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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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検査結果

検査結果を受け取りに行く朝。

莉奈はほとんど眠れなかった。

鏡の前の自分は顔色が悪く、目の下には薄い隈ができている。


それでも悠真は、何も言わなかった。

車の中も静かだった。

ラジオもつけない。


信号待ちの間、莉奈は何度も横顔を盗み見る。

悠真は無表情だった。

でもハンドルを握る手だけが、強く力んでいる。


病院へ着くと、受付を済ませ、番号を呼ばれるまで並んで座る。

周囲には幸せそうな夫婦ばかりだった。


エコー写真を見て笑う人。

赤ちゃんの名前を相談している人。

その中で、自分たちだけが異物みたいだった。


「……帰りたい」

莉奈が小さく漏らす。

悠真は前を向いたまま答えた。

「俺も」

その声が、妙に苦しかった。


診察室へ呼ばれる。

椅子に座った医師が、事務的な口調で書類を開く。


「結果ですが——」

莉奈の呼吸が止まる。

悠真は何も言わない。


「胎児と父親候補との親子関係は——」

ページをめくる音。

やけに大きく聞こえた。


「認められませんでした」

世界が静まる。

莉奈は何も聞こえなくなった。


ただ、隣で悠真が息を止めた気配だけが分かる。

医師は説明を続けている。

数値がどうとか、

精度がどうとか。


でも二人とも聞いていなかった。

悠真は書類をじっと見つめたまま動かない。


怒鳴りもしない。

質問もしない。

ただ数秒後。


「……そうですか」

静かに、それだけ言った。


立ち上がる。

その横顔から、感情が完全に消えていた。

病院を出たあとも、悠真は一言も喋らなかった。

車へ向かう途中、莉奈は耐えきれず腕を掴む。


「悠真、待って……!」

悠真の足が止まる。

でも振り返らない。


「ごめん、ほんとに、ごめんなさい……!」

涙で声が崩れる。

「分からなかったの……! ほんとに、可能性あるって——」

「あるわけねえだろ」


初めてだった。

悠真が感情を乗せた声を出したのは。

低く掠れた声。

押し殺していた怒りが滲んでいた。

悠真はゆっくり振り返る。


その目を見た瞬間、莉奈の背筋が凍った。

「俺、避妊してたよな?」

「……っ」

「お前、それ知ってたよな?」

莉奈は何も言えない。

悠真は笑った。

壊れたみたいな笑いだった。


「俺さ」

震える声。

「父親になるつもりだったんだよ」

その一言で、莉奈の涙が溢れる。

「美咲傷つけて、ずっと一緒にいたら美咲はもっと苦しい思いすると思って」

「離婚する覚悟で家出て」

「美咲との子も、お前との子も全部背負うつもりだった」

「人生やり直す覚悟決めたんだよ」


悠真の目が赤くなる。

「なのに何だったんだよ、これ……」

怒鳴り声じゃない。

だから余計に痛かった。


悠真は莉奈の手をゆっくり外す。

「もう無理」

その言葉に、莉奈の呼吸が止まる。

「悠真……」

「終わりだ」

はっきりと告げて、悠真は車へ向かった。


莉奈はその背中を追えなかった。

追ったところで、

もう二度と戻らないと分かってしまったから。

悠真に置いて行かれたあと。

莉奈はしばらく病院の駐車場から動けなかった。


スマホを握ったまま、何度も悠真に電話をかける。

でも出ない。


『ごめんなさい』

『ちゃんと話したい』

『お願いだから帰ってきて』


送っても既読はつかなかった。

車内の静けさが、現実だけを突きつけてくる。

終わった。

本当に。


悠真はもう、自分を見ていない。

悠真に捨てられた。

その事実がじわじわ胸を締め付けた。


帰宅してすぐ、莉奈は異変に気づく。

玄関に悠真の靴がない。

いつも置きっぱなしだったバッグも、

充電器も消えている。


「……え」

寝室へ向かう。

クローゼットを開けた瞬間、膝から力が抜けた。

服が減っている。

引き出しには、部屋の合鍵だけが置かれていた。

悠真は本気だった。


