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理想の夫は嘘をつく  作者: 熊猫ぱんだ


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14/18

もう戻れない

「……おはようございます」

悠真が出社すると、一瞬だけフロアが静まり返った。

すぐに皆、何事もなかったようにパソコンへ視線を戻す。


だが空気が違う。

明らかだった。

悠真の席の周囲だけ、不自然に静かだった。

陰で聞こえる小声。


“あの人でしょ?”

“亡くなった女の……”


視線が刺さる。

悠真は何も聞こえないふりをして椅子に座った。

だがマウスを握る手が微かに震えている。


結局、正式な処分は減給と営業からの一時的な配置転換で済んだ。

証拠が曖昧だったこと。

遺族側もそれ以上大事にしなかったこと。


だが、“女を追い詰めた男”という印象だけは社内に残った。

もう以前みたいには戻れない。


「黒沢さん」

不意に声が落ちる。

顔を上げると、派遣の由奈が立っていた。

長めの髪を耳に掛けながら、小さく笑う。

「コーヒー淹れたんで、飲みます?」


悠真は少し驚いた。

周りは距離を置いているのに、由奈だけは普通だった。

「……ありがと」

紙コップを受け取る。


その瞬間、後ろの女子社員たちが小さく顔を見合わせたのが見えた。

由奈は気にしていない様子で悠真のデスクに寄りかかる。


「大変ですね」

「……まぁ」

「でも、私はそこまで気にしてないですよ」

悠真が目を向ける。

由奈はくすっと笑った。

「男の人って、そういうとこありますし」


軽い言い方。

責めない声。

それだけで少し救われた気がした。


「黒沢さん、今かなりしんどそうだし」

「……」

「無理しない方がいいですよ」

悠真は思わず苦笑した。

こんなふうに優しくされたの、いつぶりだろうと思った。


昼休み。

スマホが震える。

莉奈。


『ちゃんとご飯食べた?』

『今日は帰り来る?』

『会いたい』

悠真は眉を押さえる。

最近の莉奈はさらに重くなっていた。


位置情報アプリを入れたがる。

既読が遅いだけで不安定になる。

夜中に突然電話してくる。


なのに。

切れない。


“妊娠しているかもしれない”


