気になる人
店を出たあと。
悠真はしばらく車を動かせなかった。
ワイパーが一定のリズムで雨を払っていく。
けれど視界は妙にぼやけていた。
「別れよう」
美咲の声が頭から離れない。
しかも理由は、“気になる人”。
胸の奥が鈍く痛む。
自分が莉奈のところへ行った時、
美咲もこんな気持ちだったのだろうか。
今さら、そんなことを考える。
スマホが震えた。
莉奈からの着信。
悠真は画面を見つめたあと、無言で電源を落とした。
今は誰の声も聞きたくない。
そのままシートへ深く身体を沈める。
美咲に拒絶されたことより、
美咲の目がもう“戻る未来”を見ていなかったことが苦しかった。
決意した顔だった。
もう、自分を待っていない顔。
「……遅かったか」
小さく呟く。
全部。
気づくのが。
一方その頃。
美咲は閉店後の店内で、一人立ち尽くしていた。
悠真がいた空気だけがまだ残っている。
苦しかった。
今でも好きか嫌いかで言えば、好きだ。
長い時間を一緒に過ごした。
幸せだった記憶も、当然ある。
でも。
“戻りたいか”と聞かれた時、
答えは違った。
その時、入口のベルが小さく鳴る。
「……あ」
振り返ると、蒼真だった。
傘を畳みながら、少し驚いた顔をしている。
「まだいたんですね」
「蒼真さんこそ」
美咲は慌てて笑顔を作る。
でも蒼真は、その顔を見て少し眉を寄せた。
「……何かありました?」
優しい声。
それだけで、美咲の胸が少し揺れる。
悠真と話した直後だから余計だった。
「顔、そんな分かりやすいですか」
「ちょっとだけ」
蒼真は無理に聞こうとはしない。
でも帰ろうともしなかった。
その距離感が、また苦しい。
美咲は誤魔化すようにコーヒーを淹れる。
「飲みます?」
「いただきます」
静かな店内。
湯気がゆっくり立ち上る。
蒼真はカップを受け取りながら、ぽつりと言った。
「無理して笑うくらいなら、笑わなくていいと思います」
その瞬間。
美咲の張っていたものが、少しだけ崩れた。
泣くほどじゃない。
でも、力が抜ける。
悠真はいつも、不器用なくせに全部抱え込もうとしていた。
蒼真は逆だ。
“抱えなくていい”と言ってくる。
真逆の優しさだった。
美咲は小さく笑う。
「……ずるいですね、蒼真さん」
「何がですか?」
「そういうこと自然に言うところ」
蒼真は困ったように視線を逸らす。
「本音なんで」
その空気が、あまりにも穏やかで。
美咲は気づいてしまう。
もう自分の心は、
少しずつ前に進み始めているのかもしれない、と。
閉店後の店内。
外の雨は、さっきより静かになっていた。
美咲と蒼真は、窓際の席に向かい合って座っている。
店の照明は半分だけ。
コーヒーの湯気がゆっくり揺れていた。
「……ずるいですね、蒼真さん」
美咲が笑いながら言うと、蒼真は少し困った顔をした。
「だから何がですか」
「そういう自然に優しいとこです」
蒼真は返事をしなかった。
代わりに、視線をカップへ落とす。
少しだけ沈黙。
それから静かに口を開いた。
「昔は違いましたよ」
美咲が顔を上げる。
蒼真は苦笑した。
「もっと人のこと信用してました」
その言い方に、美咲は何かを察する。
踏み込むべきじゃないか迷った。
でも蒼真は、自分から続けた。
「結婚しようとしてた人がいたんです」
店内が静かになる。
蒼真は淡々としていた。
感情を乗せすぎない話し方。
だから逆に、長く引きずった傷なんだと分かる。
「付き合って三年くらいでした」
「同棲もして、親にも挨拶して」
「俺、本気でその人と家族になるつもりだったんです」
美咲は何も言わず聞いていた。
蒼真は少し笑う。
乾いた笑いだった。
「で、結婚の話をちゃんと進めようとした時に」
短い沈黙。
「旦那がいました」
美咲の目が大きく揺れる。
「……え」
「既婚者でした」
あまりにも静かな声。
でもその静けさの方が痛かった。
「最初、意味分かんなかったです」
蒼真は窓の外を見る。
雨粒がガラスを滑っていく。
「向こうは“別居してるからほぼ終わってる”って言ってたんですけど」
「戸籍上は普通に夫婦で」
「俺だけ全部知らなかった」
美咲の胸が締め付けられる。
蒼真は責めるようには話さない。
“被害者ぶる”感じもない。
