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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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22/31

結末

雨はまだ止んでいなかった。

悠真は車の中にいた。


エンジンは切っている。

フロントガラスを打つ雨だけが、一定のリズムで続いている。

手元のスマホが震えた。


美咲からの着信。

一瞬、出るか迷ったあと、通話ボタンを押す。

「……もしもし」

声は掠れていた。

美咲の声は、すぐに返ってきた。


『今どこにいるの』

「外」

短い返事。

会話が途切れる。

しばらくして、美咲が言う。


『莉奈から聞いた』

その瞬間、悠真の指がハンドルの上で止まる。

もう全部知られている。


「……ああ」

それだけ答える。

美咲の声が少しだけ揺れる。

『検査……違ったんでしょ』

「うん」


即答だった。

余計な感情はなかった。

ただ事実だけ。

沈黙。

雨の音だけが続く。


美咲がゆっくり言う。

『じゃあ……もう莉奈とは終わったってことだよね』

悠真は少しだけ目を閉じた。

「そうなるな」

また沈黙。


そのあと、美咲の声が少し強くなる。

『だったらさ』

『戻ってきて』

悠真の呼吸が止まる。

雨音が急に遠くなる。


『私たち、やり直せるかもしれない』

その言葉に、悠真はすぐには答えられなかった。

ずっと考えていたことだった。

莉奈と関わる前から、

壊れる前から。


でも今は違う。

全部一度壊れたあとだった。

「……美咲」

低い声。

『うん』


悠真は少しだけ笑った。

でもそれは優しい笑いじゃない。

疲れ切った人の笑いだった。

「戻るとか、そういう話じゃない気がする」


美咲の呼吸が止まる。

悠真は続ける。

「俺さ」


少し間。

「さっきまでお前のとこに戻りたいって思ってたんだよ」

美咲の声が小さくなる。

『じゃあ……』


「でも一回、“別の責任”背負っちまった」

その言葉に、美咲は黙る。

悠真はハンドルを握り直す。

「それが全部違ってたって分かっても」

「なかったことにはならない」

雨音が強くなる。


「お前を傷つけたのも事実だし」

「莉奈を巻き込んだのも事実だし」


短い沈黙。

そして、少しだけ声が落ちる。

「今さら“元に戻る”って、都合良すぎるだろ」


美咲はすぐに否定する。

『そんなの気にしなくていい』

『私、ちゃんと──』

「無理だよ」

遮る声。


でも怒ってはいない。

むしろ、壊れかけている静けさだった。

悠真はゆっくり息を吐く。


「でもさ」

少し間。

「それでも、お前のとこに戻りたいって思ってる俺もいる」


美咲の呼吸が止まる。

悠真は続ける。

「全部終わってからでいい」

「ちゃんと、もう一回やり直したい」

雨音の中で、その声だけがやけに静かだった。


美咲は何も言えなかった。

許すかどうかじゃない。

受け止められるかどうかでもない。

ただ──


壊れた人間の「本音」が、そこにあった。



雨は弱くなっていた。

美咲はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。

通話は切れている。


自分でもなんで“やり直せる“なんて言葉が出てきたのか分からなかった。

勢いで言ってしまった言葉。

でもそれは本心だったのかもしれない。


ずっと一緒にいた大好きな人。

小さい頃から大事にしてきた妹。

同時に二人に裏切られた。

それは自分が一番考えて理解していたはず。

でも。


──何も知らなかった頃に戻りたい。

そう思ってしまった。

でもやり直したらまた思い出してしまう。

完全に消し去ることはもうできない。


最後に聞こえた悠真の声だけが、まだ耳に残っている。

「ちゃんともう一回やり直したい」

悠真も心を入れ替えて頑張ろうとしている。

それがすごく伝わった。


──ちゃんと終わってから

それはいつなんだろう。

どうなったら“終わる”のだろう。


“戻りたい”

あの時咄嗟に口にした言葉を少し後悔した。


そんなことを考えているとふと頭の中に

名前が浮かんだ。

蒼真。

あの人といる時だけ、呼吸が楽になる。


気を張らなくていい。

期待も押しつけられない。

沈黙が怖くない。

その感覚を、一度知ってしまった。

少なからず美咲は蒼真に惹かれていた


その夜。

美咲が店の片付けをしていると、入口のベルが鳴った。

「まだやってる?」

その声で振り返る。

悠真だった。


悠真が店に来るなんて何年ぶりだろう。

一瞬で蒼真とは違う空気が流れた。

緊張する。


悠真はびしょ濡れのまま立っている。

「……何してるの」

美咲の声は驚きより先に、戸惑いだった。

悠真は店に入ると、タオルも取らずに立ち止まる。


「話しに来た」

短い言葉。

いつもの悠真より、ずっと直線的だった。

「早くしないと戻れないと思って」


美咲は返す言葉がなかった。

私も戻りたいとはもう言えなかった。

沈黙。

店内には冷蔵庫の音だけが響いている。


悠真はゆっくり言った。

「全部終わった」

「莉奈のことも」

その言葉に、美咲の指が止まる。

「だから……戻りたい」


真っ直ぐだった。

迷いがないわけじゃない。

でも、それでも“戻る”と決めて来ている。


「お前のとこに」

美咲はすぐに答えなかった。

視線を落とす。

その間に、頭の中に蒼真の顔が浮かぶ。


落ち着いた声。

踏み込みすぎない距離。

“無理しなくていい”という空気。

今の自分が楽に呼吸できる場所。

直感で信じてもいい相手だと感じた。


一方で、悠真。

長い時間一緒にいて、

良い部分も悪い部分も全部知っている相手。

でも今は悪い部分がどうしても消せなくなっていた。

美咲は小さく息を吐いた。


「……悠真」

美咲のいつもより少し低い声に、空気が変わる。

「別れよう」


悠真の表情が止まる。

理解が追いついていない顔。

「……え?」

美咲は続ける。

「戻るとかじゃなくて」

「一回、ちゃんと終わらせたい」

雨音が遠くなる。


悠真は数秒黙ったあと、低く言う。

「じゃあなんで」

「さっき戻りたいって」

美咲は一度目を閉じた。

覚悟を決めた。

そして、はっきり言う。


「別に、他に気になる人ができたから」

その瞬間、空気が固まる。

悠真の目がわずかに揺れる。


「いつの間に?」

「それは関係ない」

即答。

沈黙。

悠真は笑いそうになって、でも笑えなかった。


「俺が全部壊したから?」

美咲は否定しない。

ただ静かに言う。


「あなたが変わっても、ずっと傷は消えない」

その言葉に、悠真は一瞬黙る。

それくらいの事をしてしまった。

否定できない。

戻れるかもなんて一瞬でも思った自分を責めた。


美咲は続ける。

「ちゃんと終わらせてからじゃないと、何も始められない」

悠真は濡れた髪をそのままに、しばらく立っていた。

やがて小さく息を吐く。


「……そっか」

それだけ。

怒鳴らない。

縋らない。

ただ受け取った。


美咲はそれ以上何も言わない。

店の奥では、まだ蒼真の座っていた席が片付いていない。


そこだけ、少しだけ温度が残っている気がした。

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