流産
病院の診察室は静かだった。
医師の説明が、妙に遠く聞こえる。
「……残念ですが、心拍が確認できません」
莉奈は何も反応できなかった。
椅子に座ったまま、ただぼんやりしている。
医師は続けて何か説明していた。
手術の日程。
母体への負担。
今後の注意。
でも頭に入らない。
「強いストレスも影響した可能性があります」
その言葉だけが耳に残った。
ストレス。
悠真がいなくなってから、
まともに眠っていない。
食事もしていない。
酒ばかり飲んでいた。
全部ぐちゃぐちゃだった。
でも。
「……は」
小さく笑いが漏れる。
結局、自分には何も残らなかった。
悠真も。
子供も。
未来も。
病院を出たあと、莉奈は無意識に美咲の店へ向かっていた。
自分でも止められない。
会いたかったわけじゃない。
ただ、ぶつける相手が欲しかった。
店へ入る。
ベルの音で、美咲が顔を上げた。
その瞬間、表情が変わる。
「莉奈?」
莉奈の顔色は最悪だった。
美咲はすぐ異変に気づく。
「どうしたの」
その優しい声が、逆に癇に障った。
莉奈は笑う。
壊れたみたいに。
「流れた」
美咲の表情が止まる。
「……え」
「赤ちゃん、死んだ」
店内が静まり返る。
美咲は言葉を失った。
莉奈はふらつきながら近づく。
目が赤い。
でも涙は出ていなかった。
「これでよかった?」
その一言に、美咲が息を飲む。
「莉奈、違——」
「お姉ちゃんはさ」
遮る。
「最初から私のこと、最低だって思ってたでしょ」
「そんなこと——」
「思ってたじゃん!」
店内に声が響く。
客はいなかった。
でも空気だけが張り詰める。
莉奈は震えながら叫ぶ。
「全部お姉ちゃんのせいだよ!」
「悠真がお姉ちゃんのとこ戻ろうとしたから!」
「慰謝料とか言い出したから!」
「みんなで責めるから!」
美咲の顔が苦しそうに歪む。
でも反論しない。
それが余計に莉奈を苛立たせた。
「なんでそんな顔するの」
莉奈は笑う。
「被害者ぶってんの?」
その言葉に、美咲の目が揺れる。
本当は分かっていた。
悪いのは自分だ。
最初に裏切ったのも、
嘘をついたのも、
全部自分。
でも。
認めた瞬間、本当に空っぽになる気がした。
だから誰かのせいにしたかった。
美咲でも、
悠真でも、
誰でもよかった。
「……もういい」
莉奈は低く言う。
「どうせ私だけ悪者なんでしょ」
そう吐き捨てて、店を出ていく。
ベルが大きく鳴る。
美咲は追いかけられなかった。
ただ立ち尽くす。
その夜。
莉奈は暗い部屋で、一人スマホを見ていた。
画面には、美咲と蒼真の姿。
店の前で並んで話しているところを、少し離れた場所から撮った写真。
偶然見かけた。
最初は何も思わなかった。
でも。
蒼真が美咲を見る目。
美咲が、蒼真の前では少しだけ安心した顔をしていること。
それを見た瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てた。
「……そっか」
小さく呟く。
お姉ちゃんだけ、
幸せになるんだ。
悠真を失っても、
次がいる。
自分だけが全部失って、
美咲だけ前に進む。
その事実が、耐えられなかった。
莉奈はスマホを強く握りしめる。
涙はもう出ない。
代わりに、どす黒い感情だけが残っていた。
「……じゃあ壊してやる」
静かな声だった。
でも、その目だけは完全に壊れていた。
──
夜の店内は静かだった。
閉店まであと三十分。
美咲はカウンターでレジを確認していた。
ここ数日、ずっと胸騒ぎがしている。
莉奈の様子がおかしかった。
流産してから連絡はない。
でも最後に店へ来た時の目が、どうしても頭から離れなかった。
──じゃあ壊してやる。
あの声。
考えすぎだと思いたかった。
その時。
入口のベルが乱暴に鳴った。
美咲が顔を上げる。
「……莉奈」
立っていたのは莉奈だった。
髪は乱れ、
目は赤く、
明らかに普通じゃない。
酒の匂いもする。
美咲はゆっくり立ち上がった。
「どうしたの」
莉奈は答えない。
ただ、美咲をじっと見ている。
その視線に、美咲の背筋が冷える。
「……お姉ちゃんさ」
掠れた声。
「楽しそうだよね」
「莉奈」
「悠真失っても、次いるもんね」
その瞬間、美咲の表情が固まる。
蒼真のことを見られていた。
莉奈は笑う。
壊れたみたいに。
「いいよね、お姉ちゃんは」
「結局いつも愛される側で」
「違う、莉奈、落ち着いて——」
「うるさい!!」
突然怒鳴り声が響く。
莉奈は勢いよく美咲へ掴みかかった。
「っ……!」
美咲が後ろへよろける。
そのまま棚へ身体をぶつけた。
ガシャン、と音が響く。
飾っていたガラスの容器が床へ落ちて砕け散った。
「痛っ……!」
美咲の腕が切れる。
