壊れる音
「最近、顔色よくなったね」
休日の昼。
美咲はキッチンで笑いながら言った。
悠真はソファに座ったまま苦笑する。
「まぁ、家で休めてるし」
傷はまだ痛む。
だが、美咲と過ごす穏やかな時間のおかげで、少しずつ精神は落ち着き始めていた。
もう終わりにしたい。
莉奈とも距離を置いて。
全部清算して。
普通に戻りたい。
本気でそう考え始めていた。
その時だった。
インターホンが鳴る。
美咲が「はーい」と玄関へ向かう。
悠真はぼんやりテレビを見ていた。
だが次の瞬間。
「……莉奈?」
その名前に、悠真の身体が固まった。
玄関を見る。
莉奈が立っていた。
ワンピース姿。
少しやつれた顔。
けれど妙に落ち着いて見える。
「急にごめん」
莉奈は笑う。
その笑顔に、悠真は嫌な予感を覚えた。
「どうしたの?」
美咲が心配そうに聞く。
莉奈は少し黙ったあと、小さく俯く。
「……話したいことがあって」
悠真の喉がひゅっと鳴る。
やめろ。
本能が警告する。
だが莉奈はゆっくりリビングへ入ってきた。
美咲は気づいていない。
普通に妹を迎え入れている。
「座りなよ」
「うん……」
莉奈はソファへ腰を下ろす。
悠真の正面。
視線が合う。
その目に、妙な熱があった。
「何かあった?」
美咲が隣に座る。
その瞬間。
莉奈は静かに、自分のお腹へ手を置いた。
悠真の背筋が凍る。
「……私、妊娠した」
空気が止まる。
美咲が目を見開いた。
「え……?」
悠真の頭が真っ白になる。
「相手は?」
美咲が戸惑いながら聞く。
莉奈は答えない。
ただ、じっと悠真を見ている。
その視線で全部理解した。
——こいつ、言う気だ。
悠真は反射的に立ち上がる。
「莉奈」
低い声。
止めるように。
だが莉奈は笑った。
壊れたみたいに。
「ねぇ、お姉ちゃん」
美咲が不安そうに妹を見る。
莉奈はゆっくり言った。
「私ね」
震える声。
でも目だけは真っ直ぐだった。
「悠真くんの子、妊娠したの」
沈黙。
時計の音だけが響く。
美咲の表情が止まる。
理解が追いついていない顔。
「……え?」
小さな声。
悠真は顔色を変えた。
「違う!!」
反射的に叫ぶ。
莉奈がゆっくり悠真を見る。
「違わないよ」
「お前……っ」
「ずっと関係あったじゃん」
美咲の呼吸が浅くなる。
視線が悠真と莉奈の間を彷徨う。
「……嘘」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「嘘だよね……?」
悠真は言葉に詰まる。
否定しなければ。
今すぐ。
なのに頭が真っ白で、うまく声が出ない。
その沈黙が、最悪だった。
美咲の顔から血の気が引いていく。
「……悠真?」
震える声。
悠真はやっと絞り出す。
「違う、美咲、これは……」
だがその瞬間。
莉奈が泣きながら笑った。
「私、本当に好きだったの……」
ぽろぽろ涙を流しながら、美咲を見る。
「ごめんね、お姉ちゃん」
その謝罪が、部屋を完全に壊した。
美咲の目から涙が溢れる。
「……うそ」
掠れた声。
「うそでしょ…いつから?
...産む気なの?」
美咲の声は掠れていた。
悠真は初めて、本当の意味で終わったと理解した。
莉奈は涙を流しながら、自分のお腹を庇うように抱き締める。
「……うん」
小さな返事。
その瞬間、美咲の肩が震えた。
悠真は慌てて口を開く。
「待ってくれ、美咲、ちゃんと話すから」
「何を?」
美咲が笑う。
壊れそうな笑顔だった。
「妹と寝てましたって?」
「……」
「子どもまで作りましたって?」
悠真は言葉を失う。
何を言っても薄っぺらくなる。
全部事実だから。
莉奈が震える声で言う。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……」
「謝らないで」
美咲が静かに遮った。
その声に、莉奈が息を止める。
美咲は涙を拭いながら妹を見る。
「今は謝らないで」
「……」
「聞きたくない」
静かなのに、痛い声だった。
莉奈は唇を噛み、俯く。
悠真は美咲へ近づこうとした。
「美咲……」
「来ないで」
即座に拒絶される。
悠真の足が止まる。
美咲は泣きながら続けた。
「触らないで」
その一言が、腹を刺された時より痛かった。
「……ごめん」
掠れた声。
美咲は首を振る。
「なんで?」
涙が次々溢れる。
「なんで莉奈なの……?」
悠真は答えられない。
自分でも分からなかった。
最初は、ただの甘えだった。
寂しさ。
承認欲求。
逃げ場。
でも気づけば、取り返しがつかなくなっていた。
「私、何かした……?」
美咲が震える声で聞く。
「料理ちゃんとしてたよね……?」
「違う」
「家のことも頑張ってた……」
「美咲のせいじゃない」
悠真は即座に否定した。
それだけは本当だった。
悪いのは自分だ。
全部。
だがその言葉が、美咲を余計に傷つけた。
「じゃあ何で……?」
答えがない。
沈黙が落ちる。
莉奈が泣きながら口を開く。
「私が好きになったの……」
「莉奈」
「悠真くん優しかったから……」
「やめろ」
悠真が低く言う。
だが莉奈は止まらない。
「お姉ちゃんといる時より、私といる時の方が笑ってくれた」
美咲の顔色が変わる。
悠真は反射的に莉奈の腕を掴んだ。
「もう喋るな!!」
強い力。
莉奈が小さく痛みの声を漏らす。
その瞬間、美咲が怯えた目をした。
「……やめて」
悠真がハッとして手を離す。
赤く残る指の跡。
美咲はそれを見て、ゆっくり後退った。
「前も、そうやってたの?」
「違う」
「怒ると怖くなるの?」
「違うって!」
思わず声が大きくなる。
その瞬間、美咲の身体がびくっと震えた。
悠真は息を止める。
終わった。
完全に。
美咲は泣きながら笑った。
「莉奈は大事な妹だよ……」
その言葉に、悠真の胸が凍る。
美咲はソファへ崩れるように座り込んだ。
「もう分かんない……」
「美咲」
「理想の夫だと思ってた」
涙が落ちる。
「でも全部、嘘だったんだね」
悠真は何も返せない。
莉奈はそんな二人を見つめながら、自分のお腹へそっと触れた。
その目には、罪悪感と執着がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
そして静かに思う。
——これで、もう戻れない。
三人とも。
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