疑い
「……本当に、俺の子なのか?」
その言葉が落ちた瞬間。
部屋の空気が凍った。
莉奈がゆっくり顔を上げる。
「……え」
少し焦った声。
美咲も固まっていた。
数秒遅れて、信じられないものを見るように悠真を見る。
「今、なんて言ったの?」
美咲の声が震える。
涙を流しながら、それでも悠真から目を逸らさない。
「普通、そんな言葉出てこないから」
「……」
「だって、ちゃんとそういうことしてなきゃ、“自分の子か”なんて発想にならないじゃん」
悠真の呼吸が止まる。
悠真はハッとして首を振る。
「違う、そういう意味じゃ……」
「そういう意味でしょ」
美咲は続けた。
「行為してないなら、“嘘だろ”ってなるはずでしょ」
「……」
「でも悠真は違った」
涙がぽろぽろ零れる。
「“俺の子なのか”って言った」
逃げられない。
その一言だけで、全部認めてしまっている。
美咲は苦しそうに笑った。
「そんなの……本当に関係持ってた人しか言わないよ……」
悠真は何も返せない。
否定の言葉が、もう全部薄っぺらかった。
莉奈が小さくお腹を抱き締める。
「私……」
震える声。
「ちゃんと、悠真くんのこと好きだったのに……」
「莉奈、今は黙ってろ」
悠真が低く言う。
だがその声に、美咲がびくっと肩を震わせた。
その反応を見て、悠真自身も固まる。
美咲は少し後退りしながら、涙を拭った。
「怖い……」
「美咲」
「最近の悠真、怒ると怖い」
莉奈の腕を掴んだ時。
怒鳴った時。
全部、美咲は見ていた。
悠真は言葉を失う。
美咲は泣きながら笑う。
「理想の夫だと思ってた」
その声が痛いほど静かだった。
「でも、本当は全然違ったんだね」
「違うんだ……」
悠真は掠れた声でそう言った。
だが、自分でも何が違うのか分からなかった。
浮気した。
妹と関係を持った。
妊娠させた。
全部事実だ。
「何が違うの?」
美咲が静かに聞く。
その目はもう、以前みたいに悠真を見ていなかった。
信頼も。
愛情も。
崩れ始めている。
悠真は一歩近づく。
「俺、美咲と別れたいわけじゃない」
「……最低」
美咲が笑う。
涙でぐしゃぐしゃなのに、乾いた笑いだった。
「妹妊娠させておいて?」
「……」
「それでまだ、夫婦続けられると思ってるの?」
悠真は言葉に詰まる。
思っていたわけじゃない。
でも失いたくなかった。
美咲も。
家庭も。
全部。
その醜い欲が、今ここに全部出ていた。
莉奈が小さく口を開く。
「お姉ちゃん……」
「莉奈は黙って」
初めてだった。
美咲が、妹へあんな声を向けたのは。
莉奈の肩が震える。
美咲は涙を拭いながら続けた。
「なんでなの……?」
「……」
「私、ずっと莉奈のこと大事だったのに」
その言葉に、莉奈の顔が歪む。
罪悪感が刺さる。
でも。
それでも。
悠真を失いたくない。
その気持ちの方が強かった。
「ごめんなさい……」
莉奈は泣きながら俯く。
「本当に、ごめん……」
「謝ってほしいわけじゃない!!」
美咲が叫ぶ。
部屋が静まり返る。
美咲は肩を震わせながら、自分の胸を押さえた。
「気持ち悪い……」
悠真の顔色が変わる。
「美咲」
「二人とも、気持ち悪い……」
その言葉は鋭かった。
莉奈が泣き崩れる。
悠真も何も言えない。
美咲はその場に立っているのも限界みたいに、ふらつきながら後退った。
「もう無理……」
「待ってくれ!」
悠真が咄嗟に腕を掴もうとする。
だが美咲は反射的に身を引いた。
怯えるみたいに。
その反応が、悠真の胸を深く抉る。
美咲は震える声で言った。
「触らないで」
「……」
「もう、家族じゃない」
悠真の呼吸が止まる。
美咲は涙を流したまま寝室へ向かう。
バタン、とドアが閉まる音。
静寂。
残されたのは、悠真と莉奈だけだった。
莉奈は泣きながら、お腹を抱えている。
悠真はしばらく動かなかった。
頭が真っ白だった。
やっと、美咲とやり直せると思っていた。
