅い。

でも、明らかに正常じゃない。


莉奈はぼんやり顔を上げる。

「……来たんだ」

掠れた声。

悠真は強く手首を押さえる。

「何してんだよ!!」

初めて本気で怒鳴った。

莉奈は少し笑う。

泣きながら。


「だってもう終わりじゃん」

「終わってねえよ!」

「終わってるよ!!」

叫び返す。

「お姉ちゃんには蒼真いるし!」

「悠真も私のこと嫌いだし!」

「違——」

「違わない!!」


部屋に響く声。

莉奈は泣き崩れる。

「もう誰も私のこと必要としてない……」

その言葉に、美咲の胸が強く痛む。

蒼真は少し離れた場所で救急へ連絡していた。

冷静だった。


でもその目は、過去の何かを思い出しているみたいに暗かった。

救急車のサイレンが、夜の住宅街に響いていた。

狭い部屋。

床には血のついたティッシュと、割れた酒瓶。

悠真はずっと莉奈の手首を押さえている。


「……救急もう来るから」

低い声。

でも莉奈は焦点の合わない目で天井を見ていた。

「なんで助けるの……」

掠れた声。

悠真の眉が強く寄る。

「当たり前だろ」

「私、お姉ちゃん壊したのに」

「……」

「悠真も壊したのに」


その言葉に、悠真は何も返せなかった。

事実だった。

全部ぐちゃぐちゃに壊れた。

誰のせいかなんて、もう単純じゃない。

美咲は少し離れた場所で立ち尽くしている。

怖かった。

莉奈が死にかけている現実も。

それを見て、自分がまだ“助かってほしい”と思ってしまったことも。


蒼真が戻ってくる。

「救急、もう着きます」

落ち着いた声。

でも美咲には分かった。

蒼真は、かなり感情を抑えている。

莉奈を見る目が硬い。

それでも、ちゃんと救急を呼び、状況を整理している。

仕事みたいに冷静だった。


数分後。

救急隊が到着し、部屋の空気が一気に慌ただしくなる。

処置。

確認。

搬送準備。

その中で、莉奈がぼんやり美咲を見た。

「……お姉ちゃん」

弱い声。


美咲の喉が詰まる。

莉奈は泣きながら笑った。

「ごめんね」

その一言に、美咲の胸が強く揺れる。

今さら。

そう思う自分もいる。

でも同時に、

やっと本音を聞けた気もした。


救急隊がストレッチャーを動かす。

悠真も付き添おうと立ち上がる。

その時。

蒼真が静かに口を開いた。

「悠真さん」

悠真が振り返る。

蒼真は低い声で言った。


「今回の件で、美咲さんがまた巻き込まれるなら」

「俺は容赦しません」

空気が止まる。

静かな声だった。

でも、はっきり警告だった。


悠真は数秒黙る。

それから疲れたように笑った。

「……分かってる」

怒らない。

反論もしない。

ただ、全部受け入れている顔だった。


救急車のドアが閉まる。

サイレンが遠ざかっていく。

静かになった夜道で、美咲は力が抜けたみたいにしゃがみ込んだ。


「……美咲さん」

蒼真がすぐ支える。

その腕の温度で、やっと張っていたものが崩れた。

美咲は小さく震えていた。

蒼真は何も言わない。

ただ、落ち着くまで隣にいる。

しばらくして、美咲が掠れた声で言う。

「私……」

途中で言葉が詰まる。

蒼真は静かに待つ。


美咲は涙を拭きながら続けた。

「慰謝料請求、やめた方がいいのかな」

その言葉に、蒼真の目が少しだけ動く。

でも否定もしない。

肯定もしない。

代わりに、ゆっくり聞く。

「今、それ本心ですか」

美咲は答えられない。


罪悪感だった。

死にかけた妹を見た直後だから。

蒼真は静かに言った。

「同情と、許すことは別です」

その言葉が夜の空気に落ちる。


「美咲さんが傷つけられた事実は、消えてません」

「今日だって、本来背負わなくていいものを背負わされた」

美咲は黙って聞いている。

蒼真は続ける。


「だから、今は答えを急がなくていい」

「感情が揺れるのは当然です」

その声は優しかった。

でも、現実から逃がさない優しさだった。


美咲はゆっくり目を閉じる。

その横顔を見ながら。

蒼真はふと、自分の過去を思い出していた。

──壊れた人間を、“可哀想”だけで許した結果。

また自分が壊れたことを。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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