出会い
同じ頃。
美咲は、閉店作業を一人でしていた。
カフェの照明を落とし、レジを締める。
静かな店内に、食器を片付ける音だけが響く。
悠真と別居してから一か月。
最初の頃は、何も手につかなかった。
裏切られた怒りより、
「大切な2人を同時に失った」という現実の方が苦しかった。
しかも妊娠している。
責めることもできなかった。
莉奈は大事な妹だから。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
閉店札を掛けようとした時、入口のベルが鳴った。
「あ、すみません、もう閉店——」
言いかけて止まる。
入ってきた男は、少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「やっぱり閉店してましたか」
柔らかい声だった。
スーツ姿の男。
年齢は三十前後くらい。
「すみません、外の電気ついてたので」
「あ……こちらこそ、紛らわしくて」
美咲が慌てて笑うと、男も少し笑った。
「じゃあまた今度来ます」
普通なら、それで終わる会話だった。
でも男は帰り際、入口横の段差に置かれた植木鉢に気づいた。
「これ、危なくないですか?」
「え?」
「暗いと踏みそうで」
そう言って、何も言わず端に寄せてくれる。
本当に些細なことだった。
でも美咲は、一瞬言葉を失った。
最近ずっと、誰かに気を遣われることなんてなかったから。
「……ありがとうございます」
「いえ」
男は軽く会釈し、そのまま帰っていった。
名前も知らない。
それだけのやり取り。
なのに、美咲は閉店後もしばらく入口を見つめていた。
数日後。
その男は本当にまた来た。
今度は営業時間内に。
「この前、閉まってた店ですよね」
「あ……」
思わず笑ってしまう。
男も少し安心したように笑った。
「ちゃんと営業してて良かった」
「してますよ失礼ですね」
自然に交わした冗談。
その空気の軽さに、美咲自身が驚く。
悠真と離れてから、
こんな風に笑ったのは初めてだった。
男の名前は、蒼真と言った。
話し方は穏やかで、どこか不器用。
でも店員にも丁寧で、
美咲が忙しそうにしていると、注文を急かしたりもしない。
「甘いもの好きなんですか?」
美咲が聞くと、蒼真は少し困った顔をした。
「実はそんなに」
「え?」
「でも、この店落ち着くので」
その言葉に、美咲の胸が少しだけ熱くなる。
恋じゃない。
まだ全然。
でも。
悠真といた頃みたいな、苦しくて不安な感情じゃなくて。
隣にいると、ちゃんと呼吸ができる。
そんな相手だった。
蒼真が店に来る頻度は、少しずつ増えていった。
週に一回。
それが二回になり、
気づけば「いつもの席」に座っているのが当たり前になる。
窓際の二人席。
ノートパソコンを開きながらコーヒーを飲んで、
仕事が一区切りすると、決まって焼き菓子を一つ頼む。
「甘いもの苦手じゃなかったんですか?」
美咲が笑いながら聞くと、蒼真は困ったように視線を逸らした。
「……これは別です」
「何それ」
「美味しいので」
真面目に言うから、美咲は吹き出した。
その笑い声に、蒼真が少しだけ安心した顔をする。
そんな空気が、心地よかった。
無理をしなくていい。
気を張らなくていい。
ただ普通に話せる。
それだけのことが、美咲には救いだった。
ある日の閉店後。
外は雨だった。
シャッターを閉めようとした時、入口横に人影が見える。
「あれ、蒼真さん?」
「すみません」
蒼真は苦笑した。
「傘忘れて」
手にはコンビニ袋だけ。
完全に足止めされていた。
「入ります?」
美咲が言うと、蒼真は少し迷ったあと頭を下げた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
店内には閉店後の静けさが広がっていた。
照明も半分落としてある。
美咲はタオルを渡しながら言う。
「風邪ひきますよ」
「優しいですね」
「普通です」
そう返しながら、美咲は少しだけ視線を落とした。
“優しい”。
その言葉に、まだ少し痛みがある。
悠真にも、昔はそう言われていたから。
蒼真はそれ以上踏み込まなかった。
聞かない。
詮索しない。
でも放っておかない。
その距離感が、美咲にはありがたかった。
窓を打つ雨音。
コーヒーの湯気。
向かい合って座る静かな時間。
蒼真がぽつりと言う。
「最近、ちゃんと笑うようになりましたね」
