後悔
翌日。
美咲は店の仕込みをしながら、ぼんやり昨夜のことを思い出していた。
蒼真と食べた深夜の定食。
何気ない会話。
自然に笑えた時間。
離婚協議中なのに。
まだ全部終わっていないのに。
それでも心が軽かった。
「……だめだな」
小さく呟く。
もう、自分の気持ちはかなり傾いている。
その時、入口のベルが鳴った。
「おはようございます」
蒼真だった。
スーツ姿。
今日は仕事の合間らしい。
「仕事中じゃないの?」
「近く来たので」
そう言いながら自然にカウンターへ座る。
もう常連というより、
半分身内みたいな空気だった。
美咲はコーヒーを淹れながら笑う。
「最近ほんといるね」
「嫌ですか?」
「……嫌じゃない」
その返事に、蒼真は少しだけ口元を緩めた。
穏やかな空気。
でもその途中。
入口のドアが勢いよく開いた。
二人とも反射的に振り向く。
莉奈だった。
目の下には隈。
髪も乱れている。
明らかにまともな状態じゃない。
美咲の表情が固まる。
「莉奈——」
「楽しそうじゃん」
遮るように言う。
視線は蒼真へ向いていた。
その目に宿る感情を見て、蒼真の空気が変わる。
警戒。
莉奈は笑う。
「もう付き合ってんの?」
「莉奈、やめて」
「だってそうでしょ?」
店内へずかずか入ってくる。
「離婚もしてないのに男作ってさ」
美咲の顔色が変わる。
それは、一番刺さる言葉だった。
蒼真が静かに口を開く。
「帰ってください」
低い声。
莉奈は睨み返す。
「弁護士さんだっけ?」
笑いながら続ける。
「人の家庭壊すの手伝うの楽しい?」
空気が凍る。
美咲が「やめて」と言おうとした瞬間。
蒼真が静かに立ち上がった。
怒鳴らない。
でも目だけが冷たい。
「これ以上続けるなら、本当に警察呼びます」
その一言で莉奈の顔が歪む。
「……っ」
悔しい。
でも怖い。
蒼真はもう、完全に“敵側”だった。
以前みたいに、
少し優しくしてくれる空気はない。
全部、美咲側。
その現実が莉奈をさらに追い詰める。
「みんなして私だけ悪者にして」
震える声。
「最初に悠真取ったの、そっちじゃん……」
その言葉に、美咲の目が揺れる。
確かに始まりはそこだった。
美咲も完全な被害者ではない。
でも。
蒼真が静かに言う。
「だからって、裏切っていい理由にはなりません」
莉奈が止まる。
蒼真は続けた。
「美咲さんが過去に何をしてても」
「あなたがやったことは、あなた自身の責任です」
逃がさない言葉だった。
莉奈の目に涙が浮かぶ。
でもそれは反省じゃない。
追い詰められた人間の涙だった。
「……最低」
掠れた声。
誰に向けたのか分からない。
そのまま莉奈は店を飛び出していく。
ドアベルが激しく鳴った。
静寂。
美咲はしばらく動けなかった。
蒼真が小さく息を吐く。
「……すみません」
「なんで蒼真さんが謝るの」
「少し強く言いすぎたかもしれない」
美咲は首を振る。
「違う」
むしろ。
あそこまできっぱり言ってくれる人が、今までいなかった。
美咲はカウンターへ寄りかかる。
少し疲れた顔。
蒼真はそんな美咲を見ながら、静かに聞く。
「……まだ迷ってますか」
「え?」
「慰謝料請求」
美咲は黙る。
数秒後。
ゆっくり首を振った。
「もう、迷ってない」
静かな声だった。
でも今までで一番はっきりしていた。
美咲は自分の腕の傷を見る。
まだ薄く跡が残っている。
「私、ずっと“家族だから”で止まってた」
「でも莉奈は、もうそこ止まってない」
蒼真は何も言わず聞いている。
美咲は小さく息を吐いた。
「ちゃんと終わらせる」
その言葉に、蒼真は静かに頷いた。
もう、美咲の目は以前よりずっと強くなっていた。
その日の夜。
美咲は蒼真の事務所にいた。
机の上には、整理された書類。
慰謝料請求。
離婚協議。
財産分与。
現実を突きつける紙の束。
「ここ、確認お願いします」
蒼真が隣へ書類を滑らせる。
美咲はペンを持つ。
でも、すぐには書けなかった。
名前を書けば、本当に終わる。
悠真との時間が、
夫婦だった日々が、
全部“過去”になる。
蒼真は急かさない。
ただ静かに待っていた。
美咲は小さく息を吸う。
そして、署名した。
ペン先が震える。
書き終わった瞬間、不思議と涙は出なかった。
代わりに、長く張っていた糸が切れたみたいに力が抜ける。
「……終わった」
小さな声。
蒼真は書類を確認しながら、静かに頷く。
「一歩目です」
その言葉に、美咲は少しだけ笑った。
全部終わったわけじゃない。
でも。
前へ進み始めた感覚はあった。
蒼真は書類を閉じる。
「悠真さん側が拒否しなければ、比較的スムーズに進むと思います」
「慰謝料についても、かなり有利です」
仕事の顔。
でもその途中で、ふと声が柔らかくなる。
「……よく頑張りましたね」
その一言で、美咲の目が熱くなる。
誰かに“頑張った”と言われたのが久しぶりだった。
蒼真は少しだけ困ったように笑う。
「泣かせるつもりじゃなかったんですけど」
「……遅い」
美咲が笑いながら涙を拭く。
その空気が、あまりにも穏やかだった。
一方その頃。
悠真は、一人で部屋にいた。
机の上には、離婚協議書のコピー。
美咲の署名。
見慣れた字。
それだけで胸が締め付けられる。
「……マジで終わるんだな」
誰もいない部屋で呟く。
静かだった。
以前なら、この時間は誰かがいた。
美咲か。
莉奈か。
でも今は違う。
全部、自分で壊した。
スマホが震える。
莉奈だった。
悠真は数秒見つめたあと、通話を取る。
「……何」
『なんで出るの』
第一声がそれだった。
悠真は疲れたように目を閉じる。
「用件だけ言え」
向こうで小さく笑う声。
でも壊れている。
『お姉ちゃん、慰謝料請求するんだってね』
「……ああ」
『ふーん知ってるんだ』
沈黙。
その静けさが逆に危ない。
悠真は眉を寄せる。
「莉奈」
『ねえ悠真』
声が急に静かになる。
『私たちさ』
『最初から間違ってたのかな』
悠真は答えられなかった。
間違っていた。
そんなの分かっている。
でも。
一瞬でも本気だったのも事実だ。
悠真は低く言う。
「……もうやめろ」
『何を?』
「壊れるの」
その瞬間。
莉奈の笑い声が響く。
『今さら?』
悠真の表情が歪む。
莉奈は続ける。
『もう全部壊れてるじゃん』
その声に、悠真は嫌な予感を覚える。
「お前、今どこだ」
返事がない。
「莉奈?」
数秒後。
『ねえ悠真』
最後に、掠れた声が落ちた。
『もし私が死んだら、少しは後悔する?』
空気が凍る。
「……おい」
『じゃあね』
通話が切れた。
ツー、ツーという音。
悠真はすぐ立ち上がる。
心臓が嫌な音を立てていた。
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