赤い血が床へ落ちた。
でも莉奈は止まらない。
「なんでお姉ちゃんばっかり!!」
肩を掴み、何度も揺さぶる。
目が完全に据わっていた。
「私は全部失ったのに!!」
「子供もいなくなったのに!!」
「莉奈……っ」
美咲は振りほどこうとする。
でも莉奈の力が異常に強い。
その時。
入口のベルが勢いよく鳴った。
「美咲さん!」
蒼真だった。
状況を見た瞬間、顔色が変わる。
床のガラス。
血。
掴みかかる莉奈。
蒼真はすぐ莉奈の腕を掴んで引き離した。
「離れてください!」
低い声。
普段の穏やかな空気が消えていた。
莉奈は抵抗しようとしたが、蒼真の目を見た瞬間一瞬止まる。
その目には、はっきり怒りがあった。
「……っ」
莉奈は息を荒くしながら、美咲を見る。
美咲は腕を押さえ、苦しそうに顔を歪めていた。
その姿を見た瞬間。
莉奈の酔いが少しだけ冷める。
自分がやった。
本当に傷つけた。
でも次の瞬間。
蒼真が美咲を庇うように前へ立ったことで、莉奈の中の何かがまた軋む。
守られてる。
お姉ちゃんは。
また。
「……はは」
乾いた笑い。
「似合ってるじゃん」
涙も出ていなかった。
「お姉ちゃん、新しい男に守ってもらえてよかったね」
蒼真の表情がさらに冷える。
でも美咲は、小さく首を振った。
「莉奈、もうやめて」
その声が、逆に莉奈を惨めにした。
結局。
最後まで、自分だけが壊れている。
莉奈はふらつきながら後ろへ下がる。
そして吐き捨てるように言った。
「……じゃあ今度は、本当に全部壊すから」
そのまま店を飛び出していく。
ベルの音だけが大きく響いた。
店内に沈黙が落ちる。
蒼真はすぐ美咲の腕を見る。
「怪我、見せてください」
美咲は震えていた。
蒼真はそんな美咲を見ながら、静かに息を吐く。
その目には、怒りと──
どこか、過去を思い出したような暗さが混じっていた。
店の奥。
蒼真は静かに美咲の腕へ消毒をする。
割れたガラスはまだ散らばっている。
嵐が去ったあとのように。
美咲はずっと無言だった。
蒼真も無理に話しかけない。
ただ、傷口へ丁寧にガーゼを当てる。
「……少し染みます」
「うん」
小さな返事。
震えている。
怒りなのか、
恐怖なのか、
悲しみなのか。
もう美咲自身にも分からなかった。
怪我の手当が終わると蒼真は苦笑した。
「俺、昔一回だけ本気で復讐したことあるんです」
「弁護士なのに、って感じですけど」
その笑い方が、どこか苦かった。
蒼真は視線を落としたまま続けた。
「前に話した人、いたじゃないですか」
既婚者だった元恋人。
結婚寸前までいっていた相手。
美咲は静かに頷く。
蒼真は少し間を空けて言った。
「最初は、本当に何も考えられなかったんです」
「頭真っ白で」
「でも時間が経つほど、怒りが出てきた」
その声は静かだった。
怒鳴るわけでもない。
だからこそ、生々しい。
「俺だけ騙されてたんだって思ったら」
「人生ごと馬鹿にされた気がして」
蒼真は当時を思い出すように目を細める。
「しかも向こう、“別居してるからほぼ離婚してる”って言ってたんです」
「でも調べたら普通に夫婦で」
「旦那も全部知らなかった」
美咲は息を飲む。
蒼真は続けた。
「だから、全部暴きました」
その一言で空気が変わる。
「……全部?」
「はい」
蒼真の目が冷たくなる。
今まで見たことのない顔だった。
「相手の旦那に接触して」
「不貞の証拠整理して」
「向こうの嘘も全部まとめて」
「徹底的にやりました」
美咲は言葉を失う。
蒼真は淡々と話す。
でも、その時どれだけ傷ついていたかは痛いほど伝わった。
「向こう、最後まで“愛してた”って言ってました」
乾いた笑い。
「だったら最初から騙すなよって思いましたけど」
沈黙。
美咲は小さく聞く。
「……後悔してますか」
蒼真は少し考える。
長い沈黙のあと、静かに答えた。
「半分してます」
「復讐しても、壊れた自分は戻らなかったから」
その言葉が、やけに重い。
「でももう半分は、必要だったとも思ってます」
「何もしなかったら、“自分が悪かった”って思い込みそうだった」
美咲は黙って聞いていた。
蒼真は視線を上げる。
「だから、美咲さんにも言ってるんです」
「傷ついたこと、ちゃんと傷として扱ってくださいって」
その目は優しかった。
でも優しいだけじゃない。
“痛みを知ってる人”の目だった。
美咲は少しだけ胸が苦しくなる。
この人は穏やかだ。
でも、その穏やかさは最初から持っていたものじゃない。
壊れて、
怒って、
苦しんで。
そのあとに残った優しさなんだと、分かってしまった。
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