弁護士
閉店後の店内。
美咲はレジを締めながら、何度も同じことを考えていた。
蒼真といると楽しい。
安心する。
もっと一緒にいたいと思う。
でも同時に、“まだ既婚者”という現実が重く残っていた。
別居中とはいえ、悠真とは正式に終わっていない。
そんな状態で蒼真に進むのは違う。
そう思っていた。
「……考えすぎですかね」
ぽつりと漏らすと、向かいの蒼真が少し笑う。
「美咲さんは真面目すぎるんですよ」
閉店後のカウンター席。
蒼真はいつものようにコーヒーを飲みながら、美咲を見ていた。
美咲は少し迷ったあと、口を開く。
「私、蒼真さんとちゃんと向き合いたいです」
蒼真の目がわずかに揺れる。
「でも」
美咲は続ける。
「今はまだ無理です」
「……旦那さんのことですか」
美咲は静かに頷いた。
「ちゃんと離婚して、全部終わってからじゃないと」
その言葉を聞いた蒼真は、少しだけ息を吐いた。
残念そうではあった。
でも責めない。
「待ちますよ」
即答だった。
美咲は思わず顔を上げる。
蒼真は苦笑した。
「俺、急がせる恋愛向いてないんで」
その優しさに、また胸が痛くなる。
そのあと。
蒼真は少し真面目な顔になった。
「……あと、これは一応聞いておきますけど」
「悠真さんと莉奈さんへの慰謝料請求、どうします?」
美咲の動きが止まる。
蒼真は静かに続ける。
「俺、弁護士なんです」
「……え?」
「言ってませんでしたっけ」
初耳だった。
美咲が呆然としていると、蒼真は困ったように笑う。「言うタイミングなくて」
そういえば仕事の話をほとんど聞いたことがなかった。
蒼真はカップを置く。
「不貞の証拠と別居経緯考えれば、請求自体はできます」
「悠真さんにも、莉奈さんにも」
美咲は息を飲む。
現実味のある話だった。
裏切られた。
家庭を壊された。
本来なら請求されて当然だ。
でも。
「……莉奈には」
声が詰まる。
妹。
憎い。
許せない。
でも、それでも家族だった。
その事実が美咲を感情ではなく理性で引き止める。
蒼真は美咲を急かさない。
「すぐ決めなくて大丈夫です」
「きちんと整理できてからでいい」
その言葉に、美咲は少し救われた。
一方その頃。
莉奈は、暗い部屋で一人酒を飲んでいた。
テーブルにはコンビニの缶チューハイが何本も転がっている。
お腹の子のことなんて莉奈の頭にはもうなかった。
頭は悠真のことだけ。
悠真は戻ってこない。
連絡もない。
検査結果以降、一度も。
スマホを見ても、通知はゼロ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
全部終わった。
妊娠も。
恋愛も。
未来も。
なのに、美咲は優しいからきっと悠真と戻る。
そう思った瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃに黒くなる。
「どうせ私だけ悪者なんでしょ」
誰に向けたわけでもない言葉。
莉奈はふらつきながら立ち上がり、スマホを掴む。
そして震える指で、悠真へ電話をかけた。
深夜二時。
当然、出ない。
でも莉奈は切らなかった。
「……出ろよ」
目が据わっていた。
壊れ始めていた。
数日後。
美咲は蒼真の事務所を訪れていた。
静かな個室。
テーブルには資料が並んでいる。
LINE履歴。
別居時期。
妊娠発覚の経緯。
全部、現実だった。
蒼真は仕事モードになると空気が変わる。
穏やかなままなのに、驚くほど冷静だった。
「こんな酷いことされてたなんて…」
美咲に起こった事実を全て知り静かに怒りの感情が湧く。
美咲に好意を抱いているからつい感情が入ってしまう。
怒りを抑えながら悠真は仕事モードにすぐ切り替える。
「悠真さんへの請求は比較的整理しやすいです」
淡々と説明していく。
美咲は資料を見つめたまま、小さく聞く。
「……莉奈にも、本当にできるんですか」
蒼真は頷いた。
「法律上は可能です」
「妹でも関係ありません」
その言葉に、美咲は苦しそうに目を閉じる。
蒼真は少し沈黙したあと、静かに言った。
「ただ」
「“できる”と、“したい”は別です」
美咲の目が揺れる。
蒼真は続ける。
「無理に請求する必要はありません」
「でも、自分が傷ついた事実だけは軽く扱わないでください」
その言葉に、美咲の胸が熱くなる。
誰も、自分の痛みをこんな風に扱ってくれなかった。
一方その頃。
莉奈はさらに荒れていた。
昼夜逆転。
食事もまともに取らない。
病院からの電話も無視。
そしてある夜。
酔った勢いのまま、美咲へ電話をかける。
『……もしもし、お姉ちゃん』
美咲は嫌な予感を覚える。
「何?」
『慰謝料とか請求するの?』
その瞬間、空気が止まる。
誰から聞いたのか。
美咲が黙ると、莉奈は笑った。
でもその笑いは壊れていた。
『だよね』
『私から全部取ればいいじゃん』
「莉奈」
『どうせ私が全部悪いもんね』
泣いているのか笑っているのか分からない声。
美咲は眉を寄せる。
何か危うい。
本能的にそう感じた。
翌朝。
美咲のスマホに、知らない番号から電話が入った。
「……はい」
『莉奈さんのお姉様ですか?』
嫌な予感が走る。
相手は病院だった。
昨夜、莉奈が泥酔状態で搬送されたという。
美咲の顔色が変わる。
急いで病院へ向かうと、廊下の先に悠真がいた。
呼んだ覚えはない。
でも、病院側が緊急連絡先として連絡したらしい。
久しぶりに見る悠真は、ひどく疲れた顔をしていた。
目が合う。
でも以前みたいな空気はない。
悠真が先に口を開く。
「……大丈夫だったらしい」
美咲は静かに頷く。
二人で病室へ入る。
ベッドの上の莉奈は、点滴を受けながらぼんやり天井を見ていた。
「……来たんだ」
掠れた声。
美咲は怒鳴れなかった。
悠真も何も言わない。
その沈黙に耐えきれず、莉奈が笑う。
「どうせみんな、私なんかいなきゃいいって思ってる」
「莉奈」
「だってそうじゃん!」
突然声を荒げる。
涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「悠真はお姉ちゃんのとこ戻るし!」
「私は一人だし!」
悠真の表情が歪む。
でも次の瞬間。
美咲が静かに言った。
「戻らないよ」
莉奈が止まる。
美咲は悠真を見ないまま続けた。
「私はもう悠真とは別れる、元には戻らない」
病室が静まり返る。
悠真はその言葉を黙って聞いていた。
美咲の頭には、蒼真の顔が浮かんでいた。
まだ付き合ってはいない。
でも。
もう心は、少しずつ蒼真の場所へ向かっていた。
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