あの「終わりだ」は、感情的な言葉じゃなかった。

本当に、終わらせるつもりだった。


「やだ……」

涙が溢れる。

怖い。

怒られるより、

嫌われるより、


悠真が“もうどうでもいい”顔をしていたことが、一番怖かった。

病院でもそうだった。

怒鳴らなかった。

責め立てもしなかった。


ただ静かに、壊れていた。

莉奈は震える手でスマホを開く。

連絡先一覧。


指が止まったのは、“美咲”の名前だった。

姉。

本当は、今一番連絡したくない相手。


姉から悠真を奪った。

傷つけた。

自分が全部壊した。

どんな顔して連絡したらいいか分からない。


それでも。

もう頼れる人がいなかった。

莉奈は何度も文字を打っては消す。


『助けて』

その一言すら送れない。

数分後、やっと短く打った。


『お姉ちゃん』

『悠真と連絡取れる?』

送信した瞬間、涙が零れる。

惨めだった。


姉から恋人を奪って、

妊娠を盾にして、

全部壊して。

その結果、最後に助けを求める相手が、その姉なんて。


スマホを抱えたまま、莉奈は床に座り込む。

静かな部屋の中で、

初めて自分が本当に一人になったことを理解した。

美咲がそのメッセージを見たのは、閉店後だった。


『お姉ちゃん

悠真と連絡取れる?』

短い文。

その画面を見た瞬間、美咲の胸がざわつく。

嫌な予感がした。


あの騒動の後莉奈からの初めての連絡。

しかも内容がこれ。

美咲は数秒迷ったあと、返信を打つ。


『どうしたの?』

送ってすぐ、既読がつく。

でも返事は来ない。


代わりに、画面に「着信中」の表示が出た。

美咲は息を止める。

電話に出ると、向こうから小さな嗚咽が聞こえた。


『……お姉ちゃん』

その声だけで、美咲の表情が変わる。

裏切られたけどやっぱり妹は憎みきれなかった。

「何があったの」

『ゆうま、が……っ』


泣きすぎて上手く喋れていない。

でも様子がおかしい。

美咲は立ち上がった。

「落ち着いて。今どこ?」


『家……』

「悠真は?」

数秒の沈黙。

そのあと、莉奈が震える声で言った。

『出てった……』


美咲の心臓が強く跳ねる。

別居してからも、

悠真を完全に拒絶していたわけじゃない。

連絡も取っていた。


ただ、美咲自身が整理できなくて距離を置いていた。

だからこそ分かる。

悠真は簡単に人を切り捨てるタイプじゃない。

そんな悠真が、自分から出て行った。


普通じゃない。

「……何があったの」

今度は少し強い声になる。

莉奈はしばらく黙ったあと、絞り出すように言った。


『子供……悠真の子じゃなかった』

空気が止まる。

美咲は一瞬、意味を理解できなかった。

「……え?」


『DNA検査して……違って……』

泣き声混じりの言葉。

美咲は言葉を失う。

頭が真っ白になる。


悠真は、父親になる覚悟をしていた。

別居してから心を入れ替えようとその気持ちを

美咲にも伝えていた。

苦しくても、

お腹の子には罪はないと納得しようとしていた。

なのに。


『ごめんなさい……』

『お姉ちゃん、ごめんなさい……っ』

莉奈が泣き続ける。

美咲は何も言えなかった。


怒りもあった。

呆れもあった。

でもそれ以上に、

悠真の顔が浮かんでしまう。


結果を聞いた瞬間、

あの人はどんな顔をしたんだろう。

どれだけ壊れたんだろう。

胸が痛む。

美咲はゆっくり息を吐いた。


「……悠真には連絡したの?」

『してる……でも返ってこない……』

「そう」

短く返しながら、美咲は窓の外を見る。


夜の街。

雨が降り始めていた。

しばらく沈黙が続いたあと、美咲は静かに言った。


「今日はもう寝な」

『お姉ちゃん……』

「今のあんた、何言ってもパニックになってるだけだから」

責める声ではなかった。

でも優しくもない。


莉奈は嗚咽を漏らしながら、小さく「ごめんなさい」を繰り返す。

美咲は目を閉じた。

許せるわけじゃない。

でも。


妹が壊れていく声を、完全に突き放せるほど冷たくもなれなかった。


ここまで読んでくださってありがとうございました!

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