終わらせたはずなのに
「……ごめん」
翌日の夜。
悠真は深く頭を下げていた。
ダイニングには重い沈黙が落ちている。
美咲は何も言わず、俯いたままマグカップを握っていた。
昨日から、まともに目も合わせてくれない。
それが逆にきつかった。
怒鳴られる方がまだ楽だった。
「本当に、軽率だった」
悠真は絞り出すように続ける。
「もう連絡も取らない」
美咲の指先がぴくりと動く。
悠真は必死だった。
ここで家庭を失うわけにはいかない。
会社も崩れかけている今、美咲まで失えば、本当に全部終わる。
「……本気だったの?」
美咲が小さく聞く。
悠真は即座に首を振った。
「違う」
その答えに迷いはなかった。
少なくとも由奈に対しては。
由奈はただ、逃げ場だった。
責めずにいてくれる女。
優しくしてくれる場所。
そこに甘えただけ。
「じゃあなんで?」
その問いに、悠真は詰まる。
本当の理由なんて、自分でも分からなかった。
寂しかった?
現実から逃げたかった?
男として見られたかった?
どれも違う気がした。
結局、自分が弱かっただけだ。
「……最低だと思う」
悠真は俯いた。
「でも、美咲とは別れたくない」
静かな声。
それは珍しく本音だった。
美咲は長い間黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……次はないから」
悠真が顔を上げる。
美咲は泣きそうな顔で笑っていた。
「信じたいから、ちゃんとして」
その言葉が胸に刺さる。
罪悪感で息が詰まりそうになる。
悠真は何度も頷いた。
「もう絶対しない」
嘘だった。
少なくとも、莉奈との関係が続いている時点で。
それでも。
この瞬間だけは、本当にやり直したいと思ってしまった。
その夜。
悠真は由奈へメッセージを送った。
『もう会えない』
少し迷ったあと、続ける。
『家庭を壊したくない』
送信。
数分後、既読。
返信はすぐ来た。
『そっか』
短い文。
拍子抜けするほどあっさりしていた。
悠真は小さく息を吐く。
終わった。
そう思った。
だが翌日。
会社のロビーに由奈がいた。
「……何してんの?」
悠真が低く聞く。
由奈は笑った。
「たまたま」
だが目が笑っていない。
「避けなくてもよくないですか?」
「終わりって言っただろ」
「うん、言われましたね」
由奈は一歩近づく。
「でも黒沢さん、あの時“落ち着く”って言ってくれた」
悠真の眉が寄る。
「それは……」
「私、本気だったんですけど」
空気が冷える。
悠真は周囲を気にして、小声で言った。
「やめろって」
由奈は少し黙ったあと、ふっと笑った。
「奥さん選ぶんだ」
その言葉に妙な棘があった。
悠真は苛立ちを抑えながら答える。
「当たり前だろ」
由奈の表情が一瞬だけ消える。
だがすぐ、また笑顔を作った。
「……そっか」
その日の夜。
悠真が帰宅すると、美咲が夕飯を作っていた。
「おかえり」
少しぎこちない笑顔。
でも、昨日より柔らかい。
悠真は心の底から安堵した。
まだ戻れる。
そう思いたかった。
その時。
ポケットのスマホが震える。
由奈からだった。
『やっぱり諦められない』
『少しだけでも会いたい』
『無視しないで』
続けて写真が送られてくる。
今日の悠真の後ろ姿。
会社前。
駅。
ぞわり、と背筋が冷えた。
由奈は今日、自分を見ていた。
ずっと。
『奥さんのところ帰る黒沢さん見るの、結構つらいです』
悠真の顔から血の気が引く。
その時。
「悠真?」
美咲の声。
悠真は慌ててスマホを伏せた。
「……どうしたの?」
「いや、仕事の連絡」
また。
自然に嘘が出る。
その瞬間、悠真は気づいてしまった。
自分は何も変わっていない。
──
由奈からの連絡は、日に日に異常になっていった。
『今どこ?』
『なんで返信くれないの?』
