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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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19/31

病院

莉奈は、何度もスマホを見ていた。

既読はつかない。

昨日から悠真は一切連絡を返してこない。

胸の奥が嫌な音を立てる。


「……なんで」

ソファに座ったまま呟く。

最近、悠真の様子は明らかに変だった。


優しいのに冷たい。

一緒にいても、どこか距離がある。

それでも莉奈は、自分から離れることはないと思っていた。

妊娠している限り、悠真は責任を捨てられない。

そう分かっていたから。


──でも。

脳裏に、一瞬だけ最悪の想像がよぎる。

もし、悠真との子じゃなかったら。

悠真とする時は毎回必ず避妊していた。

だからこそ、自分でも分かっていた。

妊娠した時、悠真の子である可能性は低いと。


でも、ゼロじゃない。

そう思い込もうとしていた。

いや、思い込まないと怖かった。

スマホが震える。


莉奈は飛びつくように画面を開いた。

悠真からだった。


『明日、病院予約した』

短い文。

その下に、さらにメッセージが届く。

『出生前DNA鑑定する』

視界が揺れた。

呼吸が止まる。


スマホを持つ手が震え、爪が食い込む。

「……っ」

出生前DNA鑑定。

お腹の子と父親を調べる検査。


つまり。

悠真は、疑っている。

完全に。

頭の中が真っ白になる。


拒否すれば終わる。

でも受ければ、全部終わる。


別の人との子かもしれない

それを一番分かっているのは、自分だった。


あの夜。

誰の子でもいいから妊娠したくて、一度だけ別の男と寝た。

そのあと本当に妊娠したと分かって、頭が真っ白になった。


怖かった。

別の人の子がお腹にいることが。

いつか悠真に気付かれるかもしれない。

悠真を失うかもしれない。


だから泣いた。

責めた。

自分がしたことなのに。

そして悠真の子だと信じて決めつけた。

そうすれば悠真は逃げないと分かっていたから。


実際、悠真は責任を取ろうとした。

美咲を傷つけてまで。


なのに今、その全部が崩れようとしている。

スマホが再び震えた。


『逃げるならもう終わりでいい』

莉奈の喉がひゅっと鳴る。


終わる。

その言葉が、胃の奥に重く沈んだ。

悠真は、本気だ。

もう以前みたいに、泣けば許される空気じゃない。


莉奈はゆっくり膝を抱えた。

怖い。

でも一番怖いのは、検査結果じゃなかった。

全部知った悠真が、自分を見捨てることだった。


翌日。

産婦人科の待合室は静かだった。


消毒液の匂い。

小さな赤ん坊の泣き声。

幸せそうにエコー写真を見せ合う夫婦。

その中で、莉奈だけが場違いみたいに青ざめていた。


隣に座る悠真は、一言も喋らない。

スマホすら見ず、ただ前だけを見ている。

その横顔が怖かった。

怒鳴ってくれた方がまだマシだった。


「……悠真」

勇気を出して呼んでも、返事はない。


数秒後。

「莉奈さん」

看護師に呼ばれ、莉奈の肩が跳ねた。

診察室へ向かう足が重い。

逃げたい。

でも逃げた瞬間、全部終わる。


検査の説明を受けながらも、言葉はほとんど頭に入ってこなかった。

母体の採血と、悠真のDNAサンプル。

結果が出るまで数日。

たったそれだけ。


なのに、死刑宣告を待つみたいだった。


「ではこちらにサインをお願いします」

書類を渡される。

莉奈はペンを持ったまま止まった。

サインしてしまえば、もう戻れない。

視界の端で、悠真が無言で自分を見ていた。


その目に、もう以前の優しさは残っていない。

疑い。

失望。

そして確認。


悠真は、“信じたいから来た”んじゃない。

“終わらせるために来た”。

それが分かってしまった。


「……っ」

莉奈の指先が震える。

「どうした」

低い声。

責めるような口調ではない。

それが逆に苦しかった。


「ほんとに、やるの……?」

絞り出した声。

悠真は数秒黙り、静かに言った。

「俺の子なら、それで終わる話だろ」


莉奈の呼吸が止まる。

違う。

終わらない。

だって、自分が一番分かっている。

悠真の子である可能性は、低い。

絶望的なくらい。


「……莉奈」

悠真の声が落ちる。

「まだ間に合う」

その一言に、莉奈は顔を上げた。


悠真は真っ直ぐこちらを見ていた。

「今なら、自分で言えるだろ」

静かな声だった。

怒鳴りもしない。

でも、その目だけが冷たかった。


