失敗作
莉奈は、しばらく着信画面を見つめていた。
“お父さん”
画面の文字が、やけに重い。
出たくない。
でも無視したら、もっと面倒になる。
震える指で通話を押す。
「……もしもし」
『今どこだ』
父の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
でも、その静かさの方が怖い。
「家だけど」
『今から行く』
一方的に切れた。
ツー、ツーという音だけが残る。
莉奈はスマホを握ったまま固まる。
終わった。
本当に全部。
三十分後。
インターホンが鳴る。
父と母、二人とも来ていた。
扉を開けた瞬間、母の目が赤いことに気づく。
泣いていたんだ。
「……何」
強がるように言う。
でも声は震えていた。
父は無言で部屋へ入る。
散らかった缶。
荒れた室内。
その惨状を見て、眉を寄せた。
母は莉奈を見るなり涙を浮かべる。
「なんでこんなことしたの……」
その言葉に、莉奈の中で何かが弾けた。
「じゃあ全部私が悪いの!?」
怒鳴り返す。
母が怯む。
莉奈は止まらない。
「お姉ちゃんばっかり!!」
「昔からそうじゃん!!」
父の表情が険しくなる。
「莉奈」
「だってそうでしょ!?」
涙を流しながら叫ぶ。
「お姉ちゃんはちゃんとしてて!」
「私は失敗作で!」
「そんなこと——」
「思ってたじゃん!!」
部屋に怒声が響く。
母が泣きそうな顔で首を振る。
でも莉奈はもう止まれない。
ずっと溜め込んでいた感情が、全部溢れていた。
「悠真だって最初は私を選んだ!」
「お姉ちゃんより私を見てくれた!」
その瞬間。
父の顔色が変わった。
バシッ。
乾いた音が部屋に響く。
莉奈の顔が横へ弾かれる。
叩かれた。
父に。
莉奈は呆然と頬を押さえる。
父は震えていた。
怒りで。
「……お前、自分が何言ってるか分かってるのか」
低い声。
「姉の旦那を奪って」
「誰との子かも分からない子供まで作って」
「それで被害者みたいな顔するな」
莉奈の目から涙が溢れる。
「……っ」
言い返せない。
本当は分かっている。
全部、自分が壊した。
でも認めたら、本当に何も残らない。
母が泣きながら言う。
「美咲、怪我したのよ……?」
その一言で空気が止まる。
「……え」
「あなた掴みかかったんでしょ?」
莉奈の顔色が変わる。
父はさらに低く言った。
「慰謝料の話も出てる」
心臓が止まりそうになる。
「……は?」
「美咲は離婚するつもりだ」
「悠真くんにも、お前にも請求する」
莉奈の呼吸が浅くなる。
現実感がない。
でも父の顔を見て、冗談じゃないと分かる。
終わる。
本当に。
金も。
家族も。
全部。
莉奈は後ろへよろけ、そのまま床へ座り込んだ。
「……なんで」
小さな声。
「なんでここまでされなきゃいけないの」
父が怒鳴る。
「お前がやったんだろうが!!」
その声に、莉奈は肩を震わせた。
静まり返る部屋。
その中で莉奈だけが、取り残されていた。
一方その頃。
蒼真の事務所。
美咲は、離婚協議の書類を見つめていた。
蒼真が隣で説明している。
「財産分与はそこまで複雑じゃありません」
「慰謝料は不貞期間と証拠次第で増減しますが、十分請求可能です」
淡々とした声。
でも美咲は途中から、内容が頭に入らなくなっていた。
本当に終わるんだ。
悠真との人生が。
蒼真はそんな美咲を見て、少しだけ声を和らげる。
「怖いですか」
美咲は少し黙ってから頷いた。
「……うん」
正直な声だった。
蒼真は静かに言う。
「でも、美咲さん」
美咲が顔を上げる。
蒼真はまっすぐ見つめ返した。
「壊された側が、人生諦める必要はないですよ」
その言葉に、美咲の目が少し熱くなる。
蒼真は優しかった。
でもその優しさは、
ただ甘やかすだけのものじゃない。
