家族
「警察には?」
美咲は首を振る。
「……妹だから」
その答えに、蒼真は少し目を閉じた。
否定はしない。
でも、納得もしていない顔だった。
沈黙。
しばらくして、美咲がぽつりと言う。
「なんでこんなことになったんだろ」
蒼真は答えない。
代わりに、美咲の前へ温かいコーヒーを置いた。
美咲はカップを見つめたまま呟く。
「私、ずっと“家族だから”って思ってた」
「莉奈のことも」
「悠真のことも」
「許さなきゃって」
声が少し掠れる。
「でも、もう無理かもしれない」
その言葉に、蒼真は静かに美咲を見る。
責めない。
誘導しない。
ただ待つ。
美咲はゆっくり顔を上げた。
「……蒼真さん」
「はい」
「前に言ってたよね」
“何もしなかったら、自分が悪かったって思い込みそうだった”
蒼真の言葉。
美咲は静かに続ける。
「今、少し分かる」
胸の奥が痛い。
ずっと、自分の傷を後回しにしてきた。
悠真にも。
莉奈にも。
“仕方ない”
“自分にも悪いところがある”
そうやって飲み込んできた。
でも。
腕の傷がじくじく痛む。
さっきの莉奈の目。
あれは、もう家族だからで許していい段階じゃない。
美咲は小さく息を吐く。
そして初めて、はっきり言った。
「……慰謝料、請求したい」
蒼真の目がわずかに動く。
美咲は続ける。
「悠真にも」
「莉奈にも」
その声は静かだった。
でも、迷いは少なかった。
蒼真は数秒、美咲を見つめる。
そして静かに頷いた。
「分かりました」
否定しない。
“やめた方がいい”とも言わない。
ただ、受け止める。
その態度が、美咲にはありがたかった。
蒼真は仕事の顔になる。
「不貞の証拠は十分あります」
「今回の暴行も含めれば、話は整理しやすい」
淡々とした説明。
でもその声の奥には、美咲を守ろうとする温度があった。
「まずは悠真さんとの離婚協議」
「それから慰謝料請求」
「莉奈さんに対しては、別で整理しましょう」
美咲は静かに聞いている。
蒼真は続けた。
「あと」
少し間。
「ご両親には話した方がいいと思います」
その瞬間、美咲の胸が重くなる。
親。
全部を知られたくなかった。
妹が姉の夫と関係を持ったこと。
妊娠。
托卵。
流産。
暴力。
あまりにもぐちゃぐちゃだ。
でも、もう隠しきれない。
美咲はゆっくり目を閉じる。
「……そうだよね」
蒼真は静かに頷いた。
「一人で抱える段階は、もう過ぎてます」
その言葉に、美咲の目が少しだけ熱くなる。
ずっと、一人で耐えるしかないと思っていた。
でも今は違う。
守ってくれる人がいる。
味方になってくれる人がいる。
それを知ってしまった。
蒼真は資料をまとめながら、静かに言う。
「取れるものは、ちゃんと取りましょう」
「壊された分まで、全部」
穏やかな声だった。
でもその奥にある冷たさを、美咲は感じ取る。
この人は優しい。
けれど一度、“守る側”に回った時は容赦しない。
それは、過去に自分自身が壊れた経験があるからだ。
美咲は小さく頷く。
そして心の中で、静かに決めた。
もう許される側の都合では終わらせない。
悠真にも。
莉奈にも。
ちゃんと、自分が壊された痛みを返していくと。
数日後。
美咲は実家の前に立っていた。
インターホンを押す指が重い。
ここへ来るまで何度も帰ろうと思った。
でも、もう逃げられない。
蒼真の言葉が頭に残っている。
一人で抱える段階は、もう過ぎてます。
扉が開く。
「美咲?」
母だった。
娘の顔を見るなり、表情が変わる。
「どうしたの、その腕」
包帯。
隠しきれなかった。
美咲は少しだけ笑う。
「……話したいことある」
その声で、母は何かを察した。
リビングには父もいた。
いつも通りの実家。
テレビの音。
夕飯の匂い。
なのに、美咲だけ別世界みたいだった。
「悠真くんとはどうなの?」
最初に聞いたのは父だった。
別居していることは伝えてある。
でも理由までは話していなかった。
美咲は静かに息を吸う。
「……莉奈が関係してる」
その瞬間、空気が変わる。
母の表情が固まる。
父も眉を寄せた。
美咲はゆっくり全部話した。
悠真と莉奈の関係。
妊娠。
DNA鑑定。
托卵。
流産。
そして店で掴みかかられたこと。
話している途中、何度も喉が詰まった。
でも止めなかった。
全部終わらせるために。
長い沈黙。
最初に口を開いたのは母だった。
「……嘘でしょ」
震える声。
顔色が真っ白だった。
父は無言のまま座っている。
でも拳だけが強く握られていた。
「莉奈が……?」
信じられない。
そんな顔だった。
美咲は静かに頷く。
母の目に涙が浮かぶ。
「なんで……」
誰に向けた言葉か分からなかった。
娘への失望。
家庭が壊れた現実。
全部混ざっていた。
父が低く言う。
「悠真くんは?」
美咲は少し迷ってから答える。
「離婚すると思う」
“する”ではなく、“すると思う”。
まだ正式には終わっていない。
でももう、戻る未来は見えなかった。
父は深く息を吐いた。
「……莉奈はどこだ」
その声に怒りが滲む。
母は泣きながら首を振る。
「まず美咲でしょ……!」
「こんな怪我までして……」
その言葉に、美咲は少しだけ救われる。
初めてだった。
誰かが、“美咲が傷ついた側”として見てくれたのは。
今までずっと、
“姉だから”
“しっかりしてるから”
そうやって我慢する側だった。
でも今は違う。
父はゆっくり立ち上がる。
「悠真くんとも話す」
重い声だった。
「莉奈も、このままにはしない」
一方その頃。
莉奈は、暗い部屋でスマホを見つめていた。
美咲からの連絡はない。
親からもない。
でも逆に、それが怖かった。
嵐の前みたいで。
テーブルには酒缶が散乱している。
悠真からは、相変わらず何も来ない。
既読すらつかない。
「……っ」
イライラして、スマホをソファへ投げる。
全部、美咲のせいだ。
そう思わないと耐えられなかった。
だって。
自分だけ全部失った。
子供もいなくなった。
悠真もいなくなった。
なのに美咲は。
蒼真がいる。
守ってくれる人がいる。
慰謝料まで取って、“被害者”として前へ進もうとしている。
その事実が、莉奈をさらに壊していく。
その時。
スマホが震えた。
“お父さん”
莉奈の呼吸が止まる。
本能的に分かった。
全部、バレた。
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