でも、その分だけ本当に傷ついたのが伝わってきた。
「……辛かったですね」
小さく言うと、蒼真は少し笑った。
「まあ、しばらく人間不信にはなりました」
「誰か好きになるの、怖くなったし」
その言葉に、美咲の心臓が少し跳ねる。
蒼真は続ける。
「だから今も」
「ちゃんと相手の気持ち確認できないと、踏み込めないんです」
真っ直ぐな声だった。
美咲は視線を落とす。
──別居。
その言葉が、自分に刺さる。
今の自分は、蒼真が一番苦手な立場だ。
完全に終わっていない関係。
曖昧な状態。
蒼真も、それを分かっているはずなのに。
それでも距離を取らない。
美咲は小さく聞いた。
「……それでも私といるの、怖くないんですか」
蒼真は少しだけ驚いた顔をしたあと、静かに笑った。
「怖いですよ」
即答だった。
「でも」
少し間を置く。
「美咲さん、ちゃんと苦しんでる人だから」
美咲の呼吸が止まる。
蒼真は続けた。
「誰かを騙して平気な人には見えないんです」
その言葉に、美咲の胸の奥が熱くなる。
悠真との関係。
莉奈とのこと。
全部ぐちゃぐちゃなのに。
それでもこの人は、
“信じたい”目を向けてくれている。
その優しさが、痛いほど嬉しかった。
その日から。
美咲と蒼真の距離は、少しだけ変わった。
劇的な何かがあったわけじゃない。
連絡先を交換して、
閉店後に「お疲れさまです」とメッセージを送り合うようになった。
それだけ。
でも、その“それだけ”が大きかった。
『今日は混んでましたね』
『蒼真さんの来る時間だけです』
そんな軽いやり取りで、美咲は自然に笑ってしまう。
悠真といる頃は、
“嫌われないように”
“壊れないように”
ずっとどこかで気を張っていた。
でも蒼真との会話には、それがない。
返事が来なくても不安にならない。
無理に繋ぎ止めなくていい。
その穏やかさが心地よかった。
ある日の閉店後。
蒼真は珍しく仕事が早く終わったらしく、店に長く残っていた。
「送りますよ」
外へ出た時、自然にそう言う。
「近いですよ?」
「知ってます」
真面目な顔で返されて、美咲は少し笑った。
夜風は少し冷たい。
並んで歩く。
肩が触れそうで触れない距離。
沈黙が続いても、不思議と苦じゃない。
途中、小さな公園の前で蒼真が足を止めた。
自販機。
「何飲みます?」
「じゃあカフェオレ」
蒼真は無言で二本買い、美咲へ渡す。
「ありがとうございます」
缶の温かさが手に広がる。
公園のベンチに少しだけ座った。
街灯の光。
静かな夜。
蒼真がぽつりと言う。
「こういう時間、久しぶりです」
「どういう?」
「誰かといて、疲れない時間」
美咲の胸が小さく揺れる。
それは、自分も同じだった。
蒼真は少し迷ったあと、美咲を見る。
「……今もまだ、旦那さんのこと好きですか」
美咲はすぐには答えなかった。
好き。
その感情は、たぶんまだ残っている。
長く一緒にいた。
簡単にゼロにはならない。
でも。
「前みたいには戻れないと思う」
静かな本音だった。
蒼真は何も言わず聞いている。
美咲は缶を見つめながら続けた。
「悠真といると、ずっと苦しかった」
「好きだったけど、安心できなかった」
「多分、お互い」
夜風が吹く。
蒼真はゆっくり頷いた。
「……そっか」
その声は、どこか安心しているようにも聞こえた。
美咲は少し笑う。
「蒼真さんは?」
「え?」
「また恋愛するの怖くないんですか」
蒼真は少し考えて、それから苦笑した。
「怖いですよ」
「でも」
真っ直ぐ、美咲を見る。
「今はしたいって思ってます」
美咲の呼吸が止まる。
冗談じゃない。
逃げ道を作らない目だった。
「……それってもしかして、相手私ですか」
聞いた瞬間、心臓が速くなる。
蒼真は少しだけ笑った。
「他にいます?」
その返しに、美咲は思わず吹き出す。
でも笑ったあと、胸が熱くなる。
その時。
ふいに蒼真の指先が、美咲の手に触れた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
でも蒼真は慌てて離さない。
美咲も避けない。
静かな夜の中、
二人の間だけが少しずつ変わり始めていた。
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