刺された時。
病院で手を握られた時。
もう一度、普通の夫婦に戻れるかもしれないと。
なのに。
全部、自分で壊した。
悠真はゆっくりソファへ座り込み、顔を覆う。
その横で。
莉奈が小さな声で呟いた。
「……でも」
悠真が顔を上げる。
莉奈は涙で濡れた顔のまま、それでもどこか安心したように笑っていた。
「これで、もう隠さなくていいね」
その瞬間。
悠真は初めて、本気で寒気を感じた。
──
朝になっても、美咲は寝室から出てこなかった。
悠真はリビングで一睡もできずに座っていた。
スマホには会社からの連絡。
母親からの不在着信。
莉奈からのメッセージ。
全部無視していた。
頭が回らない。
ただ、昨夜の美咲の言葉だけが何度も蘇る。
——もう、家族じゃない。
ガチャ、と寝室のドアが開く。
美咲が出てきた。
目は腫れている。
それでも不思議なくらい静かだった。
悠真は立ち上がる。
「……美咲」
「しばらく別で暮らしたい」
淡々とした声。
悠真は固まる。
「え」
別居。
本当に。
悠真は掠れた声を出した。
「待ってくれ」
「無理」
即答だった。
美咲は悠真を見ない。
「今、同じ家にいたくない」
「……」
「顔見るだけで苦しい」
その言葉が現実として胸に落ちる。
悠真は何も言えなくなる。
美咲は続けた。
「私が出ていくつもりだったけど」
そこで初めて悠真を見る。
「子供もいるし悠真が出てって」
静かな目だった。
怒鳴りもしない。
泣き叫びもしない。
だからこそ終わりを感じた。
悠真は数秒黙ったあと、小さく頷く。
「……分かった」
それしか言えなかった。
昼過ぎ。
悠真は最低限の荷物だけまとめて家を出た。
玄関を出る瞬間、一度だけ振り返る。
美咲はリビングに座ったまま、こちらを見なかった。
「……行く」
返事はない。
静かな部屋。
もう、自分の帰る場所じゃない気がした。
ドアが閉まる。
その音で、美咲はようやく小さく息を吐いた。
涙は出なかった。
もう泣きすぎて、感覚が麻痺していた。
その頃。
ビジネスホテルへ向かった悠真は、ベッドに座ったままスマホを見ていた。
莉奈から何十件も通知が来ている。
『大丈夫?』
『ちゃんと話したい』
『今どこ?』
『会いたい』
悠真はしばらく画面を睨み、やがて通話ボタンを押した。
数コールで繋がる。
『……悠真くん?』
嬉しそうな声。
それだけで苛立ちが込み上げた。
「検査しよう」
沈黙。
『……え?』
「DNA検査」
低い声。
「俺の子か確認する」
電話の向こうで莉奈の呼吸が止まる。
『な、なんで……』
「当たり前だろ」
悠真は額を押さえた。
「こんな状況で、信じろって方が無理だ」
『……私のこと疑ってるの?』
傷ついた声。
だが悠真は冷たく言った。
「疑うだろ普通」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて莉奈が、小さく震える声を出す。
『……分かった』
悠真は目を閉じる。
疲れていた。
全部。
そのまま通話を切る。
部屋が静かになる。
悠真はベッドへ倒れ込んだ。
天井を見つめる。
美咲の泣き顔。
莉奈の執着。
由奈の血だらけの姿。
全部ぐちゃぐちゃに混ざっている。
もう戻れない。
そんなこと、とっくに分かっていた。
一方その頃。
莉奈は暗い部屋でスマホを握り締めていた。
DNA検査。
その言葉が頭から離れない。
お腹をそっと撫でる。
まだ誰の子かなんて分からない。
でも。
多分お腹の子は悠真の子じゃない。
もし悠真の子じゃないってバレたら?
その瞬間、自分は完全に捨てられる。
莉奈の呼吸が浅くなる。
怖い。
嫌だ。
捨てられたくない。
莉奈は、自分がもう引き返せないところまで来ていると理解していた。
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