『奥さんといる?』
『今日、駅で見たよ』
通知が止まらない。
ブロックしても、別の番号から来る。
会社帰りに待ち伏せされることも増えた。
悠真は完全に疲弊していた。
「……はぁ」
深夜のコンビニ前。
煙草に火をつけながら、悠真は大きく息を吐く。
美咲との関係は少しずつ戻り始めていた。
一緒に夕飯を食べる時間。
他愛ない会話。
ぎこちないながらも、以前の日常。
だからこそ、由奈を完全に切りたかった。
もう終わりにしたかった。
スマホが震える。
由奈。
悠真は舌打ちしながら通話を切った。
その瞬間。
「黒沢さん」
背後から声。
悠真の身体が強張る。
振り返ると、由奈が立っていた。
白いパーカー姿。
目の下には濃い隈。
「……なんでここ分かった」
「ずっと見てたから」
由奈は笑う。
その笑顔に、悠真は本能的な恐怖を覚えた。
「帰れよ」
「ねぇ」
由奈は近づいてくる。
「奥さんとやり直すの?」
「……関係ないだろ」
「私は?」
悠真は苛立ち混じりに吐き捨てた。
「もう終わったって言ってるだろ」
その瞬間。
由奈の顔から表情が消えた。
「……そっか」
小さな声。
次の瞬間だった。
鈍い衝撃。
「っ……!?」
悠真の身体が揺れる。
腹部に熱い痛み。
視線を落とす。
由奈の手。
銀色の刃。
理解が追いつかなかった。
「は……?」
血が落ちる。
ぽた、ぽた、とアスファルトを赤く染める。
由奈は震える手で包丁を握ったまま泣いていた。
「ごめんなさい……っ」
「由奈、おま……」
「でもっ……!!」
由奈が崩れるように叫ぶ。
「黒沢さんが優しくするから!!」
通行人の悲鳴。
誰かが通報している声。
悠真はその場に膝をついた。
痛い。
呼吸が浅い。
由奈は泣きながら何度も叫んでいた。
「嫌だった……!! 奥さんのとこ戻るの嫌だった!!」
数分後。
パトカーの赤色灯が夜を染める。
由奈は殺人未遂で現行犯逮捕された。
その頃。
病院へ駆け込んできた美咲は、処置室前で立ち尽くしていた。
「悠真……っ」
涙で声が震える。
医師から“命に別状はない”と聞かされても、足の震えが止まらなかった。
しばらくして。
処置を終えた悠真が病室へ運ばれる。
青白い顔。
腹部には痛々しい包帯。
それを見た瞬間、美咲の涙が溢れた。
「よかった……」
その声を聞き、悠真はゆっくり目を開ける。
「……美咲」
掠れた声。
美咲はベッド脇へ駆け寄った。
「怖かった……本当に……」
手が震えている。
悠真はその手を見つめた。
こんな状況なのに。
美咲はまだ、自分を心配している。
何度も裏切ったのに。
その瞬間、胸の奥に重い罪悪感が落ちた。
「……ごめん」
美咲は首を振る。
「あの子に別れるって言ったんでしょ?」
涙を拭いながら笑おうとする。
「生きててくれればいい」
悠真は言葉を失った。
その優しさが苦しい。
病室は静かだった。
美咲はずっと悠真の手を握っている。
離れないように。
失わないように。
悠真はぼんやり天井を見つめた。
終わりにしたい。
本当に。
そう思った。
でも。
病室の外。
廊下の角から、じっと中を見つめる影があった。
莉奈だった。
美咲が悠真の手を握る姿を見て、静かに唇を噛む。
そして。
コートのポケットの中で、そっと自分のお腹を撫でた。
まだ何も宿っていないその場所を。
──
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
病室へ入ってきた課長は、深々と頭を下げた。
悠真はベッドの上で苦い顔をする。
腹部の傷は思ったより深く、まだ自由には動けない。
刺された瞬間の感覚も、血の匂いも、まだ夢に出る。
「……いや、俺の方こそまた問題起こしてすみません」
掠れた声で返すと、課長は複雑そうに眉を寄せた。