美咲の動きが止まる。
「……前、そんなに酷かったですか」
「ちょっと」
蒼真は柔らかく笑った。
「無理してる顔してました」
図星だった。
美咲は誤魔化すようにコーヒーへ口をつける。
蒼真は少し迷うように視線を落とし、それから静かに言った。
「大事にされてほしいなって思ってました」
その瞬間。
美咲の胸が、小さく揺れる。
甘い言葉じゃない。
口説いているわけでもない。
でも。
ああ、この人はちゃんと人を大切にできる人なんだ、と分かってしまった。
だから余計に危なかった。
今の自分は、きっとこういう優しさに弱い。
美咲は小さく笑って、わざと軽い口調で返す。
「それ口説いてます?」
蒼真は目を丸くしたあと、少しだけ困ったように笑った。
「……そう聞こえました?」
否定しない。
その答えに、美咲の心臓が少しだけ速くなる。
けれど二人とも、それ以上は踏み込まなかった。
まだ2人とも、壊れたばかりだったから。
蒼真も彼女と別れたばかりで傷心中だった。
雨の日以来、蒼真は閉店間際によく来るようになった。
仕事帰りらしいスーツ姿。
決まって窓際の席に座って、
コーヒーを飲みながら少しだけ美咲と話して帰る。
それだけ。
連絡先も知らない。
休日に会ったこともない。
でも、美咲は気づいていた。
今日は来るかな、と思ってしまっている自分に。
「……重症だなあ」
焼き菓子を並べながら、小さく呟く。
恋をするつもりなんてなかった。
まだ悠真のことを完全に許したわけでもない。
許せるのかも分からない。
解決しなきゃいけない問題がまだ沢山ある。
でも。
蒼真といる時間だけは、ちゃんと楽だった。
その日の閉店後。
美咲が店前の看板を片付けていると、後ろから声がした。
「手伝います」
振り返ると、蒼真だった。
「あれ、まだいたんですか?」
「仕事してたら遅くなって」
そう言って自然に看板を持ってくれる。
大した作業じゃない。
でも、その“当たり前みたいな優しさ”が胸に沁みる。
店内へ戻ると、蒼真がふと棚を見た。
「これ全部、美咲さんが作ってるんですか?」
「そうですよ」
「すごいな……」
感心したような声。
美咲は少し照れ臭くなる。
悠真も昔は褒めてくれた。
でも途中からは、“当たり前”になっていた。
慣れって怖い。
「蒼真さんって、彼女いるんですか?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
蒼真は少し驚いた顔をしたあと、苦笑する。
「いません」
「へえ、モテそうなのに」
「それ、からかってます?」
「半分くらい本気です」
蒼真は困ったように笑って、それから静かに言った。
「……美咲さんは?」
空気が少し変わる。
美咲は視線を落とした。
「実は旦那に不倫されてました」
不倫されて初めて人に話した。
両親にもまだ言えていないのに。
ポロッと出た自分の言葉に驚いた。
会ったばかりの蒼真に話すなんて。
でも蒼真になら弱音を吐いてもいいと思った。
蒼真は何も聞かなかった。
理由も。
相手のことも。
ただ、小さく頷くだけ。
「そっか」
その反応に、美咲は少し救われる。
同情されるのも嫌だった。
興味本位で聞かれるのも嫌だった。
でも蒼真は、踏み込みすぎない。
その距離感が心地いい。
沈黙が落ちる。
気まずくはなかった。
むしろ穏やかだった。
しばらくして、蒼真が静かに口を開く。
「じゃあこれからは」
真面目な目。
「ちゃんと幸せになってほしいです」
美咲の胸が、大きく揺れる。
まただ。
この人は、こういう言葉を自然に言う。
見返りを求める感じもなく、
優しさを押し付ける感じもなく。
だから危ない。
美咲は誤魔化すように笑った。
「それ口説いてます?」
前と同じ返し。
でも今回は、蒼真は笑わなかった。
少しだけ迷ってから、静かに言う。
「……口説きたいとは思ってます」
美咲の呼吸が止まる。
冗談じゃない。
真っ直ぐな声だった。
でも蒼真は、すぐに続けた。
「ただ、今じゃないのも分かってるので」
その言葉に、美咲の胸が熱くなる。
急かさない。
奪おうとしない。
悠真との恋は、
いつも不安と焦りが隣にあった。
でも蒼真といると、
誰かを好きになることって、本当はもっと静かなものなのかもしれないと思えた。
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