その可能性が、悠真を縛っていた。

『今日は無理』

短く返す。

すると即座に返信。

『なんで?』

『また女?』

『由奈って人?』


悠真の顔が強張る。

なぜ知っている。

次の瞬間、背筋が冷えた。


窓の外。

道路の向こう。

莉奈がいた。

ビルの前から、じっとこちらを見上げている。

悠真は慌てて立ち上がる。


「……は?」

由奈が不思議そうに振り返った。

「どうしました?」

「いや……なんでも」

もう一度見る。

だがそこに莉奈の姿はなかった。


気のせい。

そう思いたかった。


夜。

悠真が莉奈の部屋へ行くと、彼女はすぐ抱きついてきた。


「会いたかった……」

細い腕が背中に回る。

以前より強く。

逃がさないように。

悠真は疲れた息を吐いた。


「最近、お前ちょっとおかしいぞ」

「……悠真くんが冷たいから」

莉奈は唇を尖らせる。

だが次の瞬間には甘えるように胸へ頬を押し当てた。


「でも今日来てくれた」

「……少しだけな」

「うん、分かってる」

莉奈は嬉しそうに笑う。


その笑顔を見ていると、悠真は強く責められなくなる。

部屋には柔らかい甘い匂いが漂っていた。


「ねぇ」

ソファに座った悠真の隣で、莉奈が小さく呟く。

「もし本当に赤ちゃんできてたら、どうする?」

悠真は答えられない。

美咲の顔が浮かぶ。


会社。

家庭。

世間体。

全部壊れる。

なのに。


莉奈は不安そうに笑いながら、悠真の手を自分のお腹へ重ねた。

「……私、悠真くんの子ほしい」

その声は熱っぽかった。

「だから」

莉奈は耳元で囁く。

「大丈夫だよ」

「……何が」

「ちゃんと産みたいから」


悠真の肩に顔を埋めたまま、莉奈は小さく笑う。

「避妊しなくても」

空気が止まる。

悠真は思わず莉奈を見た。

莉奈の目は真剣だった。


依存。

執着。

愛情。

全部が混ざった危うい目。


「……お前」

「私だけの人にしたいの」

莉奈はそう言って、悠真の指にそっと自分の指を絡めた。

「もう逃げないでよ」

その言葉が、妙に重く耳に残った。


悠真は莉奈の手をそっと外す。

「やめろ」

低い声だった。


莉奈がきょとんとする。

「え……?」

「そういうの、軽々しく言うな」

部屋の空気が少し冷える。

さっきまで甘かった雰囲気が、一瞬で変わった。

莉奈は不安そうに悠真を見る。


「だって……赤ちゃん、欲しいって……」

「俺は欲しいなんて言ってない」

その瞬間、莉奈の表情が固まった。

悠真は額を押さえながら、深く息を吐く。

「もし本当に妊娠してたら……困るんだよ」

「……」

「分かるだろ」


声が少し苛立っていた。

会社はまだ完全に落ち着いていない。

家庭もギリギリ保っている状態。

そんな中で子どもなんて。


「美咲にバレたら終わる」

ぽつりと落ちたその名前に、莉奈の目が揺れる。

悠真は気づかないまま続けた。

「今でもかなり危ないんだよ。だから……」

そこで言葉を切る。

言いづらかった。

だが、言わなければいけない気がした。


「もし本当にできてたら」

悠真は視線を逸らしたまま、掠れた声で言う。

「……おろしてほしい」


沈黙。

時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。

莉奈はしばらく動かなかった。

笑顔もない。

涙もない。

ただ、じっと悠真を見ていた。


「……そっか」

小さな声。

静かすぎて、逆に怖かった。

悠真は慌てて続ける。


「今は現実的じゃないって話だ。俺だって混乱してるし、お前のことどうでもいいとかじゃなくて──」

「お姉ちゃんの方が大事なんだ」

遮るように莉奈が言った。

悠真が口を閉じる。

莉奈は俯いたまま、乾いた笑いを漏らした。

「結局そうなんだね」

「違う」

「違わないよ」


今度ははっきりと言い切る。

莉奈の肩が小さく震えていた。

「私には“産むな”って言うくせに、お姉ちゃんとの家庭は守りたいんでしょ」

「……」

「私のこと好きって言ったのに」


悠真は返せない。

莉奈はゆっくり立ち上がると、背を向けた。

「帰って」

「莉奈」

「帰ってよ」

声が震えている。


怒っているのか、泣いているのか分からない。

悠真は立ち上がったが、近づけなかった。

今、何を言っても逆効果だと分かってしまったから。


「……また連絡する」

それだけ言って玄関へ向かう。

だが扉を開ける直前。

後ろから、小さな声が落ちた。


「ねぇ」

悠真が振り返る。

莉奈は俯いたまま、お腹を押さえていた。

「もし本当に赤ちゃんいたら」

静かな声。

「私、多分……諦めないよ」


悠真の背筋が冷える。

莉奈はゆっくり顔を上げた。

涙で濡れた目。

なのにその奥には、妙に暗い執着が滲んでいた。


「悠真くんの子だもん」

その笑顔を見た瞬間。

悠真は初めて、“この関係はもう普通には終わらない”と本能的に理解した。


──


ドアが閉まる音がしたあとも、莉奈はしばらく動けなかった。

静まり返った部屋。

さっきまで悠真がいたのに、もう何も残っていない。


テーブルの上のグラス。

脱ぎっぱなしだったスーツの上着。

微かに残る香水と煙草の匂い。

それだけで胸が苦しくなる。


莉奈はゆっくりソファに座り込んだ。

スマホを開く。

悠真とのトーク画面。

少し前までは、優しかった。


『ちゃんと食べろよ』

『病院行った?』

『心配だから連絡しろ』

その文字を見つめていると、涙が滲んだ。

なのに今日。


“おろしてほしい”

その言葉だけが、頭の中で何度も響く。

莉奈はぎゅっとスマホを握り締めた。


「……最低」

呟いた声は震えていた。

でも。

本当に最低なのは、自分かもしれない。


妊娠なんてしていない。

全部嘘。

引き止めたかっただけ。

悠真に離れてほしくなかっただけ。

最初は少し困らせるくらいのつもりだった。

それなのに。


悠真は思った以上に優しくなった。

会いに来てくれた。

抱き締めてくれた。

必要としてくれた。

その瞬間、嬉しくて仕方なかった。

もう戻れなくなるくらいに。


莉奈は自分のお腹に触れる。

平らなまま。

何もない。


「……本当にいたらよかったのに」

ぽろりと涙が落ちた。

もし本当に妊娠していたら。

悠真はもっと自分を見てくれたのだろうか。

美咲より、自分を選んでくれたのだろうか。

考えた瞬間、胸の奥がどす黒く沈む。


——お姉ちゃんさえいなければ。

その感情に、自分で息を呑んだ。

最低だ。

分かってる。

美咲は優しい姉だった。

小さい頃からずっと。


泣けば慰めてくれた。

服も貸してくれた。

就職で悩んだ時も話を聞いてくれた。


なのに今、自分はその姉の夫を奪おうとしている。

莉奈はソファに顔を埋めた。


苦しい。

でも、やめられない。

悠真が他の女に触れるのが嫌だった。

美咲の隣で笑うのが嫌だった。

自分だけ見てほしかった。

それだけだったのに。


気づけば、奈々は死んだ。

会社も壊れ始めた。

全部、自分が押したせいだ。

なのに。

それでも。


悠真が欲しい。


莉奈はゆっくり顔を上げる。

涙でぐしゃぐしゃのまま、スマホを開いた。

検索欄。

しばらく指が止まる。

やがて、小さく震える指で文字を打ち込んだ。


“妊娠しやすい日”

検索結果が並ぶ。

排卵日。

基礎体温。

タイミング。


莉奈は真剣な目で画面を見つめていた。

「……ちゃんと、本当にできれば」

そうすれば。

悠真はもう離れられない。

美咲の元にも戻れない。


莉奈は涙を拭うと、静かに立ち上がる。

洗面所の鏡に映る自分は、少しやつれて見えた。

それでも口元だけが、微かに笑っている。


壊れている。

自分でも分かっていた。

けれどもう。


止まれなかった。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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