「今回は黒沢が謝る必要は無い。会社としても、もっと早く対応できてればな……」
由奈は会社でも少し問題視されていたらしい。
悠真への異常な執着。
勤務外での接触。
待ち伏せ。
だが、“男女間の揉め事”として軽く流されていた。
「警察からも事情聞かれてる。しばらくは休め」
課長はため息を吐く。
「……黒沢、生きててよかったよ」
その言葉に、悠真は何も返せなかった。
由奈が悪い。
もちろんそうだ。
でも、自分にも原因はあった。
優しくして。
甘えさせて。
都合よく逃げ場にして。
切り捨てた。
その結果がこれだ。
課長が帰ったあと、病室は静かになった。
窓から夕方の光が差し込む。
数分後。
控えめにドアが開いた。
「起きてる?」
美咲だった。
両手にコンビニ袋を抱えている。
悠真の表情が少しだけ緩む。
「……来てたのか」
「毎日来てるよ」
美咲は少し拗ねたように笑う。
その顔を見ていると、胸が苦しくなる。
美咲はベッド横の椅子に座り、お粥の容器を取り出した。
「ちゃんと食べないと治らないよ」
「食欲ない」
「だめ」
珍しく強い口調。
だがその声は優しかった。
美咲はスプーンでお粥を掬うと、悠真へ差し出す。
「はい」
「……子どもじゃないんだけど」
「怪我人でしょ」
少し笑い合う。
その空気が、懐かしかった。
悠真はゆっくりお粥を口に運ぶ。
温かい。
味なんてほとんどしないのに、不思議と安心した。
「美味しい?」
「……まぁ」
「なにそれ」
美咲が小さく笑う。
その笑顔を見た瞬間、悠真の胸が痛んだ。
自分は何度も裏切った。
それでも美咲はここにいる。
毎日見舞いに来て。
世話をして。
手を握ってくれる。
「……なんで」
悠真がぽつりと呟く。
「ん?」
「なんで、そこまでできるんだよ」
美咲は少し黙った。
それから静かに笑う。
「好きだからじゃない?」
悠真は言葉を失う。
美咲は続けた。
「腹立つし、許してないこともいっぱいある」
「……」
「でも、失う方が怖かった」
その声は震えていた。
刺されたと聞いた瞬間。
病院へ向かう車の中。
“死ぬかもしれない”と思った恐怖。
思い出しただけで、美咲の目が潤む。
悠真は何も言えなくなった。
代わりに、そっと美咲の手を握る。
細くて、温かい手。
美咲は少し驚いたあと、ゆっくり握り返した。
病室に沈黙が落ちる。
けれど嫌じゃなかった。
数日後。
悠真は退院した。
まだ傷は痛む。
家でも安静が必要だった。
その間、美咲は驚くほど献身的だった。
薬の管理。
食事。
傷の消毒。
「痛くない?」
「ちょっと」
「無理しないで」
近い距離。
触れる指先。
まるで新婚の頃みたいだった。
夜。
ソファで横になっていた悠真に、美咲が毛布を掛ける。
「ちゃんとベッドで寝なよ」
「起こすと思ったから」
「別にいいのに」
美咲は困ったように笑った。
そのまま隣へ座る。
距離が近い。
静かな時間。
悠真はふと、美咲の肩へ頭を預けた。
美咲が少し固まる。
「……悠真?」
「ごめん」
「え?」
「今まで」
掠れた声だった。
美咲はしばらく黙ったあと、そっと悠真の髪を撫でた。
「ちゃんと治して」
優しい手。
安心する匂い。
悠真は目を閉じた。
このまま全部終わらせて、やり直せたら。
そう思ってしまうくらいには。
美咲との時間は穏やかだった。
深夜。
美咲が眠ったあと。
テーブルの上の悠真のスマホが静かに震える。
非通知。
数秒後、また震える。
さらにメッセージ。
『会いたい』
送信者名は表示されていない。
だが悠真には分かってしまった。
莉奈だった。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
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