「俺に嘘ついてること、あるなら」

莉奈の喉が震える。

言えば終わる。

でも、黙っていても終わる。

頭では分かっているのに、口が動かない。


怖い。

全部失うのが怖い。

長い沈黙のあと。

莉奈は震える手で、書類に名前を書いた。


その瞬間。

悠真はゆっくり目を閉じた。

まるで、その行動だけで答えを察したみたいに。

検査が終わった帰り道。


車内には、重たい沈黙だけが流れていた。

カーナビの音声だけがやけに響く。

莉奈は助手席で、ずっと窓の外を見ていた。

悠真は一度もこちらを見ない。


赤信号で止まっても、スマホを触ることもない。

ただ無表情のまま前を向いている。

その静けさが、何より怖かった。


「……怒ってる?」

やっと絞り出した声。

悠真は少し遅れて答えた。

「まだ分かんねえから」


感情のない声。

“まだ”

つまり、結果次第では終わる。

莉奈は唇を噛んだ。


前なら、もっと違った。

泣けば抱きしめてくれた。

不安だと言えば、大丈夫だと言ってくれた。

でも今の悠真は、もう自分を守ろうとしていない。


マンションに着いても、悠真はすぐ車を降りなかった。

エンジンを切ったまま、沈黙が続く。

耐えきれなくなった莉奈が、小さく言う。


「……もし違ったら、どうするの」

悠真の指が、ハンドルの上で止まる。


数秒後。

「知らねえよ」

低く掠れた声だった。

「今はまだ考えたくない」

その言葉に、莉奈の胸が締め付けられる。


悠真は、本当に一緒に育てるつもりだった。

美咲を傷つけて、家を出て、全部背負う覚悟をしていた。

だからこそ、疑い始めた今、壊れ方が大きい。


「……悠真」

「なんで避妊してたのに、あんな自信満々だった?」

突然の言葉に、莉奈の呼吸が止まった。


初めてだった。

悠真が、その部分に触れたのは。

「妊娠したかもって言われた時、おかしいと思ったんだよ」

静かな声。


「でも、お前が泣くから……信じようとしてた」

莉奈の目に涙が滲む。

「私……」

言葉が続かない。

悠真はようやく莉奈を見た。


その目にあったのは怒りじゃない。

疲れだった。


「俺、お前のこと好きだったよ」

莉奈の肩が震える。

「だからちゃんと責任は取ろうと思ってた」

その一言が、刃みたいに刺さる。


悠真はゆっくり視線を落とした。

「だから今、一番キツい」

結果が出るまでの数日間。

悠真からほとんど連絡はこなくなった。

まだホテルに泊まってるのかも分からない。


「仕事」

そう一言だけ送って、深夜まで連絡がない。

莉奈はスマホを握りしめたまま、暗い部屋で何度もトーク画面を開いていた。


前なら違った。

「大丈夫?」

「体調どう?」

「何か食べたいものある?」

そんな連絡が毎日来ていた。


でも今はない。

検査の日を境に、悠真は完全に変わってしまった。

優しさが消えたわけじゃない。

むしろ逆だった。


必要最低限のことはする。

病院代も払う。

体調も気にかける。

なのに、心だけがどこにもない。


それが余計に苦しかった。

深夜。


玄関の音がして、莉奈は慌てて立ち上がる。

「悠真……!」

帰ってきた悠真は、目の下に濃い隈を作っていた。

スーツのまま、疲れ切った顔。

「来てくれたんだ!」

それでも莉奈は安心して近づく。


「ご飯、作るね」

「いらない」

短い返事。

悠真はそのままソファに座り、スマホをテーブルに置いた。


その瞬間、画面が点灯する。

美咲

表示された名前に、莉奈の動きが止まった。

悠真はすぐ画面を伏せた。

けれど、もう見えてしまった。


胸の奥が冷える。

「……連絡取ってるの?」

悠真は数秒黙った。

「まだ何も戻ってねえよ」

否定しない。


莉奈の喉が詰まる。

「じゃあなんで……!」

「……話したかっただけだ」

疲れた声。


悠真は額を押さえたまま続ける。

「全部壊したから」

莉奈の胸が痛む。

自分が壊したくせに。

そう言いたいのに、言えない。


全部の始まりは、自分だから。


沈黙の中、スマホが再び震えた。

今度は病院からの通知メール。


『検査結果の準備ができました』

その文字を見た瞬間。

空気が凍った。

莉奈の顔から血の気が引く。


悠真は画面を数秒見つめ、ゆっくり立ち上がった。

「明日行く」

それだけ言う。

声は驚くほど静かだった。


でも莉奈には分かった。

悠真も、怖がっている。

結果を。


そして。

“もし違った時、自分が何をするのか”を。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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