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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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28/31

後悔

翌日。

美咲は店の仕込みをしながら、ぼんやり昨夜のことを思い出していた。


蒼真と食べた深夜の定食。

何気ない会話。

自然に笑えた時間。

離婚協議中なのに。

まだ全部終わっていないのに。

それでも心が軽かった。


「……だめだな」

小さく呟く。

もう、自分の気持ちはかなり傾いている。

その時、入口のベルが鳴った。


「おはようございます」

蒼真だった。

スーツ姿。

今日は仕事の合間らしい。


「仕事中じゃないの?」

「近く来たので」

そう言いながら自然にカウンターへ座る。

もう常連というより、

半分身内みたいな空気だった。


美咲はコーヒーを淹れながら笑う。

「最近ほんといるね」

「嫌ですか?」

「……嫌じゃない」

その返事に、蒼真は少しだけ口元を緩めた。


穏やかな空気。

でもその途中。

入口のドアが勢いよく開いた。

二人とも反射的に振り向く。

莉奈だった。


目の下には隈。

髪も乱れている。

明らかにまともな状態じゃない。

美咲の表情が固まる。


「莉奈——」

「楽しそうじゃん」

遮るように言う。

視線は蒼真へ向いていた。

その目に宿る感情を見て、蒼真の空気が変わる。


警戒。

莉奈は笑う。

「もう付き合ってんの?」

「莉奈、やめて」

「だってそうでしょ?」


店内へずかずか入ってくる。

「離婚もしてないのに男作ってさ」

美咲の顔色が変わる。

それは、一番刺さる言葉だった。

蒼真が静かに口を開く。

「帰ってください」

低い声。

莉奈は睨み返す。


「弁護士さんだっけ?」

笑いながら続ける。

「人の家庭壊すの手伝うの楽しい?」

空気が凍る。

美咲が「やめて」と言おうとした瞬間。

蒼真が静かに立ち上がった。


怒鳴らない。

でも目だけが冷たい。

「これ以上続けるなら、本当に警察呼びます」

その一言で莉奈の顔が歪む。

「……っ」


悔しい。

でも怖い。

蒼真はもう、完全に“敵側”だった。

以前みたいに、

少し優しくしてくれる空気はない。

全部、美咲側。

その現実が莉奈をさらに追い詰める。


「みんなして私だけ悪者にして」

震える声。

「最初に悠真取ったの、そっちじゃん……」

その言葉に、美咲の目が揺れる。

確かに始まりはそこだった。

美咲も完全な被害者ではない。

でも。


蒼真が静かに言う。

「だからって、裏切っていい理由にはなりません」

莉奈が止まる。

蒼真は続けた。

「美咲さんが過去に何をしてても」

「あなたがやったことは、あなた自身の責任です」

逃がさない言葉だった。


莉奈の目に涙が浮かぶ。

でもそれは反省じゃない。

追い詰められた人間の涙だった。


「……最低」

掠れた声。

誰に向けたのか分からない。

そのまま莉奈は店を飛び出していく。

ドアベルが激しく鳴った。


静寂。

美咲はしばらく動けなかった。

蒼真が小さく息を吐く。

「……すみません」

「なんで蒼真さんが謝るの」

「少し強く言いすぎたかもしれない」

美咲は首を振る。

「違う」


むしろ。

あそこまできっぱり言ってくれる人が、今までいなかった。

美咲はカウンターへ寄りかかる。

少し疲れた顔。

蒼真はそんな美咲を見ながら、静かに聞く。


「……まだ迷ってますか」

「え?」

「慰謝料請求」

美咲は黙る。


数秒後。

ゆっくり首を振った。

「もう、迷ってない」

静かな声だった。

でも今までで一番はっきりしていた。


美咲は自分の腕の傷を見る。

まだ薄く跡が残っている。

「私、ずっと“家族だから”で止まってた」

「でも莉奈は、もうそこ止まってない」

蒼真は何も言わず聞いている。

美咲は小さく息を吐いた。

「ちゃんと終わらせる」

その言葉に、蒼真は静かに頷いた。

もう、美咲の目は以前よりずっと強くなっていた。


その日の夜。

美咲は蒼真の事務所にいた。

机の上には、整理された書類。


慰謝料請求。

離婚協議。

財産分与。

現実を突きつける紙の束。


「ここ、確認お願いします」

蒼真が隣へ書類を滑らせる。

美咲はペンを持つ。

でも、すぐには書けなかった。

名前を書けば、本当に終わる。


悠真との時間が、

夫婦だった日々が、

全部“過去”になる。

蒼真は急かさない。

ただ静かに待っていた。

美咲は小さく息を吸う。

そして、署名した。

ペン先が震える。


書き終わった瞬間、不思議と涙は出なかった。

代わりに、長く張っていた糸が切れたみたいに力が抜ける。

「……終わった」

小さな声。

蒼真は書類を確認しながら、静かに頷く。

「一歩目です」

その言葉に、美咲は少しだけ笑った。


全部終わったわけじゃない。

でも。

前へ進み始めた感覚はあった。

蒼真は書類を閉じる。


「悠真さん側が拒否しなければ、比較的スムーズに進むと思います」

「慰謝料についても、かなり有利です」

仕事の顔。

でもその途中で、ふと声が柔らかくなる。


「……よく頑張りましたね」

その一言で、美咲の目が熱くなる。

誰かに“頑張った”と言われたのが久しぶりだった。

蒼真は少しだけ困ったように笑う。


「泣かせるつもりじゃなかったんですけど」

「……遅い」

美咲が笑いながら涙を拭く。

その空気が、あまりにも穏やかだった。


一方その頃。

悠真は、一人で部屋にいた。

机の上には、離婚協議書のコピー。

美咲の署名。

見慣れた字。

それだけで胸が締め付けられる。


「……マジで終わるんだな」

誰もいない部屋で呟く。

静かだった。

以前なら、この時間は誰かがいた。

美咲か。

莉奈か。

でも今は違う。

全部、自分で壊した。


スマホが震える。

莉奈だった。

悠真は数秒見つめたあと、通話を取る。


「……何」

『なんで出るの』

第一声がそれだった。

悠真は疲れたように目を閉じる。

「用件だけ言え」

向こうで小さく笑う声。

でも壊れている。


『お姉ちゃん、慰謝料請求するんだってね』

「……ああ」

『ふーん知ってるんだ』

沈黙。

その静けさが逆に危ない。

悠真は眉を寄せる。


「莉奈」

『ねえ悠真』

声が急に静かになる。

『私たちさ』

『最初から間違ってたのかな』


悠真は答えられなかった。

間違っていた。

そんなの分かっている。

でも。

一瞬でも本気だったのも事実だ。

悠真は低く言う。


「……もうやめろ」

『何を?』

「壊れるの」

その瞬間。

莉奈の笑い声が響く。

『今さら?』


悠真の表情が歪む。

莉奈は続ける。

『もう全部壊れてるじゃん』

その声に、悠真は嫌な予感を覚える。


「お前、今どこだ」

返事がない。

「莉奈?」

数秒後。

『ねえ悠真』

最後に、掠れた声が落ちた。


『もし私が死んだら、少しは後悔する?』


空気が凍る。

「……おい」

『じゃあね』

通話が切れた。

ツー、ツーという音。

悠真はすぐ立ち上がる。


心臓が嫌な音を立てていた。


ここまで読んでくださってありがとうございました!

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