“立ち上がらせるため”の優しさだった。
数日後。
悠真は、蒼真の事務所へ呼び出されていた。
無機質な会議室。
机の上には書類が並んでいる。
離婚協議書。
慰謝料請求書。
証拠一覧。
LINEの履歴まで綺麗に整理されていた。
悠真はそれを見て、小さく笑う。
「……本格的だな」
向かいに座る蒼真は表情を変えない。
「仕事なので」
静かな声だった。
その空気に、悠真は少しだけ眉を動かす。
美咲から聞いてはいた。
“相談している人がいる”と。
でも。
まさか相手が男で、
しかも弁護士だとは思っていなかった。
蒼真は資料を閉じる。
「美咲さんは離婚を希望しています」
「慰謝料についても請求予定です」
悠真は椅子にもたれたまま天井を見る。
責められて当然だ。
反論する気力もない。
「……そっか」
掠れた声。
蒼真は淡々と続ける。
「争う意思はありますか」
悠真は少し笑う。
「ない」
即答だった。
「全部俺が悪いしな」
その言葉に嘘はなかった。
蒼真は数秒、悠真を見る。
静かな男だった。
もっと逆上するタイプかと思っていた。
でも実際は、どこか壊れ切った人間の顔をしている。
悠真は資料へ視線を落とす。
そこに、美咲の名前がある。
離婚。
その文字だけで胸が重い。
「……美咲、元気?」
突然の質問だった。
蒼真は一瞬だけ止まる。
だがすぐに感情を消した。
「少しずつ前を向いてます」
その答えに、悠真は目を閉じる。
嬉しいような、
苦しいような。
複雑な顔だった。
「そっか」
短い沈黙。
やがて悠真が低く言う。
「……あんた、美咲のこと好きなんだろ」
部屋の空気が少し変わる。
蒼真は否定しなかった。
「それは、今回の件と関係ありますか」
「ないな」
悠真は苦笑する。
「でも、あいつがあんたといる時の顔見たら分かる」
その言葉に、蒼真の指がわずかに止まる。
悠真は続ける。
「俺といる時より楽そうだった」
自嘲みたいな笑いだった。
蒼真は返事をしない。
返せなかった。
悠真は長く息を吐く。
「……慰謝料も離婚も、全部受ける」
「その代わり」
蒼真が目を上げる。
悠真は静かに言った。
「莉奈は、少し考えてやってくれ」
その瞬間。
蒼真の目が冷える。
「暴行までしておいてですか」
低い声。
悠真は黙る。
蒼真は続けた。
「美咲さんは怪我をしました」
「精神的苦痛も十分受けてる」
「請求されて当然です」
正論だった。
悠真も分かっている。
それでも。
「……今の莉奈、かなり危ない」
掠れた声。
「もう半分壊れてる」
蒼真は表情を変えない。
「それを決めるのは美咲さんです」
完全に線を引いた言い方だった。
悠真はしばらく黙ったあと、小さく笑う。
「本当に弁護士向いてるな、あんた」
蒼真は返さない。
その沈黙の中で、悠真は理解する。
もう、自分は“外側の人間”なんだと。
美咲を守る役目は、
もう自分じゃない。
その夜。
美咲は店の片付けをしながら、蒼真から届いたメッセージを読んでいた。
『悠真さん、争う意思はないそうです』
その短い文章に、胸が少し痛む。
終わる。
本当に。
スマホを見つめていると、続けて通知が来た。
『でも、莉奈さんの件だけは少し気にしていました』
美咲の手が止まる。
悠真らしいと思った。
自分も傷ついているのに、
最後まで莉奈を放っておけない。
そこが、悠真の弱さでもあり、
優しさでもあった。
美咲は静かに目を閉じる。
するとまた通知。
『今日はちゃんとご飯食べましたか』
その一文に、思わず少し笑ってしまう。
蒼真はこういう人だ。
傷の話をしたあとでも、
最後には日常へ戻してくれる。
美咲はゆっくり返信を打つ。
『まだです』
数秒後。
『じゃあ今から食べに行きますか』
そのメッセージを見た瞬間。
