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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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15/20

最初の崩壊

「最近、ちゃんと寝てます?」

昼休み。

給湯室でコーヒーを淹れていた悠真に、由奈が声を掛けた。


悠真は苦笑する。

「顔に出てる?」

「かなり」

由奈は隣に立ちながら、小さく笑った。

その空気が妙に心地よかった。


会社では未だに視線を感じる。

陰口も止まない。

だが由奈だけは違った。

責めない。

深入りしない。

なのに優しい。

それが今の悠真にはありがたかった。


「黒沢さん、真面目すぎるんですよ」

「……そんなことない」

「ありますって」

由奈は紙コップを差し出す。


「全部一人で抱え込むタイプ」

その言葉に、悠真は少し黙った。

抱え込んでいる自覚はあった。

会社。

美咲。

莉奈。

全部が重い。

特に莉奈は、最近ますます不安定だった。


“産みたい”

“諦めない”

あの目が頭から離れない。


「まぁでも」

由奈が少し距離を縮める。

「たまには甘えてもいいんじゃないですか?」

柔らかい香水の匂い。

悠真は思わず視線を逸らした。


その夜。

莉奈は知らない男と向かい合っていた。


居酒屋の薄暗い席。

相手はマッチングアプリで会った男だった。

二十代後半。

営業職。

普通の顔。

悠真よりずっと軽そうな男。


「莉奈ちゃんって、なんか守ってあげたくなるね」

男が笑う。

莉奈も笑い返した。


愛想よく。

可愛く。

昔ならこんなの無理だった。

でも今は違う。

頭の中にあるのは、一つだけ。


——悠真くんの子ども。


いや。

“悠真の子どもだと思わせる存在”。

それさえあればいい。

莉奈はグラスを握り締めた。


自分でも怖かった。

こんなこと考えてる自分が。

でも、もう後戻りできない。


「……ねぇ」

莉奈は少し酔ったふりをして、男へ身体を寄せた。

「今日、帰りたくないかも」

男の目の色が変わる。

簡単だった。


その瞬間、胸の奥が少しだけ冷える。

本当は悠真じゃなきゃ嫌だ。

触られたくもない。

なのに。


悠真は“おろしてほしい”と言った。

自分を選ばなかった。

だったら。

選ばせるしかない。


ホテルへ向かう途中。

莉奈はスマホを開く。

悠真とのトーク画面。


『今日は会社遅くなる』

数時間前に来ていたメッセージ。

莉奈の指が止まる。

胸の奥がざわついた。

女。

また。


「……嫌」

小さく呟く。

嫌だ。

悠真が他の女と仲良くするのが。

自分以外に弱い顔を見せるのが。

莉奈はスマホを強く握り締め、そのまま電源を落とした。


ホテルの部屋。

男がシャワーを浴びている音がする。

莉奈はベッドに座り、自分のお腹を見下ろした。


空っぽ。

何もない。

それなのに、頭の中ではもう完成していた。


陽性反応。

泣きながら報告する自分。

責任を取ろうとする悠真。

きっと悠真は逃げ切れない。


優しいから。

弱いから。

罪悪感に耐えられないから。

莉奈はゆっくり目を閉じた。


「……ごめんね、お姉ちゃん」

謝罪なのか。

呪いなのか。

自分でも分からなかった。


その頃。

会社近くの居酒屋では、由奈が悠真のグラスに酒を注いでいた。

「少しは元気出ました?」

「……まぁ」

「よかった」

由奈は嬉しそうに笑う。


悠真はその顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。

責めない女。

求めすぎない女。

その居心地の良さに、悠真は静かに甘え始めていた。


──


「最近さ」

夕食中だった。

味噌汁を口に運びながら、美咲が何気ない声で言う。


「帰り遅いよね」

悠真の箸が止まる。

ほんの一瞬。

だが美咲は見逃さなかった。


「……仕事落ち着いてないんだよ」

「そっか」

美咲は微笑む。

その笑顔が、今の悠真には妙に怖かった。


以前なら簡単に誤魔化せていた。

けれど最近は違う。

会社の件以降、美咲は少しだけ敏感になっている。


スマホを見る回数。

風呂に持ち込む癖。

突然増えた残業。

小さな違和感が積み重なっていた。


「悠真」

「ん?」

「私に隠してることある?」

心臓が跳ねる。

悠真はすぐ笑った。


「何もないよ」


嘘。

もう何度目かも分からない。

美咲は数秒だけ悠真を見つめ、それ以上は何も言わなかった。


──


その夜。

悠真が風呂に入っている間だった。

テーブルの上でスマホが震える。

画面に浮かんだ名前。


——由奈


美咲の手が止まる。

一瞬迷う。

だが次の通知で、呼吸が浅くなった。


『今日はありがとう』

『黒沢さんといると落ち着く』

『また二人で飲みたい』

美咲の顔から血の気が引いた。

指先が冷える。

嫌な汗が背中を伝う。

ただの会社の子。

そう思おうとした。


なのに。

通知欄を開いた瞬間、指が震えた。

『今日、触れられてドキドキしました』

『奥さんいるのに、こんなのダメですよね笑』

頭が真っ白になる。


浴室からシャワーの音。

日常の音なのに、急に遠く感じた。

美咲はゆっくりスマホを置く。

動悸が止まらない。

息が苦しい。

でも、不思議と涙は出なかった。


数分後。

風呂から出た悠真は、リビングの空気に違和感を覚えた。

美咲がソファに座っている。

暗い部屋。

テレビもついていない。


「……どうした?」

返事がない。

悠真が近づいた瞬間、美咲が静かにスマホを差し出した。


画面には、由奈とのトーク履歴。

悠真の背筋が凍る。

「これ、なに?」

声は静かだった。

だからこそ怖い。

悠真は反射的に言う。

「違う、これは──」

「何が違うの?」

美咲が初めて悠真の言葉を遮る。


その目を見た瞬間、悠真は言葉を失った。

怒鳴っていない。

泣いてもいない。

ただ、酷く傷ついた目だった。


「会社の子だよね」

「……」

「触れられてドキドキしたって何?」

悠真は必死に頭を回す。


まだ誤魔化せる。

まだ軽く済ませられる。

そう思いたかった。


「少し相談乗ってただけで……」

「相談?」

美咲が乾いた笑いを漏らす。

「女の子と二人で飲みに行って?」

「……」

「奥さんいるのにダメですよね、って送られて?」

悠真は何も返せない。


沈黙が答えだった。

美咲はゆっくり俯く。

肩が小さく震えている。


「……最低」

その一言が、妙に重かった。

悠真は慌てて近づく。

「美咲、違う、本気じゃない」

言った瞬間。

自分で終わったと思った。

美咲の表情が固まる。


“本気じゃない”。

つまり、遊びなら認めるのか。

その意味に気づき、悠真は顔色を変えた。


「いや、そうじゃなくて……」

「もういい」

美咲が立ち上がる。

そのまま寝室へ向かう背中は、小さく見えた。


「美咲!」

呼び止めても止まらない。

バタン、とドアが閉まる。


静寂。

悠真はその場に立ち尽くした。

スマホが震える。

莉奈だった。


『今日会える?』

『声聞きたい』

悠真は画面を見つめたまま、ゆっくり目を閉じる。


まだ。

まだ美咲は、莉奈のことを知らない。

でも。

壊れ始めている。


確実に。


──


眠れなかった。

寝室の電気もつけず、美咲はベッドの上で膝を抱えていた。


リビングから物音がする。

悠真がまだ起きている音。

その気配だけで胸が苦しくなる。


由奈とのやり取り。

何度見ても、現実感がなかった。


『また二人で飲みたい』

『触れられてドキドキしました』

頭の奥がじわじわ痛む。

美咲はゆっくり目を閉じた。


——いつから?

考え始めると、止まらなかった。

会社のトラブルがあった頃から?

帰りが遅くなった頃?

スマホを裏返すようになった頃?

思い返せば、違和感はいくつもあった。


でも信じたくなかった。

悠真は優しかったから。

疲れていても記念日を忘れない。

美咲が風邪を引けば仕事帰りにゼリーを買ってくる。

休日はちゃんと家にいてくれる。


“理想の夫”。


友人にもよく羨ましがられていた。

「悠真さんって本当に優しいよね」

言われるたび、美咲も少し誇らしかった。

だから。


浮気なんて、するはずないと思っていた。

ぽろり、と涙が落ちる。

そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。

「……なんで」

掠れた声が漏れる。

何がダメだったんだろう。


料理?

見た目?

女として見られなくなった?

考えれば考えるほど、自分を責める思考に沈んでいく。


でも同時に、怒りもあった。

どうして。

どうして普通に裏切れるの。

美咲は唇を噛み締めた。


その時、不意にスマホが震える。

莉奈だった。

『お姉ちゃん、起きてる?』

美咲の目が少し揺れる。

数秒迷ってから通話に出た。


「……もしもし」

『え!? どうしたのその声』

莉奈の慌てた声。

その瞬間、美咲の涙が一気に溢れた。

「っ……」

『え、お姉ちゃん!?』

「ごめ……ごめん……」


うまく喋れない。

息が詰まる。

莉奈はさらに焦った声を出した。


『何あったの!?』

美咲は震える声で言う。

「悠真が……浮気……してた……」

沈黙。

ほんの一瞬。

でも、美咲は気づかなかった。


電話の向こうで、莉奈が静かに息を止めたことに。

『……え』

「会社の女の子と……っ、メッセージ見ちゃって……」

涙で言葉が途切れる。

「私、なんかしたのかな……」


その言葉に、莉奈は強く唇を噛んだ。

胸の奥がざわつく。

罪悪感。

優越感。

ぐちゃぐちゃだった。


自分はもっと酷いことをしている。

なのに今、美咲は自分だけを頼って泣いている。


『お姉ちゃんは悪くないよ』

莉奈は優しく言った。

震える声を隠しながら。

『悠真くんが最低なだけ』

その言葉に、美咲がまた泣く。

莉奈は目を閉じた。


痛かった。

でも同時に、どこか嬉しかった。

——今、お姉ちゃんより私の方が悠真くんを知ってる。

その感情が、自分でも気持ち悪かった。


『今から行こうか?』

「……大丈夫」

『でも』

「ごめん、一人で整理したくて……」

弱々しい声。

莉奈は静かに「そっか」と返す。


通話が切れる。

部屋が静まり返った。

莉奈はしばらくスマホを見つめていた。

やがて小さく呟く。


「……ごめんね、お姉ちゃん」

でも、その謝罪に本当の後悔はほとんど混ざっていなかった。

むしろ胸の奥では、別の感情が静かに膨らんでいた。


——まだ、私のことはバレてない。

その事実に、安心してしまう自分がいた。



ここまで読んでくださってありがとうございました!

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