張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
夜十一時過ぎ。
店を閉めたあと、美咲は蒼真の車に乗っていた。
「何食べたいですか」
運転しながら聞かれる。
「この時間だとあんまり空いてなくない?」
「一応、知ってる店あります」
その言い方が少し得意げで、美咲は小さく笑った。
結局、二人は深夜までやっている小さな定食屋へ入った。
静かな店。
カウンター席に並んで座る。
こんな普通の時間が、今の美咲には妙に新鮮だった。
悠真といた頃は、
一緒にいてもどこか気を張っていた。
嫌われないように。
壊れないように。
でも蒼真といると、
沈黙ですら楽だった。
「ちゃんと食べてくださいね」
運ばれてきた定食を見ながら、蒼真が言う。
「最近あんまり食べてないでしょう」
「なんで分かるの」
「顔」
即答だった。
美咲は苦笑する。
「蒼真さん、たまに鋭いよね」
「仕事柄です」
そう言いながらも、どこか優しい目をしている。
美咲は箸を動かしながら、ぽつりと言った。
「今日、悠真と話したんだよね」
蒼真は少しだけ動きを止める。
「はい」
「どんな感じだった?」
蒼真は少し考えてから答えた。
「……思ったより冷静でした」
「争う気もなさそうでしたし」
美咲は静かに頷く。
悠真らしい。
本当は傷ついていても、
最後まで抱え込む。
蒼真は続ける。
「ただ」
少し間。
「莉奈さんのことは気にしてました」
美咲の指が止まる。
「……そっか」
複雑だった。
あれだけ壊されても、
悠真はまだ莉奈を見捨てきれない。
それが優しいのか、
甘いのか、
もう美咲にも分からない。
しばらく沈黙が流れる。
そのあと、美咲がぽつりと言った。
「私、ひどいかな」
蒼真が顔を上げる。
「何がですか」
「悠真がまだ苦しんでるの分かってるのに」
「今、蒼真さんといる時間の方が安心する」
静かな本音だった。
蒼真はすぐには答えない。
そして少しだけ笑った。
「それ、普通だと思います」
「……普通?」
「苦しい場所より、安心できる場所に行きたいのは」
当たり前です、と。
その声は穏やかだった。
美咲の胸が少し熱くなる。
蒼真は続ける。
「美咲さん、ずっと頑張りすぎてたんですよ」
「だから今、安心できるだけで“悪いことしてる”って感覚になってる」
図星だった。
美咲は視線を落とす。
蒼真はそんな美咲を見ながら、小さく息を吐いた。
「……俺は」
低い声。
「美咲さんに、もう我慢ばっかりしてほしくないです」
その言葉に、美咲の呼吸が止まる。
真っ直ぐだった。
逃げ道を作らない目。
美咲は何も言えなくなる。
その空気を誤魔化すように、蒼真は少し笑った。
「まあ、まだ口説くのは早いって怒られそうですけど」
「……自覚あるんだ」
「あります」
その返しに、美咲は思わず吹き出す。
久しぶりに自然に笑った気がした。
その頃。
莉奈は、一人で部屋にいた。
真っ暗な室内。
スマホには、親からの不在着信。
美咲からは何も来ない。
悠真からも。
誰からも必要とされていない感覚。
それだけが、胸の中を埋め尽くしていた。
ふと、テーブルの上の書類が目に入る。
病院の明細。
流産手術の説明書。
その瞬間。
全部が現実として押し寄せる。
「……っ」
息が苦しい。
涙が出る。
でも同時に、
胸の奥には黒い感情が残ったままだった。
美咲は前に進んでる。
蒼真がいる。
親も味方してる。
悠真ですら、美咲のことを気にしてる。
なのに自分は。
全部失って、
全部悪者。
「……ふざけんな」
掠れた声。
その目は、まだ諦めきれていなかった。
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